人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承 (移転前 https://kmnymgknunh.hatenablog.com/)

わたしの身体を引き受けることにした(1)十年ぶりに生理のある人生に戻って考えること

十年間、ミレーナの効力でナプキン要らずの人生だった。ところがミレーナが抜去された*1ので、ホルモン剤の影響がなくなり生理のある人生に戻った。どろっと経血は出るし、不衛生だし、臭うし、注意しないとお気に入りの下着は汚れるし、精神的に落ち込むし、再会したくなかった懐かしの腹痛腰痛が戻って来るし、仕事には集中できないしで、不利益ばかりでびっくりしている。というか腹が立ってくる。妊娠を希望しないのになぜ毎月こんなものを受け入れないといけないのか、と。

 

ユースクリニックが当たり前の国で中高生の年齢からうまくピルなどのホルモン剤と付き合えていたら、妊娠出産の期待よりも「あなたの身体はあなたのものだ」「産む産まないはあなたが考えて決めていい」と幼少期から教われていたら、身体との付き合い方ってもっと違ったんじゃないか。女性とみなした人を「(いつかは)妊娠出産する人」として想定する社会生活の中では、それ故に過度に保護されたり、逆に見下される場面にたびたび出会う。そして母体保護法のもと、暴力関係を訴えない限りは配偶者(夫)の同意がないと中絶の選択が難しく、ましてや若者が不妊目的で生殖器官をなくすことは全く想定されていない。優生保護法で障害や疾患を持つ人への不妊手術を肯定してきた歴史があり、今でも性別変更を望む人には生殖腺(機能)喪失が条件付けられている。

そして停戦後も続くパレスチナで起きている暴力を思う。それに象徴されるように虐殺や民族浄化運動の中では、まさに性は非道な暴力のためのツールとされ、養育環境は危機に曝され、次世代を担うはずだったこどもたちの命が奪われ続けている。いかなる理由であろうと、性暴力が正当化されてはいけないし、妊娠出産養育を強制または禁止するのは重大な権利侵害であるのに、その前提が覆されている。

何度も言い続けたいのは、個の性と生殖に関する意思決定と選択は決して蔑ろにされてはいけない、一人ひとりの尊厳そのものだということだ。だからこそ、米国新政権下での大統領令:性と生殖の権利に対する強制的介入*2は悪夢のような現実であるし、昨年日本で始まった「わたしの体は母体じゃない」訴訟|公共訴訟のCALL4(コールフォー)には本当に驚かされた。当事者のひとり、原告のひとりは私だったかもしれなかったから。

 

十年前にミレーナを挿入し、ようやく私は「私が、私として生きている」という感覚を得た。「それ」は性暴力被害で失った身体の統制感覚の再獲得であったし、予期せぬ妊娠からの解放であったし、性別違和に直面する場面が減って性的アイデンティティを問える往復切符でもあったし、妊娠しない身体に擬態することで不平等を感じずに単なる個として目の前の肌に触れられるという喜びでもあったし、産む/産まないという自己決定からの逃避行でもあったと思う。

 

◯2015年 ミレーナ1年目(※女体という表現を今の私は選ばないので今回タイトルを変更した)

kmnymgknunh.hatenablog.com

◯2020年 ミレーナ抜去交換と6年目

kmnym.hatenadiary.jp

◯2021年 中間報告(同じようなことを書いている)

kmnym.hatenadiary.jp

 

 

国連委に対抗措置、「対話閉ざす」懸念の声 女性の人権軽視の指摘も:朝日新聞 

 

そんなわけで性と生殖の権利から出発するフェミニズムに助けられていたからこそ、連日の女性差別撤廃条約についての日本の姿勢には、怒りや驚きというよりも本当に呆れてしまった。

