物語を持ち込まずに愛するということ(2020年振り返り)

昨年は怒涛の一年だったので、リマインドを。  

旅先で「なんで私に」と思うほどの業が深い昔話や体験を聞くことがある。あれは呪いの分け前なんだと思う。自分一人で背負うには余りに大きいものを遠い世界から来た者に話して楽になる。「話す」は「離す」。

こんなつぶやきが流れてくるとき、人様の秘密を預かることの多い人生だったかもしれないと振り返る。つまるところ、誰かにとっての私はいつも遠い他者であることが多いのだ。関係性の継続を約束させない存在、場面が次々と切り替わる映画のような存在、分け与えた呪いに大きな物語を見い出さない存在として*1

 

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年末年始に幾原邦彦輪るピングドラム*2を鑑賞した。奇しくも感染症による分断の危機が蔓延する時代にこの作品に出会えたことを心から感謝した。それは私自身、貪欲に与えられたい/貪欲に与えたいと思える他者がいなければ希望を欠くような時代が到来したと感じていて、身近な人間関係を見直す契機*3となったからでもある。 

Amo: Volo ut sis. 『輪るピングドラム』を見て - 衒学四重奏 (hatenablog.com)

鑑賞の動機は、ハンナ・アーレントの言葉「愛するとは、汝が存在することを我が意志するということである」について調べている中で、上記の論考を発掘したこと。鑑賞後「愛とは、何者でもない、何者にもなれない、誰からも選ばれない、あなたが存在していることそれ自体」という感情が沸き上がってきて、これまで多くの人から受け取った歓待の感触を思い出した*4

 

非人間は非人間だからこそ自分から最も奪われた尊厳とは何かを知っている。非人間となったからこそ知った尊厳がある。その尊厳を相手に提供することが非人間にできる人間的行為なのだ。非人間であることはそれ自体において否定的であるからこそ、人間的行為は必然になり、目的になる。

このつぶやきを読んで泣けてしまう夜があった。奪われたものを取り返しにいく試み及びそのプロセス*5とは、人間として生きていきたい者が選んだ再生の物語である。私たちは誰から命じられるでもなく、奪われたものと対峙できる戦場を探し、目的のために闘い続ける。私の場合は「身体接触」と真正面から対峙できるようになったことで物語は完結した。だからこそ、この先はそれを伝承/贈与して生きていきたい。生まれてしまったからには、接触そのものを、生存そのものをよろこびあいたい。*6

輪るピングドラムは、そのような経験―不完全な者同士で命を分かち合った経験を思い出させてくれる物語だ。誰かを延命させるために捨て身の覚悟をした者(私はそれを自己犠牲とは呼びたくないが)にはかならず返礼品がある、その循環がピングドラムだったと解釈したい。不思議なもので、贈り物は宛先不明で未来の誰かに与えられ、忘れた頃に他の誰かが与えてくれる。唯一無二の関係性は得られなくても、巡り巡って「愛する」は廻っていくし、それが生存戦略になり得ることを示唆する*7。そして『運命を乗り換えようとする意志』と『予め定められた運命への信仰』について、それぞれに希望を見出すこと、二つの望みが捩じられながら共存する光景に既視感を覚えるのは私だけではないはずだ。苹果ちゃんが多蕗先生とキスする運命を信じた結果、別の人(晶馬くん)からキスが与えられたというエピソードがある。彼女は誰からキスを与えられたのか永遠に気づかない。それが贈与の本質であると思う。

 

また、この考察でも書かれているように、物語の核となるものに「家族の呪い(運命)」がある。たとえば血縁家族の中で生きること。それは子の立場からすれば、偶然生み落とされた他者との関係性の中で織りなす生存戦略にすぎない*8。では強い意志による選択家族であればそれを克服あるいは超越できるだろうか?否、それもまた偶然に左右されたり、意志ではどうにもならない現実があるだろう。この作品は血縁家族だけでなく、選択家族(自由意志に基づいて形成されるコミュニティ)についても限界があることを誠実に表現する。そしてその上でどう他者と生きていけるかを提案し、すべての望みは手に入らないという現実と、その戦場で生き延びた者たちへの肯定に満ちあふれた物語である。

