人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承 (移転前 https://kmnymgknunh.hatenablog.com/)

復讐、復権、そして修復(『現代思想2026年6月臨時増刊号 総特集=フェミニズムから問う』に寄稿しました)

現代思想2026年6月臨時増刊号 総特集=フェミニズムから問う

青土社 ||現代思想:現代思想2026年6月臨時増刊号 総特集=フェミニズムから問う』に奔女会名義で寄稿しました。

 

本会(=奔女会 ぽんじょかい)は、奔放な女/人たちがいてくれているからこそ継続できている会、私が中心に位置する会ではないのもあって、主宰の名は伏せながら様々な奔(ぽん)たちの発言や作品、活動の紹介に徹したつもりです。ただ、末尾に記述した推薦書は私自身の強い思いがあって引用しています。全体的にどんな会なのかいまいち腑に落ちないような、あまりにふざけているような、「都市伝説・超常現象」を称する会としては平常運転、そんな感じの寄稿となっています。本書ではセックスワークについて複数論じられていますが、ストリップについて言及したのは本会だけかもしれません。歴代の『現代思想』でも、ビッチという言葉がこれほど踊るように登場する回はなかったんじゃないでしょうか。編集部の寛大さに感謝します。

さらっと目を通したのですが全ての執筆が面白い。多彩な語りと共にあるフェミニズム、その中の一席をいだたけたことを光栄に思います。やはりというか、田中美津の登場率は高いです。ナンシー・フレイザー氏のことは勉強不足で全くわかっていませんが、おきく氏の高市政権批判や須納瀬氏の『フェミサイドとは何か?植民地主義的資本主義における「女性に対する戦争」』など多くの論考が、不平等と性差別の広がりと虐殺を許す現代社会の連続性を深く映し出しています。個人的には関氏の『ともにいるための方法』で、第三者(友人)の立場でハラスメント被害者と共に闘ってきた実践記録とその思いが読めたこと、それが本書の締めに掲載されていることも含めて大変嬉しかったです。

 

 

今回の寄稿を機に、奔女会というコレクティブ活動を始めてからの七年間と、私にとっての「フェミニズム」ってなんだったんだろうとも振り返ってもいます。私のフェミニズムとは、もともとは産まない/産みたくない体、そして労働現場で性暴力を受けた体からはじまったフェミニズムでした。

拙著『添い寝と生還』でも細かく書いたように、十代の終わりに性暴力被害に遭いました。それまでも(性的かを問わず)被害の経験はありましたが、その日の出来事は、これまで蓋をしてきた傷を直視せざるを得ない、私の人生を大きく転換させるものでした。自分の体が今ここにあるのだ、という感覚は添い寝フレンドだった人との添い寝の日々によって取り戻せたものの、生活していくための力や自分の心身を掌握する力、それを作るための土台(私は自由であるという確証、美への感性、恐れずに拒否ができる安全性、危機管理と判断力、白黒思考ではない柔軟性、統合感覚)を見失いました。証拠が残せるうちに警察や病院に行けなかったり、裁判準備をしたものの断念せざるを得なかったり、被害を語れば人間関係が崩れたり、労働組合へ相談しに行っても加害者に無視されて解決には至りませんでした。心のケア(それは「連帯」と呼ばれるものだった気がしていますが)を求めて、主に(シス)女性で構成される性暴力サバイバーの会に勇気を出して行ってみたことがあります。自身を女と言い切ることに違和感のある私は「女同士ならわかりあえる、大丈夫」というナラティブが肌に合わず、というよりも疎外感でいっぱいになり、二回目以降の訪問はできませんでした。美しいという感覚を取り戻す助けになったのは詩や書物、そして大自然の力でした。自由という感覚を取り戻す助けになったのはフェミニズムとウーマンリブ、そして実験的な性的行為*1でした。安全という感覚を取り戻す助けになったのは転がり込んだ色々な人の家、再演的な試行錯誤の中にある未知との遭遇でした。私は加害者にアプローチするための支援者には恵まれませんでしたが、インターネットや私生活でサバイバー仲間と出会うことができました。かつて沈黙をやぶってくれた何人もの男性の性暴力サバイバーたちは心の友です。様々なバックグラウンドを持つサバイバーたちと精神障害支援団体やシェアハウスで起きた性被害の再発防止を一緒に考えることもあったり、とある恩人は私のかつての被害現場に同行し、私が石を投げようとするのを見守ってくれました。窓ガラスは割れてはくれませんでしたが。

