人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

幽霊に二者択一を迫られる(2022年5月日記)

青野くんに触りたいから死にたい、という漫画のことを以前も書いた。この物語はおとぎ話の世界よりも現実の世界のほうがずっとずっと怖いという事を教えてくれる。人を愛する、人とコミュニケーションを取る、と簡単に言えてしまうけれど、その中にどれほどの暴力的な要素が入り混じるのか、生き延びるための栄養や土地が剥奪されうるのかを教えてくれる。萩尾望都『残酷な神が支配する』とつながるテーマだ。弱い立場の人間は知らずのうちに誰かの供物になっている。供物にならないためには、何も捧げないという意志が必要になるのだが、それ自体がとてつもなく苦しくて難しい。意志だけでなく構造がそれを許さないこともある。どうしても(あなたが)ほしい、助けてほしいと乞われると、揺さぶられてしまう。それが愛されたい人または自分が生き延びるために必要な条件を持つ人からであればなおさらだ。自分の時間を自分の身体を自分の心を明け渡してしまう。与えたのか、それとも奪われたのか、その主体性を問う議論はいつも途中で空中分解する。アンパンマンは顔を失ってもいつでも原状回復できるおとぎ話だが、現実はそうはいかない。失ったものは戻ってこない。そして失った地点から私たちは復権を願う。しかしその時、与えた(奪った)相手に直接「返してほしい」と直談判することができるだろうか。現実はいつもひんやりしていて無関心だ。それでも、青野くんに触りたいから死にたいと名付けられた物語はそれに果敢にチャレンジする。

 

幽霊になった青野くんは、ずっと二者択一の物語に苦しめられてきた男の子だ。生者であった頃、選ばれた側の子どもとして、選ばれなかった弟と引き裂かれてきた。「すべての親はすべての子どもを愛するものだ」が真実ではないこと、親も時に不完全な子どもであり不誠実で不器用な人間である事実に気付けたとき、選ばれなかった子どもはどこへでも行ける。坂口安吾も、太宰治を追悼する中で、親なんかいなくても(いないほうが)人は自分の生を全うできると断言した。けれど、選ばれた側の子どもはどこへ連れて行かれるのだろう?冷たい土に埋められて供物になるしかないのだろうか?*1

青野くんは供物だった子どもで、優里ちゃんは供物になりたかった子どもだった。同じくらい寂しかった。しかし優里ちゃんは幽霊となった青野くんと出会い、自身を捧げたことで、はじめて生者との接点を得ることになった。友人と呼べる存在が出来たのだ。その一人である堀江さんが生者と死者の世界は並行世界にあることを導く。優里ちゃんを中心とした皆はあの世とこの世に優劣をつけず大切な人たちを守るため、交差し合おうとする。しかしいつもトラブルに見舞われるし、青野くんは望まない自分になってしまう。かつて自分が嫌悪した、相手を供物にしようとする欲望に食われそうになるのである*2

 

「わたし」か「わたし以外」かどちらかを選んで!と相手に二者択一を迫る行為は、ドラマチックで恐ろしくてなんだかホラー映画みたいだ。この社会では、恋人とそれ以外、配偶者とそれ以外、親子とそれ以外、という風に「最も大切な人 選手権」が当然のように開かれる。お馴染みのお祭り。私はその二者択一の物語にずっと苦しめられてきた当事者である。どうしても大切な人たちがいて、それは二人以上で、業務みたいに綺麗に役割を割り切れるものでもなかったから、私は私なりにそれに抗ってきた。臨死体験としての性暴力被害があって、その先に添い寝フレンドという象徴と出会って、そこからずっと二者択一の物語に回収されないための、復権のための旅をしてきた。供物(贈与)に関することはずっと命題であった。そして踊りを望むのは、故郷のような世界、供物としての幽霊/非人間と共に存在する世界に触れたいからなのだと思う。

 

the能ドットコム:ESSAY 安田登の「能を旅する」:第3 回 能的『おくのほそ道』考

能のワキ僧にあこがれて旅をした人はたくさんいますが、もっとも有名なのは江戸時代の俳人、松尾芭蕉でしょう。

 

舞踊家が能楽師に聞く能の本質:能とはあらゆる人を癒すもの|まゆかかく|note

何かを見せているというより、回って次元を変えているのです。天の岩戸でも、アメノコヤネノミコが祝詞を詠み、アメノウズメが踊る。巫女の神格化、最古の巫女と言われる「ウズメ」には「渦」、渦巻くという言葉が入っています。

 

今月から芸術ワークショップに参加している。テーマはロードムービーである。松尾芭蕉が能と深く関わっていたというメンバーからの語りを聴く。能舞台には目付柱、目柱、ワキ柱、笛柱、シテ柱、そして「あの世からこの世」の道がある。能におけるシテ(幽霊、土地に佇むもの)とワキ(旅人、土地にやってくるもの)のような存在について皆で考えるとき、青野くんを取り巻く交流が思い出されるのだ(そういえば、青野くんのお母さんは、能面のような顔をしている)。最新刊で、山の頂上で優里ちゃんが「青野くんと出会う前の私は、現実の世界にいたけど(プールの水面下で)死んでいた」と語る場面がある。その上で、今自分が確かに生きていることを実感し、「生きる」とは時を進めること(変化すること)なんだね、と結ぶ。芭蕉の奥の細道も、青野くんに触りたいから死にたいも、この世のものではない存在(幽霊/非人間/象徴)と出会ってしまった者が映し出す、ひとつの旅のように思える。

 

ひょっとすると、小松原織香さんが『性暴力と修復的司法』で書かれていたこととも重なるのかもしれない。能/舞いと幽霊の話を考えるとき、小松原さんが加害経験と別の時間軸で生きるまでの過程を「解体的対話」と名付けていたことが腑に落ちるのである。(※「瞬間的で魔術的な力をもつ出来事」を他の出来事と同列に扱えるようになったとき、性暴力被害者と加害者が、その二者関係から解放される、お互いの関係に必然性がなくなるということを指す)

 

 

今ここに生きている私が私の人生を解体していくこと、二者択一の物語から解放されること、それに気付かせるような象徴と出会い時を進めるための意志を持つこと、それがロードムービーの核にあるのではないか。今年は、添い寝を出発点として、ものを生み出すための一年としたい。その他近況としては手術後かなり体力が落ちてしまい通勤するにも一苦労である。今日は主治医から自分の筋組織や骨の画像を見せてもらったんだけど、紅くて白くて綺麗だった。跡が残るのは全然気にならないから再発だけを防ぎたい。松葉杖生活はそろそろ終わるだろうけど、年内まではリハビリが続いて外出の機会は減るだろうから、この不運な状況も力に変えていけたらいいなぁという感じです。

 

 

*1:残酷な神が支配する、のラストではそれが逆転した。土の中で供物となり埋葬されたのはサンドラになった

*2:その時、悪霊という意味の黒青野くんとして区別される