人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

私はひたすら柿をむいていて

御茶ノ水から水道橋に続く神田川

 

火葬後、私はひたすら柿をむいていて

【動物の死、流産死産、性暴力加害者家族の話題に触れるため読めるときに読んでもらえたら幸いです。】

 

 

 

 

短期間で多くの訃報を受ける。立て続けに流産報告が4件あり、その合間に出産間近報告が1件あって、その後すぐに7年間一緒に過ごした(最近は全然会えなくなっていた)職場の愛犬が息を引き取った。

これを書いている今、少し前に「実はパートナーが過去に流産していて、それで」と報告してきた浅い関係の男性に「誰かの体に関する重要なことをその人の同意なしに(かつその人と面識を持てず連絡もできない)私に話すのは控えてほしいのですが」と伝えて展開を遮った日のことを思い出した。今思えば彼も一つの側面では(こどもを失った)当事者であった可能性があったのに少し冷たいことをしたかもしれない。でもその話をする相手は私でなくて良かっただろうに、と苛立ちをあらわにしながら自分の中で仕切り直すのだった。

 

母が流産したとき私は9歳。1年くらい前まではあの夜を思い出すと胸が苦しくて、母と目の前の友人の泣き顔が重なって涙することもあったが、流産あるいは死産をすでに人生で二度以上経験している人が周りに増えてきた今は、彼女らが淡々と、でも深呼吸してから私にそれを語ってくれるので、私も穏やかに出会えなかった人の話ができるようになり、過去と重ねることなくあなたの喪失を受け止められている。痛みに鈍くなるというよりも覚悟に慣れるというか、予測しながら現実を見つめる力が蓄積されているというか。そして私たちには感じない権利もある。「ああ、私はたしかに傷ついていたのだ」と感じ、腑に落ちる瞬間はあなただけのものである。誰かが先回りして与えるものでは決してない。それはいつになるのだろう。だいたいの準備が整ってからとなる。

 

昨年10月はイタリアで世界精神保健デーを祝い、11月はバルセロナ空港で飛行機に乗り遅れ途方に暮れていたのが懐かしい。今年の秋の出来事についてはすべてがずっしりと重かったので、箇条書きで記録を残しておく。

 

 

・10/17,屋台を作るアナキズムな会に参加する。来年は路上であなたを祝い過ごすかもしれない

・10/18,天皇制と障害者差別に切り込んだ、改作『蝉丸』を鑑賞

・10/20,性暴力サバイバー男性支援専門の心理士からジャニーズ事務所加害者のドキュメンタリーの地上波放映について教わる。体調が大丈夫だったのでオンタイムで観た。家族が性暴力加害者だった場合に、家族としてどうする(しない)か、選択を間違え続けた姉の人生も焦点にあったように思う

・10/21,両国にて、ドイツに出張する関係者の送別会

・10/24,オランダの研究者を紹介したいと言われ、池袋で金木犀の杏仁豆腐を食べる

・10/27,和歌山からのスト客が我が家へ、いちじくさんのベッド曲に泣く、表現者としての熟れにひれ伏す

・10/29,自分の渡航経験を有料で話す。サバルタン、語り手、語り部について書かれた小松原さんの記事を思い出す

・10/31,能登、国内とガザのサバイバーたちに寄付をする。定額寄付を選ぶことで過去の自分が慰められる側面があって、それはとても不純かもしれない

・11/1,右肩と首が痺れたまま2週間経過、整形外科でレントゲンを撮る。1時間遅刻してNVCとReflectionの会に行く

・11/2,岡田さんの支援職向けセミナーに参加する。『離婚ができるようになるために、同性婚を』という話が本当に好きだし、支持している。一年更新で別れる約束ができたり、複数の親密関係の中を漂って活用できる自分は強者で、多くの人はそうじゃない。怖い思いをせずに、暴力被害に遭わずに、親しい人と離れる、縁を切るためには法制度が必要と。そして支援職はセックスワークを安易に断定しすぎ(若い女性が搾取されるイメージしか持っていない)で、多種多様な性労働の存在をもっと学ばないといけない、という指摘がある(未オペのトランス男性の稼ぎ方を紹介)。御茶ノ水から坂を下り、後楽園のラクーアで体の歪みを直すためBackpackを色違いで買う。その後に羽田空港まで徳島からやってくる仲間を迎えに行く