その恩人がバーテンダーとして勤務していたのが「メンヘラビッチバー」でした。精神疾患も性的奔放さも人生の大失敗も支離滅裂と罵られた経験もすべて含めて愉快に働いている姿、メンヘラやビッチという言葉を(他者からのレッテルではなく)自分を表現する極上のフレームとして譲らない姿(少なくとも私にはそう見えた)にとんでもなくエンパワメントされました。自分は対人支援職として生計を立ててきましたが、それまで「エンパワメント」って実感としてなんだかわかっていなかった。それがメンヘラビッチの皆さんの勢いあるエネルギーによって理解できたとも言え、奔放に生きる女性のことが大好きだなんだって自覚しました。同時期に、相模原障害者施設殺傷事件の衝撃で病院を退職して転職した先で何故か偶然イタリアに行けることになり、そこで「狂う」ことが肯定された国と街(脱精神科病院運動)に大きな力をもらって帰国しました。エンパワメントとは自分自身を祝うという感覚で満ち足りることでもあったのです。

これらの流れで、奔放な女をいたわり祝うための会「奔女会」を始めました。私(主宰)が彼女らを祝うという目的が根底にありましたが、回数を重ねるごとに「自分自身を祝いたい」という段階に来た人こそを歓迎すべき会なのだと気づいて、グラウンドルールを更新し続けた経緯があります。「自分を祝いたい」の前の段階、「自分は祝われるべきではない」「自分を祝えないから祝ってほしい」だと従来の福祉的支援あるいは(専門家が介入すべき)治療になってしまう。そうではなくて、被害の側面だけではなく、誤りや至らなさ、加害的経験も含めて自分の責任として人生を捉えられた節目にこそ本会があるべきだと考えて、現在の運用に至ります。近年、女性に限らない性別不問の「奔人会」の活動(ストリップ活動部、文学フリマ出店、表現活動と作品委託など)も行っていて、その点も今回の『現代思想』にて紹介しました。

 

生きていると決定的な喪失に立ち会う瞬間があります。それは自分の心や体がどこにあるか行方不明になってしまう経験でもあります。それが故意にせよそうでないにせよ「相手」によって壊されたものであるとき、そこには被害と加害の関係が生まれます。相手の心身に同じくらいの傷を与えたい、社会的に罰したい、復帰できなくなってほしい、目の前から消えてほしい、謝罪がほしい、相手より優れた地位について見返したい、被害を支援してくれる人がほしい、自分をケアしてくれる親密な人がほしい、あの被害者のように注目されたい、誰にも知られずにいたい、二度と繰り返されないでほしい、忘れたい、もう一度あの日をやり直したい。それらは当然の希求です。ただし理想と現実の狭間には大きな葛藤と限界もあって、(本人が求めた段階での支援や治療は手厚くなるように是正されていくべきですが)にっちもさっちもいかないことのほうが多いです。しかし復讐と復権の在り方は一つではないはずで、各々が自身で手繰り寄せたり発見できるものだと思っています。加えて、生き延びる過程で要求や欲望は変化してもいいはずです。私自身、遠回りをしながらも十五年の月日が経ちましたが、なんとか生き延びています。年齢差があったので加害者はもう死んだかもしれません。その仮定が救いのように感じる時もあります。しかし同時に、トラウマと闘い床に伏していたり、近親者からの(性)暴力、小児期や青年期の信頼していた人物からの(性)暴力、社会的影響力のある人物からの(性)暴力、大切にしてきたコミュニティ内での(性)暴力など、穏やかに生活したくてもその存在や記憶が消えないという状況にあるサバイバーのことをいつも思い出します。復讐と復権の先に、修復があるとも考えます。それは、一人ひとりのオリジナルな創造であり、応答*2でもあります。過去には戻れない。完全な元通り(修復)にはならない。しかし息をして生きていくうちに、心と体も、他者との関係も変化し続けていく。凍っていた時間は差し込んだ光によって動き始める。その時何をするか、そして何をしないかを、わたしたちは自分自身で選ぶことができるはずです。

 

