人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

「料理のコミュ障」かもしれない



新型コロナウイルスが流行してから、免疫力上げなきゃなあ…と思って栄養バランスを気にしながらの自炊が増えたが、同居人のために料理をするということは一切していない。相手もそうで、お互いが自分のためにご飯を作り美味しく出来たらつまみ食いし合うという風に日々を過ごしている。

 

私は副業で家事代行をやっている。クライアントの望む献立を作ることもあれば、献立から考えることもある。その場合、ある程度責任の発生する労働だからか、固定役割でないためか(調理担当者は随時入れ替わる)それは苦ではないし文句を言われない程度の当たり障りのない料理が出来上がる。

仕事では大丈夫なのに、これが家庭内/特定の関係内の役割になると、途端に遂行できなくなる。何故なのだろうな。「調理した側と食す側にとって美味しさを共感しうる味」を目指せねばという観念かもしれないし、理想に対する自信の無さかもしれないし、料理という一点で相手を喜ばせることにプレッシャーを感じるのかもしれない。

 

10年前かな、アーティストの静さんが「笑顔で気持ちよさそうに手作り料理を振舞う人いるでしょ。でもあれ、食べてくれる人がいて初めて成り立つものだから。」とちょっと怒っていた顔が忘れられない。つまり料理(食べ終わるまでの過程)はコミュニケーションなのだ。相手のために作り、相手のために食べるという美しい営み。相互交流であり表現。わたしはそれが本当に苦手で、そういうコミュニケーションができない。相手のために作れない。自分のために作って欲しくて、自分のために食べたい。コミュ障じゃん。

 

本当は華やかに美しく訪問者を歓待したい。これが最後になるような、とびっきりの饗宴を重ねたい。私自身が過去にそういう宴を贈られたことが何度もあるからだ。食事以外の行為では歓待の意を示す努力ができるのに、食事を振る舞うという点では、最弱のスライムである。すぐに屍になってしまう。

 

昨年の冬は、同居人がスノボ旅で4カ月弱不在だった。そこで複数の友人に寝泊まりしてもらい共同生活を送ったが、その時も”華やかに食事を振る舞う”ことはやっぱりうまく出来なくて、かろうじて負担がないのは朝食だった。早起きして楽しく準備した記憶がある。(そうなると、単にメイン料理に捧げる精神力と技術がないだけかもしれないな。)

基本的には、①相手に作ってもらったり②一緒に調理したり③外食やテイクアウトしたりした。

①一緒に台所に立つという行為は大好きだ。協力して何かをするのはとても安らぐし、楽しい。一品ずつ作ってシェアするというのも好き。

②相手に料理を作ってもらうのも大好き。嬉しくてありがたくて美味しすぎて、疲れも吹き飛ぶ。

③第三者による料理を食す行為(外食やテイクアウト)については、相手次第だ。一緒だとなんでも美味しく感じる人というのがいる。心底リラックスしているのだと思う。少しでも緊張すると気が散って仕方ない。

 

今年の冬も同居人不在になるため大好きな友人たちに泊まってもらいたい。ただ感染者が急増してからは、基本的に対面会食を控えていたからまだ厳しいかな。鍋でも囲んで肌寒い季節をなんとか乗り越えられたら嬉しいけれどもฅ^•ﻌ•^ฅ