・11/3,レイプによる加害を告発された夫と(ほんとうに様々な事情があって)離婚できなかった女の話を聞く。職場の愛犬が息を引き取り花を添えに行く(享年15)

・11/4,重度訪問介護の外出同行で、立つことは出来ないので電動車いすを使って一人暮らししている人と物件内見に行く。転居したいのに選択肢があまりに少ない。在宅生活者なのにずっと施設のスタッフさん、と呼ばれる。退勤して火葬のあとの愛犬を偲ぶ会へ。深夜思いつきで、花園神社の先にあるスタジオに駆け出して、Sailor Honeymoonを浴びる

・11/5,自分が関わってきた団体『ありえないデモ』のハラスメント報告を仲間と共に公表する。私が行った二次加害についても記している。(立場上、私が触れてよい内容ではないという前置きの上で)被害を受けた方による声明には社会運動に関わるすべての人への重大な提言がなされていることを改めて伝えたい。反差別、反虐殺、反ハラスメントを掲げる方々に、そのためのコミュニティを持っている(作ろうとしている)皆には、ぜひ読んでほしい

・11/6,失語症者向け意思疎通支援事業の報告会に参加。同事業の他区予算案をほぼ徹夜で作成して提出したが、残念ながら次年度の交渉は不成立に終わった

・11/8,『すべて売女よりマシ』を鑑賞。トークショウでは、ヨーロッパにいる30~50代の移民(アジア圏)セックスワーカーたちの連帯についても話題に挙がった。私もスウェーデンモデル(※北欧モデルと呼ばれているが、デンマークはこのモデルを採択していない)は望まない。けれど売春者と経営者だけが処罰対象の日本で、どうすれば性的サービスの売買を行う人が守られる社会を作れるのか(犯罪や暴力被害に遭わないことはもちろんのこと、被害を受けたとしても公にできること、差別されずに治療を選択できること、加害者が罪に問われること、あるいは客が性病検査を定期的に行うことを含め)の答えには悩んでしまう。そして、家庭の中の性労働と性暴力は、いとも簡単に隠蔽されることを思う

・11/9,足利にてデンマーク・フォルケホイスコーレの公開学習会に参加

・11/10,子を産み育てながら性別移行して、生き延びるための止まり木を自ら作った方の話を聴く

・11/12,性的少数者として養育をするための陳情を作成。仲間に内容を点検してもらう

・週末は親しい人の誕生日が続く。ピクニックを提案されている。数ある遊びの中で誰かと眠りを共有することとピクニックすることが最も私の心を豊かにする

・来月頭の文フリ東京の原稿が間に合っていない

もうさみしくはない海へ(2024年9月近況)

伊東(宇佐美)

宇佐美2

昼の熱海

早朝の熱海

 


www.youtube.com


2012年冬、山戸結希*1『あの娘が海辺で踊ってる』(上記予告動画必見)と出会って以降、ロケ地である熱海に十年以上通い続けてきた。ここは色々な人と過ごした(あるいは誰とも過ごさなかった)記憶が穏やかに埋葬された土地でもある。しかし決してあらゆる過去は美化されず忘却もされずすべてが粛々と更新されていく。その奇妙な感覚を伴いながら懐かしい砂浜を軽やかに踏みしめていた。

もう会えない、忘れがたい誰かとの強烈な昼や夜、そして微睡む朝があったとしてその人で満杯にはならない海の深さが好きだ。圧倒的に強い海。いつ訪れてもそのままでそこにあり、裸足から接続しようとするわたしを飲み込んでくれる。しかし今年は初めてその海岸を左手に残して熱海銀座に向かった。「ピンクショー実演中」と書かれた桃色のネオンに照らされたストリップ劇場。祝いの席として、新調したばかりで度の合っている眼鏡の縁を掴んでやさしく外した踊り子さんが黒いレースで私の目を覆う。そうして演目の中にいざなってくれたのだが、視力が悪すぎたばっかりにまばゆい肌色の光としか認識できなかったのが悔やまれた。その上で親愛なるスト客たちが写真撮影の機会を作ってくれたのである。それで情緒がしばらくおかしくなってしまった。(ありがとうございました)

 

