人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

2021年夏紀行(7月17日〜19日)

私が私のためだけに旅できるようになったのはいつからだろう。慣れた土地でも特定の誰かと過ごす時間を旅のように味わえるようになったのはいつからだろう。誰にも尽くす気がない、自分にしか興味がないことを一切隠さず振る舞う人と散歩し続けた夜以降かもしれない。

誰かの指示や願いを介さずに、自分の身体と意識だけをその土地へ持っていくという感覚。それを得てからは、特段事情がない限りお土産コーナーに滞在することはなくなった。自分の旅を彩ることに金を払う。旅先で会える人との時間をふんだんに味わう。すると旅を通じて調律された私の身体自体がお土産になる。

月1、2回の外泊を設定するようにして数ヶ月が経つ。都心のビジネスホテルに泊まりその街を散歩することが多い。それが毎回とても楽しい。

 

7月17日(土)

■10時

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オリンピック関連のニュースに毎日気が滅入っている。極めつけは、感染症対策を理由に盲聾の水泳選手が介助者の同行を許可されなかったこと。重度障害者への外出・コミュニケーション支援は生きる上で欠かせない権利であるのに。また翌週、税金が投じられ公営放送されたオリンピック開会式に手話通訳が用意されていないこと(8/8訂正:用意されていたが意図的に放映されなかったこと)にもドン引きしてしまった。

昔、知人に「海外ではイベント主催者に通訳を用意してもらうのではなく、通訳者を自分で雇う場合がある。それが本当の自立。日本の障害者もそうしたらよい」と言われたことがある。一理あるかもしれないが現実を見ないようにするための、地に足がついていない発言だと感じた。この社会で障害当事者が自分でサービスをつけるPA制度は確立されていないし、通訳者の存在意義も十分認められていないし、そもそも差別偏見があり、社会的マイノリティが安全に稼げる労働環境が用意されていない中で、毎回自力で通訳者を探し雇うのは不可能に近いからだ。だからこそまずは公的機関や力を持っている側が配慮すべきであるし、社会を耕すべしだし、そこから議論の幅を広げるしかないと私は思っている(様々な人の様々な意見もぜひ聞いてみたい)。

 

■13時

演劇ワークショップに参加する。オリジナルの脚本を作ってみるという回。どうしても登場人物が非シスジェンダーの非異性愛者あるいは無性愛者ばかりになってしまう。それがわたしの生きる景色そのままだからだろう。仲間の居場所を物語の中に作り出す試みはなかなかエキサイティングだった。するとオリンピック開会式が、マイノリティや虐げられた経験を持つたくさんの人の声を排除してきたことの帰結なのだなと納得もしてしまった。当事者を制作チームに入れずその意思や痛みを問わない作品はリアリティを欠きちぐはぐになる。5年前からあるいは他国開催の時代からずっと、反対運動をし続けてくれた人たちの存在を何度も思い出して、自分はなにもわかっていなかったんだなといつも以上に猫背になった。

 

■17時

奔人(ぽんちゅ)に誘われて、新宿2丁目のイベントに参加する。子孫繁栄を祝う祭りが多い中で、生殖に抗うというか生殖機能に価値を置かない祭りがそこにはあった。抑圧された内なる欲望を自覚してそれを満たそうとする人のエネルギーを浴びて、意図せずかなりの力を貰ってしまった。ひび割れた彫刻を強引に修復させてしまうような引力。美しくないこと許せないことは変わらず私の身体と共に横たわっていて、それでも同時に深い海の底からあふれ出るような透き通ったよろこびがある。まさにレジリエンスの体験だった。

 

■19時30分

祭りを早退し日本橋へ向かう。汁無し坦々麺で腹ごしらえをする。

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■20時30分

無事チェックイン。2つのミーティングを終えて、貸し切り風呂。就寝したかったが寝付きが悪い。
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7月18日(日)

