人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

突然の松葉杖生活2/親密性に溺れない

事故から1週間が経過した。痛みは少ないが腫れが引かないのでシャワー後にアイシングを行っている。

 

以下、近況と所感を記録しておく。

  • 外出はリュック一択になった(鞄の開け閉めが負担なので交通ICカードを首からぶら下げている)
  • 新たに都バス定期券を購入した(本当に便利)
  • 普通に働いている(えらい)
  • 身体感覚に合わせた時間軸に切り替えて逆算するのがしんどい(走って滑り込みセーフみたいな予定の立て方が出来ないし、GoogleMapの乗換案内があてにならなくなった)
  • 本当は避けたいんだけど公共機関の手すりを使用せざるを得ない(感染症対策で手袋使用)
  • 自炊が楽しい(というか食事が娯楽)ので患部に負担が少ないよう台所をカスタマイズした(重いものを持ち運びせずに済むように調整した)ぜひ美味しいものをプレゼントされたい
  • 駅前のイトーヨーカドーまで歩けないのでネットスーパーを登録、初利用した
  • 美術館に行きたいのに行けなくてとても悔しい(会期終了近い展示をいくつか観に行きたいのだけど、駅から距離があったり複数の部屋と順路を移動することを考えると気力が尽きてしまう。車椅子を押してくれる人がいないと厳しそう)
  • 舞台芸術は座りっぱなしなのでなんとかなる(上野水香東京バレエ団最後の「白鳥の湖」諦めず良かったが東京文化会館はエレベーターがないし手すりも完備してなくて、周囲に迷惑かけないよう4階中央席で3時間座り続けた私えらい)
  • 患部を使わない身体接触や性的行為を新たに開発するの楽しい(ただし慣れ親しんだ相手に限る)
  • 夜道が危険なので22時以降の外出が厳しい(坂道もあるし、最寄りバス停が稼働していないのでタクシーを活用)
  • 視覚障害を持つ方に対する性被害実態調査をよく思い出す、親切心に見せかけた申出の劣悪さ、そしてそれを断りにくく逃げられない立場を容易に想像できる*1
  • 外出先で嫌な目に遭ったから出掛けたくない、という患者さんたちの顔を何度も思い出した なんか出先でつらそうな人いたら親切にしてあげてほしいわ、その積み重ねが外出意欲というか生きるための気合いにつながるんだわ
  • やたら道端でお姉さんが「大丈夫ですか」と声掛けしてくれる LOVEすぎる、超絶幸せになってほしい
  • ケア行為は性的行為と同じで意思確認と都度の合意(依存と支配関係に敏感になること)が不可欠である
  • とはいえ毎日自家用車で送迎してくれる人がいたらどんなに助かるだろうとか弱音も吐きたくなる(笑)

 

kmnym.hatenadiary.jp

本日は、前回触れなかった「有事のパートナーシップと親密圏」について書き留めたい。

 

まず「パートナー(準ずる関係を含)であるならば、相互協力・扶助が義務である」という罠について考えている(婚姻制度はそれを民法上明記している)。他者を「自分のケアのために役立つ人間か否か」とジャッジする(※生存が関わるのでジャッジ自体は非難される行為では決してない)行為が、贈与ではなく対価という感覚やそのためのコミュニケーションを生み出す。それは金銭や公平なシステムを介在させなければ結果として能力至上主義にもつながるし、ジェンダーの歪み(女性や女の子がケア役割を押し付けられやすい等)も絡み合ってくる。それがすごく複雑で雁字搦めになりそうにもなる。

個人のケアスキルを磨くという発想は重要だが、ケースバイケースだとも思う。同居していようと、パートナー・親族だろうと、どんなに意思して努力しようと個人の能力には限界があるからだ。「重度障害者や重度認知症者の介護は、親族以外に任せても良い」という社会的合意がある程度は取れてきたものの、出産育児や重度とはいえない成人の介助については「家族が担うべき」という価値観は根強い。また下記のように、ケアが必要といっても段階によって必要なものは変わってくる*2

