人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

ノンバイナリーを生きる裸

―私の右上腕には、大きな火傷跡がある。

―私の大陰唇は、黒くてぷっくり膨れていて可愛い。

―私の肌は、アトピー治療のステロイド剤と共に生きてきた。

―私の眉は、いつも思うように描けない。

―私の胸は、子どもの頃から何度も見知らぬ人に鷲掴みにされ、19歳の時には暴言の受け皿になった。私の胸は、好きなスポーツをするたびに揺れて邪魔で、亡き祖母のように垂れ始めていく。

―私の胸は、明確に同意した関係の中で、新宿駅前や京都の交差点で愉快に揉まれることがある。私の胸は、「あなたに触れていると自分の身体も好きになる」と告げられる時の接続地となり、あなたの身体を移ろう。私の胸は、下着屋のお姉さんにやさしく触られるたびに少しだけ汗ばむ。私の胸は、肉体の規格に合う形のブラジャーに包み込まれると、過去の痛みなど気にも留めず単なる身体の一部として内側におさまっていく。すると、ようやく、この身体は私だけのものであると信じることができる。


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ある日突然(必然)に、私はスト客になった

劇場で遭遇する踊り子の裸が「裸になるって、哀しいことではないよ」と雄弁に語りかける時、強張りが解けた。脱衣する動きをこの目で追いかけ、開脚された股の中に丸ごと招かれる時、自身の輪郭を内側から発見できた。ストリップは、解放というものの意味やその方法を思い出させてくれるのだろう。

 

男女二元論から成り立つ社会構造はいつも窮屈で手強いものだが、それらを攪乱するような可能性さえもストリップに感じている。

―裸の女性と性器を欲望する女性*1の存在が、異性愛規範を揺らがすこと

―今年2月に訪れた道後温泉で、踊り子に憧れて裸になった男性の股があまりに美しかったこと(きっとご本人が思っている以上に、開かれる瞬間が燦めいていて美しかった)

―今年3月阿佐ヶ谷で観たゲイストリップで、男に愛される/男を愛す男のプライドと共に「男性の裸を嫌悪する男性には出せない解放感」が炸裂していたこと

―普段の劇場で、中高年男性(にみえる人)たちがあまりに可愛い生き物になっていること(蕩けるような目をして踊り子を信じられないほど幸せそうに見つめ、彼らが内側に宿していた奔放な女が解放されていくようにも見えること)

などの背景がある。

同時に、ノンバイナリーが嫌悪されることなく*2、あっけらかんと脱衣して裸になれる踊り場を探し求めたいとも切望するようになった。話し合いを重ねた特定の相手と過ごす布団の中ではなく、もっと開かれた場所でただ存在したいと思った。シスジェンダー/バイナリージェンダーが前提の社会では、自分や他人を男/女どちらかに割り振る癖を持つ人があまりに多い。例えば「私はトランスジェンダーである」「私はノンバイナリーである」とカミングアウトした(せざるを得ない現状がある)としても、裸になった瞬間に、その人の身体を「○○さんの身体」とみなせず、既知のイメージや価値に囚われて、女・男の身体(あるいはトランスジェンダーの身体)という枠にはめてしまう人があまりに多い。それは「私(あなた)の身体は私(あなた)のものである」という言葉がいかに空虚であるかと打ちのめされる瞬間でもあり、人によっては屈辱的で恐怖の伴う記憶として刻まれる。バイナリーを生きない自分の裸を誰かに差し出せる場があまりに少ないし、底の果てまで悲しい。しかし損失した出会いの数を指折りかぞえることに慣れたくもない。

 

ノンバイナリーが裸になれる場があることを既に私は知っていた。11年前、添い寝フレンドだったKさんが、バイナリーな社会規範を強くしずかに拒んで生きていた人だったからである。Kさんの家ではバイナリーな目線が介在しなかったため、いつでも安心して裸になれた。そしてその布団の中には性的欲望の回路も存在していなかった。私は添い寝によって生還した。四肢を組み替える苦痛を引き受ける覚悟を決めて、他者の身体を頂いて、なんとか継ぎ接ぎして、奔流の中を生き延びた。一回性の閃きの中に永続性を感じるストリップと添い寝の経験は私の中では地続きだ。生傷の絶えない真っ裸の野良猫のような私をKさんは部屋を開けっ放しにして招いてくれた。だからこの先は、私があなた(たち)をこの部屋に招く番なのである。

 

