家庭内ストリップ

ヨレヨレのパジャマ姿で寝転がっていると「お尻が丸くなったのでは?」とちょっと意地悪な口調で指摘されたので、「あらそう?見てみてよ。」と畳の上で仁王立ちした私は、Tシャツを捲り、ズボンを下ろし、下着を剥ぎ取って裸になった。少し間が空いた後、「いい身体です。失礼しました。」と襖の外から声がした。


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この間、このZINEを愛する友人に紹介したら、「全裸になろうかな?」という返信が来た。彼女の前なら私も堂々と裸になれそうな気がして、「え?一緒に全裸になる!」と即答してしまった。

 

ページを開くと、韓国人でありゲイである作家/写真家の「僕の乳首は普通にデカい。」という自己紹介が始まる。そこから不穏な希望が輝き始める。

新型コロナウイルスで国境が閉鎖された2020年東京でクィア・カルチャーに関わっていた、国籍も様々な人の姿とインタビュー。Vol1.(Vol.2もある)では、彼の12人の素晴らしい友人が紹介される。

ドラッグ・パフォーマーの一人が「魔法少女になりたい。魔法少女になったら、ホモフォビアやトランスフォビアと戦いたい。世界のあらゆる偏見、セックスと性労働、ボディーイメージに対してね。」と語る。さらに別の一人が、SNS上で乳首を載せようとするとき性別が問われる理不尽さに怒る。他人ではなく自分の身体を鏡に映す。愉しい踊り方を導く。自由と権利を一緒に守ってくれない人とは生きられないと叫ぶ。誰にでも開かれているドラァグアートのこと。クィアでなくウィアードな空間。ノンモノガミーな実践。BLACK LIVES MATTER。人そのもの或いはマイノリティが生きてきた葛藤の歴史について学ばずに文化だけ愛するの?という批判。

生身の身体と言葉が熱を帯びている。同世代(20代後半から30代半ばの人たち)が主体となって、一人ひとり自分の声を持って表現していることに大変励まされた。そしてこのようなパワフルで親しみあるロールモデルに出会えたことで、友人と全裸になるという野望が具体性を帯びてくる。同時にド派手な女装にも挑戦したいと心躍る。

先日、自民党の議員による性的マイノリティやクィアの尊厳を否定する発言が世に流れた。種の保存(生殖)という言葉の想像力のなさ、トランスして生きる人たち*1への憎悪に呆れてしまう。何故そこに生きている当事者を見ない?肥大された恐怖やスティグマを根拠に排除しようとするの?

しかしそれは今回だけではなかったし、日常でいつも起こっていたことだ。私は女とも男とも言い切れないジェンダー/セクシュアリティをずっと生きてきた。それを尊重してもらえるとき、やっと裸になれた。共にいる空間がストリップ劇場に変わる。生き延びた身体には歴史がある。だから目の前のあなたと私を美しいと思う。規範に添えない、規格外の身体がある。プライドという言葉が電流のように全身を巡る。生き延びること、それだけ。息を潜める他の仲間を想うこと、社会に合わせて擬態してきた時間を想うこと、それをひたすら労うこと。服を脱ぎ捨てて、在りたい身体を探ること。

 

昔々、裁判沙汰になって身近な人たちをたくさん傷つけ失って、性的事柄のすべてが嫌悪対象になってしまったとき、裸になることは哀しみでしかなかった。でも今は違うと断言できる。裸になることは哀しみを超えていく。消し去るのでも踏み潰すのでもなくて、抱きしめながら超えていく。(深夜、誰もいない河原を走る。ひとりリサイタルを始める。椎名林檎と一緒に腹の底から「尊厳」と叫ぶ。おすすめです!)


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*1:トランスジェンダーとともに」あるために、男性がなすべきこと:REDDY:エッセイ (u-tokyo.ac.jp)