(例)

  • 急性期のケアー救急搬送の判断、外部との連絡調整、医療手続き(入院手術の場合は同意書や緊急連絡先のサイン)、治療費、本人と代理受傷者への情緒的支援等
  • 回復期のケアーリハビリのための環境整備(住まいや移動の代償手段確保)、一時的な生活介助(周囲が手伝いすぎると完治寛解が遅れることもある)、治療費、諸経費、情緒的支援等
  • 慢性期のケアー心身に後遺症が残った場合の恒常的な生活介護・介助(生命維持のための医療行為、排泄、食事、掃除、外出時の同行等)、治療費、諸経費、情緒的支援等

 

私は、公的支援(公的扶助や社会保障)も大事だし、類縁(職場や近所の繋がり)や親密圏の支援(親しい人との共助)も大事という価値観・立場を持っており、どうすれば両方を充実させられるか、そのバランスを取れるかについて日常で格闘してきた。しかし社会的に弱い立場となり生活の細部が揺るがされる時、心身に弱っている時は特に気楽で居られる親密圏に寄りかかりたくなるものだなあとも実感した。

そんな中で、先週参加したポリアモリーウィーク2022で、メタモア(親密な相手が親密にしている自分以外の他者)の存在が、ポリアモラスな関係を豊かにするという話がとても印象的だった。「同時複数の恋愛や性的関係」と限ると共感されにくいが、ポリアモラスな人間関係やコミュニケーションは実は多くの人が経験していることである。我が子のうち一番愛しているのは誰か?という問いが無意味というか無神経であると同様に親密な他者を順位つけることは難しい。付き合いの長い友人・親族・同僚など、同時に複数の親密関係を持つ可能性はいくらでもある。ポリー関係を共同プロジェクトとするならメタモアは同僚的存在(メタモア同士がコミットする頻度が高い)で、ある種の腐れ縁とするならメタモアは親戚的存在(メタモア同士の相性が大きくてほとんどコミットしないという選択肢もあり得る)とイメージできるかもしれない*3。話を戻すと、今回の怪我と必要なケアに対して親密な人達が抱く夫(≒彼らにとってのメタモア)への感情が様々で、とても面白かった。親しい人たちが私という個人を、そして私と夫の関係を大事にしてくれるのがわかるから賛否両論の多様な意見が本当に嬉しくて、そのメタモア愛(?)によって活力を貰えたというか、なんだか泣けてきてしまった。

 

特定の能力や技術、コネクションを持っていることを条件に親しい関係が醸成されていくわけではない。また、親密性と同居適性もまた別物だ。ある程度の能力・技術や経済力がないと共同生活や関係性が不安定になるという側面も当然ある。ただ当事者間にしかわからない均衡の保ち方があり、わりきれない情や質感もあるだろう。完璧で完全なものはないし、そしてすべてのものは変化していく。今回のような有事の際にはまったく役立たないが、他者の「鈍感さ」みたいなものに救われてきたのだということを思い出している。私が落ち込んでようと俊敏には気づかない、理解しようという発想には至らない、あるいは無理ない程度の厚意と配慮で支える―そういう態度と存在感にずっと癒やされてきた。「自他の魂の自由を守る(踏み荒らさない)」「善意や好意で他者を振り回さない」「自分への関心を他者への関心とすり替えない(自分の問題を覆うために他者を利用しない)」この3点を重んじている人かどうか、自由を愛する人であるかどうかが私にとっては最重要事項で、いつもそれを問うているのだった*4

 

今回の出来事を振り返り、自身を奮い立たせる文章に出会った。高島鈴さんの「BEASTARS」批評である。

第1回 くたばれ、本能――『BEASTARS』論(3)|くたばれ、本能。ようこそ、連帯。|高島 鈴|webちくま(1/2) (webchikuma.jp)

 

