人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

忘れるために書いているのか?(2023年1月近況)

私の性暴力被害に泣いた人たちが、他人の性暴力被害を疑って薄笑いしているのに遭遇するたびにいつも私は引き裂かされてきた。あの日の涙に助けられたのに、この腕は力を失って、抱き締め返すことができない。そこにはサバイバーとしての怒り、悲しみ、そして空洞があった。ZINEには上手く書けなかったけど、好きな人に好かれるだけでは生きられない、自分だけが満たされることを最優先できない、そんな価値の中で生きている。

 

2023年2月4日、自民党がまた性的マイノリティへの差別発言を繰り返している。

この時にも腹が立って、以下の記事を書いたけど、あれからちっとも政治は変わっているように思えない。「性」をめぐるすべてのことが、ずっと馬鹿にされ続けている。馬鹿にしていい存在であるはずがないでしょう。私たちと、私たちが生きる時間と、私たちが葛藤してきたこの身体と、どうか出会ってほしい。

 

ZINEで一区切りついたのか、数年積読だった本を読み始められるようになっている。やっと自分の人生が始まった、という気さえする(いや大袈裟かも)。いつだって、変化するために、あがいている。変化はいつも私に光をくれるから。死ぬまで(生の実感のために)のらりくらりと脱出というか、脱皮し続けるのだろう。ZINEに登場した人たちとの思い出を全世界に公表できて、私だけのものではなくなったことへの安堵もある。それはつまり忘れるための準備かもしれない。過去を置いて、これからの関係をもう一回発明したいという欲望かもしれない。

 

突然だけど、愛する同居人のことを夫と呼ぶのをやめている。そして海外放浪が決定した。長生きに執着がないから、全財産もすっからかんにする。

北欧に行く予定なので、セックスワークの捉え方の違いを肌で感じたいと思っている。生殖医療、多様な家庭を想定した社会保障にも興味がある。自分がサバイバーである事実は消えることはないけれど、それ(回復)を目的としない学びの価値を味わいたい。このブログもリニューアルして、「裸になることは哀しみではなかった」ところから再出発する文章を書けたら良いなあと思う。栗田隆子さんが「書くことは人と出会うことだ」と書かれているのを読んだ。また新たな文体を手に入れられたなら、また新たな出会いがやってくるのだろう。

 

ここ数年、仕事方面で登壇の機会をもらえることが多々あったが、サバイバーあるいは当事者だと語らなければ、意識の高い専門職みたいな扱いをされてしまうばかりだった。 「キラキラしていますね」「やる気にあふれていてすごい」みたいなコメント。共に考えてほしいという切実さにまで届かないこの腕を眺めて、自分の存在は無力で、ぶらんと垂れ下がる。今後の登壇では、自分のやり方を変えるというか、表現を変えていきたい。それが出来るかもしれないと漠然とした希望を持てるようになったから、頑張ってみる。

 

繰り返しになるが、昨年ZINEを出せたことは本当に大きかった。そのご縁で年末年始に良い出会いが偶発した。裸になることを、剥きだすことを、あっけらかんと表現する人たち。そしてそれを客席から愛する人たちとの出会い。ここで重要なのは、客席というのは傍観席ではないということだ。表現する者たちを尊重するための境界線であり、自身の生そのものを見つめ、明らかにするための視座でもある。

 

性暴力告発をする友人の側にいるときに、「(経験の異なる)被害者として」「サバイバー仲間として」「友人として」「専門職として」どの立場で居たらいいのか悩ましくて、よく葛藤して、よく自問自答していた。立場が違うと(何に価値をおいて振る舞うかの差異によって)、発言の意図や内容が変化してしまって、二次加害をしてしまう危険性が大きくなるからだ。でもこうして時間が経ってみると、全部ひっくるめた態度を選べるかもしれないと思う。もう誰に対しても、複雑で混沌とした私として自己紹介していいのかもしれない。インターセクショナリティを実践するというか、複雑性をあっけらかんと表現していく。これが30代の目標になりそうだ。

 

うまくまとまらないが、ここらへんで。(ぜひ、4月までの間に気軽に遊びに来てくださいね!あんまり会えなくなっちゃうから!)