人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

デンマークでの近況(秋)を更新しました

近況をブログに書きました。

kmnym.hatenadiary.com

 

 

長くて読むの大変、という人のために告知のみ以下にまとめます。

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◆ストリップ同人誌への寄稿をしました。

https://x.com/cr_strip/status/1718168419282165876?s=20

◆来月の文学フリマ東京37では、3ブースで関連書が販売されます。

『イルミナ』:寄稿文掲載本(第5号)、ZINE委託販売

『ストリップと読むブックガイド』:寄稿文掲載本

『ポリーウィーク2023』:対談インタビュー掲載本

◆ラジオに出演しました。(詳細後日)

◆来週11/4(土)20時から、近況報告会を行います。:デンマークでの日々、9月からのユラン半島(デンマーク)・ウィーン(世界精神医学学会)・プラハ・イタリア(世界精神保健デー出張)放浪について。何故デンマークに来たのかについて。過去の整理がついてきて、今後どう生きていくかについて。

詳細(ZOOM、有料)

https://peatix.com/event/3740124/view

男性や子どもへの性暴力被害についても取り扱う予定です。

グランドルールに同意いただける方なら、どなたでも歓迎です!

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こちらは信じられないほど暗くて寒いです。なんとか生きていこう!

デンマークでの近況(夏)を更新しました

皆様、お久しぶりです。

 

①8月半ばに下書きにしていたままの記事がようやく完成しました。

猛暑と出会えない夏 - To be naked is not a grief (hatenadiary.com)

 

②明日の文フリ大阪にて、『添い寝と生還』が委託販売されます。ぜひお立ち寄りください。

それと、その他ストリップ同人誌にも寄稿することになり、現在執筆しています。

 

③やっと住民登録できそうです。明日から10月10日まではユラン島、ウィーン、プラグ、ミラノを転々としますが、それ以降はDanishファミリーのお宅に定住します。

息子さんの誕生日パーティーの準備をすることになり、生まれてはじめてオーブンでパンを焼く。しかも初対面の集団(同級生の男の子たちやその親御さん)の迎え入れを一人で対応、私にそれを任せて不在になるホストが適当すぎてlove…

 

④貯金が尽きるので、こちらで仕事を探さないと一文無しになります。全然喋れるようになっておらず困り果てているけどなんとかします。日本語圏リモートワークを下さる方がいたら喜んで引き受けます。誕生日ドネーションも歓迎(個別に連絡ください)

 

⑤帰国したら関西に移住したかったのですが元職場から連絡があり、少し関東に残ることになりそうです。

 

ではまた(^^)/

デンマーク生活の近況報告ブログを作りました

お久しぶりです。

タイトルの通り、デンマーク生活の近況報告ブログ(期間限定)を作りました。

 

帰国までの間、月1程度書いていこうと思います。

生活に余裕ないからか、いつものことなのか、興味関心の寄せ集めパックのような勢いのままの文章ですが、読んで頂けたら幸いです。更新はこちらに都度報告をするので、読者登録は不要です。

行き当たりばったりの人生なのでいつ帰国になるのか、私自身もわかりません。

 

直近では、Cecilie Nørgaard著『デンマーク発 ジェンダーステレオタイプから自由になる子育て』という本がとてもよかったこと、民主主義と建築そして性行為のこと、プロミシング・ヤング・ウーマンを毎日のように観ていること、デンマークが世界初の同性パートナーシップ制度を始めた国であり、セルフID法の導入も北欧初であったこと、デンマークスウェーデンの共同研究で同性婚試行の前後から性的少数者自死が46%減少している報告などについて、書きました。

近況と訃報と - To be naked is not a grief (hatenadiary.com)

 

年内にデンマークで会える人がいたら是非ご連絡ください。

 