奔裸舞

そこで、2023年4月30日ノンバイナリーによる裸ショー「奔裸舞(ぽんらぶ)」を(無謀ながらにも)企画し出演することにした。誰かの身体を男か女か、本物か偽物か、価値があるかないかと品定めしたがる目線にNOを突きつける機会を作りたかったからだ。男性/女性という枠組みに馴染め(ま)ない人間が、男性/女性かジャッジされない場所で奔放に裸になれたらという願いを込めた。

 

❏概要

・ノンバイナリー自認の方であればどなたでも出演可

・今回の裸ショーはストリップではない。ダンスでもなくて良い。裸になって何らかの表現をすること

・完全セルフプロデュース(完成度や経験は不問。股さえ開けば何やってもOK)

・観客は出演者の知人友人のみで、完全招待制(観客はノンバイナリーでなくてもOK)

 

❏グラウンドルール
 ・演者の撮影は禁止(演者が許可した場面や相手を除く)
 ・見る人と見られる人は合意の関係とみなし、出入り自由(奔放な人の人生は予測不可能なので遅刻早退ドタキャン大歓迎!) 
 ・場の構成員に対する暴言や身体接触の禁止

・本人とコミュニケーションせずに、性別、セクシュアリティ、国籍、年齢、障害や疾病の有無、職業の有無、使用言語などを決めつけないようにしてください

・演者に対して、性別をジャッジするような発言をしないことを前提とした場作りへの協力をお願いします

 

上記案内の上、私を含む3名の演者と10名ほどの観客が貸し切り会場に集った。

 

*1回目は、だいらさんの演目。もともと演劇・インプロビゼーションの経験がある方で、見つめられ差し出す身体をすでに持っている人だった。3分ほどの短い曲の中に、演技(物語)・踊り・脱衣・動物の物真似・全力疾走・脇と股の開放がすべて詰め込まれていることもすごいし、尊敬という感情しか浮かばなかった。そしてひたすら可愛くて愉快なのである。人を泣かせることよりも笑わせることのほうが難しいと思うからこそ、みんなを明るい気持ちにさせることのできる術、その経験の豊かさに圧倒された。

 

*2回目は、きのコさんの演目。きのコさんは最初から全裸。元々何も着ていなかったみたいに野生の裸だった(笑)。ノンバイナリー/ジェンダークィアとしてのスピーチ(自身の身体のひとつひとつのパーツを抱きしめて愛撫するような素晴らしい内容だった)を行った後、今回の企画に添う選曲を熱唱。もともときのコさんと私は10年ほどの縁があり、ポリアモラスな人生を歩んでいるという共通点の中で、遠すぎず近からず穏やかに人生が交錯していた。昔カラオケに同席したことがあるのだが、数年ぶりにきのコさんの歌声を聴いたら様々な過去を思い出し、今日までを肯定されるような不思議な感覚を得た。

 

*最後は私の演目。2人は5分ほどだったのに、15分も使ってしまった(すみません)。

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今回、付き合いの長い親密な人(なんと元カノが来てくれた)や奔放な女だけでなく、信頼するストリップ客にもこの場に居てほしかった*3。ストリップを心から愛する人に、目撃者になってもらい(拙い表現も批判的に見てもらいつつ)拡張された布団で初めて裸になる私の証人になってほしかった。2名のスト客が駆けつけてくれた。ラブである(何度でも言う、ラブである)。

 

音源は以下を選んだ。

1.のうぜんかつら(リプライズ)/安藤裕子

2.爽健美茶のラップ/chelmico

3.のうぜんかつら/安藤裕子

 

本当はアップテンポな2曲目で、ダンスやパフォーマンスには慣れていないが筋トレには慣れている自分の身体を活かせるボクササイズをやる予定だった*4。そして、これまでに出会った多彩な性器との遭遇を表現したかったし、恋愛や性欲から距離のあるAスペクトラムな身体接触について再現したかったのだが……緊張(?)のあまり、すべて成し遂げられずに終わった。着替えに精一杯で、音楽が私を追い越してしまう。難しかった。めちゃくちゃ裸になったのに、股は半開きで、開脚のタイミングもぐだぐだになってしまった……。音楽と共にあり、拍手喝采を浴び、客の顔をほころばせ、自由と快楽をもたらす踊り子の凄まじさよ!普段の劇場で、極上のものを味わわせてもらっていることに改めて感謝の意を抱いた。

 