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未見の方は是非ご鑑賞を。私もBlu-rayディスクを購入しちゃうかもしれない

 

***ここから近況報告***

私はこうしたフィクションの物語は愛せるのに、自分を主軸とした関係性の中で”意志の物語”を紡ぐことがとても苦手で、物語がどんどん肥大化して運命論に傾倒して、現実(生活)との乖離に耐えられなくなってしまうところがある。そのため恋愛や家族といった親密圏に居場所のなさを感じてきた*9。それでも地割れせずに生きていきたかったから、恋愛と距離をとることで自身への生存戦略を課したのである。結果、契約結婚はへんてこりんで愛おしい「家族」の形を生み出したし、このまま続いていくのだと思っていた。しかし昨年は予想外かつ愉快な展開があり、新たに親密な人間関係が生まれたこと、恋愛に対峙する状況が出来たので、その人たちについてここに記録しておきたい。

 

◆6月に開かれた知人の独立記念祭で出会った、旅の同行者のような人。その存在を通して、かつて与えられたもの、海の底で眠っていた宝物箱がふたたび開かれる感覚がある。鍵をなくした日の合鍵のようで、自分ひとりでは出会い直せないものたちばかりだから助けられる。恋愛に関する価値観(距離感)が似ているところがあり、説明不要な気楽さがある。ビッチを愛しているという共通点、奔放さを愛する気質も感じられることから、かけがえのない友人である。

 

◆上述の彼と共に暮らしている女性。恋愛感情/関係と共存できる人でもある。内面世界に対して驚くくらい正直で、涙がうつくしくて、不思議なほどすぐに信用することができた。地に足がついている人でもある。彼が私との関係をカミングアウトし、昨年10月に出会った。恋愛の文脈があまりに苦手であるため当初は関係性の構築に悩んでしまうこともあったが、悩みに悩んだ結果二人との関係性を切り捨てたくはないという思いに至り、恋愛が絡む人間関係を諦めずに試行錯誤していくことにした。

 

上記に加え、前々から縁が続いているかけがえのない存在のことも記しておく。

 

◆愛する女の子。出会ったときは彼女は10代の家出少女だった。男性と結婚し、春に家を買うことになったらしいのだが、「40年後、わたしがローンを払い終わったら一緒にシェアハウスやろう。一緒にババアになろう」という告白をしてくれた。いつも受け取れる範囲最大限の贈り物を与えてくれる人。年末年始もお互いの家を行き来して泊まり合い、美味しいものをたくさん作って食べた。

 

◆愛するビッチ。慈善団体で起きた性暴力に関して命懸けで闘っている人でもある。社会構造を問う運動家でもあり、好戦的な姿勢に励まされる。京都で一緒に暮らさないかとスカウトを受けている。今年転職がうまくいったら真剣に検討したいと思っている。年明けに一緒にベジャールボレロを観賞できて幸せだった。

 

◆腐れ縁。恋愛と性愛の原体験の相手。昨年は私の誕生日に彼女の子どもと初対面したのだが、この人に出会うために生まれてきたのかもしれないと心が震えたし、第二の親族ポジションを目指したくなっている。人間関係の順位や情愛の深さは測れないが、彼女だけは例外。彼女を失ったら私は気が狂うだろう。

 

◆添い寝フレンドだったKさん。性的文脈のない世界で、いつも部屋の鍵を開けて待っていてくれた人。別の場所から差し込んだ光のような接触をくれた人。干からびた私に水を与えてくれた人。この人がいなかったらもう一度何かを信じて生きていくことができなかったと思われる。昨年偶然連絡を取り合ったところ、同じ区にいることが判明。秋ごろお茶に誘われたがこわくて会うのを断ってしまった。勝手な想像だけど、普通に結婚して親になっていそう。再会の気配が薄まってしまったのだけど、今年何らかのアクションがあるかもしれない。

 

