人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

告発者と共に在るということ

※性暴力に関する内容です。あなたの心身の健康を第一に考えていただけると嬉しいです。その上で安全と思える場所でお読みいただくか、今は読まないという選択をしてください。

 

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性暴力を受けて傷付いた人のケアを望みますーそう公言するときのケアとは具体的に何なのかを語れない人を私は信頼しないようにしています。「今」の「その人」が望むものが何なのかを悩み抜いて初めて共に在るための言葉が紡げると思うからです。そうでないと単なる自分が可愛いだけの体裁を整えた人になります。「ケアを望む(または、望まない)」の主語を当事者に返すべきだとも思います。

 

三者として、距離感を検討し自分の心を守ることはもちろん大切です。関わりを持てないことは責められることではありません。ただ、自分の心身を守るために対象から距離を置くことと、そこに存在する痛みを慮れず性暴力の構造に加担することは別物です。

他者のトラウマに触れるとき代理受傷する可能性はいくらでもあります。その自覚なしに境界線を踏み込もうとすると、いくらでも二次加害が起こります。なので慎重に対峙し、自分と他者を守る術を学ばないといけないです。大したことないだろうと性暴力を軽視した瞬間に性暴力の構造に負けます。直接の当事者ではなくとも突き動かされそうになる自身を深呼吸して見つめる必要があります。それくらい引力があります。性暴力は、長年染み付いた構造の問題であるからこそ、個人の問題に矮小化もしてはいけないし、加害被害間の二者関係だけでなく周囲の人間関係を揺らがしやすい特徴を持ちます。性暴力とはあらゆる「信頼」を巣食う、おそろしい魔物のようだと思います。

  

心的外傷と回復 〈増補版〉

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性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

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トラウマの医療人類学【新装版】

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  • 作者:宮地 尚子
  • 発売日: 2019/10/02
  • メディア: 単行本
 

 

 

抑圧された人が長い沈黙の後に告発をする背景には、何度も対話(人間として真っ当に扱われる対応)を求めた過去があります。無かったことにしようとされたり、忘却を願われることに対する抵抗です。数え切れないほど自責の念にかられ、それでも復権のために自身を奮い立たせる、想像を超える積み重ねと闘いがあったはずです。突然、暴れ出した訳ではありません。突然、気が狂った訳ではありません。突然、感情的になった訳でもありません。いよいよ声をあげるしかなかったーその沈黙の重みを想像してほしいのです。

 

それなのに、第三者が表立って「事実関係はわからないし、コメントを避けるべき」と先導したり「どっちにも言い分がある」「だれにでも弱さがある」と中立のような振る舞いを選べるのは、沈黙させられてきた側に対してあまりにも残酷な仕打ちです。権力差があるから、権力を持つ側が変わろうとしないから、問題が拡大しどんどん拗れていることを理解してほしいのです。

心の外傷は目に見えないのでわかりづらいかも知れませんが、例えば大きな事故で一命を取り留めた傷だらけの人が目の前にいるとしたら、直接的又は間接的であれ、事故に関係した加害側の非や責任を無効化しかねない中立的発言は出来ないはずです(例え加害者側が長年の友人だったとしても)。当然だれにでも再出発する権利はあります。ただ、被害に遭った当事者もそこに居て、今も同じ時を生きています。渦中にあるその人が感知できる可能性のある場所でそれを呟けるのはあまりに配慮に欠けています。告発をするのにどれほどの覚悟と勇気があるのか想像できたら、時に激しく見えるその人の強さが必死に生き延びた結果であるとわかるはずです。だからこそ周囲の人間は、暴力を受けた人をさらに傷付けやしないかを第一基準にして言動や語る場所を選ばないといけないのです。

 

被害に大小はありません。軽いか重いか比較されうるものでもありません。その上でどう生き抜くかは一人ひとり異なるし、その全てに私は敬意を払います。個人差があるけれど、性暴力はとにかく回復に時間がかかることが多くて、治癒したと思ったら突然傷口がぱっくり開くこともあります。それでも生きることは嫌なことばかりじゃないから、希望があるから(あると信じたいから)生きているわけです。時が止まる日もあるし、動き出す日もあります。その揺らぎと共に私たちは生きています。今ここにある身体を労りながら。

 

自身の存在を蔑ろにされたと感じて孤独を抱えている人がいないか見渡すこと、切実なその声に耳を傾けることが必要だったし、それは今もこれからも必要だと考えます。彼らに光を灯さずに、それどころか置き去りにしたままで語られる「未来」に果たして希望はあるのだろうかと悩んでしまいます。美しい「歴史」を語れる側はいつも狡くて強い。なかったことにできて、「未来」を語れることの特権性を身に刻まないといけないと思ってもいます。