人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承 (移転前 https://kmnymgknunh.hatenablog.com/)

本当の願いを叶える力はないくせに何をしたいか聞いてくる(青野くん完結に寄せて)

生命を撒き散らしてなにかを捧げるかのように踊る人を見上げるとき、全身の体液がこの目に集まって、過去から今までのすべての涙が訪れて、顔中の産毛をべっしょりと濡らす。そんなとき、「わたしが差し出せるものは涙しかない」という気になっている。

いつもどこかからだを千切って差し出そうとしていた。それを、『青野くんに触りたいから死にたい』の最終回を読み切ってからしみじみとさめざめと実感した。青野くんと同じように「特に恋は気を付けなければならない」とずっと思っていた。わたしがそれを求めているのかもわからないのに、与えてくる人があまりに多かったし、その都度消耗していたからだ。《自分のことを被害者だと思った人がわたしに飽きるまでの物語を作らないといけない》ことがしんどくて、どんどん苦手になっていた。わたしはあの日を境に憎まれ役を引き受けて恋愛を止められたけど*1、青野くんはまだ小さな子どもだったから「ごめんね(あなたの気持ちに応えることはできない)」と拒絶することができないまま死んでしまった。「ごめんね」が言えない人たちは、そこに肉体があるはずなのにふわふわしていて透き通った幽霊みたいだ。でもあなたたちは本当は怯えられる存在でも憎まれる存在でもない。「ありがとう、でもごめんね、自分はこうしたいんだ」を言えなくさせたのは誰か、どうしてそれが起きてしまったのか、その謎を怪奇現象の力を借りて九年もの月日をかけて教えてくれた、そんな凄まじい物語が完結した。

 

 

 

物語における性的行為(えっちな行為)の重要性

一巻を捲れば、「交通事故」により幽霊になってしまった青野くんと、彼に触れたい優里(ゆうり)ちゃんによるラブコメディが始まる。二人が身体接触を試みるにも電柱や枕越しだったりと、とにかくひょうきんでコミカルだ。しかし青野くんが生者に憑依し直接の接触が可能になる場面から官能かつ不穏な空気を帯び始める。他者の肉体であろうと青野くんの意識化であればそれは青野くんとキスをしているのだと優里は解釈し、束の間の逢瀬と刺激に満たされる。二人が性交や社会経験のない十代であることは重要で、「好き(かも)」という感情と新鮮で強烈な快楽(性愛)は、区切られずに融合して加速していく。際限がつかなくなり、どんどん深まろうとする。ここでの深まるとは、様々な身体接触がある中でも、「唇から舌へ、手のひらからやわらかくて突起した指(または性器)へと、触れられる範囲が広がっていくこと。そこから粘膜に入り込み、体液が混ざりあうような行為」「皮膚の先にある、やわらかくて傷つきやすい粘膜をズブズブになるまで味わう行為」を指す。

 

『青野くんに触りたいから死にたい』漫画家・椎名うみが語る、欲望の扱い方 | iro iro iroha 女性のきもちよさに寄り添う情報をお届けします

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上記でも語られているが、作者は「恋愛感情=性的に触れたい」という感覚を持つ人だ。「触れたいから死にたい」とは、「(幽霊になってしまった彼氏に一瞬でも)触れたい」というロマンティックで切ない恋慕のようにも描かれるが、読み進めるうちにそれはややミスリードであり、明確に「性的行為がしたい」の意味だったのではと思わされる。それほどに性的行為(それに付随する性欲やセックス、生殖と呼ばれるものの暴力性/欲望に支配される時の逸脱性や衝動性)が物語のキーになっている。同時に、目の前の存在を渇望する性的行為が性器接触を頂点あるいは要件とするようなものではなく、いかに多様で創造的かをも示唆する。ゾクゾクするような、体の隅々まで侵犯して感覚を研ぎ澄ますホラーと官能の類似点はもちろんのこと、本作にアップテンポかつ歯止めの利かない「十代のえっちな欲望」は欠かせない。

憑依を通して好きな人の粘膜にまで触れられるようになった二人。「いいよ」と許可されることで、青野くんは優里の肉体に幾度も侵入していく。彼を招き入れるたびに、触れ合うどころではなく文字通り一心同体になる。しかしそれは自分の命と引き換えに青野くんを妊むことでもあった。そこから始まる身の毛もよだつ怪奇現象は「青野の呪い」と噂され、友人らを含む親密圏から、学校へ、次第に街全体に広がっていく*2

