人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

一つの統合

※性暴力に関する表記があります。安全と思える場所とタイミングかご判断いただいた上でお読みください。

 

性暴力コミュニティでのゲストスピーカーの依頼を頂いた。当事者活動をする方やメディア関係者で構成されているクローズドな場所と聞いた。知人も何人か参加しているという情報を受けて、躊躇する気持ちがまず生じた。というのも、私はこれまで知人(友人や性的関係を持つような相手を含む)に対して自分の被害についての具体的な表現を避けてきた。たくさん嫌な目に遭ってきたからである。救いたがる人、守りたがる人、叱ろうとする人、本当の被害者かどうか見定めようとする人、比較する人、急に親切になる人、共鳴する人。サバイバーであることその一点だけで、私の人格や私の人生の容量が埋まってしまうような、そんな見方をされてたまるかという思いもずっとあった(だからこそ私の中にはたくさんの生き方や皮膚そして記憶が眠っているのかもしれない)。けれどもその一点が今の自分を構成してきた大きな要素であることに異論も過言もない。

 

仕事もあれば、家庭もある。親密な人との交流もあれば、3日おきにアニソンに合わせてボクササイズに励む。コロナ禍のおかげで風呂に入れるし自炊ばかりしている。バレエやオペラ鑑賞の他に演劇や能楽にも関心を抱いてきた。そんな日々の中で自身がサバイバーであることをゆらりと忘れている。想起することー今でも被害内容を具体的に語り、そこから何を感じ、何をしてきたかを伝えることへの焦点化に抵抗はある。同時にもう十年経ったので、そろそろ色々なものを統合してもいいのかもしれないとも思う。自分からは出来なかったことだけど、他者が場を用意してくださるのであれば、その機会に身を任せてもいいのかもしれない。良く知らない人たちに、私のバラバラに見えた生き方を折りたたみ形にする場に立ち会ってもらう。それもひとつのご縁かもしれない。

 

ちょうど宮地尚子の本を読み進めているタイミングでもあった。今、ハーマンを読み返したらどんなことを感じるだろうか。あの本を贈ってくれた人がいて、自分の代わりに涙を流してくれた人がいて、光の差し込む朝があった。年明けに添い寝フレンドだった人から「また会えるのを楽しみにしてる」と連絡をもらえて、その文面を見つめると傷ひとつないやわらかな音楽になった気持ちになって涙があふれる。精神科入院病棟の代わりになった家がありそこで出会った女の子と9年後同じ布団で眠る。助かったのだ、と過去のわたしに向かって囁く。振り返ってあなたの影の中に隠れる。淋しさも不甲斐なさも憤りさえも、眠る身体たちはしずかに抱きしめてくれる。

始まったばかりの30代、どう生きられるかを改めて考える時間を作っていきたい。