ひとの数ゆび折る愛の世界線わたしはそこで息してないな

昨年京都で購入した塩胡椒の容器が空になって、縦にも横にも振っても何も出て来なくなってしまった。一年はあっという間に過ぎて、過ぎたが、いまだ感染症は収束しないどころか悲惨な状況がある。政治の要因が大きいだろう。コロナが流行する前に街角を歩いて署名した、[都立病院縮小反対について]。これほどにも生活に直結することだったのかと、医療の現場で奮闘している友人と連絡を取る。選挙に行く以上のことが出来ればよかったと悔やむ日々。


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今日は10時に起きて、数名のクライアントに手紙を書いて、地元の友人の結婚式の招待状の返事を書いてポストに投函した。雨天続きで溜まるに溜まった洗濯物を回して干し、すべての部屋の掃除機がけをした。霧雨の中自転車で日本橋に出掛けて、新作チョコレートを手に取って、大家さんへの贈り物を調達した。虫刺されがひどくて、かかりつけ医に相談したら、真っ赤な腕を見せられて「私も虫刺されの痕が消えないの、説得力なくてごめんね」と言いながら強めの薬を処方してくれた。人間だなと思った。

 

大家さんが玄関前まで侵入してきた茎、この夏の暑さで伸びすぎた草木を刈ってくれた。70代で大病をして生還してはじめて、女の人権について考えたという話を突然された。いろんな女が私にいろんな話をしてくれる。とてもありがたいし、同時に女が女である自分や他者を憎む必要がなくなる社会がほしいとも思う。帰り際、お手製の焼肉のタレをもらったので、夕飯は肉を焼いた。薩摩芋豆腐という謎の総菜と、大根の味噌汁とごま油をかけたサラダ菜を食べた。

資格試験の後、禁じていたゴールデンカムイを最新話まで読み終える。そして忘れていた提出物の期限が迫っていることに気付く。11月に仲間たちと江東区LGBTに関する講演を企画している。レズビアンでもある女性講師に妊娠・出産と養育について語ってもらうことになった。生殖といえば、先日添い寝フレンドだった人と子どもを欲しいと思うかについてコーヒー片手に公園でほぞぼぞと語らった。金田淳子さんと橋迫瑞穂さんのトークライブで、子どものいる人生といない人生、これを考え続けることを可能とするのがフェミニズムであるという風な話があった。「産まない」は女の権利である―それもまだ十分には浸透していないと同時に、産む可能性のある側が妊娠・出産を望むことについて(フェミニズムの文脈で)肯定的な意味づけができない社会が炙り出された。とすれば、妊娠・出産に関しては、どの選択をしても、自分を肯定しきれない構造があるのだと思う。女を分断しようとする何かがあって、その種は各々の内側にも蒔かれている。どんな生き方をしようと、誰かと暮らそうと暮らさまいと、どんな容姿体型年代だろうと、どんな恋愛性愛観を持とうと、本当はどうでもいいことなのに、大きな問題のように扱われるし、自身を卑下したり脅威と感じる存在をないものとして切り捨てることができてしまう。怪物なんていない。ただそこには個人がいるだけだと言えたら良いが、なんとか生き延びる過程があって、べったりこびり付いてひとりでは取り除けなくなった副産物がある。彼女たちにそれを捨てろというのは酷な話だとわかっている。ただ自己開示した分だけこの魂は行き場をなくして張り裂けそうになる。

 

日常や暮らしの中で生まれる様々な感情や小さな闘いこそが大事である。それを語り合うことができる人を私は友人と呼んでいるような気がする。添い寝フレンドだった人との再会で、そういうやわらかくて硬い部分、自分にとって譲れない人間関係の軸を思い出せた気がしている。今手にしている関係性もじっと見つめていきたいと思う。見なかったことにして違和感を先延ばしにしたものが、わたしを腐らせるから。新鮮な空気を吸えないならば生き返った意味がない。

 

あなたたちが、そしてわたしが、今日まで生きていることが嬉しい。先週末はピアソラ生誕100周年のコンサートに行った。帰宅してから喜多直毅のバイオリンばかり聴いている。Decarisimoは、夏の終わりのような遊び心があってさっぱりしていて甘さもあって昔から好きな曲。今週末は演劇パンフレットの編集作業を完成させる予定。そしてゆっくり温泉で休みましょう。