ルイジアナ近代美術館

JEAN DUBUFFET/ The Uncertain

Giacometti /Standing Woman Ⅳ 

近所の図書館

近所の海

近所の家と朱色の花弁

既に6回以上行っているクリスチャニアにて



いつ散ってしまうかわからない、私とあなたの奔放な人生を祝って

ノンバイナリーを生きる裸

―私の右上腕には、大きな火傷跡がある。

―私の大陰唇は、黒くてぷっくり膨れていて可愛い。

―私の肌は、アトピー治療のステロイド剤と共に生きてきた。

―私の眉は、いつも思うように描けない。

―私の胸は、子どもの頃から何度も見知らぬ人に鷲掴みにされ、19歳の時には暴言の受け皿になった。私の胸は、好きなスポーツをするたびに揺れて邪魔で、亡き祖母のように垂れ始めていく。

―私の胸は、明確に同意した関係の中で、新宿駅前や京都の交差点で愉快に揉まれることがある。私の胸は、「あなたに触れていると自分の身体も好きになる」と告げられる時の接続地となり、あなたの身体を移ろう。私の胸は、下着屋のお姉さんにやさしく触られるたびに少しだけ汗ばむ。私の胸は、肉体の規格に合う形のブラジャーに包み込まれると、過去の痛みなど気にも留めず単なる身体の一部として内側におさまっていく。すると、ようやく、この身体は私だけのものであると信じることができる。


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ある日突然(必然)に、私はスト客になった

劇場で遭遇する踊り子の裸が「裸になるって、哀しいことではないよ」と雄弁に語りかける時、強張りが解けた。脱衣する動きをこの目で追いかけ、開脚された股の中に丸ごと招かれる時、自身の輪郭を内側から発見できた。ストリップは、解放というものの意味やその方法を思い出させてくれるのだろう。

 

男女二元論から成り立つ社会構造はいつも窮屈で手強いものだが、それらを攪乱するような可能性さえもストリップに感じている。

―裸の女性と性器を欲望する女性*1の存在が、異性愛規範を揺らがすこと

―今年2月に訪れた道後温泉で、踊り子に憧れて裸になった男性の股があまりに美しかったこと(きっとご本人が思っている以上に、開かれる瞬間が燦めいていて美しかった)

―今年3月阿佐ヶ谷で観たゲイストリップで、男に愛される/男を愛す男のプライドと共に「男性の裸を嫌悪する男性には出せない解放感」が炸裂していたこと

―普段の劇場で、中高年男性(にみえる人)たちがあまりに可愛い生き物になっていること(蕩けるような目をして踊り子を信じられないほど幸せそうに見つめ、彼らが内側に宿していた奔放な女が解放されていくようにも見えること)

などの背景がある。

同時に、ノンバイナリーが嫌悪されることなく*2、あっけらかんと脱衣して裸になれる踊り場を探し求めたいとも切望するようになった。話し合いを重ねた特定の相手と過ごす布団の中ではなく、もっと開かれた場所でただ存在したいと思った。シスジェンダー/バイナリージェンダーが前提の社会では、自分や他人を男/女どちらかに割り振る癖を持つ人があまりに多い。例えば「私はトランスジェンダーである」「私はノンバイナリーである」とカミングアウトした(せざるを得ない現状がある)としても、裸になった瞬間に、その人の身体を「○○さんの身体」とみなせず、既知のイメージや価値に囚われて、女・男の身体(あるいはトランスジェンダーの身体)という枠にはめてしまう人があまりに多い。それは「私(あなた)の身体は私(あなた)のものである」という言葉がいかに空虚であるかと打ちのめされる瞬間でもあり、人によっては屈辱的で恐怖の伴う記憶として刻まれる。バイナリーを生きない自分の裸を誰かに差し出せる場があまりに少ないし、底の果てまで悲しい。しかし損失した出会いの数を指折りかぞえることに慣れたくもない。

 

ノンバイナリーが裸になれる場があることを既に私は知っていた。11年前、添い寝フレンドだったKさんが、バイナリーな社会規範を強くしずかに拒んで生きていた人だったからである。Kさんの家ではバイナリーな目線が介在しなかったため、いつでも安心して裸になれた。そしてその布団の中には性的欲望の回路も存在していなかった。私は添い寝によって生還した。四肢を組み替える苦痛を引き受ける覚悟を決めて、他者の身体を頂いて、なんとか継ぎ接ぎして、奔流の中を生き延びた。一回性の閃きの中に永続性を感じるストリップと添い寝の経験は私の中では地続きだ。生傷の絶えない真っ裸の野良猫のような私をKさんは部屋を開けっ放しにして招いてくれた。だからこの先は、私があなた(たち)をこの部屋に招く番なのである。