生者の時の青野くんは渦巻いた怒りが自分に向かう人間(自分を破壊したいというか生まれたことをなかったことにしたい人間)だったが、死して優里に触れてはじめて、自身の欲望を他者*3にぶつけることの快楽を得る。暴力を振るっている時の記憶がないという人は案外多いのだが、青野くんもその時は「黒青野くん」になって一切覚えていないという具合だ。同時に、青野くんも優里も性的関係が深まった先で、生まれてはじめて「断る」という選択肢が脳裏に浮かぶ。謝罪ではなく拒絶としての「ごめんね」が言えるようになっていくまでのそのプロセス、もらいすぎたもの不要だったもの相手のものを返還するプロセス、自分という人間を生み直すプロセス*4、それがあまりに緻密でドラマチックで感服せざるを得ないのだ。詩的な言い回しや見せ場が独特で、特に得体のしれない怒りの表情は救済で、心の底から、どうしようもない気持ちにさせられる。

 

 

「触れられない」境界線の愛しさ

「青野くんに触りたいから死にたい」というタイトル。最終話を迎えた今は、「青野くんに触れたから、生きていく」という優里ちゃんの意思を想った。

重要なのは、もう二度とあなたに触れられないこと。だからこそ、わたしは生きていけるということだ。

 

とにかく濃厚で自分とあなたがズブズブと入り混じって自分が誰かも忘れてしまうくらいの身体接触(感情接触)は長くは続けられない。続くとしたら、どちらかまたはお互いが死んでしまう(心身を喪失する)ような破滅の道しかない。それはどんなホラーよりも恐ろしい*5。けれどそれが、生々しい傷を開き直し、その奥にある粘膜(心)に直接触れることを可能にする手段になることもあり、一概に否定はできない*6

私の心に染み付いて離れないのは、「幽霊はいちいち俺が何をしたいか聞いてくる でもいつも他愛もないどうでもいいことばかり 本当の願いを叶える力はないくせに」という台詞だ。意思を聞くこと(それが聞こえるまでじっと待つこと)、それが尊重という意味での人を愛するということだからだ。

本当の欲望はなにか―――それを問うて、それを叶える/諦めるために動けるのは自分自身しかいない。他者はいつだってヒントをくれるが、わたしの欲望を満たすためにあなたは存在しているのではない。自分と相手は違う人間で、それを表現する時のために「ありがとう」と「ごめんね」があり、ともに生きる日々の些細にもみえる「私はこれが好きだ」「私はこうしたい/したくないんだ」という意思表示をいちいち積み重ねることが、あなたは誰かの所有物ではなく独立した存在だと伝える唯一の手段なのではないか。

 

満ちてゆく(わたしの手探り)

臨時受診した結果無事だったのだが、胎児が生きているかわからなくてひとりで泣きながら布団の中で丸まっている日があった。息ができなくなっているかわからない状態、まさに「手探り」で自分の腹に手をあてて胎動を探しに行く時間の遠さを経験して、添い寝の時間が思い出された。ひとりでは明日を迎えられず、隣から聴こえる呼吸音や心拍を頼りに眠っていた私を、輪郭が曖昧で透けていきそうな私の身体を、暗闇から手探りで見つけてくれた人がいたことを。もう触れることができないあなたを今もこの体が記憶していて、だからこそ別の誰かの鼓動を探しにいけることを。

優里ちゃんもきっと、自分の想定していなかった現実とこの先を、青野くん以外の誰かと過ごし生きていくのだろう。そして、触れられないからこそ触れた気になるためのあらゆる創意工夫が、キスもハグもできないならばともに踊ろうと取り合った手が、いかに豊かな時間だったかを、ふとした瞬間に思い出すのだろう。

 

年の暮れ、昨日は渋谷に向かっていた。六周年を迎えるストリッパーの舞台を、春に生まれるかもしれない人(わたしのお腹で生きるあなた)と青野くん(死んでしまったあなた)と共に観ていた。裸でポーズを決める彼女の、美しく在るための表現とそれを満たしうる肉体を他でもない自分のために追求し、理解や評価を拒絶するような姿に勇ましさと愛しさと懐かしさを覚えた。どこにも捧げられることなく、こぼれ落ちるだけの涙が、そこにはあったかもしれない。

性暴力被害を契機に添い寝に出会い、非暴力な性的行為を追い求め生き延びる中で、「触れる」ことの効力を実感した後の今、ストリップ劇場が自分の居場所になっているのは、ここが「触れられない」かつ「えっち」な現場だからなのかもしれない。

触れ合えないということに私はすっかり安堵している。透明な隔たりがあって、その皮膚までこの指は届かない。相手が許可しなければそのドアノブを引いてもいけない。しかしドア越しに見つめ続ければ、見つめ合えた可能性に満たされる。その手で自分の裸や性器を労るように触れる人の表現を通して、私たちは自分のからだを馳せる欲望をこの手で探り、抱きしめることができるのだ。

 

 

 

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↑「青野くんは、恋と冒険(90年代のりぼん)」

作者が十代は演劇部で、ロジカルホラーのシナリオ書いていたことには納得(過去作にも本作にも演劇のステージが出てくる)

ラジオその3がめちゃくちゃ面白い。「はじまり(すべて材料を準備する)」「後戻りできない展開(坂道からカートが転がり始める)」「上昇の展開(ストレスとプレッシャーが高まりすぎ)」「クライマックス(全部使い切る)」「下降」「オチ」という物語のセオリーについて、ロジカル椎名節。一話のベースはまさかの『寄生獣』と『俺物語!!』。ベルセルクを読み返したくもなった。ハチワンダイバーは未読だったが面白い!