国際社会の立ち位置云々の議論を抜きにしても、これ以上、個が個として生きていくための社会から遠ざからないでほしいと強く感じる。フランスで非嫡出子の割合がいかに高かろうと、デンマークで高校生が普通に精子バンクを話題にするくらい生殖医療が身近だろうと、「やっぱり遠くの国は良いよね」で終わってしまう感が否めない。(国内の性被害やマイノリティ差別の実態を考えるとこう書くのも正直憚れるが)諸外国と比較すればまだ安全で、清潔で、医療水準も高い国なのに、こどもの自殺が過去最大と報道されるこの状況がある。だからこそ、個の幸福のためのイレギュラーな家族の形が増えたほうが絶対に良いと思う。生活圏レベルの一人ひとりの挑戦なしには、価値観も、文化も制度も変わらないのだろう。そういう問題意識もあって、体調も生活も安定した今だからこそ、家庭内養育をやろうと意志が固まってきた。

一昨年の秋、ウィーンで参加した世界精神医学学会では「いかにトラウマを抱えた人の養育を支えるか」という視点で専門職が議論していた。縁あって、帰国してからは社会的養護に携わっている。そこから導かれるのは、親を「やっている」人にすべての責任を負わせるのではなく、専門職はともに/代わりにアドボケイトへの責任を担う役割だということだ。重度障害があろうと、マイノリティであろうと、生活を維持して養育ができる*3。そのためには彼らを孤立させないように、社会と専門職が社会的影響に注意を払い、危機や障壁が生じた時に対処しうる資源を持てるかにかかっている。逆に言えば、それが機能していなければこどもの権利は守られにくくなる。

(かつての私もその一人だったが)逆境を生き延びているこども・若者たちと関わるほど、その繊細さ、鋭さと健気さに励まされ、かつての多感な時期のやわらかくて神聖ともいえるような記憶、感触を手放すなと諭されているような気さえする。どんな人にもかならず危機と死は訪れるからこそ、レジリエンスとの邂逅のためにも、こどもたちの周りに、思わず微笑んでしまうような出会い、じんわり内側から力が漲るようなものとの出会いが飛び交っていてほしい。そのような機会はいくらあっても足りないということはない。

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自分の身体の主として、この肉体を使って対人関係を探っていいんだと気づいてからは、お互いの意志で脱衣して添い寝したり、潔癖なほど非性的関係を求めたり、性的同意のグレーゾーンを問うたり、あるいは性自認と性的指向を決して偽らずに性的行為に飛び込んだり、セックスワーク(生計のための対価が発生する性的行為)を経験したりして、豊かさを感じられる時間や感覚そして他者関係を開発してきた。そうやって試行錯誤した19歳から32歳の期間は『性の権利』に費やすための13年間だったと明言できる。その権利を追求するためには生殖(への可能性)って厄介なものだったから、ホルモン剤(ミレーナ)を使って擬似妊娠状態を作り生殖できない身体を維持してきた。そんな私の奮闘を見守ってくれた戦友が隣(体内)にいない今がとても寂しくもある。

しかし「生殖」について、こればっかりは自分の欲望(や関心)が見えてこなかった。誰とどんな形で性的行為をするかについては、自分の欲望(したいこと、したくないこと)に応じた交渉のために能動的に動けるのに、妊娠出産については、最近になって「好意のある人(かつ妊娠能力のない人)に、どうしても子どもがほしいと言われたらその人の代理で妊娠するのはアリかもしれないな」と思えるくらいで、自分でも驚くほどに受け身である。ただ思ったより早いタイミングでミレーナが抜けたことだし、自分の身体の状態も知りたくて妊娠能力検査(卵子の残数を図るAMH検査)も実施した。

 