 

奔裸舞

そこで、2023年4月30日ノンバイナリーによる裸ショー「奔裸舞(ぽんらぶ)」を(無謀ながらにも)企画し出演することにした。誰かの身体を男か女か、本物か偽物か、価値があるかないかと品定めしたがる目線にNOを突きつける機会を作りたかったからだ。男性/女性という枠組みに馴染め(ま)ない人間が、男性/女性かジャッジされない場所で奔放に裸になれたらという願いを込めた。

 

❏概要

・ノンバイナリー自認の方であればどなたでも出演可

・今回の裸ショーはストリップではない。ダンスでもなくて良い。裸になって何らかの表現をすること

・完全セルフプロデュース(完成度や経験は不問。股さえ開けば何やってもOK)

・観客は出演者の知人友人のみで、完全招待制(観客はノンバイナリーでなくてもOK)

 

❏グラウンドルール
 ・演者の撮影は禁止(演者が許可した場面や相手を除く)
 ・見る人と見られる人は合意の関係とみなし、出入り自由(奔放な人の人生は予測不可能なので遅刻早退ドタキャン大歓迎!) 
 ・場の構成員に対する暴言や身体接触の禁止

・本人とコミュニケーションせずに、性別、セクシュアリティ、国籍、年齢、障害や疾病の有無、職業の有無、使用言語などを決めつけないようにしてください

・演者に対して、性別をジャッジするような発言をしないことを前提とした場作りへの協力をお願いします

 

上記案内の上、私を含む3名の演者と10名ほどの観客が貸し切り会場に集った。

 

*1回目は、だいらさんの演目。もともと演劇・インプロビゼーションの経験がある方で、見つめられ差し出す身体をすでに持っている人だった。3分ほどの短い曲の中に、演技(物語)・踊り・脱衣・動物の物真似・全力疾走・脇と股の開放がすべて詰め込まれていることもすごいし、尊敬という感情しか浮かばなかった。そしてひたすら可愛くて愉快なのである。人を泣かせることよりも笑わせることのほうが難しいと思うからこそ、みんなを明るい気持ちにさせることのできる術、その経験の豊かさに圧倒された。

 

*2回目は、きのコさんの演目。きのコさんは最初から全裸。元々何も着ていなかったみたいに野生の裸だった(笑)。ノンバイナリー/ジェンダークィアとしてのスピーチ(自身の身体のひとつひとつのパーツを抱きしめて愛撫するような素晴らしい内容だった)を行った後、今回の企画に添う選曲を熱唱。もともときのコさんと私は10年ほどの縁があり、ポリアモラスな人生を歩んでいるという共通点の中で、遠すぎず近からず穏やかに人生が交錯していた。昔カラオケに同席したことがあるのだが、数年ぶりにきのコさんの歌声を聴いたら様々な過去を思い出し、今日までを肯定されるような不思議な感覚を得た。

 

*最後は私の演目。2人は5分ほどだったのに、15分も使ってしまった(すみません)。

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今回、付き合いの長い親密な人(なんと元カノが来てくれた)や奔放な女だけでなく、信頼するストリップ客にもこの場に居てほしかった*3。ストリップを心から愛する人に、目撃者になってもらい(拙い表現も批判的に見てもらいつつ)拡張された布団で初めて裸になる私の証人になってほしかった。2名のスト客が駆けつけてくれた。ラブである(何度でも言う、ラブである)。

 

音源は以下を選んだ。

1.のうぜんかつら(リプライズ)/安藤裕子

2.爽健美茶のラップ/chelmico

3.のうぜんかつら/安藤裕子

 

