人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

だれのことも許さないまま、だれの体温も忘れないまま


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定期的に訪ねてくれる友人らの助けによって、先週あたりからひとりでも眠れるようになってきて、なんというか大丈夫だという感覚が充足してるのと「ああ、そうだ、もともと私は自律して生きていける生き物だった」と気付いている。逆説的だけど、「自律した生き物だからこそこまめに手厚く人に助けてもらえる」のだ。それは求めるという行為の範囲が概ね明確で(自分に必要なものの質量を理解していて)相互贈与のバランスが取れる間柄であれば持続可能なケア関係が成り立つからに他ならない

逆に自律的であれない時に人は他者を駒のように乱暴に扱ってしまう(不幸とはそういう性質を孕む)。次々と新しい手が差し伸べられることはあるにせよ、愛したかったはずの他者は離れていくし、いつもその喪失にさえ気付けない。しかし他者を乱暴に消費し攻撃してしまう人の多くは本当は悪者でなくて誰かの生贄だった人であり、犠牲と名付けるしかない逆流の時を必死にもがいている誇り高き生存者だ。ただ彼らが生み出す迷路から離れる決意をする人の選択は尊重されるべきである。何故かというとどんな理由や背景があれ暴力を受け続けて良い人はいないからである

だれのことも許せない未来があって良いと思う。そして故意にその領地に足を踏み入れることはできないが、自分と同じ低さまで降りてきてしまったあなたをただ見つめ抱きしめることしかできない朝があって良いと思う

かつてそこにあったその苦しみは私だけのものだから同じ高さに降りてほしいとは決して願わない(到底無理であるしなにより愛する人にはあの救いようのない苦しみを与えたくはない)。しかし、偶然伝播してしまって私の代わりに流れたその涙については記憶から消えてはくれないし、それは夜道を照らしてくれる眩い光となり、我が海を潤す活路となり、生きる助けになっている。本当にありがとって、清々しい気持ちでひとり布団に撫でられる。眠りに誘われて、夢の中でならやっとこの身体で泣けるのだ、今宵もポケモンゲームミュージックを聴きながら