私は私の欲望のDJ(2021年4月近況)

中学生の時、同級生の女の子に押し倒されて、眩しいくらいの性欲を浴びて、そこから私の人生とセクシュアリティが始まったともいえる。それから色々あったけど、かなしいことに(とても幸福なことに)、結局彼女に押し倒された日に戻ってきてしまう。恋愛とは喪失の快楽に過ぎないと思って、暴力の表面はこんなに滑らかで美しいのかと感じて、いまだその答えは塗り替えられていない。だから私はこの先の人生でもう恋愛関係を探さないし名乗らない。しかし自分なりの恋愛哲学は持っているから、『燃ゆる女の肖像』で二人の女が恋に落ちた瞬間と、永遠の別れを刻んだ瞬間についての文脈は理解できる。神話を読む感覚も、物語を紡ぐことの価値も理解しているつもりだ。ただ、自分の肉体を意思するときに、リアリティの中で生きようとするときに恋愛がもたらす矛盾に耐えられないというだけなのだ。

だれかを傷つけてしまうことがある。そうとしか生きられないこともある。折り合いがつけられない部分、どうしようもない自身の性質があって、その上で他者が離れていくのは仕方ないことだ。それでも離れたくないと粘る人が現れるので、罪悪感で逃げ出したくなる日々がある。楽観的を体現したような友人と途方もない旅に出てしまいたくもなる。自分の価値や意思を曲げざるを得ず、他人の人生に巻き込まれることは被災のようだから。誠に申し訳ありません。それを私は腐れ縁と呼んでいる。

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今月末は「2021年サバイバー旅行」計画を立てている。友人と関西に出向き、お世話になった人に挨拶しに行く。昨年は、2011年1月に遭遇した性暴力と今までについてよく考えたし、よく思い出した。部屋の鍵をいつも開けて歓待してくれた添い寝フレンドだった人のこと、失ってしまった友人や恋人のこと、生き直すための奔放な道のりのこと。ピアノを弾いて感情の揺らぎを整える日も多くあった。同時にサバイバー仲間たちの闘いと共に在った一年でもあった(今もたくさんの告発は続いている)。そんな仲間たちを労うことで、自身の過去も受け止められる、不思議な感触もあった。

過去に被害経験を持つサバイバーであっても、生きづらさを抱えた当事者であっても、二次加害に加担していい理由には決してならないと言いたい。あなたが生き延びた事実に敬意を払う。あなたの心を軽視してきた全てのものたちを共に憎む。しかし、あなたが抱える痛みの矛先を、今闘っている告発者に向けることは明らかに間違いである。被害者と加害者という逢う魔が時のような二者関係から解放され、傍観という形で私たちを踏みにじってきた社会に変化を要求していこうと言いたい。時間が止まる日があることを知ってほしい。それでも、時間が動き出す日があることも知ってほしい。ーそんなことを考えて、京都のアートスペースで寝泊まりするつもりだ。性暴力を身近で経験したお兄さんと散歩しながらいろいろなことを語らう予定だ。敬愛する友人とかつてソープ街だった温泉街を歩き海を見る予定だ。東京を忘れて、羽を伸ばしたいと思う。

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最近は他者に向かう性欲が減退しているが、「わたしはあなたに欲情している」と表現してもらえることは有難い(それを拒否してもいい関係性に限るが)。相手の欲望を慮ることには慣れているけど構ってあげる義理もない。察してコミュニケーションは苦手である。土俵に上がってきてほしいのだ。自分の中にある様々な欲求をボリューム調整できるDJみたいな私がいる。自身にとってのセックスや性的接触の目的を改めて問い直すと(他者との共同作業としての)性的欲求の追求は余暇でしかなく、なくても大丈夫だということに改めて気付く。なくしてはいけないものー忘れ形見のような添い寝があって、歓待としての身体があって、それを再現したいという原点に戻ってきた。

自慰をすると、過去に身体接触した他者が入れ替わり登場するようになって最近はとても愉快だ。皮膚を移植されたように私の身体が覚えていることを、とてもうれしく思う。触れあいのその後を生きるとは、他者の肌が、私を生きる肌になる。アルモドバルの『私が、生きる肌(La piel que habito)』を思い出す。他者の身体の記憶が私の身体に流れてきて、私の身体は私だけのものでなくなる。人に触れることはとても恐ろしくてとても気持ちが良いことだ。伝播されるのは、興奮だけでない。さまざまな感情と迷いがある。折り合いがつけられない諦めのような祈りがある。そういう他者の身体の記憶を一生忘れたくないと思う。

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バーバラ・ハマーの映像作品を観て、「私って男の人に本当の意味で傷つけられることはないから、自分にちょっとカッコいい男の恋人がいたらどんなに楽しいだろうか」と呟いている人(女を愛する女)のことを思い出した。これは私にとっても真理で、女の人に慰められたら破滅的に惚れてしまいそうになるから泣けなくて、男の人の前ではわんわん泣けるという現象がたびたび起こる。私にとってのシスヘテロ男性(可愛らしくてさっぱりした魂の)って、終わらない夏休みのような存在なのだ。バカンスが欲しくなった時に、持ちつ持たれつ、助け合って生きていけたらいいなと勝手に願っている。でも、私は愛する女性やノンバイナリーの友人たちを優先してしまうこともたくさんあると思う。そんな都合のいい自分を自覚しながら、ごめんね、許してと伝える。もうダメなの、と心細くなるのは一瞬で、全然ひとりでも生きていけることに気付き、調律された楽器を抱えて新しい演奏に挑む。

 

あなたが生きていること、生き続けてくれていることが、私の最大限の励みになる。と宮地尚子が最新著書のあとがきに記していたが、私も同じような思いでこの世を漂っている。あなたに生きていてほしい。ひとまずあと一年は、労働を頑張る。来年4月からは新しいことを始めていたい。