本当はアップテンポな2曲目で、ダンスやパフォーマンスには慣れていないが筋トレには慣れている自分の身体を活かせるボクササイズをやる予定だった*4。そして、これまでに出会った多彩な性器との遭遇を表現したかったし、恋愛や性欲から距離のあるAスペクトラムな身体接触について再現したかったのだが……緊張(?)のあまり、すべて成し遂げられずに終わった。着替えに精一杯で、音楽が私を追い越してしまう。難しかった。めちゃくちゃ裸になったのに、股は半開きで、開脚のタイミングもぐだぐだになってしまった……。音楽と共にあり、拍手喝采を浴び、客の顔をほころばせ、自由と快楽をもたらす踊り子の凄まじさよ!普段の劇場で、極上のものを味わわせてもらっていることに改めて感謝の意を抱いた。

 

*「のうぜんかつら」は、10年ほど前に添い寝アーティストを名乗っていた時に作った映像のBGMで、必ず使おうと決めていた。私の輪郭を「撫でて」くれた人のたくさんの手を思い出して、自分の身体に触れた。


www.youtube.com

撫でて 優しく のうぜんかつらの唄のように

あなた何を見てたの? ソーダ水越しでは あなたが揺れちゃって あたしは迷っちゃって いつか一人になって 二人の時間も泡みたいになって あなたの匂いを一人捜していた

 

*「爽健美茶のラップ」は、踊り子・黒井ひとみさんが小倉でポラロイドショーのBGMにしていたのを聞いて好きになり、直観的に選んだ。普段から音楽鑑賞の際には歌詞を無視しがちなので、この曲が「眠りから目覚める」ことを歌っているのだとわかった時は、物語としてのつながりにびっくりした。


www.youtube.com

ハトムギ 玄米 月見草 ドクダミ ハブ茶 ナンバンキビ いろんなことが あるけれど 私は 今日も 生きていく

あーーーーどっからが生活なんだっけ 寝て起きてまた寝て起きて ねえ起きてる?わたしの脳内 まだ覚めない たいしたことしてない 遠いとこ行く勇気もない 

 

力不足すぎてやりたい表現は出来なかったけど、バイナリーな線を引こうとせずに私たちの裸を見守ってくれた観客の存在によってこの場が成り立っていた。男性性暴力サバイバーが主催するグループに共に参加したことのある二名に撮影をお願いできたことも本当によかった。場を共に創造してくれた皆さんがいてくれたからこそ、結果とても満足しているし、いつかリベンジできたらという思いもじわじわと生まれている。一人、演目後ずっと涙が止まらなくなった女性がいて、さみしさについて語ってくれたのが印象的だった。

ー誰のことも所有することはできない。ずっと一人で、ずっとさみしい。しかし分け与えてもらったあなた(たち)の一部を所有しているので、ちっともさみしくない、そういう身体を私は生きている。

それをこの肉体を使ってもっと伝えられるようになりたい。

 

ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。大好き、奔LOVEです♥

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以下、一人反省会(随時加筆)

 

*冒頭のノンバイナリースピーチでは、4月19日神戸初演・倉田めばさん*5のハレンチパフォーマンスの演出を一部拝借した。自身の身体に宿してみると、めばさんがあまりにすぐれたアーティストであることを身をもって理解して、自分のおこがましさを恥じた。雲の上の存在すぎる。love…❤

*最近、相思相愛の人がいるのだが、その人との身体接触でひどく傷ついたエピソードをスピーチで語る予定だった。その文脈の元で脱ごうと決めていたのにすっかり抜け落ちてしまって、演目を終えて一呼吸ついた後に皆さんに聞いてもらった。興奮気味の愚痴になっちゃって、ごめんなさい。繰り返しになるが、常に布団の中では闘いが繰り広げられ、生傷が絶えない。でも、出会い直せる瞬間を決して諦めたくないと思う。

*私のノンバイナリーの感覚は、もともと備わっていた部分があれど、添い寝フレンドだった人がそれを根幹に持つ人だったから(それを受け継いだ)という部分も大きいのかもしれない、と新しい布団で裸を差し出してみて気付いた。

ドラァグメイクをして裸になるか直前まで悩んだのだが…まだ素顔で裸になるには早すぎたかもしれない。どんな顔で他者(自室の布団に招いた人とは違って、親密さはバラバラであり、お互いの身体には距離があり、しかも相手は脱いでいない)を見つめれば良いか困惑してしまった。観客との適切な距離を探るために、自身をやわらかな部分を守りながら爆発させるために、装飾(メイク)の力を借りる方法もあった。その先にすっぴん/素顔になるという段階があっても良かったかも。素顔の自分は好きだけど。