熱海にくるといつも口ずさみたくなるのは杉崎恒夫の「さみしくて見にきたひとの気持ちなど海はしつこく尋ねはしない」という歌だったけれど、もうさみしさの残り香はなくなっていて、「止まりたいところで止まるオルゴールそんなさよなら言えたらいいのに」という歌のほうがしっくり来るなあ、なんてことを考えていた。さよならと泣けてくる日は以前よりも多いが、その中心は誰ひとりいない空洞ではなくて何層にも重なったフルーツケーキのように厚くて爽やかでまろやかである。

熱海に来る前には谷中の温泉に浸かっていて、一緒に生死の危機を乗り切ったと表現しても差し支えない女の子が「同居人を看取ったら一緒に暮らさない?」と提案してくれた。生き延びる前提の未来の約束ができるくらいに出世(出生)したんだね私たちと地味に感動してしまったくらい、さみしさからは遠ざかっている。そして熱海から戻った翌日はすっかり空気が透き通って秋になっていて、それは大変清々しい朝だった。

 


www.youtube.com

あの娘が海辺で踊ってる』楽曲担当した富山優子さんのライブ動画。当時、一度か二度生演奏を聴きに行った。この曲(の「ああそうだ今わたし泣きたかったんだ」から始めるサビ)が特に好きだったことを思い出した。今になって聞き返すと「一緒にいればため息さえも祈りとなって空へと昇る」という歌詞もいい。

 

 

(おまけ)この夏と誕生日周辺に考えたこと

・相模原障害者施設殺傷事件の追悼イベントに参加したことをきっかけに重度訪問介護事業所(副業)に再登録した。脳損傷者に関する活動と(重度)障害者地域自立生活運動についてはずっとやり続ける予定。

・誰がそこにいようと、とにかく私生活ではタンクトップ(キャミソール)を着まくった。ブラなし乳首 in Japanはまだ難しい。

・この添い寝まんがにボロボロと泣いたが、まだ作者へのファンレターを出せていない。

今日、オアシスで眠る - ふらみんこ / 【コミックDAYS読み切り】今日、オアシスで眠る | コミックDAYS (comic-days.com)

・半年ぶりに帰省して親の写真をたくさん撮った。彼らを失う時に備えて、もっと友達を巻き込まいといけないと誓った。親戚同士での語りではきっと当たり障りない表面的なものになってしまうから。父の口から地元で起きた七十年くらい前の殺人事件が語られた。悲愴が液化して溢れ出ていく人の狂っていく様を、愚かに暴れていく様をどうしても私は憎めないが、それの受け皿にされてしまう生贄たちのサイクルを断ち切りたいとも思う。

・最近考える人間関係について

ー期待の生じる愛着関係には緊張と弛緩(ハンターハンターの流々舞)を求めていて、常に何かを提示しないと奪う/奪われる関係でもあることを自覚しあって決闘を申し込むべきと思っている。なので愛を囁きつつ対峙する気なんてない人のことを軽蔑するまでのルーティンはできれば避けたい。

ー長い間、緊張状態に対峙してくれた人には深い感謝が芽生えており、相手の望み通り最期までそばにいることを決意した。彼は「でもあなたは薄情なので、私が死んだらすぐに新しい人を見つけて不自由なく暮らすだろう」と言い切っていた。「ええ?そんなことないよ」と返したけど、案外そうなのかもしれない。

ー同時に「あなたの肌に決して触れません」「あなたの肌に死ぬまで触れ続けます」が理想形という自覚がある。私の価値の中で「触れる/触れられなくなる」関係は常に緊張していて、関係に変容をもたらすものであり、粘膜接触(刺激)はさらに事態をややこしくさせるもの。身体接触は時に愉快だが奪うどころでなく再生が厳しいほどの破壊力も伴うもの。踊りに仕立てれば案外うまくいくのかもしれないが。

ー時折、布団に丸まる猫的な存在が現れて、この生に全くの緊張感を必要としない緩まりをもたらす。でもそれは非現実の世界。始まりと終わりのある生活をしたい場合にはその生暖かさの中を永遠に漂うことはできない。「それでも、あなたは今日も元気に生きていますか?」
ー人生にときに有益な贈り物をくれて、生活上の利害関係が発生しているが、流れに身を任せているような関係の相手のことを(それだけでは/その出会い方になってしまったなら)愛せない。血縁者や職場などの特定の関係性がそれに相当する。