私にとっての復讐と復権、そして修復のための実践が添い寝であって、その延長線上に奔女会の設立がありました。七年間、様々な奔放な女たちが私の人生と(一瞬でも)交差してくれたから、私自身も生き延びることができました。彼女たちなしには本会は成り立たちません。「支離滅裂で混乱するものは尊いものだ、壊してあたらしい局面を開いて再建する力を持っているから」という価値観が根底にあるのは、喪失して精神を病んでめちゃくちゃになって周囲に嫌われたり疎まれたり嘲笑われた経験が、「奔放」な流れの中で治療やパターナリズムを拒否して愉快に生き延びる瞬間と連続していると知っているからです。今回、奔放な女/人たちがそこに存在していたという記録を後世に残せて本望です。貴重な機会をいただき、様々な方に感謝を伝えたいです。あなたもわたしも、生き延びたよおめでとうございます。

 

そして今、私自身は産まない立場ではなく、産んだ立場からのフェミニズムを考えるという転換期に来ています。女であることへも母役割へも迎合せず、それでも(誰かにとっての、あなたにとっての)母であること*3を引き受ける私のフェミニズムとは何なのか。「母」になったことで、パレスチナにいるお母さんたち、自分の産みの母、東京の母*4、母になった友人たちと再度つながれる近況があります。あるいは産まない/育てない私を願われていたのかもしれない幾つかの関係性があります。自分の選択によって生じた耐え難い離別があります。誰かの理想や社会の規範のためには生きられないのだから、「家族」「(母)親」に対するジャッジの目線に対抗/抵抗していくための思想が改めて必要だなと痛感しています。産後二ヶ月が経ち、精神的に参ってもいて、月の大半は引きこもり体調も安定せず社会生活が送れるか不安なのですが、『妊ZINE』完成版を作成するのと、妊娠中に開業した個人事務所(スタジオ奔人)をぼちぼち動かしていければと思います。

*1:それは一種の踊りでもあった

*2:世界への、そして自分自身への

*3:産んだけれど『母』ではないというアイデンティティの在り方も当然ある

*4:私をこどものようにかわいがってくれる年長者の女性たち

わたしの感性を母性というやさしい言葉で包まないでほしい

人を産んだ(人が産まれた)けれど、「自分の」「こどもが欲しい」という人の気持ちは今もずっとわからないままだ。特に子孫や遺伝子を残したいというのは、健康で知的で自分よりも長く生きてくれるだろうという漠然とした想像の産物だと思うし、自分の中にそれは明確にない。私は根の暗い人間だから、自分がこうして生きているのだって偶然の産物に過ぎないし、皆がみんな同じように生きていけるとも思っていない。祈りのような、願いのような、いやそんな美しい言葉ではなくて、内側から湧き上がる「あなたに生き延びてほしい」という欲望はあなたを縛り付ける呪いのようだ。

ただ、「自分のこどもが欲しい」という欲望を持つ人がいなければ、こどもをお腹で育てるという経験も、生み出すという経験も、こうして日々伸びていく睫毛の美しさに涙する経験も出来なかっただろう。自分には皆無の欲望を持つ人のおかげでこの人に出会えたのだと思うと、欲望を諦めなかった人に対して、想定していた人生を揺らがせてくれたことへの感謝の気持ちも強く芽生える。

 

自分の胎内にこんなに大きな人が居たことが、いまだに信じられない。子宮内に他人の両手が二度も入って私の中で踊った。内心願っていた帝王切開に緊急で切り替わった。妊娠線や切腹跡も含めて新しい身体が手に入った。前屈姿勢が取れるようになって久々に自分の性器と対面できた。ホルモンバランスの急激な変化については今のところ大丈夫で、というか妊娠中から驚くほど穏やかに過ごせていた。これは性暴力被害後の生還のために命懸けで費やした20代のすべてが為せるものだったかもしれない。既に精神状態最悪な状態を経て学んでいたからこそ、ホルモンの悪戯に負けない鋼タイプに進化したというか。大好きでずっと尊敬している女性からも「ホルモンバランス崩壊ワクチン接種済み?!」とツッコまれたので、大笑いしてしまった。

 