*振付がてんでだめ。わからない。 「あなたの視線を支配する/拒絶する」という抵抗の経験はあっても「あなたの視線を振り付ける」という創造の経験がこれまで皆無だったのかもしれない!個人的な性行為の際、自身の身体を女(記号)だとジャッジされた途端につまらなくなるので、それに抵抗するために境界線を揺らして共に踊ろうよと誘ってきた部分が少なからずある。これまで一方的に「鑑賞」されて「評価」されるような身体接触が生じた時、権力関係/非対称な関係の再生産をしてどうするの?とボイコットの態度を示していた。しかし、本当の意味で相手を行為主体にするためには、視線を拒まず、私は「振り付け」に挑まなければならなかったのでは?

*持参した衣類が多すぎたし、置き方がぐちゃぐちゃで汚かった。なにより配色を気にすべきだった。黄金町でロードムービーを作った経験がまったく生きていない。祭壇風の赤いマットは購入して大正解だったと思う。

*足をピン!とのばしたときにグラスを割ってしまった。きのコさんの靴を汚してしまってごめんなさい。スピーチと脱衣ショーの間でも、音楽の切り替え操作がうまくできなかった。この時、流れがプツンと切れてしまって台無しだった。

*ショーの後、深夜から朝までTwitterの奔スペースを行った。大阪の奔放な女が「奔(ぽん)」という名付けの面白さや「奔」と名乗られた場の磁場の強さを指摘してくれた。この言葉の元に人が集うことの創造性を共有できた気がしてすっごく嬉しかった。

*遅れて来てくれた方がいたのだが、自身のショーの途中で対応できず。演目中、鍵が閉まっていて入れず。帰宅させてしまうことになり、非常に申し訳なかった。次回からは演者以外の協力スタッフを募らないといけない。

*創造とは真逆の行為になるなら裸になる必然性ってない。私は、裸になったからこそ私自身の名前を読んでほしい。また、名付けとは、既存の型(マジョリティに都合の良い型)にはめるものではなく共に生み出すものであってほしい(そして名付けられたものはいつでもそれを破り捨て、新しく名乗り直せることが望ましい)。名前を知らないものとの出会い。名付けを保留にしたままで愛でる道。未知との遭遇には変化はつきもので、ただしく出会ってしまったら、大きな波に攫われて共に変わらざるを得ない。隠し通せないし、これまでの生き方がズレていく。それ以上に面白いことってある?

*三匹の野生の裸という客席からのコメントが最高。ショー後の時間でポケモンを流すアイディアも最高(ショーの前は、ダブルラリアットを流せて最高)。

*自身のスピーチで「私は私の身体を愛している」と言ってしまったのは明らかな言葉の選択ミスだった…。愛しているという言葉は使いたくなかったけど自分の内側の臨場感に負けちゃった。次は改める。

*断髪式は二次会で行って良かった。裸ショーとセットだときっとキャパオーバーしていたから。浅草橋にて、奔(ぽん)な人たちにザクザク切られて幸せすぎた。ありがとうございました。翌日美容師にバリカンをしてもらった(しかし、禿げているのでおしゃれ坊主にならなかった…笑)。

*演出をちゃんと考えていなかったことが駄目すぎる。冒頭は、枕を持参し、ブラジャーに囲まれ、この絵のように眠っているシーンからが良かったかも。アルダナーリーシュヴァラについても、胸と股の魂を剥がして野生の裸になる瞬間をいつにするか、もっと練るべきだった。f:id:kmnymgknunh:20230504021428j:image

 

 

 

最後に宣伝

・5/21㈰文フリ東京「イルミナ」様ブースにて、30年の人生を記録したzine『添い寝と生還』を委託販売させてもらえることになりました。

・「イルミナ」最新号に、エッセイ『裸になることは哀しみではないのだ』を寄稿しました。

💌ストリップと社会と私を考えるZINE『イルミナ』

💌東京流通センター第二展示場「く-03」

会場に名刺を置いておくので購入してくれた方はご連絡ください。

よろしくお願いします。
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*1:あるいはシスヘテロ男性を生きていない人

