人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

さみしくない海、ねむらない海

 


さみしくて見にきた人の気持ちなど海はしつこく尋ねはしない(杉崎恒夫)という句を思い浮かべない海などなかったのに、今回は過去も未来も忘れて没頭するしかないあたらしい海だった。どうして出会うたびに表情が違うのか、どうしていつも静かに許してくれるのか、どうして武器を持たずに深く呼吸できるようになったのか。6月の夕暮れは少し冷えていたから、ざばん、と飛び込めなくて恐る恐る身体を水面に沈めた。ここは、山戸結希「あの娘が海辺で踊ってる」の聖地である。舞う娘は二人いて、一人とっての海は生活の為の土地であり還る場所だったが、もう一人にとっては何も尋ねはしない代わりに永遠を約束してはくれない避難所だった。私は海のない土地で生まれたが、この物語と同様に少女から情熱的な愛を捧げられる10代を過ごした。そして「あの娘」と離れてからは、行き当たりばったりの一人旅ばかりしている。

半年ぶりに関西を訪れた。白無垢嫁入りツーショットを撮ったという女性たちと再会し「ネコ&タチ」というスナックを訪れようという話になったが、コロナ禍のため常連以外は入れなかった。地元の子どもたちが待ち合わせ場所にするほど身近なネコタチは、私にとっては幻のスナックに位置づけられた。別件、大久保美紀さんがキュレーターを務めるファルマコン展の最終日イベントに参加した。大久保さんのことは、添い寝/soine論で知りもうすぐ10年が経つ。添い寝の伝承について考えながら、関西の知人から紹介された、武藤大祐さんの限界集落の芸能と現代アーティストの参加 : 滋賀県・朽木古屋六斎念仏踊りの継承プロジェクトに関する論文を読み終わる(朽木古屋六斎念仏ウェブサイトはこちら)。伝承と継承は少し意味合いが異なるものの、この論文では、民俗芸能の「継承」とは一体どのような事態をいうのか、という問いについて3点が導かれる。「芸能」「担う身体」「行う場」これらの総体が、社会的機能の根拠となる(引き継がれる状態を生み出す)ということが書かれている。生活知識としての「民俗」が、「芸能」として元々の目的から離れ、それ自体で自律性を帯びる過程(二つの相反する性格がぶつかりあい、せめぎ合う行動伝承)を民俗芸能たるものとする。続けて、とあるパフォーマンスを「儀礼」(効力を目的)とも「上演」(娯楽を目的)とも呼べる点にも注目する…。ありがたいことに、私にとっての添い寝が「効力/娯楽」「生活(民俗)/芸能」それぞれの側面をどうせめぎ合うものか、その追求が必要だと示された気がした。

時間は有限だからお墓の前で急がないといけない。なのに仮初めの生を肯定し力を与え合うような眠りの中で息継ぎをしている。お気楽な心地で、進路どうしましょう、どこで暮らしましょうと悩んでいる。時を止めてしまえればと願う海辺にて。

 


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