雨の日の盆踊り、夢のなかで

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十代の頃、雨の日が好きな理由に「路上に現れる変質者も、雨の日は家に籠もりたいだろうから(遭遇せずに済む)」というものがあった。実際そういう統計があるかは知らんけど、雨の粒がアスファルトを打ち付けるたび、得体のしれない大きな何かに守られたような気がしていた。

真夜中を雨が支配する。少し窓を開けて雨音を部屋に招いて、Michael NymanのAll Imperfect things(すべて不完全なるもの)を聴く。水中に飛び込んで這い上がるまでの、清らかで涼しい音の並びに身を委ねる。

連日夜遅くから試験勉強を始めるものだから今晩は流石に眠くてたまらない。そして愛する友人らが試験当日に送迎を申し出てくれたの本当にうれしい。恵みの雨のよう。やったー落ちたら来年も頼めるかな、なんてふざけたことを思う。

ということで今年のお盆は引きこもっている。会いましょう、という心躍るいくつかのお誘いを延期してしまってすみません。ゴールデンカムイの全話無料公開キャンペーンも試験後までお預けにしてます。

 

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今月に入って二つのトランスジェンダー/ノンバイナリーの物語に出会えたよろこびをここに残しておく。心の澱みが拭えてあかるい光が差し込んでその反動で涙が流れたことも。

 

一つはこちら。

『女の体をゆるすまで』(著者インタビュー:「つらくても真実の方がいい」セクハラ経験を描く漫画作者に聞く“誹謗中傷と戦う理由”  / 「愛する誰かがいなきゃ救われないなんて、そんな残酷な話がありますか」 セクハラ事件からジェンダーの揺らぎに向き合う漫画『女の体をゆるすまで』
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この物語を読んで、「女たち」という枕詞があるコミュニティへの馴染めなさ、ある種の飛び込めなさ、を感じていた理由の一つは、シスジェンダーの女性サバイバーに対して、自分自身が当事者とは言い切れないally(※)としての連帯感を抱いていたからかも知れないなと腑に落ちた。『女への(性)暴力をやめろ』という叫びを当然支持する。ただ、女性とされる人たちは同類とみなして私を抱きしめようとするのだが、私の身体はそこにはないんだよね。だから透明になる日もあったし、嘘をついているような罪悪感も感じてきた。野良サバの歴史は長いのだ。

登場する漫画編集者のチル林さんは、ally(女の身体を割り当てられたことに違和はないが、著者のペス山さんに寄り添い共に闘う)の鏡みたいですごかった。こういう人がこの世とあの世を接続してくれるから、アーティストは勇敢にその点をくぐり抜けて開かれた土地を創り、掬い上げた魂を生者のもとに還せるのだろう。

バイブと添い寝するという謎の番外編も最高だったな。ノンバイナリー/トランスを生きる体で自慰を探求することの意義、私にとっては自分の身体を自分のために調理するというか、旬の野菜を生まれてはじめて味わうようなよろこびを感じる。

 

※allyについて(参考)

アメリ・ラモン(Amélie Lamont)が始めたオープンソースのガイドGuide to Allyship 

 

もう一つはこちら。

「尼寺から追い出された山姥の詩」

冒頭からしてすごく良い。

「子ども」とは未来の象徴とされている。人間の存在意義が、必ず死に絶える「個」ではなく「種の保存」へと還元されるこの社会において、障害のない異性愛者たちの適切な仕方での生殖/再生産こそが正しい未来を延長する手段であり、「子ども」は未来の象徴なのである。

しかし、そうした象徴としての「子ども」から除外されるクィアな子供、有色の子供、障害のある子供たちは、始めから未来を期待されず、常におぞましい他者として想定される。再生産の失敗や死と結びつけられるクィアな人々は、異性愛中心主義社会の中では「子ども」が象徴する未来を脅かす存在なのだ。

だからこそ、クィアな子供たちは、どこに向かって育っていけばいいのか、自分たちの未来はあるのか、と苦悩する。

(中略)

女性とされる存在たちと類縁的な苦しみを持つ者として、抑圧の根源に共に抗うことが出来たらどんなに良いだろう。しかし、わたしはそんな「女」という意味からも程遠い場所に立ち尽くしている。

「私が生きられる身体の終着点」という言葉に、明確な実感が伴った。

それは何故だろうと自問自答してみる。性暴力被害の後、ノンバイナリー(と形容してしまうのがただしいかはわからないが)な友人との添い寝で命を分け与えて貰ったこと。自分がバイナリーな身体を生きてはいないこと。だから肌を寄せ合える関係が、生きられる身体を一緒に探してくれる(お互いに身体を変形しあえる)相手とのみ成り立つことに気付かされたのだった。「生きられない身体」に欲情されても抱かれても、そこに生身の私はいないから意味がないんだよね。周りの皆みたいな性欲を向けられないし、フェチズムもちんぷんかんで頓珍漢。しかしそこには劣等感も優越感もなくて、ただ単に必要なものが違うだけなのだ。性に合わない、それ以上でも以下でもない。

 

身体の意味するものがいかに変質しようと、私が何人生まれようと、交歓と混沌を惑わない旅、「女/男」という枠組みでは必ず取りこぼされる沢山の命を切り捨てない旅に安堵する。いつまで生きられるかわからんが、こういう航海もあるのだと、未来を生きる子どもたち社会から遭難しやすい子どもたちに残していきたい。目に見えるもので簡単に私を表現するなという怒りと哀しみがこの土地に染み込んでいる。同じ思想を取り込んだ身体があれば連帯できるなんて軽々しいし嘘だけど、それでも呼吸の仕方を教えてくれた人たちがいたから、終着点(と信じたい場所)を見失わないまでいられるのだと思う。

 

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人生の参考文献にしている『プシコ・ナウティカ』の著者である松嶋健の論考を引用したい。

ケアの論理では「その人が何を欲するか」ではなく、「何を必要とするか」が出発点となる。悩み苦しむ人の身体に寄り添い、より心地よい方向へと関係性や環境を調えるのが主眼となる。ケアとは「ケアする人」「される人」だけではなく、家族、関係者、薬、食べ物、道具、場所、環境などのすべてからなる共同的で協働的な作業とされる。

「それは、人間だけを行為主体と見る世界像ではなく、関係するあらゆるものに行為の力能を見出す生きた世界像につながっている」とはどういうことか?

欲望するものと、必要なもの。両者は似ているようで異なるらしい。現実を生き抜くためには後者をまずは整えないと全身が悲鳴を上げてしまうような気もしている。欲しがること/欲しがられることは生きるための血肉や血潮になるとは言え、それだけでは自分と誰かの命は守られない。その意味で、つまり自分自身をケアするために、恋愛の欲望に負けたかった私ではなく、恋愛は要らない(添い寝さえあればこの生を引き受けられる)と判断した私と何年も一緒に生きている。必要なものが何かを見誤らずに、そして欲しかったものが欲しくなかったものに変わり果てた時に、錯覚に甘んじない覚悟がほしいのだ。またやってくるであろう、生きてて良かったなと思える出会いと再会のために。

 

(◕ᴥ◕)今年も愛しくて狂おしい夏だった

(◕ᴥ◕)秋よ、はやく来てくれ

 

だめだ眠いから自慰して眠るわ。

よい夢見てくださいな!

 

(ᵔᴥᵔ)おやすみんちゅ