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↑どんどん眉毛が太くなる素晴らしき藤本論

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↑この号は本誌を購入した。山頂で交わす二人の会話/見開きは歴史に残るべき美しい場面である

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終わりに

椎名うみ先生、初連載にして傑作を生み出してくださり本当にありがとうございました。

二〇二五年、妊娠する肉体で完結に立ち会えてよかったのと、個人的な思いを述べていいなら、まず一つは美桜ちゃんを祝いたい。壁や画面越しに人とつながることの親密さ、それを世間が望むような「脱引きこもり」という形で終わらせなかったことが嬉しかった。もう一つは藤本ぉ〜…藤本にはどうか自分の心に納得がいく形で幸せになってほしい(これはすべての読者の総意だろうな)。そして最後に、毒親と簡単に切り捨てられるようには描かれなかった瞳さんという一人の女(人間)を偲びたい*7

 

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コミックDAYSアプリ最終話で瞳さんに共感を示すコメントが少なくなかったことに少し驚いたというか、当事者性を持つ人がそれ(共感)を書いて良いと思える社会になったんだなと感じた。今は彼女への共鳴はない(想像ならできる)けれど、これから養育の困難に直面したら私の中にも瞳さんの感情が登場するかもしれない。だからこそ、たくさんの人に頼らなくては、なんてことを思った。

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家族というものに苦しめられたことがある人、家族支援や心理領域を扱う対人援助職、誰かと親密に混じり合いたいという欲望に関心のある人には特に手に取ってほしい。未見の方はぜひ一話から読み進めることをお勧めする。ただ、性描写、グロテスク描写、ホラー描写、児童虐待(身体虐待・心理的虐待)やきょうだい間差別などの暴力描写が多いため、苦手な方は体調と相談しながらでご無理のないようにお願いします。あなたの心は大事なものだから。

 

 

 

子宮頸がん精密検査の経過とか、精子提供してひとり親をやりたい方の募集とか、税務署に開業届を出したこととか、今年の振り返りと来年の抱負を書こうかなと考えていたのですが、『青野くんに触れたいから死にたい』完結の衝撃がちょっと強すぎて、これを今年の最終エントリとします(笑)

 

 

それでは、奔放な年をお迎えください!

 

 


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今回のブログはこれを聴きながら書きました。(2026年1月22日微修正しました。)

 

 

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*1:あれから十年以上経った今、何も差し出さなくていい穏やかな恋をしている。とても幸せだ

*2:最終的にはドラゴンボール的展開になっていく

*3:厳密にいえば、青野くんにとって母は他者ではない

*4:私は、青野くんの「安定期」までの口裂け怪獣姿は、セルフイメージの表出だったのかなと考えている。人に擬態した異物、人として生まれられなかった怪物だと本気で自認していたのではと思う。なにより容赦なく描かれ続けた愛の惨めさに感服する。でもその惨めさを受け止めることからしか始められないのかもしれない

*5:それはあまりに現実を落とし込んだ秀逸な表現だった。妊娠や性感染症のリスクを極力減らして、パートナーなどの親密な名前を拒絶して、カジュアルにスポーツやゲームのように性的行為を楽しめる才能がある人同士のそれは、純度が高いというか非暴力なものに近いと思うのだけど、そうでない、妊娠や性感染症の機会が有り得たり、親密さの延長線と捉える性的行為は境界線が揺らぐので、暴力的要素は隣り合わせにある。恋愛感情/関係の中で行う性的行為はその最たるものであり、感情/関係の揺らぎを巻き起こす。その境界線を引き直して前進するには変容の痛みを引き受けないといけないのである

*6:この方のブログがとてもよかった。宇多田ヒカルの言葉から導く、"青野くん〜は私の傷を気づかせるけど、それは痛みで気づくんじゃなくて物語がその傷を優しく撫でてくれるからなんだよな……。私すら撫でたことがない傷を……"という箇所。そして"青野くんの心に本当に触るためには同じところ(死ぬこと、あるいは彼の生きたのと同じ死ぬほどの絶望)に行かないといけないんだって気にさせられる"というタイトルへの所感に同意する。※虐待と家庭内性暴力の記述があります

*7:彼女は拒絶ができても、嫌だと言えても、その意志を繰り返しなかったものにされてきた人だった。弱い人というのは最初から弱かったんじゃなくて、弱者でいること以外を許されないまま年を重ねてしまった人なんだと思う