ー結局のところ親しい関係の誰にも看取ってもらおうとは思っていないために生存記録をSNSに垂れ流している。(元カノには死後FB管理依頼・口座暗証番号伝言済)

ー30代の恩人に「意義の人生」と改めて指摘してもらったが、恐らくこのままハンドルを握り締め続けるのだろう。個の喜びだけ追求してよかった唯一の時期は元カノと過ごした12歳から18歳の6年間。そして一度閉じられた世界から私に「他者」の輪郭をくれたのは、意義の人生を導いて決定付けたのは、添い寝フレンドだった人。とはいえ、私は狡くて醜い凡人なので、瞬間的な快楽だけは自分に許している。
ーこまめに会っている相手(週1程度)に対して、なんで一緒に暮さないの?!となる件。これは言い換えると「有事にかけつけて出来ることをしたい」「死に目に会いたい(百歩譲って会えなくても葬儀の知らせは受け取りたい)」「変化を日々記憶させてほしい」「あなたの愛する親密な人(メタモア)の力にもなりたい」「あなたの体の代わりになれます」という強欲/表明のこと。厳密には同居ではなくてよく、近所で会える状態/環境を指す。お互いにとって心地の良い適切な頻度や関わり方について発明することが非暴力な妥協点であり、それがベストな状態とは頭ではわかっているのだが…。

奔人が婚約者と一緒にうちを訪ねてきて、酒瓶を渡してすぐさま立ち去っていった

・「病むこともあって大失敗するあなたのことが好きです」って一番うれしいラブレター。これからもたぶんずっと愚かです。

おしりのにきび(2024年8月閉館に寄せて)

あの日、裸になったことで伴った痛みをこれからの人生にどう落とし込むか、あるいはどう忘却するのかって一人ひとりの選択だから、そんな経験を持つひと全員に「今すぐにストリップを観てほしい。癒やされるかもしれない」だなんて絶対に言えない。けれど、ドキュメンタリ『ノーナレ 裸に泣く』*1のように、劇場で目に映る裸があまりに自分ごとになってしまってはらはらと涙をこぼすサバイバーは多い。

 

今月、埼玉県栗橋にあるストリップ劇場が閉館する。2泊3日のスケジュールを組んだ私は退勤して半蔵門線南栗橋行きに乗り、21時にストリップ客(*以下スト客)仲間と合流した。牛蛙の唸るような低音が響く夜、女と女のロマンスを語りながら田んぼ道を歩く。

 

半世紀の歴史に幕を下ろす「日本最北端」のストリップ劇場 「エアコンひとつ移すだけで……」関係者が初めて明かす「閉館の理由」 | デイリー新潮 (dailyshincho.jp)

 

裸(の女)が好きだという共通の一点だけで成り立つよく会う名前も知らない関係性。そんなコミュニティで地元客と思われる男の人たち同士が演目の合間に親の介護事情を語ったり、「明日俺の誕生日なんだよねえ、俺の誕生日ぃ…」などとおしゃべりしている。職場ではたぶん大泣きなんてしない彼らが、踊り子に人生の記憶を照らして、客席では喜々して泣いている。隣に座ったスト客が「ゆるやかな看取りって感じですね。みんなどこか別れに慣れていて温かい」と呟いていて、これはひとつの終活でもあるのだと気づく。

休止や引退を宣言した踊り子の裸の舞いを眺めていると、音楽が皮膚に染み付くようにあるいは貫くように入り込んできて、自分の身体が今を必死に記憶しようとしているのがわかる。芸歴三十年以上の踊り子の飛び散る汗に合わせて、私の頬を伝って涙がぼたぼたと落ちる。こんなに涙って重たかった?至近距離である最前列の「かぶり席」では客同士の距離も近い。感極まっていると、目があった客も顔を赤らめて泣き始めた……。人生でもっとも拍手と手拍子をした日。今も少しだけじんじんと熱い。

 