*2:「あなたの存在は、バイナリーな生き方をしてきた私を不安にさせる」と距離を取られたことがこれまで何度かあった。過去にも下記のブログを書いている。文中引用の英文エッセイは、二年前、高井ゆと里さんが紹介されていたものである。”そこで私が考えるのは男女どちらかに当てはまらないクィアやノンバイナリーたちが日々直面している性愛について、いつになったら順番が回ってくるのかということだ。このエッセイ(As non-binary people, do we really want legal recognition? (thepinknews.com))に出会って強く励まされもした。ノンバイナリーは存在そのものが現在の社会秩序を脅かすものであり、その事実を引き受けて生きているとある。ノンバイナリーの政治はこれまでのクィア理論や運動の積み重ねを生かすことができるはず…”

*3:私のこれまでをよく知る親密な人に「感動したよ~!」と言われてしまって完結するのを絶対に避けたかった

*4:蹴られたい性癖を持つ男性陣への感謝を込めて

*5:このセミナーでご一緒させていただいた

愉快な生を助けることについて

一昨日のことだ、compagno(仲間)の語源はパンを共に食べるもの、分け与えるものだという話を大阪で語った。私は、パンをもらうように身体を作り直したので、返礼と伝承の方法をいつも探していた。私の身体があなたの身体の中をうまく渡り歩いているのがわかって、思わず拍手したくなることもあった。即席であればあるほど欲しいものは遠ざかる。触れる/触れられるという贈与を考えるとき、純度を高めるためには世の中の規範や価値から抜け出す一瞬から目を離さないようにしなければならない。そして触れずに触れる方法も、いくらでもある。砕いて溶かして液状にして頭上から浴びてもいいし、部屋に引きこもって詩をうたってもいい、真横にあるその壁を叩いて振動を感じるのでもいい。そして、今回ブログ「人生、添い寝にあり!」を印字する(ZINEにする)という方法は、二つの思いがけない贈り物を私にもたらしたのだった。

 

国内最後の奔女会にて、うさぎいぬさんからのミモザのブーケ

一つは、私の愛する言葉『奔放な人生を祝って』と名付けられたセミナーへの登壇(鼎談)の機会をもらえたこと。もう一つは、ZINEの再販を強く勧められて編集と印刷を手伝ってもらえたことである。

 

セミナーのテーマは「規範」「自立/支援」「回復」を問うことでもあった(登壇者3名に共通する問いでもあり、トントン拍子で打ち合わせが進んだ)ので、以下を本棚から取り出して、仕事の合間にぺらぺら捲っていた。

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そして小松原さんの書かれた以下の記事をよく思い出していた。

私たちは、かわいそうな人をみるとドキドキする。そのとき、私たちは、誰のために、何をしようとしているのだろうか。

小松原織香「「言葉にできない痛み」とは何か」 (parc-jp.org)

 

数年おきに何度も読んでいるのでそろそろ暗記できるかもしれない(笑)。消費に食い尽くされること・飽きられて捨てられること。どちらとも距離をとるには、あるいはそれに上から跨り抵抗するにはどうしたら良いのか?そう考えて、性暴力に遭ったことをさらりと話したとしても、その具体的詳細は私だけの痛みとして守り抜いてきた。

傷の舐め合いという言葉があるが、正直舐め合える身体なんてそこにあるの?と思う。一過性の快楽があるだけで、境界線がゆるまるだけで、相対的に強い側が、一方的に乗っ取ってしまうのがオチではないか。語りや癒しの誘惑に敏感でないと、自分の身体を抱きしめる腕を失っている事にさえ気づけないかもしれない。それが最も怖かったから、常に添い寝のあの日を思い出して自分の身体の所在地を確認していた。

 