性暴力を受けた街、添い寝が埋まる街、あなたと石を投げた街(12/11日記)

妊娠七ヶ月目の今日、大学で講演をしてきた。昨年と違って学生をドッと笑わせることができなかったのは悔しかったけど、かなり穏やかに原稿を読む自分がいた。今年もデンマーク渡航の話をしてほしいという依頼で、外国にルーツのある人などマイノリティへの差別感情やそれが起きる構造に気づくためのエピソードをふんだんに扱って、性と生殖の権利、旧優生保護法と性同一性障害特例法の生殖不能要件*1、アクセシビリティの権利(物理移動と情報保障)、ナチスによる迫害の記憶が残る街で経験したガザ侵攻にももちろん触れた。「生きていると本当に色々ある。けれど、どうか生き延びてほしい。人生の危機は起こる。けれど、なんとかなる」と添えて90分を閉じた。帰り際、大事な人を自死で亡くしたという参加者がやってきて、最後のメッセージへの感謝を述べて去っていった。その足でストリップ劇場に向かった。

 

今月中旬(20日まで)のおすすめは、池袋と大和の劇場だ。本日の場内はとにかく活気に溢れていた。平日昼間、ガハハハと笑う助平根性の強めな中高年たちが多くて、すけべの磁場(?)で揚々な気分になって自身の指や腕の骨からもみなぎる官能を感じながらステージを観ていた。「パンツ泥棒を逮捕する」という寸劇あり、何を言っているのか意味不明だと思うけど「ペニスって篠笛だったんだ…」という演目ありで、大いに笑わせてもらった。

ただ、ダンサーの体型の変化云々を語るような声も聞こえてきてげんなりした瞬間があったのも事実だ。

健康が心配になるくらい歯が溶けているとか、どう客観視しても「お前さんは何を言っているんだ?」とつっこみたくなる人が踊り子の外見をあれこれ言う場面にたまに遭遇することがある*2。良し悪しを評価している訳ではないにしても、品定めする位置に安住している姿はやはり醜悪で滑稽である。

 

本日呼ばれた大学は、性暴力被害が起きた街の中にある。働き始めたばかりの居酒屋で、上半身裸になるように指示されて抵抗できないまま、身体の部位を賛美されたり否定された記憶に何度も苦しめられた街の中にある。嘘か本当かはわからないが、加害者(店長)は当時19の私を脅す際に、すでに女性の先輩も加害者の餌食であり、(従業員と)身体の関係を持つのは当たり前なのだという言葉を使った。そうして支配され、若くて立場も弱かった私がその時できた最大限の知恵を絞って逃げ出した15年前の夜がもうすぐ近づいてくる。しかし今日はその街を驚くほど穏やかに通過することができた。4年ほど前に”伝説のヤリマン”と呼んでいる大好きな女が被害現場に同行してくれて一緒に石を投げてくれたからだろうか、添い寝で満たされた身体が今もなお私を支え続けているからだろうか、今秋に添い寝フレンドだった人の部屋に招かれて*3「おれたちが暮らしてたあの街、どうなっているんだろうね」って言われてGoogleマップで散歩道を振り返っていたら夕飯を食べ忘れた夜があったからだろうか。加害者がもう死んでいるかもしれないからだろうか。理由はいくつもあるような気がするし、そのすべてのような気もする。

 

劇場でも遭遇する悪気のない女性蔑視(他者蔑視)、そんな「素朴な感想」を口に出せてしまう人たちと同じ場にいても、今では、逆にそのエネルギーを吸い取れるようになった。あえて私“たち”というけど、私たちはそんな人たちの言動を、かならず蹴散らすことができるという現実を知っているからである。脅しや恐怖のない環境だったとしても19の私だったら蔑視は呪いとして身体に染み込んだけど、34の私は「まずは自分のこと鏡でよく見たら?」「私の裸もなかなか良いでしょ」「それはそうとして、おっぱい好きか?😂」と跳ね返せる強靭さというか洗浄力を持っている。染みにすらならない。そして大人になったので脅しや恐怖に対抗する術もある。

 

被害後の過程では、心身の麻痺と過剰をいかになくしていくかにまず焦点を充てることにしていた。美しいものをただそのまま美しいと感じられる心身を取り戻したくて動き続けた。結果的に、自分の些細な感情の機微や快/不快には本当に鋭くなった。

妊娠中はさらにそれが敏感になるというか、いくら会いたいと言われても、私側にも好意や関心があっても、自分が少しでも緊張していたり気を使うような関係は今のからだでは対峙できない、というのが事実としてある。だから自分が最も開放/解放的になれる人/環境にのみ身を置いている。素直で正直でいられて一切背伸びをしなくていいから気楽だし、それが今の最適解である。つわりの時期はびっくりするくらい体調が悪すぎて移動もしんどかったが、今はだいぶ改善された。裸表現を観ることは私にとって最良/最愛の環境で、それは胎児にとっても良い影響しかないはずという理屈で劇場に行っている。