安静指示のベッドの上で、大島弓子『バナナブレッドのプディング』の沙良の手紙を何度か読み返していた。政権がめちゃくちゃなことになっていて、正直怖くて、衣良のような心理状態にもなる。でも沙良の "わたしはいいました「まあ生まれてきてごらんなさい」と 「最高に素晴らしいことが待ってるから」と 朝起きて考えてみました いったい私が答えた「最高の素晴らしさ」っでなんなのだろう 私自身もまだお目にかかっていないのに" という言葉は、お守りのように嵐を鎮めていく。お守りといえば、松田青子『自分で名付ける』をずっと肌身離さず持っていた。大好きな人から贈られた本で、妊娠初期だけでなく、救急搬送後、充電器を忘れて携帯を触れない入院一日目の夜にも何度か読み返した。

www.hakusensha.co.jp

www.bungei.shueisha.co.jp

 

陣痛中、ストリッパーささきさんの周年作である、まばゆい光に包まれるようなベッドショーの動きを思い出しながら痛みに耐えていた。ゆっくりと呼吸するのにとても丁度よいリズムでもあった。子宮口全開の直前については、確かにこれまで経験した痛みの中で最も痛かった。ただ「痛い、痛い……」と言えていたし、気絶もしていないので、医療従者からしたらさらなる痛みに耐えられると評価されていたと思う。周産期の現場はとてもやりがいのある領域なんだろう。百人いれば百通りの妊娠/お産があると言うけれど、それってそれほどにいくつかのトラブルが複合的に絡まって結果が読めないということでもある。

新生児って舟越桂の彫刻みたいだというのが生後一日目の感想。少しだけさみしくて、あまりに美しいなあ、という感情で脳内が埋め尽くされた。そして体からは涙と母乳と血液(悪露)が絶え間なく流れ出ていく。妊娠中やたら『進撃の巨人』と『ハンターハンター』キメラアント編のことを考えていたんだけど(主題が生殖、種の保存、差別を問うものだからだろう)、カルラの「ただこの世界に生まれてきたこと」を歓ぶ心*1を想い、自分の産後の体については蟻のヒナ(ヒリン)の体がシンクロした。冨樫は妊婦や経産婦の身体を知っている男なんだ……と地味に感動した。

また、孫はさておき私のことがただ心配でかけつけた母の「"あなた"は大丈夫なの」と訴えかける瞳に、アルモドバル『オール・アバウト・マイ・マザー』の母たちが映った。田舎の閉塞感や実家での所在のなさから解放されたくて上京した十代、新しい地で出会ったたくさんの「母的な人(これは性別問わない、役割や条件なしで存在まるごと受け入れてくれる人とでも言おうか)」の存在も同じように思い出された。私が血縁関係や遺伝子上の母父に特段こだわりがない(里親などの社会的養育に強く関心がある)のは、これまでの人生で私が私のままであることを信じさせてくれた、たくさんの母的な人たちがいたからなのだ、だからその役割を今度は自分が担う番だと感じているのだ、という答え合わせが出来た。

退院後、機械のように動かざるを得ないけど、そういう種類の労働なんだな、というくらいで自分を見失うみたいな状態にはなっていない。わたしはわたしで、この子はこの子で、それぞれが主役。そして、いくら与えようともすり減ることはなく、わたしの体はわたしのもののままである。でもこれは、代理出産の意識で、今後も続く養育の主たる責任を子の父に任せられるという約束/環境があるからかもしれない。ホルモンの影響だけではなくて、寝不足の日々、子の体調や経済状況、様々な未来への不安が養育者に押し寄せるのは当たり前で、産んでいない人も男性も産後鬱になる可能性があることはしっかり周知されていってほしい。

素敵だなと思ったのが、アーティストSangawaさんのマタニティブルーTシャツ(自分の不安を笑うために作ったとある)。購入は間に合わなかったが。

doodle.theshop.jp

 www.kodansha.co.jp

www.shueisha.co.jp

www.youtube.com

 

さて、退院後は完全ミルクでいこうと思っていたが、「搾乳」が愉快すぎて混合ミルクでいくことにした。もともと自分の身体にふれるのが好きだからか、胸の硬いしこりをほぐして、ぎゅうっと摘んで、白濁色の液体がこぼれ出るという変化が楽しくてたまらない*2。自分の乳とは長い付き合いだが、その扱いも役割もあまりに多彩で、そのたびに新しい感情が生まれるので、ポテンシャルの豊かさに驚かされる。小学生の時に路上で性被害に遭って自分のものじゃなくなった乳、第二次性徴で運動するにも張って痛くて切り取りたかった乳、興味本位で指さされないように猫背になって隠したかった乳、丁寧にサイズを測ってもらって繊細なレースを所有するブラジャーに守られた乳、その時はじめて綺麗だと感じた乳、フェミニズムとウーマンリブの影響で堂々と自分の身体の一部だと開かれていった乳、30代になって少し垂れてきた乳、大好きな人の前で脱いだら「かわいい!」って微笑まれた乳、妊娠で黒ずんで肥大する乳、そしてこどもの食糧となるために稼働する乳、授乳が終われば干し葡萄みたいに萎むかもしれない乳。すべてが愛しい。

