人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

複数ある親愛関係の運用についての私見(リレーションシップ・アナーキー/ポリアモリーという言葉では括りきれない何かについて)

恋愛をやめて7年ほどが経つ。それはつまり『恋愛(≒相手からの要望であり提案)を引き受けるのをやめること』『「恋愛感情」「恋愛関係」に依拠しない、非恋愛的な親愛関係を模索すること』を実践して7年ほどが経つということだ*1

以下は恋愛をやめる直前に書いた記事である。

独占しない関係について - blog.922(移転しました ) (hatenablog.com)

今と異なる部分もあるにせよ、《「相手の幸福のすべて=自分との関わり合い」では決してないはずで、自分が贈ることのできない類の豊かさがある》という感覚は健在である。

これを読むと、相手から「告白(恋愛感情があるという表明+付き合あおうという提案)」をされ、恋愛関係を引き受けていた頃の私はオープンリレーションシップという型がしっくり来ていたらしいことがわかる。しかし今は苦手になってしまった。それは何故かというと、「パートナー」等と名付けた関係を核とする「既存関係が崩れない範囲でなら、外で好きにやって良いよ」という契約の特権性を実感してきたからだ。相当器用でない限り、親密性を内外で線引きし「核」とみなされない関係を下位(≠劣位)だと感じさせる構造が生まれてしまう。その順列化(差別化)を肯定できるならばオープンリレーションシップという形式が良いし、難しければ別の形を模索するしかないと考えるようになった*2

 

恋愛関係や婚姻関係が優位で、友人はそれ以上親密になることは許可されないどころか、不正義な侵入者として非難される。そういう規範によって、「踏み込めば親密になれたかもしれないだれか」との可能性は自然消滅していくことがよくあった。私の生きてきた歴史の中にはたくさんの供養の感情が眠っている。

恋愛やめても人間関係は変わらず濃厚だったし、色々あった。総括としてはポリアモリーやリレーションシップ・アナーキーという対人関係の在り方に親和性を感じることも多かった。それでも、他の当事者の語りや文献通りには括れない葛藤があり、複雑で難解な機微があった。自分と他者との間に問いを立て続けることでしか導けなかったその先もあった。名付けたがらない、既存の型にはめようとしない、耳障りの良い言葉に回収されない、そういった相互交流をいかに泥まみれの祝祭にするかが他者関係の醍醐味だと思っている。

いずれにしても、相手の譲れないものを理解してそこを踏み荒らさないこと、誤って踏んでしまったら相手に許してもらえなくても自らを変える努力をすること、お互いが自由であり続けるために鮮度を保つということが重要だ。しかし「親愛なる人の親愛なる人たち*3」との関係性は、いつも難しかった。共感や好意を期待せず、同僚や親戚付き合いみたいな当たり障りのない距離感で付き合えると良かったのかもしれない。(恋愛的なニュアンスではなく広義の意味での)両想いであれば、一対一の関係は独創的になり得るかもしれないが、二者関係を超える複数の人間関係が絡んだ時に、社会的な枠組みや誰かの物差しがその広がろうとする可能性と意思を制約してしまうことがある。

その他、理解に悩ましかったのは、ポリアモリー等の言葉を借りて、自分や他者と真正面から闘うことを避け、欲望や利害を誤魔化しながら誰かの存在を消費する行為である。信頼する知人が「ポリーな関係は、やはり一番美味しい思いをする人が、他の立場の人が受ける不利益を認識して、積極的に人間関係の調整をする能力と意思がないと難しい」と言っていたが、何度も声に出して読みたい日本語と思った*4

「あなたは同居人をパートナー(夫)として紹介するときもあるけど、その他の親密な相手を序列化してない感じがする*5」と複数の人から言われることがある。自分が望ましいと思う運用が独りよがりになっていないことを確認でき安堵する。大好きな人の存在を隠すようなことはしたくないし、逆のことをされたくない。そういう構造を作る側にまわりたくない。まっぴらごめんである。他の人は違うかもしれないが(当然違くて良いのだが)私にとっては美しくない。こんなにも社会が窮屈なのに、私的関係で同じ不自由を再現そして再生産する必要があるのだろうか?と立ちすくんでしまう。私的領域くらい、美しいと思えるものを守りたい*6。そして、自分の中にあるこの頑なさについては、これまでの被差別経験が強く影響しているということを最近自覚したのだった。

サバイバーでありクィアでもある個人として、「社会で忘却され、隠され、存在しないものとして扱われる」事への傷が根深いために、その抵抗として後天的に非独占的でオープンな人間関係を選択している可能性。隠し事はできないわけではないけれど(仕事では必要に応じて笑顔で嘘もつける)、それを選び続けられないのは自分の外傷経験に起因するようだ。自分で自分を折り曲げることを許したら生きていけないからなのだろう*7。そういう傷って可愛すぎやしないか。軌道修正できなくて自分の魂守るしかなくて、それはもうLOVEという感じ。