「ポラロイドショー」は、個人が踊り子とコミュニケーションを取れる時間でもある。踊り子さんにとって(私の性自認がどうであれ)女にみえる客と関わるのは負担かも知れないし、目を合わせてもらうだけで緊張するしで、原則そのシステムは利用していないが今回だけは違った。もうしばらく会えなくなるかもしれない踊り子の列に並んで、スト客として生まれて初めて台帳に自分の名前を書いて、私宛のポラロイドを受け取った。美しい半裸で美しいキャベツ(?)を持った彼女が笑みを浮かべてくれている。これを書いている今もうるっときてしまう。惚れた側にしか流せない涙がある。いつだって、その人のことが理屈抜きに好きだと気づくのは「もう会えなくなる(かもしれない)」ことがわかってからだ。

 

「あ~おしりににきびできちゃったんだよね」「ひさしぶり〜」「私のからだを忘れないでね」という踊り子と客のやり取りを目にする。生きている限り、からだは毎日変わっていく。だから劇場で会えなくなれば必ず忘れてしまうでしょう。客たちは脳内あるいは写真や筆で残した一部の記憶を頼りにこの先を生きていくのだろうか?

同時に、変わりゆく自分のからだのことはどうやって思い出せる?誰かに覚えてもらえるの?という問いが私たちに跳ね返ってくる。十年ずっと裸を見せる関係の相手がいて、その人と関係が続いているのは私のからだを(酔いや色恋やファンタジーを絡めずに)観察して記憶してくれているからなのだろうと気づかされる。おしりのにきびなんて日常茶飯事で、私の不定期のハゲもすぐに発見されてしまう。脱毛の意味もなく生えてくる尻毛を頼んで抜いてもらうこともある。逆に相手のつながりそうな眉毛を抜こうとしてもあまり喜ばれない。二十代という貴重な時間をいただいたと思っているが、今ではお互い毛穴が目立つようになり、脂肪もつき、逆にあばら骨が浮いたりしている。「年取ったねぇ」「寝起きの息臭いから歯を磨いてきたら」と小突き合う。この夏の陽射しに耐えきれず荒れた肌の治療薬の副作用で顔が粉を吹いた結果、目元に乾燥皺ができて驚いてもいる。老いてゆく自分のからだを前にして、かつてそこに確かにあった若さといつのまにか距離ができている。

安易に価値判断しようとする人と接点を持つ必要はなく、私は一番わたしのからだに関心を持っていたい。そしてできることなら、そこに証人がいてほしい。

 

最近、奔放な女が「裸の付き合いしませんか」と皆で風呂に入ることを提案してくるのだがそれは思いの外よい経験だった。身体接触は条件でなく言語交流も野暮だから不要で、そこにあなたの/わたしの裸があることを確認し合える時間がゆらりとある。華やかな舞台の上でなくても、湯気の中に哀しみも寂しさも怒りも喜びも融けていって、個人が生きてきた歴史が裸の数だけあって…。

 

ストリップは、対価の発生する労働(商売)であり当然脚色もあることだからすべてを鵜呑みにしてはいけないけれど、劇場で私たちはたくさんのことを教わる。踊り子から人の魅力は年齢的な若さのみに集約されないことを皆が教わる。剥き出しの踊りの作用で私たちも血の通う熱い身体を持っていることを教わる。死ぬまでの間、一人ひとりに老いていく裸との付き合い方があることを教えてもらう。自分の裸が好きでも好きでなくても、誇りに思っていても思っていなくても、確かにここに存在している(していいのだ)という説得力が股を開く瞬間にはある。

 

長年愛されてきた劇場の閉館前に立ち会えたこと、ぎゅうぎゅうの中で新参者の私に席を譲ってくださったこと、素晴らしい鑑賞経験を与えてくださったことに心から感謝している。連日の暑さの中で送迎も事務対応もこなすスタッフの皆さん、熱中症対策をしながら共に同じ日を過ごしたスト客の皆さん、南海トラフ地震臨時情報の影響等もあり来れなかったけれど私たちを見守り共鳴してくれた皆さん、たくさんの人の記憶を継承し創造してきた踊り子の皆さん、本当にありがとうございました。

 

(余談)私的「惚れる」の分類

 

◯からだに惚れる

筋肉の付き方と使い方、傷跡・老いを晒す意志、こう在りたいという体のイメージがある(整形や筋トレ、ケアに反映されている)、哀しみを引き受けている、病んだことがありそこから生き延びてきた事実とそれに伴う強度がある、いろいろな性別を感じる