 

 

「自分の体から出てきた子に触れる手つき、これまで出会ったかけがえのない存在である、大好きな人に触れる自分の手つきとおんなじで(あるいは私に触れてくれたあの手つきとおんなじで)子だけが特別だってことではないな、と思ったんですよね」と面会に来てくれた恩人に伝えた。人生の中で決して忘れられない瞬間や時間を共にしたことのある、親密な他者がひとり増えた、という感覚。

どうしても世話なしでは生きられない個体ではあるので一旦この子に割く時間は増えていくけれど、そこに順列順位はなく、やっぱり元カノたち(付き合ったことはない元カノを複数含む)や添い寝フレンドだった人はかけがえのない存在だ。子が大きな病気で臓器移植するというシュミレーションもしてみたのだけど、この子だから、ではなくて親密な他者であれば同等に私の臓器を使ってほしいという思いがあることにも気づいた*3。出産直前、遺書とまではいかないが万が一の時のために簡単に一筆書いておいたのだけど、ひとまず自分自身が死なずに退院できたことを祝いたい*4

 

最後に、心身の疲労により周囲への連絡が滞ってしまっていて申し訳ないです。同時に、生殖という大きな決断について見守ってくださり本当にありがとうございました。

 

それでは、皆さま

とっておきの春をお迎えください🌸


www.youtube.com


www.youtube.com

*1:長く元気に生きられるかではない、誕生と実存に対するそもそもの祝福

*2:搾乳とは別の話題だけど、いざ授乳したくても直接乳首を吸われることへの不快症状が現れる人もいて、その症状はディーマと呼ばれている:あなただけじゃない!授乳が不快という感覚…D-MERとは?|たまひよ

*3:逆に私に対して臓器移植してほしいという願望は一切ない

*4:第二子については、里親申請にもう一度チャレンジするか、同じ人かまた別の人の子を代理妊娠検討するか、という考えでいる。とはいえ帝王切開と子宮頸がんのフォローも必要なので、最低半年以上はピルを飲んで判断していく予定

本当の願いを叶える力はないくせに何をしたいか聞いてくる(青野くん完結に寄せて)

生命を撒き散らしてなにかを捧げるかのように踊る人を見上げるとき、全身の体液がこの目に集まって、過去から今までのすべての涙が訪れて、顔中の産毛をべっしょりと濡らす。そんなとき、「わたしが差し出せるものは涙しかない」という気になっている。

いつもどこかからだを千切って差し出そうとしていた。それを、『青野くんに触りたいから死にたい』の最終回を読み切ってからしみじみとさめざめと実感した。青野くんと同じように「特に恋は気を付けなければならない」とずっと思っていた。わたしがそれを求めているのかもわからないのに、与えてくる人があまりに多かったし、その都度消耗していたからだ。《自分のことを被害者だと思った人がわたしに飽きるまでの物語を作らないといけない》ことがしんどくて、どんどん苦手になっていた。わたしはあの日を境に憎まれ役を引き受けて恋愛を止められたけど*1、青野くんはまだ小さな子どもだったから「ごめんね(あなたの気持ちに応えることはできない)」と拒絶することができないまま死んでしまった。「ごめんね」が言えない人たちは、そこに肉体があるはずなのにふわふわしていて透き通った幽霊みたいだ。でもあなたたちは本当は怯えられる存在でも憎まれる存在でもない。「ありがとう、でもごめんね、自分はこうしたいんだ」を言えなくさせたのは誰か、どうしてそれが起きてしまったのか、その謎を怪奇現象の力を借りて九年もの月日をかけて教えてくれた、そんな凄まじい物語が完結した。

 

 

 