サバイバー同士の哀しい話。たとえば、親しくなりたいと接近される過程で、相手が性暴力経験(生々しい詳細)を突然カムアウトし、私が受け取った途端に縁を切られてしまうことが度々あった。すると、その人の経験だけが私の身体に残留する。親密さを育む上で性暴力経験はうってつけの促進剤である。それは猛毒でもあるから、その仮初めの親密さを拒絶して別の親密さを問わないといけなかった。あちらは吐き出したものの味を忘れていても、私の存在丸ごと忘れていても、吐瀉物(それは決して汚くなんてない)を飲み込んだ私の喉元は今も潤い続け、分解できず肉体はみるみる硬直してしまう。そのとき、私は誰かにとっての旅先の地蔵だったのだなと感じ、私も連れて行ってほしかったと先ゆくその背中を眺めるしかないのだった。

 

 

ZINEにも書いたが、性的関係を持った一部の男性にだけは、どれだけ注意してもこの傷を伝染させてしまうことがあった(そもそも性暴力サバイバーであることを伝えずには人に触ることができない人生になってしまった)。相手にとって魅惑的な告白であったとして、その後飽きられることも、悲しませることも、ファンになられて消費されるのも、驚かせて戸惑わせるのも、すべてがつらかった。私のせいで、あなたが本来必要のなかったであろう感情に支配されたならと、自責の念でいっぱいになった。基本的に沈黙を破らなかったが、身体とは厄介なもので、非言語の表現として傷口が綻んで破れてしまうことがあった。だから私にとっての被害経験は、加害経験と地続きで、絶対に切り離せないもので、忘却を許さない苦痛なのだとセミナーでも語った。

傷を受け取った彼らの反応は様々だった。ただしく放置してくれたり、鍋を囲んでくれたり、自分の言葉で私を批判してくれた男たちがいた。(過去にも書いたが)ひとり、数日後に電話をかけてくれ、それは衝動的な反応だったのだと思うがー嗚咽を漏らしながら泣いてくれた人がいた。「この人は私の10年分の涙を流してくれたのか」と解釈できるほど全身で泣いてくれた。次に会ったときはけろりとしながら性欲をぶつけてくれて、その切り替えの早い、あっさりした魂を愛しいと思った。これから何があっても私はこの人のことをほんとうの意味では嫌いになれないだろう、自分からもう連絡することはないとしても、ずっと大事な人なのだろう。それほどに、あの瞬間をなかったことにできる回路は、この身体のどこにもない。

 

封印してきたことを一つ語ってしまおうと思う。「性暴力からの回復や闘いを恋人が支えてくれている」という語りやその事実に、かなり自覚的に距離をおいてきた。それは、恋人に連れられた場所で被害に遭い、被害当日に恋人に助けを求め、恋人に別れを切り出した過去の私がどんなに欲しくても手に入らない物語だからだ。でも最近ようやく、「恋人(パートナー)が支えてくれている」と語るサバイバーのことも当たり前に祝えるような気持ちになってきた。奔女会という場で自分を祝いたい人たちと出会い、生きられなかった人生を交換こし、分け隔てなく人を祝うことを続けていたから、最も遠くに感じていた人達を祝うための準備が整ったのかもしれない。だれかを羨む必要がなくなって、ようやく開かれる傷跡がある。そこには、一つの旅が終わるような寂しさと安堵がある。

 

2023年3月19日大阪 Freeedomセミナー『規範からの脱却〜奔放な人生を祝って』
Freeedomセミナー『規範からの脱却〜奔放な人生を祝って』2023.3.19 | Freedom 薬物依存家族支援 (freedom-osaka.jp)

つばきさん&めばさんと「規範からの脱却〜奔放な人生を祝って〜」に登壇することになってから、うさぎいぬさんの提案でZINEを刷り直すことになってから、毎日が愉快でたまらなくて、連絡が来るたびに嬉しくて顔がくしゃくしゃになるくらい笑っていた。私はまさに今、"支援”を受けているのでは?と感じもした。

 

セミナー当日は、百人を超える方が視聴してくださり、つばきさんからは生活保護行政の中で息苦しかった経験とそこから脱却するための書籍や出会いの数々が語られた。彼は不思議な人で、これまで私が出会ってきた「本を読む知識人」とは一線を画していた。フェミニズムトランスジェンダーの生を、自分の生と地続きで祝っている人で、はじめて喋った時、年上と理解しつつも私よりも突き抜けて若いみずみずしい魂がそこにはあると思った。