◯特定のエピソードで惚れる

人格者、謎が多すぎる、愉快で奔放な魂、元カノと似ている、本当にしんどい時に希望を与えてくれた、劇場で性教育をやってくれる、暴力的なほどに愛おしい色彩感覚がある、B'zになっていたり鶴になっていたりタキシード仮面になっている、世の理のような女である


◯踊り子として惚れる

性的な自分も愛していて色気がある(何歳になっても現役である姿を想像できる)、強い自己理解と自己愛、キャラが立っている、耳が良くて身体と音楽がカチッとはまる、とにかく選曲が良い、動静に緩急があって代謝が良すぎる(踊りながらめちゃくちゃ汗をかく)、あっぴろげに股を開ける、陽気に性器を見せつけてくれる


www.youtube.com


www.youtube.com


www.youtube.com


www.youtube.com


www.youtube.com


www.youtube.com


www.youtube.com


www.youtube.com


www.youtube.com


www.youtube.com

 

 

*1:2018年10月放送

https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2018092179SA000/?

NHKオンデマンドの会員登録をすれば100円ほどで観れる

「わたしのものじゃない」と返品されたそれを再びその体にしまうこと

「いらない」と気づいて、差し出されたものを返そうとしたとき、ある人は不機嫌になったし、ある人は悲しそうな目をしたし、ある人は断固として拒否したし、ある人は対価としての親密さを求め、ある人は「それでも受け取ってほしい」と笑いながら力ずくで私の胸の奥にそれを押し込めた。するとうまく呼吸ができなくなった。所有するのは苦しいのだといくら伝えても返品を拒否される。おぞましさが体中を駆け巡り、相手への憎しみと自身への無力感が内側から速さを伴って生成されるのがわかった。

 

「これが詐欺だとしても幸せだから騙し続けてほしい」と言われたとき、私はわたしがあなたになにを渡してしまっているのかわからなくなった。でもあなたは絶対にそれを私に返品したくないという。それならば、渡したはずがないものをずっと持っているあなたのそばにいようと思った。愛犬を看取るような心地で。

コロナ禍では、接触できる人が限られたので家とホテルを行き来していた。閉鎖的な空間の中で「それはわたしのものだ」と伝えたそれはすり替えられて「あなたのもの」になって、世間はそれを美しく消費するので、覆われて曖昧にされた怒りでその舞台のすべての眩い光を消してしまいたかった。

様々なものからの離別を決意して、戸籍には抗えなくても住民票は一度リセットしようと思い、大事な(だった)人間関係を手放して海外に飛び出した。知らない土地でわたしは一人だったけれど、時々日本から潤沢な感情を与えてくれる友達やスト客たちに深く深く感謝した。

 

 

『青野くんに触りたいから死にたい』の最新刊はあまりに見事だった。愛という名の暴力が境界線を踏み躙り、関係するものたちの輪郭を失わせることのその先が描かれていたからだ。「いらないものを渡された時にいらないと返せる関係」と「返品されたものを見つめて自分の身体に戻せる関係」が成り立つとき、はじめてそれを非暴力な関係と呼べるのではないか、ということを思った。


「押し付けないようにしよう(暴力的なコミュニケーションはやめよう)」は道徳的で理性的で正しいのだけど、そうはいかないことばかりだ。ナマモノであるからには常に変化を伴うし、パワーが対等であることは基本的にない。気づかずに汚物を浴びせている時があり、権力差が見えにくい時、なおさら強い側にいるわたし(たち)は見落としてばかりいる。しかし反転して弱い立場のものからの叫びを受け止めるときは強くあれないといけない。あるべきなのだ。そうでなければ、私たちは都合の良い弱さに縋るように身を隠し自分を見失っていつのまにか事尽きていくのだから。

 

十年前に陶酔能力が必要な恋愛関係を人生から取っ払って契約結婚をしたのは、攻防力が近い同士でなければ非暴力的なパートナーシップは築けないと悟ったからだが、今はもっと誰かと生きる(または生きざるを得ない)ことの複雑さを理解しているつもりだ。加齢疾病や予期せぬ不運で人は急に弱くなり強くなるし、強がる必要も出てきたりする。誰のことも恋しくはないけど、ロマンスそのものは少しだけ恋しい。