特に思い入れのあるダンサーのステージを見ていると明確に胎動を感じるので面白い。あなたのそばにいるとどれほど心地よいのかを、お腹の中で生きる人が改めて教えてくれる。

 

 

最後に、これまで何度も書いているが、春野いちじくさんという表現者が素晴らしいのでぜひステージを見てほしい。なので演目の感想を書いていく。

 

今年5月に書いたフリーペーパー

 

今日久々に拝見した演目「Healthy」。さらにさらに進化していて、これほどに素晴らしいものを見せてもらって本当にいいのか…………と呆然としながら泣いていた。涙にもいろいろあると思うんだけど、こういう涙を流したくて私は劇場にいる。裸中を走るような火照り、内側から漲る熱風、丘の上からあまりに爽やかな風が吹いてきて……ほんとうに気持ちよかった。生きててよかったと思ってまた泣いた。


「むかムカday」では、最後まで逃れることのできない、自分の内臓さえ傷つけそうな真っ黒な右手に引き込まれていく。それは脱ぎたくても脱げない日を露わにする過酷な表現であり、ストリップというジャンルであるからこそ意欲的な作品だ。他者や自分をどうにかしたいという、祈りどころでなく支配のような気持ち、掌握しきれない自分のどす黒い気持ち、あなたの中が私でいっぱいになってほしいと欲する情けない気持ち、他害しないよう自分を殴り続けるような気持ち、惨めな泣きっ面を隠そうとする健気さとそれを愛する気持ち、諦めて手放したいのに執着にしかならない踏んだり蹴ったりの気持ち。それは決して自分を構成するすべてではなくむしろほんの一部であるのに、暴れまわって内側から自分を破壊してしまうような恐怖、歪み、衝動、慄きである。同時に自身の脆弱を飼い慣らそうと闘う夜の、狂うような快楽。先の見えない暗闇と果てない渇望がこの身体中を蝕んでいく。それでも飲み込まれまいと這いずり回って立ち上がろうとすべく瞬間の、その微笑みの美しさ。思い当たる全ての苦しみと哀しみが詰まっていて、また泣いた。

 

 

お願いです。春野いちじくさんという表現者が素晴らしいのでぜひステージを見てほしい。(X回目)

 

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(おわりに)

最近の活動紹介。

積極的関心を持ってくれる方、奔放さを愛している方、どなたでも歓迎です!

 

🌟スト活の感想を寄せ合うコミュニティ 

mixi.social

 

🌟奔放な妊娠を祝いたい人、それを応援したい人のためのコミュニティ

妊人コミュニティ

 

 

明日(今日)、大和ミュージックで会える人がいたら嬉しいです。

年末、渋谷でのささきさちさんの周年週もかなりおすすめです!

それでは、奔放な年をお迎えください♪

 

*1:特例法の生殖不能要件は違憲だとの最高裁判断から2年が経ちましたが、法改正は実現していません | Magazine for LGBTQ+Ally - PRIDE JAPAN

*2:(基本的にはデリカシーのある紳士ばかりだから例外ともいえるのと、こうは書いたけど別にどんな外見性別年齢の人であっても皆に聞こえる声で人の外見を指摘する場面はげんなりするわけで、わざわざ相手の外見について書くことを選んだ私の意地もかなり悪い)

*3:添い寝関係の終了後は、外で会っていたので実に14年ぶりだったが

鼻の下が伸びていくのがわかる(京都旅・文学フリマ出店について)

住宅地の道と道の間に細い川が流れている写真。

※性暴力、妊娠継続、不妊、中絶、流産、死産、肉食の話題が出てきます

 

トイレから出て手を洗った後、ビアズリーのトートバッグからハンカチが取り出せなくてまごついていると、さっときれいな手のひらだけを差し出して「これで拭いて」と言うので「ハンカチになってくれる人に初めて出会った」と大笑いしながら、そのままその手をだいじに握って京都の街を歩いた。つながれて濡れて絡まる指先の、乳白色のネイルから自爪が少し顔を出すようになっていてそれが臍出しTシャツみたいで可愛かった。マスクの奥で自分の鼻の下が伸びていくのがわかる。連動するように目尻も垂れ下がっていく。新しい親密さの中で私は妊娠中期を生きている。精密検査の結果、持病については治ってもいないが進行もしていなくてひとまず出産前の手術はなくなった。妊娠初期は危機的状況であり全然動けなかったが、今は美味しくご飯も食べられるし国内旅行もできている。胎動というものが感じられるようになって、私の中に人が住んでいるのだという感覚が強まっている。その人は小魚のように泳ぐので、しぶきが飛んで泡がぷくぷくと浮かぶ。この身体は自動運転する船になり、知らない物語が体内で紡がれているような奇妙さがある。