鼎談では、めばさんが「奔になれない人がポンをやる」という名言を生み出して、裸になることの面白さをかろやかな身体で語ってくれるから、「奔放、ポン、すっぽんぽん」という三拍子のリズムで踊りだしたくなるほどだった。山戸結希『おとぎ話みたい』という作品でバレエダンサーを目指す志帆という女の子が、ピナ・バウシュやメルロ・ポンティを語り、踊りとは(意味付けない、そのままの、生々しい肉体を晒すという意味で)下品な見世物になることだと悟るのだけど、それが思い出されて、表現者としての美しさに圧倒された。

 

私も彼女のように魅力的な見世物になりたいと思う。これまでは、時を止めて抱きしめる布団の中か開けっ放しの家の中でしか脱いだり裸になったりしてこなかったから。

見世物として長けていても家庭の中では立場の弱い者たちを食い尽くすという在り方が嫌すぎて、まずは家庭や布団の中(※家庭というのは家族規範、布団の中というのは性愛規範の意)からの変革だと信じてやってきたが、次に進む時期が来たのかもしれない。

 

髙橋りりす「サバイバーよ、勇気を出すな」の朗読(私の声ではぐだぐだになってしまったが)はサバイバーとしてのPRIDEというのかな、"これ以上の勇気を出す必要はない。私の勇気は、私のものだ"というバトンをただしく明け渡してくれた。やたらと落ち着いて話し終えた後、光が差し込んで、目の前の景色が変わるのがわかった。ぼそぼそ声のサバイバー・フェミニストが覚醒したかもしれない(笑)

 

セミナー会場では持参したZINEがほぼ完売した。打ち上げでは、めばさんとDumb Typeの話をしていて、アーティスト古橋悌二HIVと共に生きる身体を、これまでの人生を、自身の亡き後の愛する友人たちの未来を、信じるように「古橋悌二の新しい人生を祝って」から始まる手紙を書いたエピソードが私の「奔放な人生を祝って」の土台にあることをネタバレ(?)できて嬉しかったし、別れ際のハグは、あまりに必然だった。

そしてなにより驚いたのは、その翌朝、感極まっている(?)つばきさんの計らいで、狂ったような「奔LOVE」ツイート(以下)がタイムラインに流れてきたことである(笑)。

 

 

https://twitter.com/shientoha/status/1637584075262406656?s=20

 

ほんとうにびっくりした!

 

朝7時、新大阪駅近くのホテルのベッドでこれを目撃してしまい、ひとり声を上げて大笑いして、一瞬の空白がやってきて、そのまま静かに泣いた。(泣き笑いがただしい)

 

性暴力の話をした翌朝って、しんみりして抱き合うか、切り替えて、何事もなかったように日常を引き受けるしかなかったから。こんなに愉快な気持ちになった朝は初めてだった。今このタイミングだったから受け取れた、というのは大きいと思うんだけど、なんだかもう想像を超えることしか起きなくて可笑しかった。初対面の時はこうはならないと思っていた出会いが、後になって、恵みの雨のように降り注ぐので、ああ、また生かされたのか、とふと我に返る。いろいろな人に出会う。私が興味があるのは傷や愚かさを前提としてどう生きていくか、どう謝罪し、どう修復し、どう喪失し、どうやって自分を軽蔑しつつ抱きしめるかである。裸になろうとする勇気が「あなたは今も哀しいままなのか?」と問いかけ、揺さぶってくる。年を重ねるほど身体が開かれるほど奔放な出会いが訪れる。パン*1/奔(ぽん)を分け与えあう関係って友愛そのものだと思う。

 

関わってくれている(くれていた)すべての方へ、改めてありがとうございます。ありがとうございました。

 

▓お知らせ▓

4月1日木場公園にてZINEを販売します。

5月の文フリではストリップ同人誌「イルミナ」さんのブースにてZINEの委託販売をさせてもらえることになりました。

購入希望の方、どうぞよろしくお願いします。

*1:どうでもいいことだけど、高校時代の吹奏楽部のあだ名がパンだったんだよね。突然思いだした。ほんとうにどうでもいいことだけど。