物語における性的行為(えっちな行為)の重要性

一巻を捲れば、「交通事故」により幽霊になってしまった青野くんと、彼に触れたい優里(ゆうり)ちゃんによるラブコメディが始まる。二人が身体接触を試みるにも電柱や枕越しだったりと、とにかくひょうきんでコミカルだ。しかし青野くんが生者に憑依し直接の接触が可能になる場面から官能かつ不穏な空気を帯び始める。他者の肉体であろうと青野くんの意識化であればそれは青野くんとキスをしているのだと優里は解釈し、束の間の逢瀬と刺激に満たされる。二人が性交や社会経験のない十代であることは重要で、「好き(かも)」という感情と新鮮で強烈な快楽(性愛)は、区切られずに融合して加速していく。際限がつかなくなり、どんどん深まろうとする。ここでの深まるとは、様々な身体接触がある中でも、「唇から舌へ、手のひらからやわらかくて突起した指(または性器)へと、触れられる範囲が広がっていくこと。そこから粘膜に入り込み、体液が混ざりあうような行為」「皮膚の先にある、やわらかくて傷つきやすい粘膜をズブズブになるまで味わう行為」を指す。

 

『青野くんに触りたいから死にたい』漫画家・椎名うみが語る、欲望の扱い方 | iro iro iroha 女性のきもちよさに寄り添う情報をお届けします

iroha.com

上記でも語られているが、作者は「恋愛感情=性的に触れたい」という感覚を持つ人だ。「触れたいから死にたい」とは、「(幽霊になってしまった彼氏に一瞬でも)触れたい」というロマンティックで切ない恋慕のようにも描かれるが、読み進めるうちにそれはややミスリードであり、明確に「性的行為がしたい」の意味だったのではと思わされる。それほどに性的行為(それに付随する性欲やセックス、生殖と呼ばれるものの暴力性/欲望に支配される時の逸脱性や衝動性)が物語のキーになっている。同時に、目の前の存在を渇望する性的行為が性器接触を頂点あるいは要件とするようなものではなく、いかに多様で創造的かをも示唆する。ゾクゾクするような、体の隅々まで侵犯して感覚を研ぎ澄ますホラーと官能の類似点はもちろんのこと、本作にアップテンポかつ歯止めの利かない「十代のえっちな欲望」は欠かせない。

憑依を通して好きな人の粘膜にまで触れられるようになった二人。「いいよ」と許可されることで、青野くんは優里の肉体に幾度も侵入していく。彼を招き入れるたびに、触れ合うどころではなく文字通り一心同体になる。しかしそれは自分の命と引き換えに青野くんを妊むことでもあった。そこから始まる身の毛もよだつ怪奇現象は「青野の呪い」と噂され、友人らを含む親密圏から、学校へ、次第に街全体に広がっていく*2

生者の時の青野くんは渦巻いた怒りが自分に向かう人間(自分を破壊したいというか生まれたことをなかったことにしたい人間)だったが、死して優里に触れてはじめて、自身の欲望を他者*3にぶつけることの快楽を得る。暴力を振るっている時の記憶がないという人は案外多いのだが、青野くんもその時は「黒青野くん」になって一切覚えていないという具合だ。同時に、青野くんも優里も性的関係が深まった先で、生まれてはじめて「断る」という選択肢が脳裏に浮かぶ。謝罪ではなく拒絶としての「ごめんね」が言えるようになっていくまでのそのプロセス、もらいすぎたもの不要だったもの相手のものを返還するプロセス、自分という人間を生み直すプロセス*4、それがあまりに緻密でドラマチックで感服せざるを得ないのだ。詩的な言い回しや見せ場が独特で、特に得体のしれない怒りの表情は救済で、心の底から、どうしようもない気持ちにさせられる。

 

 

「触れられない」境界線の愛しさ

「青野くんに触りたいから死にたい」というタイトル。最終話を迎えた今は、「青野くんに触れたから、生きていく」という優里ちゃんの意思を想った。

重要なのは、もう二度とあなたに触れられないこと。だからこそ、わたしは生きていけるということだ。

 

とにかく濃厚で自分とあなたがズブズブと入り混じって自分が誰かも忘れてしまうくらいの身体接触(感情接触)は長くは続けられない。続くとしたら、どちらかまたはお互いが死んでしまう(心身を喪失する)ような破滅の道しかない。それはどんなホラーよりも恐ろしい*5。けれどそれが、生々しい傷を開き直し、その奥にある粘膜(心)に直接触れることを可能にする手段になることもあり、一概に否定はできない*6