そして何度か書いてきたが生殖ではなく養育には前々から関心があり、今は里親制度を真面目に検討している。学生の頃から既に興味はあったが、海外で「こどもの権利」や「多様な家族」が保障されている環境に身を置けて大変エンパワメントされたので行動に移すことができた。なので(なので?)この半年、親しい既婚女性6人に「私と一時的に同性パートナー契約して共同育児をやりませんか?(落ち着いたら夫と再婚していただいて問題ないです)」と投げかけてみたけれど、4人は即却下、1人は夫側が却下、1人は夫婦で保留という結果になった*4。方針を切り替え、まずはひとりで里親になることを目指そうと思い、今月末に管轄施設に相談に行く段取りをつけた。

 

大島弓子が描く「帰還する家族」の関係に、いつも助けられてきた

www.hakusensha.co.jp

 

大島弓子作品で特に好きな短編を挙げるとしたら、「ロストハウス」「バナナブレッドのプディング」そして「桜時間」と私は答えるだろう。

「桜時間」は自分の奔放な過去を否定しそうになっている一人の女を魔法の言葉が救うというなんとも奇妙な物語だ。簡単なあらすじを述べると、16歳の時、3人の男と付き合っていた主人公「とり子」はそのうちの誰かの子を妊娠したが、すべての男との縁が切れてしまう。しかし4人の目の男が現れて、一緒にその子を育てる。誰の子かは問わずに生活してきたが、その子の実父が殺人犯の可能性が浮上し、過去の男たちに会いに行く―――というもの。

数年前から、私はとり子の人生に憧れていた。ファンタジーと現実の区別がつかず(つけず)「それなりに好意のある誰かのこどもを(誰の子かはっきりわからないまま)妊娠して、別の誰かと育てるのは素敵だな」とか、ぼんやりと思っていた*5。しかしそれに相反するように避妊管理への強烈な意志があったし、当時同時期に性的関係にあった3人の男性のうち1人は(少なくとも私とは)子どもを持つことを希望しない人だったので(こどもを望まない人に生殖可能性のある行為を持ちかけるのは性暴力だと私は認識するので)、その淡い願望は叶うことはなかった。そして今はそれを検討できる環境はなく、私に都合の良い展開はこの先も起こりそうにないので、見切りをつけることにした。

 

ということで、諸々状況整理できたので、実子か里子か(養子か)はわからないが、二年以内に私は生活圏で(協力者を得ながらおそらくひとり親に近い形で)子育てをする。これから出会うだろうこどもにはこの社会ではいささか過激思想かもしれない私の人生に巻き込んでしまってごめん、と思わなくもないが、縁あって一緒に暮らすことになった人の権利を守り幸福を感じられるような生活を作りたい。生き延びて良かったと思える社会を望む個人として、生きるに値する社会を作る責任に対するひとつの応答として。

 

 

「リ マハタワープ ロンロンパルコ センターオーバー バックバック」*6

*1:近所に転院して前回と違う病院だったんだけど、子宮の状態確認のみの予定がそのまま処置の流れになった。医師が「すごくいい感じに挿入されているから、もったいないな」と言いながら、私の希望通り麻酔なしで一瞬で抜去したので、心の準備できなかったんですけど!?と大笑いしてしまった。そんなに痛くなかったし、なんと1500円で済んだ。前回抜去時は麻酔に保険が適用されず、その他検査も必要といわれて総額4〜5万かかったのに

*2:ジェンダー・イデオロギーと闘う? 反トランスの大統領令を読み解く [トランプ再来][トランプ再来]:朝日新聞

*3:逆にマジョリティであっても、養育や生活が難しい状況があれば休んでいい、社会に養育を託していいのだ

*4:前向きに検討してくれそうな独身の友人や同僚の顔も浮かぶけれど重い責任が伴う気がして、覚悟が持てず声をかけられていない

*5:補足:これは非現実的なものではなくて、近い生き方をしている女たちは実際にいる。社会からは見えにくいがそこに確かに存在する家族の物語を大島弓子はなぜか細部まで知っているのだ、こんなも美しい世界を創るリアリストがいる、そこに最大の希望を感じる

*6:ぐっとくる大島弓子評、ネタバレに注意

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