◆奔女会のみんな。一昨年の5月から定期開催されているエンパワメントグループの参加者たち。支えられています。LOVE。

 

◆夫(保留)。保留としているのは、今年元旦の契約結婚更新時に彼が不在であったため。再会のタイミングで今後の関係性の名前や契約内容を協議していく。自分の機嫌は自分で取れて、ひたすらに自身の欲望と意志のみを主張する男。彼にセクシャルな女性パートナーがさらに見つかることを願う。一切気を遣う必要がないので本気でゲームを楽しめる関係性、時には猫のようにただ存在しあえる。私からスカウトしたことから、関係性が変形していくことを前提に明確な意志を向ける相手でもある*10

 

以上、親密な人達についての記録でした。今年は感染症の影響もあり不安定な幕開けでしたが、自分にとって手放せないものは何かを問い、輪るピングドラムが思い出させてくれた贈与について考えていきたいと思います。そしてどんな人にでも、なんどでも、軽快に『LOVE(あなたの存在それ自体)』と伝えていきたい。今年もよろしくお願いします。

それではまた一年、愉快に生き延びましょう!

 

***以上、近況報告終わり***

 

 

以下ネタバレ考察注意!

しっくりずっしりきた考察引用先

・生きる目的の無い晶馬は陽毬を救い、彼女に家族を与え、林檎を分け合った。陽毬には生きる目的が出来たが、晶馬に何も与えていない事を気にしていた。その後、冠葉が家族として受け入れられ、陽毬にバンドエイドを貰い彼女に全てを捧げようと決めた。陽毬は知らないうちに冠葉と林檎を分け合っていた。何故なら彼女は彼に生きる目的を与えたから。

・冠葉が林檎を手にする事が出来たのは、彼が晶馬のように空っぽの人間じゃなく、護るべき大事な人たちを持っていたから(真砂子とまりお、彼の檻に書かれた言葉はそれを現わしている)で、彼の箱は外の世界とつながる事が出来、彼は林檎に手を伸ばす事が出来た。そして、彼と晶馬がそれを共有する事で晶馬にも目的が出来た。『陽毬のために+冠葉=高倉家での暮らし』それが晶馬がひたすら高倉家を維持し続けようとした理由。何故なら、それこそが冠葉と林檎を分け合った時に受け取った彼の存在理由だから。

・しかし、彼はいまだある種の空っぽ状態であり、それが彼の愛への欠落へと繋がるのだが、それを変える者として苹果が登場する。苹果が来た事で(その名前の通り)、彼女は晶馬の林檎として影響を与え始め、彼の林檎の一部となり彼が世界に対して閉じていた部分を満たしていった。彼は自分の中の壁を越えるまでそれを認めようとはしなかった。比喩的な林檎と苹果のキーとなる違いは、苹果は彼に目的を与えていない事で、何故なら彼はもうそれを持っていたから。彼女が与えた物は運命の鎖を断ち切る意思であり、それは彼に欠けていた物だ。

・ゆりと多蕗が愛することについて話していたが、それこそが林檎だ。愛する事は人生に意味を与える。それが無くなれば不必要となり、存在しないのも同然となる。それは死にも等しい。これが冠葉が粉々になった事、子供ブロイラーで描かれた事の説明になる。彼は自分の目的を放棄する事で見えなくなり、死んだ。それに対し晶馬は自分の林檎(愛)を持っていたが、彼は苹果の替わりに自分を犠牲にし炎に焼かれ死んだ。陽毬は呪いによって死ぬ事を決めた子羊だ。彼女を救うためにここまで長くかかったのはそのためだ。

・眞悧が言っていたように、檻は彼らの人生と社会への関わりを現わしている。”その箱は自分自身だよ”、箱は人との間の壁なんだ。冠葉と晶馬は”望まれない子供”であり、愛に飢えていた。冠葉はそれを陽毬から受け取った。それを受け取った晶馬は彼らと家族を作った。2人に分け与えられた愛は最終的に陽毬の命を救うために陽毬の元に戻っていった。(林檎に関して何を表しているのかまとめるのは難しいかもしれない。ピングドラムにおいて林檎は人生に意味を与える愛と目的の両方を暗喩している)