私の心に染み付いて離れないのは、「幽霊はいちいち俺が何をしたいか聞いてくる でもいつも他愛もないどうでもいいことばかり 本当の願いを叶える力はないくせに」という台詞だ。意思を聞くこと(それが聞こえるまでじっと待つこと)、それが尊重という意味での人を愛するということだからだ。

本当の欲望はなにか―――それを問うて、それを叶える/諦めるために動けるのは自分自身しかいない。他者はいつだってヒントをくれるが、わたしの欲望を満たすためにあなたは存在しているのではない。自分と相手は違う人間で、それを表現する時のために「ありがとう」と「ごめんね」があり、ともに生きる日々の些細にもみえる「私はこれが好きだ」「私はこうしたい/したくないんだ」という意思表示をいちいち積み重ねることが、あなたは誰かの所有物ではなく独立した存在だと伝える唯一の手段なのではないか。

 

満ちてゆく(わたしの手探り)

臨時受診した結果無事だったのだが、胎児が生きているかわからなくてひとりで泣きながら布団の中で丸まっている日があった。息ができなくなっているかわからない状態、まさに「手探り」で自分の腹に手をあてて胎動を探しに行く時間の遠さを経験して、添い寝の時間が思い出された。ひとりでは明日を迎えられず、隣から聴こえる呼吸音や心拍を頼りに眠っていた私を、輪郭が曖昧で透けていきそうな私の身体を、暗闇から手探りで見つけてくれた人がいたことを。もう触れることができないあなたを今もこの体が記憶していて、だからこそ別の誰かの鼓動を探しにいけることを。

優里ちゃんもきっと、自分の想定していなかった現実とこの先を、青野くん以外の誰かと過ごし生きていくのだろう。そして、触れられないからこそ触れた気になるためのあらゆる創意工夫が、キスもハグもできないならばともに踊ろうと取り合った手が、いかに豊かな時間だったかを、ふとした瞬間に思い出すのだろう。

 

年の暮れ、昨日は渋谷に向かっていた。六周年を迎えるストリッパーの舞台を、春に生まれるかもしれない人(わたしのお腹で生きるあなた)と青野くん(死んでしまったあなた)と共に観ていた。裸でポーズを決める彼女の、美しく在るための表現とそれを満たしうる肉体を他でもない自分のために追求し、理解や評価を拒絶するような姿に勇ましさと愛しさと懐かしさを覚えた。どこにも捧げられることなく、こぼれ落ちるだけの涙が、そこにはあったかもしれない。

性暴力被害を契機に添い寝に出会い、非暴力な性的行為を追い求め生き延びる中で、「触れる」ことの効力を実感した後の今、ストリップ劇場が自分の居場所になっているのは、ここが「触れられない」かつ「えっち」な現場だからなのかもしれない。

触れ合えないということに私はすっかり安堵している。透明な隔たりがあって、その皮膚までこの指は届かない。相手が許可しなければそのドアノブを引いてもいけない。しかしドア越しに見つめ続ければ、見つめ合えた可能性に満たされる。その手で自分の裸や性器を労るように触れる人の表現を通して、私たちは自分のからだを馳せる欲望をこの手で探り、抱きしめることができるのだ。

 

 

 

open.spotify.com

↑「青野くんは、恋と冒険(90年代のりぼん)」

作者が十代は演劇部で、ロジカルホラーのシナリオ書いていたことには納得(過去作にも本作にも演劇のステージが出てくる)

ラジオその3がめちゃくちゃ面白い。「はじまり(すべて材料を準備する)」「後戻りできない展開(坂道からカートが転がり始める)」「上昇の展開(ストレスとプレッシャーが高まりすぎ)」「クライマックス(全部使い切る)」「下降」「オチ」という物語のセオリーについて、ロジカル椎名節。一話のベースはまさかの『寄生獣』と『俺物語!!』。ベルセルクを読み返したくもなった。ハチワンダイバーは未読だったが面白い!


shonenjumpplus.com

www.clipstudio.net

media.comicspace.jp

natalie.mu

note.com

↑どんどん眉毛が太くなる素晴らしき藤本論

natalie.mu

↑この号は本誌を購入した。山頂で交わす二人の会話/見開きは歴史に残るべき美しい場面である

kmnym.hatenadiary.jp

kmnym.hatenadiary.jp

kmnym.hatenadiary.jp

 