 

 

最後に、もしこの先新たな親愛関係(メタモア関係を含む)を持つとしたら、どんな条件があると良いか言語化しておきたい。自己紹介としても役立つかもしれない。これまで失敗したことが沢山ありすぎて自分への戒めのようだが…。

 

・関係性の名前も身体接触も会う頻度の取り決めも必須ではないこと(変化を愛し、お互いにとっての適した形を創作できると良い)

・複数に開かれた親密関係を女2男1みたいに性別で括らないこと(他者の属性を見た目や性器で判断しないこと)

・性的コミュニケーションに固執しないこと(第三者やメタモアなる人に対する行為の詳細開示は、納得できる理由がない限りしたくない)(自分から他人に対して性的欲求を恒常的に抱かない性質だが、相手から強く交渉されたらセックスではない何かを提供することがあるし巻き込まれて愉快に踊ることはある)

・性暴力の話を茶化さないこと(相手のために沈黙を選べること、二次加害的な発言について自己点検できること*8

・異性愛規範や恋愛幻想、他者所有の欲望から脱出する勇気と自由があること(嫉妬や独占欲を理由に相手の自由を制限しないこと)

・相手が大事にしているコミュニティを壊さないこと(周囲に過度な気を遣わせたり主催企画に呼びにくい/来づらい状況をなるべく作りたくない)

・名付けた関係/公認関係がある場合には適度に紹介しあえること(相手の都合や負担を考えたら、必ずしも仲良くなれなくて良い。詳細をオープンにできなくても良い。ただ人間関係があること、存在自体を隠すのは論外)

 

現時点で思いつくのはこれくらいだが、この先増えるかもしれないし、減っていくかもしれない。その時はまた追記します。

それではまた!

 

後日談:入院手術にあたって、家族以外の友人らにケア役割や手術同意等を依頼することがありました。

kmnym.hatenadiary.jp

 

 

 

*1:恋愛やめて生殖やめてボクシング始めたら超健康になった - blog.922(移転しました ) (hatenablog.com)

*2:「心の中では全員を対等に愛してる」という主張は、その人にとってはそれが真実であっても実際の社会生活の中では詭弁だろう。名前のある関係とそうでない関係が併存する場合において、後者は法的保障又は社会的承認を得にくいし、トラブルが生じた際に不利な立場に置かれやすい。各々がどう生きたいかが重要であり、ポリ/モノ/浮気/不倫を善悪や道徳で裁く必要は無いが、マネジメントできなくなった時のリスクを引き受けつつ関係性を育めるか(=共にいることへの責任)という視点は必要だろう

*3:メタモアと呼ぶこともある

*4:「美味しい思いをする人」という表現がとても良い。美味しい思いをする人=関係者間で一番不利な立場になりにくい人がキーパーソンである。立場や環境の差はあるし、当然思慕には揺らぎがあるので多方向へコミットする熱量が平等にはなることはないにせよ、公平感覚・相手への敬意・マネジメント力でそれを補えれば複数の開かれた関係は安定する。逆にそこで不平等感が改善されなければ、立場の弱い側が皺寄せを受けるし、我慢を強いられながら、親密性に飼い慣らされてしまう

*5:何故そんなに彼を大事にしているのと聞かれることがある。私の提案した契約結婚に巻き込まれてくれたことへの謝意と、彼の欲望に忠実な生き方が好ましいのと、単純に存在が猫みたいで可愛いという側面が大きい

*6:私的とされる親密圏にこそ権力は潜んでいるので、飛び道具を活用しながらそのパワーゲームから撤退しようとする過程を好む。そこを慎重かつ大胆に愉しんでくれる人か、逆にそんなの知らんと開き直るような理解のない人とは自己中心的な自由人同士で上手くやれる傾向がある

*7:去る者追わず、やがてひとり眠れて - 人生、添い寝にあり! (hatenadiary.jp)

*8:まわりには性暴力告発を経験する友人知人が何人もいるのだが、私に対して「被害が本当にあったのかわからないし」と冷笑する人がいて、正直参っている。情報の信頼性を待ちたい、という姿勢は誠実な態度であるとは思うが、それを公言して良い文脈・状況かどうかを判断してほしいと思うし、それが出来ない人とは距離を置くようにしている。中立的になれるはずがないだろう。また、「性暴力反対」と外面は良いけど、家庭内やパートナー間の暴力には甘いことを批判的に指摘することがある。私自身も加害的な振る舞いをした経験があるからこそ、一緒に非暴力を目指そうと提案する。それを真摯に受け止めてくれる人でないと上手くやるのは大変厳しい