 

 

鴨川ロンドというスペースの玄関。陶芸品やガラス細工が並ぶ

今年も鴨川ロンドさんにお世話になりました

懐かしい灯油ストーブ

薄暗い部屋の障子。その手前に木製の机。ランプ、剥かれた柿、透明のティーポット、湯呑み2つが置かれている


旅に向かう数日前、デンマークから来日した友人の要望を叶えるためにノンバイナリー研究者も交えてのAスペクトラムの会を開いた。そこで非恋愛かつ非性的関係における妊娠の話をしてみたものの、状況が伝わりにくいか、そもそも強い関心を持たれる間柄やトピックでもないからか、深く話をする流れにはならなかった。ただ、研究者には後日個別に連絡を取り合って、「セックス化された身体を形式的な事実としてのみ捉えている」という感覚の中で、「妊娠する身体をジェンダー規範からどうやって外していくか」の実践について長文を送りつけてしまった。ずっとやってきた(抱いていた)ことだが、例えば身体の手術を望まないが性別違和を持つ人同士が望んで性行為をするシチュエーションを考えるとわかりやすいのだけど、いざ裸で対峙するときに、各々のパーツがいかに女性/男性らしいかなんてどうでもいいものなのだという感覚(というか現実)の話でもあった。女性/男性/非女性/非男性としての身体ではなくて、「その人」が持つ/持っていない部位を使いながらどうやってコミュニケーションを愉しむかー身体を組み合わせたり遊ばせたりして、どのように共に新しい快楽を得るか、という問いでしかないというか。妊娠する身体もそういう感覚と地続きあるいは切り離せるものではなくて、社会が唱える母性の話は全くピンと来ていない。それでも、ホルモン(あえて言うなら女性ホルモン)の量がぐっと増えて変わっていく肉体にはピンと来ていて、純粋な興味というか面白さは日々感じてもいる。ある程度コントロールしてセルフイメージしていた身体を失うことについては、ストリップを見に行くことで精神的な調律が図られたので今は問題視していない。

 

 

ピナ・バウシュ sweet mamboのチラシ

中島那奈子さんが作品解説する様子

ロームシアター京都の入口外観


今回この時期の京都に足を運んだ理由の一つがピナ・バウシュの晩年作『Sweet Mambo』がロームシアター京都で上演されるからだった。メインホールに入ったのは実は初めてだったかもしれない。埼玉公演は追加チケットも販売されるほどの盛況だったが、京都公演は当日券も残っていて驚いた。宣伝が足りなかったのだろうか。

ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団『Sweet Mambo(スウィート・マンボ)』 | ロームシアター京都

とても楽しい2時間半だった。悲劇は喜劇で、いつも待ち構えてこちらを笑わせようとしてくれる。ときどき露骨に性的でそれは老いがテーマだからこそか。あるいはストリップを軸に舞台を見る癖がついたのか。観客にドレスのファスナーを触らせる演出が良かった。「あなたの代わりに叫んであげる」というシーンもかなり好みで大笑いした。ただ、毎回思うのは、演劇要素(非言語の肉体以外に重要な音声の台詞)が含まれる作品はやはり情報保障がほしい。というか必要であるから、今からでも申し入れをしないといけない。役者/ダンサーが日本公演に合わせてイントネーションの異なる日本語で表現するのがうまく聞き取れない…という次元ではなくて、そもそも台詞が聞こえない人がいることを想定できていないのは同じお金を払って強い期待をして舞台を見に来た観客への機会の損失/不平等である。私は耳が聞こえる。それ故に受け取れてることがあまりに多すぎる。また、数は少ないがピナ・バウシュ作品をいくつか見てきて、ピナに対して強い影響を受けているのだろうな、とダムタイプやアルモドバル作品をよく思い出す。特に『トーク・トゥ・ハー』は妊娠している今だからこそ見返したいかもしれない。(良い意味で)めちゃくちゃ気持ち悪いと感じるかもしれないし。

「ダムタイプ|アクション+リフレクション」関連プログラム<br/>浅田彰×坂本龍一×高谷史郎 スペシャルトーク(記録) | スタッフブログ | 東京都現代美術館|MUSEUM OF CONTEMPORARY ART TOKYO

 

 

路地に生っている赤い実の写真

銭湯が奥にひっそりと見える路地

栄盛湯に突然現れたボルゾイ

まるき製パン所の外観

suiroさんのヴィーガンプレート(茄子のスパイシーカレーを選んだ)

自家製甘酒、キウイフルーツ、りんご煮のパフェ(これもヴィーガン)