・彼らは彼らの檻から解放されたわけじゃなかった。ただ分け合い、飢え死にしなかっただけだ。眞悧は愛も目的も見つけられず、冠葉が晶馬にしたように手を差し伸べられもしなかった。彼は他の人達との壁となる彼の檻の中に一人きりで、世界を憎み破壊しようとしていた。”林檎は愛のために死ぬ事を選んだ人へのご褒美だよ”だから2人の少年たちは愛を選び(第1話で林檎について言っていた会話のように)彼らは自分達自身の林檎によって報われたわけだ。”始めから”スタートすることで。

この林檎がピングドラムだ。


「輪るピングドラム」のラストシーンのBGM(運命の子たち) Mawaru Penguindrum

*1:しかし年明けに、15年来の友人に重大な秘密を打ち明けられた。今回ばかりはもう旅人ではいられないと思った。親密な家族の前でさえも自分を偽らざるを得ず、異国の中を生き抜いてきた孤独を知ったら、それを共に抱えながら一緒に生きていきたいと伝える以外になかったからである。過去にたくさんのものを与えてくれた人であるからこそ、今度は私が与えられたものを返していく番が来たのだと思った

*2:東日本大震災の年に深夜アニメ枠で地上放映されていたそうで、今年で10周年とのこと

*3:いま、親密圏としての「同居家族」だけは、社会の合意の上で、生死を分かつ運命共同体とされる。しかし不急不足とは括れない同居家族と同等の親密な関係もあるなかで、手中の関係性にどう線を引くのか?親密圏をどう解釈するか?ということが一人ひとりに問われているのだろう

*4:物心ついた時から、環境には不自由なかったのに自分の居場所がないという感覚を持っていて、透明な色のカメレオンが人に擬態しするように生きていたそんな私の世界に色を与えてくれた初恋の女性のこと。上京後19歳の時に暴力被害に遭遇して、再び存在そのものが透明になってしまって、どうしたものかと八方塞がりになった時、自身の部屋を解放してくれた添い寝フレンドのこと。試行錯誤の末、私は自分の身体感覚や輪郭を取り戻せたし、性愛を愉快なものに捉え直すことができた。それらの経験に立ち会ってくれる人たちが確かにいてくれたためだ

*5:これらを総称としてビッチ活動(ビッ活)と呼びたい

*6:快楽追求を目的にした接触へのモチベーションが続かないのはこの目的のためだろう。同様に恋愛に付随する行為も私にとっては快楽という分類になってしまうため、人生に不要である

*7:既に「愛する」を分け与えられて延命した人間にとっては、物語や目的の見えない「愛してる」は空虚かつ呪いにもなりうるとわかるし、既に与えられた運命の意味が変わってしまわないよう「愛してる」を拒絶する場合もあるかもしれない

*8:親の役割を担う者は、意志を持って家族/親子/配偶者という形を維持しようとする場合もあれば、できない場合もある。すべての意志はありがた迷惑で、すべての血縁の絆はエゴであるのかもしれない。大島弓子の『夢虫・未草』では林子という少女が両親の離婚に巻き込まれるのだけど、最後に凛とした表情で一粒の涙を流す。それは、親を守るために子どもであることと決別する覚悟の涙のようにみえる。彼女の旋毛めがけて、親が唱える「自由意志(石)」が重くのしかかる。家族は生存に欠かせない呪いのようだ、しかし、かならず断ち切れる呪いでもある

*9:輪るピングドラムに登場する苹果ちゃんのように暴走をしてきた。恋愛関係を選択できる人たちは、代替え可能な役割やロマンティックな物語を自覚しつつ楽しみ、かつ現実で目の前の人間とオリジナルな関わりを築く意志を持つことが出来るらしい

*10:関係性の中に物語はないけど、意志はある。親密な他者に対しては、私が関与しない世界もあることが何より大切だし、そりゃあもう好き勝手に豊かに生きてほしい