人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

サバイバー紀行(1日目)

 

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奔放な人生を祝って

4月28日(水)

■6時

京都に到着する。キャリーケースが重い。取っ手が壊れてしまい、駅のコインロッカーに収納できない。雨も降ってきてだるい。駅のトイレですぐに入れるビジネスホテルを探す。7時にチェックインできるところがあるらしい。予約して、五条に向かう。

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まるき製パン

ホテル近くに行きつけのパン屋があるので、立ち寄り、ハムコッペ・サラダコッペ・ミルクアーモンドコッペを購入。ミルクアーモンドコッペは初めて口にする。桃源郷のような味。味わっていると次第に名前が思い出せなくなり、翌日名前を検索する。

 

■12時

ホテルに着いてからとりあえず自慰をしたが、雑念ばかり生じてしまい、あまり良くなかった。身体が火照って終わった。そのまま1時間ほど仮眠を取れたが、仕事関係の電話が鳴りやまず、チェックアウトぎりぎりまで対応。ふとホテルの案内を読むと新型コロナウイルスのことを武漢ウイルスと強調する文面があり、もう利用するのは止めようと思った。

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 ■17時

下宿先に到着する。家主に滞在費(多いと言われた)と手土産と名刺を渡す。案内された部屋では、アーティストが家を整えている。ドリルの音と木材のいい香りがした。非住人とのことだが、二人きりになったタイミングで「何か困ったことがあれば連絡してね」と連絡先をいただく。好きになりそう。すぐに好きになった。定期的に来る方らしいのでまた会える日を楽しみに待つ。あまり事前に説明を求めなかった自分のちゃらんぽらんさに笑ってしまうが、家主と二人暮らしになることがわかる。快諾する。

 

■19時

トークイベント「《栗田隆子×堀江有里》"I Say a Little Prayer" キリスト教+アクティビズム+フェミニズムアーカイブ配信を視聴する。

キリスト教フェミニズムに共通するものとは、変わるものがなかったとしても抵抗していくことではないかという話。回復した人が「(同じように苦しむ人に施しを与えようとする)支援者」にしかなれない循環ではなくて、サーキュレートできる人、構造を批判し変えられる人が生まれてほしいという思いが語られていた。既存の何かを延命させてしまう共同体(それが成り立つには排除とセットである)の魔力について。たったひとりで祈るのではなく他者と共に祈れたらという願いについて。栗田さんと堀江さんのキャラクターがまた良くて、謙虚で、愉快で、等身大である。こういう年の重ね方、変化の仕方をしていきたいと思った。本日までの配信で全部視聴しきれなかったことが悔やまれた。


■20時

国際セーフ・アボーション・デーJapanプロジェクト「配偶者の同意がないと中絶できない日本~なにが問題か」リアルタイム配信を視聴する。

母体保護法の問題点と、歴史や法の運用について等盛りだくさんの内容だった。中絶について配偶者同意が必要なのは世界では残り11か国のみ。2011年にはWHOによる是正勧告があったが、先進国で唯一日本だけが変わらない。まず「婚姻」はリスクだなという感想が浮かぶ。事実婚でも法律婚でも、妊娠した場合は配偶者の同意が求められる。最近ようやく厚労省の通達が出て一筋の希望は見えるものの、配偶者の同意がなければ産むしかない現実は変わらない。妊娠の経緯が配偶者あるいは非配偶者からの望まない性交(性暴力)であった場合でも同様だ。法律は残酷に機能する。自分の意思のみで選択ができないこの状況を回避するには、「婚姻」をしない(法律上の配偶者を持たない)が最適解である。

私もミレーナで高い避妊効果を維持できていなければ、今の契約結婚事実婚という体にしてある)は維持できていないであろう。避妊の徹底が遂行できない場合は性行為自体にも消極的になってしまう。一刻も早く妊娠の可能性がある側の意思決定の権利が確立されてほしい。パートナーや第三者の意見を軽視したいということではない。相談先はあればあるほど良いと思う。ただ最終的な決定権が身体の所有者以外にある現状が明らかにおかしいのだ。

 

■22時

家主が帰宅する。うれしいことにウェルカム呑みを提案していただき3時間以上を共にする。

福祉と芸術業界で明るみになる性暴力の話をする。それぞれが尊厳を扱う分野であることを、福祉に関わる者やアーティスト自身が忘れているのではないか?という話をする。個別の関係性においても、すべてはつながってくる。スポットライトを浴びれる表現者とシャドーワーカーたち。自分の存在が隠されたり軽視されてまでそこに留まる必要はないのだということ。SWASH代表の要さんも仰っていたけど、やりたいことがあったとしても、新自由主義の中ではそれで生計を立てようとすると綻びが生じる。私たちはそういう社会に生きているのだ。

裸になることはかなしみでしかないのか?という長年の問い。何も想像せずに、なんとなく、簡単に、人に触れることが出来る側に自分はいないこと。非人間として尊厳を求めて生きるしかないということ。自分は愚かだから他者に期待ばかりしてしまうこと。気持ち悪がられてしまうこと。初対面の相手に、まるでシナリオに沿った台本を読み上げるかのようにペラペラと告白してしまった。本当は話さなくていいことかもしれない、聞かせることそれ自体が暴力かもしれない、そんな迷いの中での発言を傾聴してもらえて感謝である。

そして他者の作品に興味を持てないことへの戸惑いについても語らえて良かった。身に降りかかったすべてを表現せずにはいられない訳ではなくて、自身の生活やキャリアの利害を考慮して取捨選択できてしまう「余白」を持てる人をアーティストと呼ぶことはできないし、その作品に興味を持てなくて当然ではないかという話をした。そして表現”できる”ことの暴力性に無自覚な表現者があまりに多く、声をあげられない人、去っていく人に目を向けられないという二次加害的な現実を共有した。障害をもつ家族を扱った作品に、「彼女は表現ができないから、私が代わりに」というステイトメントが添えられることがある。表現ができない、表現が苦手であると言い切ることのおそろしさを思った。親密圏内での暴力は美しい形で免罪される。そういうものはうんざりだと思った。愛する友人の話もした。理不尽な暴力を経験した彼女が、あまりに傷つけられて生卵を投げるしかなかった話をした。彼女の憤りを伝えた。今こそ、日本版『talkback』が必要だと思っている。

フェミニズムの文献で、「自由に生きることこそが最大の抵抗」「相反する側の存在をいかに引き受けられるかを考えるためのもの」という表現を読む。実践には必ず苦痛が伴う。面倒だと言われる。見ないふりをされる。諦められてしまう。個としての立場といっても様々な側面がある。生活者として、表現者として、生存者として、社会的存在として、非社会的存在としての自分がいる。そのすべてを見つめたら、狂いそうになるかもしれない。潔癖にフェミニストであろうとするのはいささか難解だ。時に矛盾を引き受けて甘い汁を吸う日があるかもしれないし、そうやって生きるしかない日もあったと思う。ただそれに慣れてしまい鈍感になれることが怖い。高度に生きれなくて良い。けれど、自分と愛する人がただ自由であることを望みたい。権力と所有の欲望から距離を取り、混沌を愛しつつ、それを冷静に見つめられる健やかさを手放さずにいられますように。