人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

翼をあげる(2022年6月日記)

翼をあげる

翼のある人を(羨むことはあっても)だれも妬んだりしない。 ないものを持つという想定自体かなわないから。家のない人を(羨むことはあっても)だれも妬んだりしない。帰路ある人々は建築物のない暮らしを想定していないから。持てるはずなのに何故手に入らないのだという執着めいた感情が、妬ましさを生み出す。同線上には生きていないことが明白ならばそんな回路は生まれない。翼のある人はいつも与える側であるが、自分が何を与えているかを知る由もない。翼を持っていることさえ気付かないのかもしれない。飛んでいるだけで(つまり存在しているだけで)それ自体が地上を這うしかない人々の希望になる。プラチナエンドという漫画を手に取った後、トーマの心臓を想った。翼を持つ者が翼を持たない者にその翼を与えるためには、命を捧げる(翼を自分の身体から手放す)という掟がある。トーマは愛するユーリに自らの翼を与えた。翼を捥がれた者が再生するにはそれ以外に選択肢はないと知っていたからだ。かつてわたしも誰かに翼を与えられたことがあっただろうか。BGMとしてピアソラ「天使の再生」を流してみる。

 

マゾと名付け

たくさんのマゾを飼っているというお姉さん(かつお兄さん)のつぶやきに感銘を受けたと熱弁してしまった。他者を所有することは独占することと同義だと勘違いしていたこと、私は既にたくさんの人そして身体を所有していたことに気付いたので、言葉の選択を改めることにした。添い寝フレンドだった人の身体に触れなくなって10年近く経つ。猫と猫の半同棲のような形で一緒に眠った日々の後、遠方に住んでいたこともあったが、何故か今自転車で14分の距離にその人は暮らしている。示し合わせた訳でもないし、頻繁に連絡を取り合って定期的に会う訳でもないが、あなたがわたしの生活圏内に確かに存在しているということは嬉しい。でも側にいてもいなくても、寂しいとは感じない。もう私の身体の一部で、消えることはないからだ。マゾを飼っている人はマゾたちを(おそらく言葉にできないほどの切実な密度を込めて)「道具=わたしが処分しなければずっと側にいるもの/生きていない関係」と表現していたが、私はそのような間柄を象徴と表現したいのかもしれない。お互いがいくら変化しても自明なもの、何があっても失うことがないもの。身体に刻まれたたくさんの軸があり、だからわたしは何者にでもなれるしなれない。いつも死が迫って来ることに怯えていたが、最近は肉体が消えてしまう事自体も恐怖ではなくなってきた。象徴を伝承することだけに集中すればいいとさえ思う。

道具あるいは象徴であるときに名前は要らない。もう既に所有しているからである。対照的に名付けがないと不安で不安でたまらない人に、わたしたちは名前を与える。創造主のように。惚れられた相手からの意志や誠意をみせてほしいという懇願に応えるために。7回くらい名前を与えた人がいる。これは自身の尊厳を奪われないための抵抗でもある。共になんとか生きていくための、適切な距離を探り直すための攻防戦でもある。名付けられた人は排他的で特別なものを与えられたと解釈して安堵する。実際はとんでもないすれ違いが起きているので、滑稽だし、残酷だし、でも馬鹿馬鹿しくて可愛らしい。

 

体内に招かれる

自分の股を目的地とするような挿入行為に快楽以上のものを感じない。快楽を中心とすることには意味がないというか、それを反復することに重きをおけない。私は私の股の門番のようでもある、しかしいつも鍵は開けっ放しで笑っちゃうくらい情けない。じっと待ち構える。ようやく停滞寸前の日々を打破するような、清々しい気持ちになれる身体接触がやってきた。私の初めての性経験が同級生の女の子との行為であったことが思い出される。相手が望み、私の身体が相手の内臓に入っていくこと。いつの間にかペニスの登場によってその感覚が鈍くなっていたことは世界の欠如に近しい。許可を得て、相手の内臓に招かれるということはとてもありがたいことだ。身体の造形や構造を問わず、最大限それぞれの身体を活用し、捧げ合って、交換しあえることに価値を置きたい。足を怪我してうまく股周りが動かないことも功を奏したと思う。この基本に立ち返れたことは不幸中の超幸いかもしれない。