これはすなわち、愛の肯定者/愛の否定者という線引きの本質化ではないのか。前者――つまり「愛の遂行」を熱烈に志向するレゴシが革命を起こすとき、後者に分類された者たちの行く末は宙吊りにされてしまう。だが物語はそのまま幕を下ろすのだ。革命は革命である、かもしれない。だがそれはレゴシの革命であって、メロンの革命として開かれることはないのである。

最終的に浮かび上がってくるのは、別の誰かを取りこぼしたまま「気持ち」で閉じる、素朴な「愛の世界」なのである。(中略)現状の社会で重んじられているのは自己啓発的・自己責任論的な「私」の革命であって、構造を揺さぶる「公」の革命に対する関心がなりを潜めているという認識は、まず間違いない現実だろう。そして同時に「私」に閉じた状況に対する承認・許しが、強烈に求められているように見える。

(中略)状況は確かに苦しい袋小路であるが、信じるべき革命とは隣人を愛するための可能性ではなく、感情的には繋がれない隣人と、生存を守るための共同戦線をいかに張るかという実践であり、公も自己も解体してしまうような強い変化の可能性ではないか。しかし後者のような革命の語りは、残念ながら圧倒的に不足しており、また関心を持たれてすらいないような気がしてならないのである。

 

「私」に閉じた状況に対する承認・許しという箇所に正直ヒヤッとした。人生から恋愛を排他しても、他者との親密性(公的に開かれているようで、でも緊急時には閉ざされてしまう可能性が高いもの)をどうしても手放せない私がいるからだ。それは、革命や解体を恐れる保守的で気弱な自分が存在することを露呈させる。しかしこうした有事の際ほど、親密性に溺れないようにしないといけないと身を引き締めた。それは、いわゆる愛と呼ばれる親密性に依拠しない生き方をしていく人たちが社会から関心を持たれること、その上で生きていける公や自己を探っていくための強い変化を、私自身が求めているからだ。

 

あなたを助けたい、あなたに助けてもらいたいーあなたとわたしの役割が固定化されることを私は拒絶する。支配と依存の甘い誘惑を私は拒絶する。「あなたがいないとダメなの」と遭難していく関係性を私は拒絶する。支援され続ける立場って本当に苦しい。でもその立場を経験した先人たちが、その葛藤と共に生き延びている(革命している)ということに大変勇気づけられる。生殺与奪の権を他者に託したとしても魂は自由でいられるはずだ。「私」は「私」を超えて開かれていけるかもしれない。そういう生き方をしている(きた)人と数えきれないくらい出会ってきた。だからこそ、隣人愛に、そして親密性だけに寄りかからないように、片足で踏ん張ってみたい。

*1:明らかな暴力や犯罪行為でなく、悪意のない親切心であっても、逃げるという選択肢を持ちにくい状態での「好意」や相手の逃げ道を用意しない「好意」は厄介だなとも

*2:救命医療につながりさえすれば、身寄りやカネがない人間でも一応なんとかなる社会制度設計にはなっている。身体の後遺症に加えて知的機能、記憶障害や注意障害等認知機能の低下を併発した場合は相当日常生活に負荷がかかることが身を持って想像できるようになった

*3:複数の親密関係を持つことに対して合意が取れたとしても「メタモア同士仲良くしてほしい(したい)」はエゴであるという話題もあった。全員が親しいという状態を維持出来ないことは失敗でもない。感情や意向は多様だからこそ、関係者全員で悩める過程を私は愛したいなと思った。「エゴだと自覚した上でお互いがエゴをぶつけあえる関係」が望ましいと考えるが、対人スキル次第なので難しい。「メタモア同士が私抜きでも親しくなってほしい」という欲望はあるけど、あまりそれが叶った経験がない(軽い友人にはなるけど私ありきという感じ)。良い意味で非社交的というか、個の関係に集中するタイプの友人が多いのかもしれない

*4:私の意向を確認する前に先回りしてなんでもやってくれたり、変化が怖くて私の顔色を常に伺うような人、相手を慮るあまり強い自己主張ができない人とはうまくやれないことが多い