■9時15分

朝食提供時間ぎりぎりにお座敷へ。
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■11時30分

東京駅でのお見送りのため宿を出る。

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夕方の予定まで2時間ほどあるので銀座あたりをプラプラする。
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本日終了ということで、オーディオ専用ゲーム👾の展示会へ。視覚情報は一切ない、音声だけで楽しめるゲームが3種類ある。視覚障害者にも開かれた遊びの機会をというコンセプトが掲げられていたけれど、行列の中で、視覚障害のある方は一組のみ。彼らが「なんだか健常者ばかりだね。視覚障害者のコミュニティに宣伝したんかな」と話していたので、相槌を打った。ゲーム自体はめちゃくちゃ難しかった。ホラーテイストのロールプレイングは人気で順番回ってこなくて、私は空から降ってくる皿を割るゲームをした。皿は全く割れなくて、あまりの出来の悪さに、私の時だけスタッフさんがフォローする事態に。恥ずかしかった。
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愛するチョコレート屋さんも大行列。30分以上の待ち時間。諦めずに手に入れたマンゴージェラートは大変美味しかったが、映画上映に間に合わなくなった。

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■17時35分

5分遅れて『プロミシング・ヤング・ウーマン』鑑賞。

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一人のちっぽけな女が、愛する女の魂のために奔走する映画。エメラルド・フェネル監督が「世の女性は家でも職場でも恋人からも『過去に執着するな』と言われる。だからこそ『過去を忘れる気はない』と女性が宣言したらどうなるか興味があった」という動機から制作した作品。

"有望な男性"優位社会をぶっ壊す映画だった。「狂うしかなかった女」の既視感に笑い、号泣しつつ、終盤の虚しさには涙が引っ込んでしまった。私はサバイバーの声を聞きたかったからだ。サバイバーを救いたい人たちが加害者が生んだ構造に巻き込まれ酷く傷つくことを知っている。そしてその傷つきは被害当事者の受傷とは似て非なるものだとも知っている。復讐の主体は誰かという問いの中で、サバイバーの物語と出会いたかったのだと思う。魂の殺人といわれているようで報われない。しかし、名を忘れられた全て人たちへのレクイエムでもあることに異論はない。そして、物語の中でラヴァーン・コックス(トランスジェンダーを公言する女優)がネックレスを託された意味について考えてたら泣きそうになった。私は途中からニーナを自分の一部としてみていたからどうしても乗り切れない部分があったが、クィアの物語であるならば腑に落ちる感情が確かにあった。

後日鈴木みのりさんが、ストリッパー(セックスワーカー)を軽んじて消費してきた文化や創作者たちへの問題提起があったこと、そして多様な女性(白人シス女性以外)の描かれ方、Intersectionalityに触れられた論評が見当たらないことを指摘していた。またフェネル監督はLGBTクィアの性暴力被害の実態を確実に意識したはずだという語りを聴けて、丸裸のまま土に沈んでいた私が報われる気がした。

「自分都合で、何度でも出会い直しを提案する人の気持ち悪さ」についてのお話も印象的だった。なんど悔やんでも失ったものは戻らない。その現実を受け止め、失ったものを抱えて生きて行こうとする強い覚悟を軽んじる態度の傲慢さ。私の中にもあり、あなたの中にもあるものだ。ひび割れた土地まで降りて、目を合わせてもらえて、初めてやり直せるチャンスが与えられるのに。傷つけてしまった事実は変えられない(偶発的に傷が癒える可能性はあるにせよ、そのタイミングは一方的にコントロールできるはずがないのだ)。許されないままで出会い直せる道もあるけれど、それは相手からすれば苦渋の決断である。だれかを踏みにじったことを忘れてしまったら、再会の道は永久に閉ざされる。そういう意味でもあまりに完成された寓話だった。

■21時

放心状態でホテルに戻る。割り切れない鑑賞体験のせいか、なか卯の牛丼しか喉に通らないという不可解な身体になってしまう笑。
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■22時

昨晩と風呂場が入れ替わっていた。貸し切り状態を満喫。
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■2時

またもや眠りにつけず、自慰をしてなんとか今日を強制終了する。

 

7月19日(月)

■9時

ホテルから出社する。みんな、生き延びようねという思いを抱えて電車に揺られた。