京都に来るといつも「整う」感じがするのはなぜだろう。無計画で歩き回ってもするするとほどけていって、良いところに着地するような不思議な時間を過ごせることが多い。もう十年以上、毎年訪れていても、同じ店に対して毎回わくわくする。まるき製パンはその一つで、冬季限定のシスターという名前の、天使のほっぺたが落ちそうになるくらいにじゅわ〜っと甘い揚げドーナツを求めて今回も連日通ってしまった。シスターの他、ハムコッペ、サラダコッペ、丹波の黒豆パン、ベーコンポテト、キャラメル林檎の六種を堪能した。数十分並ぶのも厭わない。美味しさが確定事項だからだ。

加えて、マツダさんの個展をきかっけに知った、ヴィーガン料理店suiroさんを初訪問してみたら、人生で食べたものの中で最も美味しいものの一つではなかろうかと感激してしまった。いやあ、本当に驚いた。この類の感動をしたのは人生で三回目で、一つはもうどこにあるのか知る手段がない、八丈島の山奥にある魔女の家で食べた肉料理(自身で牛や山羊を育てて殺して食べているという語りや島で生きる知的障害を持つ人たちの自律的労働の話と共にあった)。もう一つはボローニャの僻地で、ガラス細工のアーティストと社会的排除経験を持つ若者たちと料理人が働く社会的協同組合での、ふんだんに煮込まれた野菜で彩られるパスタである。そして昨日の口に入れた瞬間に歓びが踊り出すような創作料理の数々。京都を訪れたら毎回行きたいお店になってしまった。出会いが嬉しいな。次はあなたを連れていきたい。

suiro(@suiro.kyoto) • Instagram写真と動画

 

下鴨ロンドで時々営業している、ルテール珈琲さんで「床下の小人ブレンド(チョコレート付き)を注文

さらに宿泊先では珈琲会が開かれていて、ここもまたうっとりするような時間だった。ちょうど私以外にもお客さんがいて、性別問わず全員が0歳児を育てており、妊娠出産育児にまつわるエトセトラで盛り上がった。緊急避妊ピルの市販化までがあまりに遅いのと同様に重度つわり薬の保険適用承認がされていない日本の状況を憂いたら頷いてくれる方もいた。鳥羽和久ファンが多く、育児の参考にしているとのこと。自分が妊娠者(妊人)という属性を持ったからこそ乗り切れる話題というか扉が開いた感覚と、それでもここにいて良いのかなという惑いが交差する。けれど、それを選んだ自分の責任と結果であるから、この状況をどう味わうかに焦点を充て直し「京都で子連れでまた会いましょう」という叶うかわからないが叶ったらいいなと思える約束もした。

『それがやさしさじゃ困る』鳥羽和久(文)植本一子(写真) - AKAAKA

珈琲淹れて 子どもと過ごして ひとやすみ|下鴨ロンド

 

 

 

道端の紅葉の写真

親権を託し、選択的シングルファーザーを作るという意味では「産むまでは私のしごとだ」という意識が強くある。これまでは自分に甘いものをたくさん食べさせたり自由奔放に体を動かしていたが、今だけは他人が我が家(体)に住んでいるので、他人に対する礼儀というか、大家の心持ちというか、より心地よい住環境を提供したいと思って以前よりもかなり規則正しく寝起きして食べるものに気を使うようになった。命を削る、という表現をやめて私のかわいい命をシェアするルームメイトというかメタモアだと思うことにした。

そして不妊治療や妊娠に関するトラブルを経験した上で「語れない(ことばを奪われている)」という状況にあるたくさんの人のことを、妊娠前より格段に、深い土に潜っていくように日々考えるようにもなった。実際に「私の妊娠が継続している」現実をきっかけに縁の切れてしまった人もいる。今は私とお腹の人が無事であっても、それが成り立たない未来の可能性もある。それでも妊娠16週目以降は、胎児と死別になったとしても社会的に出産として認められる区切りとされるから、その段階を過ぎた時ふっと全身の強張りがやわらいだ。法律上で定義されていることが心理的な保障になるというか。それは性暴力関連法改正後の安堵感と似ていて、自分だけでなくより広い範囲の他者に「なかったことにされない」ことがいかに私にとって大きいかに依るのだろう。もちろん中期後期も、中絶や死産によって子を失い、社会との接点を逆に保ち続けられなくなってしまう人も見えないだけで数多くいて、そういう人たちを十分に支えられる社会が身近にないことが本当に悔しい。でもそれは生殖当事者以外の人が関心を持たない限り改善されないものだ。当事者はもう十分なほど知っているのだから。個人差に幅があるトピックについては、知識と情報に関する引き出しの多さが当事者に致命傷を与えずに済む。不要に傷つけたくないから沈黙するという態度ではなくて、用意して学んだからこそ積極的に沈黙と発言を選ぶ、という態度が必要なんだよね。まさに「関心領域」かどうか。誰かの妊娠を他人事にしていた自分に戻れたらとよぎる日も、そんな過去の自分を情けなく感じる日も実は多い。そういうときは劇場で出会ったいちじくさんの「怒り」の表現に助けられながら、感情を整理して過ごしている。この半年間、望んだが叶わなかったという人の存在がこの身に刻まれている。これからも続くのだろう。ただ、性暴力から生き延びた過程のような精神的な激しさや落ち込みはなくて、穏やかなそして陰りのある森で幹を撫でるような、広くて暗さのある青い海で一人で立ち尽くすような、途切れることのないかなしみだけがここにある。