『青野くんに触りたいから死にたい』を読むたびに、目の前の人に触れることができた歓びを思い出し、わたしとあなたの境界線について語り続け、欲望やエロティックなものに翻弄されながら、真剣に生きなければならないと奮い立たされる。「恥ずかしい」を見透かされるのが怖いから、怒り狂ったり、そんなものないと否認したり、愚かなふりをする人たちがこんなにもたくさんいる。それでも「与えられた惨めさ、孤独、恥ずかしさは返品していい。(相手が固く扉を閉じて拒絶したとしても)返品することができる」ということを教えてもらったのは初めてかもしれない。復讐ではなくて返品する。それは、わたし(たち)の復権の鍵かもしれない。

 

であるなら、幽霊となって、自ら選択することも与えることもできなくて、もらうばかりの、愛する人の命を奪うことでしか存在できない「青野くん」は果たして「いらない」という言葉を告げることができるのだろうか。すべてを捧げようとしてくれる底なしの愛を、きみに包み返すことはできるのだろうか。

 

「いらないもの」ではなく「ほしかったもの」を返品しなくてはいけないときもある。元々それはあなたに必要なものだから。しかし、返そうとしたときに原型をとどめていないこともある。それを再びその身体に戻すためにはどれほどの激痛が生じるのだろう。「あなたといると自分の輪郭がはっきりする気がする」と言われるたびに、私はわたしが渡したいものがちゃんと届いた手応えを感じるものの、それは時に静けさとさみしさと、生々しい痛みを伴うものだったかもしれない。

 

学生時代のアルバイトを含めると働き続けて15年ほどになる。就職活動の時期に、定年退職後学生として編入してきた偉そうな人(本当に偉い人だったようだが今となっては詳細はわからない)から偉そうな助言をもらったことを思い出している。それは「あなたみたいな若い人はわざわざ誰かの不幸と関わる仕事なんてしなくていい。明るい仕事を選んだほうがいいよ」というものだった。そのときはピンとこなかったが、今、亡くなる人や病める人に囲まれて、老いの不安を抱える人が増えてきて、自分が生贄になることで家庭という装置を維持しているたくさんのこどもたち(ただし彼らは決して個として弱いものでは決してない)と出会うことになって、「こういうことだったのかな」と考えている。何かを守ろうと必死で、罪悪感の行場がなくて、恥と向き合えないから、暴れて、過剰で、執着の中でもがく人のことを馬鹿にはできなくなった頃、永い苦しみの中からユーモラスな発想がたびたび現れる頃、だれかの激しさに特段驚かなくなる頃、ようやく対人援助職というものが面白くなってくる。

アルモドバルの映画を観て人間讃歌に感動した気になっていたけれど、今のほうが人間の弱さも無力さも愚かさも、どんどん愛おしくなっている。同時にちゃんと、あなた(たち)のことを許せないと思っている。思えている。そして私もあなた(たち)に許されることはないとわかっている。喪の時間が過ぎて、呼吸が浅くなくなって、穏やかに朝を迎えられるからこそ、明確にわかることがある。「わたしのものじゃない(あなたのものですよ)」と伝えたときに「ああ、そうなの」と受け止めて、自分の体にそれを静かにしまえる人たちのおかげで、許せ(され)ないままで生きる私を許せている。

 

奪ったのに「与えた」だなんて、勘違いも甚だしい。裁きへの欲望から距離を取りながら、どんな形であれ、生き延びてしまったからには生きないといけない。

 

今晩は対人援助職だった人に殺された十九名の方々を追悼しながら過ごす予定だ。


www.youtube.com

 


www.youtube.com

帰国に関する簡易報告

半年間ブログを更新できていなかったので、帰国に関する簡易報告を書きました。

https://kmnym.hatenadiary.com/entry/2024/04/16/085009

 

今更ですが、昨年十月にデンマーク滞在中に出演したラジオの情報です。

 

📻あいだの生き方ラジオ

https://open.spotify.com/episode/37MYNGONnZYW6XCgqCp62J

🗒文字起こしver.(森本さん、しのさん協力)※誰がアクセスしたかわかるようになっています。

https://drive.google.com/drive/folders/1h9vZ5b6GSIce_-P0flE_4HHY09lgPFC3

 

それでは、来月の文学フリマ東京でお会いしましょう!