人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

三度目の一人暮らし

同居人がスノボ旅に出ていて春までかえってこない。そこで私が今どんな生活を送っているかというと、順調としか言いようがない。気を遣わず好きなだけ音楽を聴けるというのがまず最高だ。ここ数カ月、リビングでも風呂場でも寝床でもジャズピアノやタンゴを流していたが、おとといから突然tofubeatsのターンに切り替わった。朝が来るまで終わることのないダンスを、名曲よね。冷蔵庫を綺麗に使っていることを褒められ、食材を無駄なく使いきり、自炊が捗り、水回りも定期消毒、ほぼ毎日布団も干せて、床に一切の物が散っていない。筋トレも続いている。誰の影響も受けず自己管理下に生活があるこという効力感*1。悠々自適だ。同居人が自分が原因でコロナに罹患しやしないか不安にならずに済むのも良い。不測の事態がなく、健康なうちは、約束された自由がある*2

とはいっても常に一人ではなく、昨年同様に親密な不思議な縁の人たちが遊びにきて泊まってくれる。一週間のうち一日は誰かいる、あるいは私が泊まりに行っている。添い寝フレンドだった人と年明け連絡を取る。会えるのが楽しみだということをお互い認識しあえたのなら、もう翌朝に床で冷たくなっていたっていいと半分本気で思う、それくらいの。あなたが生きているという実感がありさえすれば、今日も自分が積み重ねた生活空間で、自分のために眠ることができる。

 

さみしい、という気持ちをほとんど抱かない。ただし「生活を共にする他者」という恒常的な刺激があってこそ、別居である親密な相手との関係性が安定することにも気付く。日常的に誰かに会えない(気さくな身体接触ができない)と、時々会える他者が強烈な刺激として感受されてしまうからだろう*3。そういう意味では同居人の存在は大きい。契約結婚も8年目に突入するが、荒れやすい私の肌にあう化粧水のような存在なのかもしれない。絶対この人でなくては、みたいな関係性ではないけど、代替え可能だろうけど(よくそういう話はする)日常の一部のような腐れ縁であることを否定できなくなってきた。

今週、奔放なおんな達と賑やかな夜を過ごしたら、十年前に悲しい別れ方をした恋人が夢に出てきた。夢の中で、彼が地元で家庭を持って今幸せであることをちゃんと祝うことができた。目覚めたら、抱きしめたときの感覚が残っていて、恩恵だと思った。年明け食卓を囲んだ親しい人を呼びたい夜があったんだけど、おんな達に向かってレクイエムを唄ったら(聴いてもらえたら)、迷いも強い気持ちも吹っ飛んでしまった。全然生きていけるじゃん、私は私じゃん、という魂の復活祭。「ああ~!わかる!」があまりに重たくて、その船の沈み方が心地よくて、信じられないくらい慰められる夜だった。海中を漂って、迷わず還っていける気がしたのだ。おんな達と過ごす空間のお陰で、不要なものが何かが明確になる。ありがとう。

*1:同居生活は他者からの影響がありすぎて管理できないからこそ面白いのだが

*2:明日ワクチン三回目接種でちょっと心細いので近所の友達にいざとなったら看病依頼をした。最小の結婚的

*3:強烈な刺激に対応するのは飢えの感覚であって健康的ではない