*「のうぜんかつら」は、10年ほど前に添い寝アーティストを名乗っていた時に作った映像のBGMで、必ず使おうと決めていた。私の輪郭を「撫でて」くれた人のたくさんの手を思い出して、自分の身体に触れた。


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撫でて 優しく のうぜんかつらの唄のように

あなた何を見てたの? ソーダ水越しでは あなたが揺れちゃって あたしは迷っちゃって いつか一人になって 二人の時間も泡みたいになって あなたの匂いを一人捜していた

 

*「爽健美茶のラップ」は、踊り子・黒井ひとみさんが小倉でポラロイドショーのBGMにしていたのを聞いて好きになり、直観的に選んだ。普段から音楽鑑賞の際には歌詞を無視しがちなので、この曲が「眠りから目覚める」ことを歌っているのだとわかった時は、物語としてのつながりにびっくりした。


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ハトムギ 玄米 月見草 ドクダミ ハブ茶 ナンバンキビ いろんなことが あるけれど 私は 今日も 生きていく

あーーーーどっからが生活なんだっけ 寝て起きてまた寝て起きて ねえ起きてる?わたしの脳内 まだ覚めない たいしたことしてない 遠いとこ行く勇気もない 

 

力不足すぎてやりたい表現は出来なかったけど、バイナリーな線を引こうとせずに私たちの裸を見守ってくれた観客の存在によってこの場が成り立っていた。男性性暴力サバイバーが主催するグループに共に参加したことのある二名に撮影をお願いできたことも本当によかった。場を共に創造してくれた皆さんがいてくれたからこそ、結果とても満足しているし、いつかリベンジできたらという思いもじわじわと生まれている。一人、演目後ずっと涙が止まらなくなった女性がいて、さみしさについて語ってくれたのが印象的だった。

ー誰のことも所有することはできない。ずっと一人で、ずっとさみしい。しかし分け与えてもらったあなた(たち)の一部を所有しているので、ちっともさみしくない、そういう身体を私は生きている。

それをこの肉体を使ってもっと伝えられるようになりたい。

 

ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。大好き、奔LOVEです♥

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以下、一人反省会(随時加筆)

 

*冒頭のノンバイナリースピーチでは、4月19日神戸初演・倉田めばさん*5のハレンチパフォーマンスの演出を一部拝借した。自身の身体に宿してみると、めばさんがあまりにすぐれたアーティストであることを身をもって理解して、自分のおこがましさを恥じた。雲の上の存在すぎる。love…❤

*最近、相思相愛の人がいるのだが、その人との身体接触でひどく傷ついたエピソードをスピーチで語る予定だった。その文脈の元で脱ごうと決めていたのにすっかり抜け落ちてしまって、演目を終えて一呼吸ついた後に皆さんに聞いてもらった。興奮気味の愚痴になっちゃって、ごめんなさい。繰り返しになるが、常に布団の中では闘いが繰り広げられ、生傷が絶えない。でも、出会い直せる瞬間を決して諦めたくないと思う。

*私のノンバイナリーの感覚は、もともと備わっていた部分があれど、添い寝フレンドだった人がそれを根幹に持つ人だったから(それを受け継いだ)という部分も大きいのかもしれない、と新しい布団で裸を差し出してみて気付いた。

ドラァグメイクをして裸になるか直前まで悩んだのだが…まだ素顔で裸になるには早すぎたかもしれない。どんな顔で他者(自室の布団に招いた人とは違って、親密さはバラバラであり、お互いの身体には距離があり、しかも相手は脱いでいない)を見つめれば良いか困惑してしまった。観客との適切な距離を探るために、自身をやわらかな部分を守りながら爆発させるために、装飾(メイク)の力を借りる方法もあった。その先にすっぴん/素顔になるという段階があっても良かったかも。素顔の自分は好きだけど。

*振付がてんでだめ。わからない。 「あなたの視線を支配する/拒絶する」という抵抗の経験はあっても「あなたの視線を振り付ける」という創造の経験がこれまで皆無だったのかもしれない!個人的な性行為の際、自身の身体を女(記号)だとジャッジされた途端につまらなくなるので、それに抵抗するために境界線を揺らして共に踊ろうよと誘ってきた部分が少なからずある。これまで一方的に「鑑賞」されて「評価」されるような身体接触が生じた時、権力関係/非対称な関係の再生産をしてどうするの?とボイコットの態度を示していた。しかし、本当の意味で相手を行為主体にするためには、視線を拒まず、私は「振り付け」に挑まなければならなかったのでは?