ただ沈黙のまま抱え込むのはあまりに自分の身体に対してやるせないなと思って、この状況を短歌にして、今季の文フリ東京でフリーペーパーとして配布することに決めたのだった。

 

 

うさぎモチーフと思われる切り絵、シスターフッドkaninができるまでのzineが掲示されている

シスターフッド書店Kanin 店内入ってすぐの壁

店内の写真 中央に本が並んだテーブルと釣らされる丸い電球、奥にも本棚

『わたしたちの中絶』の書影

こんどじっくり読みたい

本屋で手に取られた『奔放な生、うつくしい実験(英語表記はwayward lives, beautiful experiments。副題はまつろわぬ黒い女たち、クィアでラディカルなものたちの親密な歴史)』のオモテ表紙。目を閉じた黒人女性の上半身に踏まれた跡のような土色がうっすら見える。その上からタイトルと筆者と訳者名。サイディヤ・ハートマン 榎本空訳、ハーン小路恭子翻訳協力・解説。発行は勁草書房。コーラルピンクの帯には「20世紀の変わり目、フィラデルフィアやニューヨークハーレムなどの都市部では、若い黒人の女たちによる公然たる叛乱が繰り広げられていた。アーカイヴの欄外から、名もなき奔放なものたちのコーラスが歌い始める。」「どうやって生きればいい?第10回日本翻訳大賞受賞『母を失うこと』につづくブラックフェミニズムの傑作!」「全米批評家協会賞受賞 21世紀のベスト100冊選出」と書かれている。

奔放であるとは、ありうるかもしれないことを今もなお、追い求めること。いかにしてこの社会に存在するのか、その条件がすでに定められているとき、息をつけるような空間がほとんどないとき、生涯にわたる苦役を宣告されたとき、どこにむかおうともそこに立ちはだかるのが束縛の家であったとき、奔放であることは生のありようを即興的に追い求める。それは、生きのびることをただの一度も期待されなかったものたちがたゆみなく生きようとする、その実践である。(本書二五八頁)

https://www.instagram.com/kaninbooks?igsh=YWExbDduaTFmN2Nj

 

滞在中、偶然にも京都のシスターフッド書店kaninさんが『奔放な生、うつくしい実験』を紹介していたのを見かけた。奔放な女たちを毎月祝っている主宰としてはビビビッと来て、翌日書店を訪問してみたがなんと売り切れ。同じように共鳴した人がいるのだろう。私が34歳になった今年9月に翻訳が出版されたばかりであり、運命的なものを感じた。調べたら都心の大型書店の在庫は軒並み全滅なのに自宅から徒歩数分のイトーヨーカドーに一冊だけあった。奇跡というかビッチの導きでしょうか?笑

引用部分には涙があふれた。今春の文学フリマ東京で、愛する女とその女のこどもと男友達と生きる奔放な女が「奔放な人の作品って…エッセイでもアートでもなく『都市伝説・超常現象』ジャンルだと思う」と語った時、「そのとおりですね」って合点承知の助になって、さっそく今秋からは『都市伝説・超常現象』ジャンルでブースを開いている。奔放な人の人生ってあまりに速度があって現実離れしているから真実なのか伝わりにくい。ありうるかもしれないこと、確かにそこにあった(ある)と自分だけは知っていることがあるけれど、周りからは信じてもらいにくいし、なかったことにされてしまう。それでも誰にも関心を持たれなくたって、周囲が望むような姿でなくたって、ただしくあれなくたって、死にゆく人を見届けた今だって、生きている。壊して、造って、悼んで、生き延びている。そんな一人ひとりの生を祝ってきた七年目で、こんなに素敵な本をこんなに素敵な翻訳(何度も何度も奔放ということばが登場する)で読める日が来るなんてと嬉しくて、またすこしだけ泣いてしまうのだった。

 

今回もたくさんの奔(ぽん)な人からの作品の委託を受けています。皆さんの作品を世に広めるお手伝いができて本望です。

11月23日(日)文学フリマ東京 《奔人会(ぽんちゅかい)》ブースさ-73でお待ちしております。

 

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今年も行けて良かったがせりなさんの怪我が心配

新幹線の中で奔放な旗を縫っていたら「針、危ないからやめてください」と注意されて断念