終わりに

椎名うみ先生、初連載にして傑作を生み出してくださり本当にありがとうございました。

二〇二五年、妊娠する肉体で完結に立ち会えてよかったのと、個人的な思いを述べていいなら、まず一つは美桜ちゃんを祝いたい。壁や画面越しに人とつながることの親密さ、それを世間が望むような「脱引きこもり」という形で終わらせなかったことが嬉しかった。もう一つは藤本ぉ〜…藤本にはどうか自分の心に納得がいく形で幸せになってほしい(これはすべての読者の総意だろうな)。そして最後に、毒親と簡単に切り捨てられるようには描かれなかった瞳さんという一人の女(人間)を偲びたい*7

 

comic-days.com

コミックDAYSアプリ最終話で瞳さんに共感を示すコメントが少なくなかったことに少し驚いたというか、当事者性を持つ人がそれ(共感)を書いて良いと思える社会になったんだなと感じた。今は彼女への共鳴はない(想像ならできる)けれど、これから養育の困難に直面したら私の中にも瞳さんの感情が登場するかもしれない。だからこそ、たくさんの人に頼らなくては、なんてことを思った。

comic-days.com

家族というものに苦しめられたことがある人、家族支援や心理領域を扱う対人援助職、誰かと親密に混じり合いたいという欲望に関心のある人には特に手に取ってほしい。未見の方はぜひ一話から読み進めることをお勧めする。ただ、性描写、グロテスク描写、ホラー描写、児童虐待(身体虐待・心理的虐待)やきょうだい間差別などの暴力描写が多いため、苦手な方は体調と相談しながらでご無理のないようにお願いします。あなたの心は大事なものだから。

 

 

 

子宮頸がん精密検査の経過とか、精子提供してひとり親をやりたい方の募集とか、税務署に開業届を出したこととか、今年の振り返りと来年の抱負を書こうかなと考えていたのですが、『青野くんに触れたいから死にたい』完結の衝撃がちょっと強すぎて、これを今年の最終エントリとします(笑)

 

 

それでは、奔放な年をお迎えください!

 

 


www.youtube.com


www.youtube.com

今回のブログはこれを聴きながら書きました。(2026年1月22日微修正しました。)

 

 

(宣伝)

メルマガ配信始めました

honpo.weebly.com

ストリップ感想コミュニティ

mixi.social

奔女会/奔人会インスタグラム

www.instagram.com

*1:あれから十年以上経った今、何も差し出さなくていい穏やかな恋をしている。とても幸せだ

*2:最終的にはドラゴンボール的展開になっていく

*3:厳密にいえば、青野くんにとって母は他者ではない

*4:私は、青野くんの「安定期」までの口裂け怪獣姿は、セルフイメージの表出だったのかなと考えている。人に擬態した異物、人として生まれられなかった怪物だと本気で自認していたのではと思う。なにより容赦なく描かれ続けた愛の惨めさに感服する。でもその惨めさを受け止めることからしか始められないのかもしれない

*5:それはあまりに現実を落とし込んだ秀逸な表現だった。妊娠や性感染症のリスクを極力減らして、パートナーなどの親密な名前を拒絶して、カジュアルにスポーツやゲームのように性的行為を楽しめる才能がある人同士のそれは、純度が高いというか非暴力なものに近いと思うのだけど、そうでない、妊娠や性感染症の機会が有り得たり、親密さの延長線と捉える性的行為は境界線が揺らぐので、暴力的要素は隣り合わせにある。恋愛感情/関係の中で行う性的行為はその最たるものであり、感情/関係の揺らぎを巻き起こす。その境界線を引き直して前進するには変容の痛みを引き受けないといけないのである

*6:この方のブログがとてもよかった。宇多田ヒカルの言葉から導く、"青野くん〜は私の傷を気づかせるけど、それは痛みで気づくんじゃなくて物語がその傷を優しく撫でてくれるからなんだよな……。私すら撫でたことがない傷を……"という箇所。そして"青野くんの心に本当に触るためには同じところ(死ぬこと、あるいは彼の生きたのと同じ死ぬほどの絶望)に行かないといけないんだって気にさせられる"というタイトルへの所感に同意する。※虐待と家庭内性暴力の記述があります

*7:彼女は拒絶ができても、嫌だと言えても、その意志を繰り返しなかったものにされてきた人だった。弱い人というのは最初から弱かったんじゃなくて、弱者でいること以外を許されないまま年を重ねてしまった人なんだと思う