*持参した衣類が多すぎたし、置き方がぐちゃぐちゃで汚かった。なにより配色を気にすべきだった。黄金町でロードムービーを作った経験がまったく生きていない。祭壇風の赤いマットは購入して大正解だったと思う。

*足をピン!とのばしたときにグラスを割ってしまった。きのコさんの靴を汚してしまってごめんなさい。スピーチと脱衣ショーの間でも、音楽の切り替え操作がうまくできなかった。この時、流れがプツンと切れてしまって台無しだった。

*ショーの後、深夜から朝までTwitterの奔スペースを行った。大阪の奔放な女が「奔(ぽん)」という名付けの面白さや「奔」と名乗られた場の磁場の強さを指摘してくれた。この言葉の元に人が集うことの創造性を共有できた気がしてすっごく嬉しかった。

*遅れて来てくれた方がいたのだが、自身のショーの途中で対応できず。演目中、鍵が閉まっていて入れず。帰宅させてしまうことになり、非常に申し訳なかった。次回からは演者以外の協力スタッフを募らないといけない。

*創造とは真逆の行為になるなら裸になる必然性ってない。私は、裸になったからこそ私自身の名前を読んでほしい。また、名付けとは、既存の型(マジョリティに都合の良い型)にはめるものではなく共に生み出すものであってほしい(そして名付けられたものはいつでもそれを破り捨て、新しく名乗り直せることが望ましい)。名前を知らないものとの出会い。名付けを保留にしたままで愛でる道。未知との遭遇には変化はつきもので、ただしく出会ってしまったら、大きな波に攫われて共に変わらざるを得ない。隠し通せないし、これまでの生き方がズレていく。それ以上に面白いことってある?

*三匹の野生の裸という客席からのコメントが最高。ショー後の時間でポケモンを流すアイディアも最高(ショーの前は、ダブルラリアットを流せて最高)。

*自身のスピーチで「私は私の身体を愛している」と言ってしまったのは明らかな言葉の選択ミスだった…。愛しているという言葉は使いたくなかったけど自分の内側の臨場感に負けちゃった。次は改める。

*断髪式は二次会で行って良かった。裸ショーとセットだときっとキャパオーバーしていたから。浅草橋にて、奔(ぽん)な人たちにザクザク切られて幸せすぎた。ありがとうございました。翌日美容師にバリカンをしてもらった(しかし、禿げているのでおしゃれ坊主にならなかった…笑)。

*演出をちゃんと考えていなかったことが駄目すぎる。冒頭は、枕を持参し、ブラジャーに囲まれ、この絵のように眠っているシーンからが良かったかも。アルダナーリーシュヴァラについても、胸と股の魂を剥がして野生の裸になる瞬間をいつにするか、もっと練るべきだった。f:id:kmnymgknunh:20230504021428j:image

 

 

 

最後に宣伝

・5/21㈰文フリ東京「イルミナ」様ブースにて、30年の人生を記録したzine『添い寝と生還』を委託販売させてもらえることになりました。

・「イルミナ」最新号に、エッセイ『裸になることは哀しみではないのだ』を寄稿しました。

💌ストリップと社会と私を考えるZINE『イルミナ』

💌東京流通センター第二展示場「く-03」

会場に名刺を置いておくので購入してくれた方はご連絡ください。

よろしくお願いします。
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*1:あるいはシスヘテロ男性を生きていない人

*2:「あなたの存在は、バイナリーな生き方をしてきた私を不安にさせる」と距離を取られたことがこれまで何度かあった。過去にも下記のブログを書いている。文中引用の英文エッセイは、二年前、高井ゆと里さんが紹介されていたものである。”そこで私が考えるのは男女どちらかに当てはまらないクィアやノンバイナリーたちが日々直面している性愛について、いつになったら順番が回ってくるのかということだ。このエッセイ(As non-binary people, do we really want legal recognition? (thepinknews.com))に出会って強く励まされもした。ノンバイナリーは存在そのものが現在の社会秩序を脅かすものであり、その事実を引き受けて生きているとある。ノンバイナリーの政治はこれまでのクィア理論や運動の積み重ねを生かすことができるはず…”

*3:私のこれまでをよく知る親密な人に「感動したよ~!」と言われてしまって完結するのを絶対に避けたかった

*4:蹴られたい性癖を持つ男性陣への感謝を込めて

*5:このセミナーでご一緒させていただいた