人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

添い寝によって生き延びたら20代が終わった

最近作ったり買ったり贈られた食べ物(ᵔᴥᵔ)

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20代が終わった。長かったようなあっという間に過ぎた幻ような、そんな経過。手から零れ落ちる感覚も、10年という歳月がぎっしり詰まっているような重さもある。今日の私は舞台芸術に携わっていて、まとまった休みが取れないまま時間に追われている。十分に眠れている感じがしなくて、業務の合間に癒しを求めている。先月は毎晩試験勉強をして法制度に追われていたが、晴れて開放されたはずの今月は、労働者としての身体が舞い戻った。新しく知り合った人たち(年下が多い)に自己紹介する時、私は生粋の労働者です、と冗談めいて言うことがあるのだがそんな時はたいてい工場日記のことを考えている。

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シモーヌ・ヴェイユは労働者/従属物としての身体を探っていたのだと思う。身体感覚が代替えの効かない真理だと刻み込まれることの危険性を見つめていたのだと思う。悍ましく痛めつけられた、哀しみに打ちのめされた肉体の苦痛、魂を蝕むような不幸について想像する。SNSから離れたら数ヶ月ぶりに久々に読書が出来たので嬉しかった。ヴェイユを介すとこの世と肉体の連続性を失うことを恐れずに済む。10年前は仮死状態のまま存在していいというメッセージを読み取ったし、そして今は生者のままこの地を去って良いというメッセージを読み取っている。あまりにしんどかった時に、彼女の命を削ることを厭わないようなことばの数々に支えられてきた。直近数年、私の身体はだいぶ回復して、つまり痛みに鈍くもなって、鋭くて美しいその祈りに触れる機会を持てずにいたかもしれない。

 

話は変わるけれど、最近読んだエントリについて少し思うことがあった。

誰かと一緒の空間を過ごす、特に、一緒に飯を食うという行為は、「今はあなたといっしょにご飯を食べていること以外のことはしていないですよ」という、ある種の「縛り」を介した契約なのだと思う。縛りがあるから契約が強くなる。そういう契約をする相手はよくよく吟味すべきだ。たとえば、「会って話してみないと相手のことはわかんないよ」と平気で口にする人とは基本的に話が続かない。相手のことをわかろうとしてコミュニケーションしている人は怖い。わからなくてもいいじゃないかと思う。こちらのことをわかろうとしてくる人と契約することが純粋に単純におそろしい。できるわけもないことをやろうとしている。詐欺師ほど大きな声を出す。

*引用元:会わなければ伝わらないもの

コロナ禍は「身体を同じ空間に居合わせる」ための意志の宛先を私たちに問うた。この記事にもある通り、会わなければ伝わらないものってそんなにないのだろう。私の場合、会いたいという動機は2つくらいである。(滅多にないのだが)その肌に触れたい/触れられたい時と、五感を交歓しながらその土地を踏みしめたい時。

新型コロナウイルスが、誰かと飯を食うという行為(契約)を非推奨にしたことはある種の功績なのかも知れない。そういえば同居している夫とも積極的に食卓を囲まなくなって1年以上経つ。食事を共にするというのも、それが習慣になってしまうと、儀式めいてくる。それは解体を許さない、強い縛りになる。お互い好きに自炊してお気に入りの料理をテイクアウトして好きに栄養補給をしている。同じ家に身体はあるけれど大体噛み合わない。今はそれに満足している。逆に同じ空間に居合わせているのだから頭の中も自分第一になって当然みたいな、なんなら不在の時も強制的に思い出させるみたいな、そういう欲望を愛と言い換えて契約させようとする人たちがいつも恐ろしい。わかりあえないという明快な事実はこんなにも心地よい。いつでも解体できるという信頼なしに私は自由を感じ得ない。

 

過去の自分の言葉を直視することは恥ずかしい。変わっている部分と変わらない部分とが両方あって、どれも自分の軸のようだしどれも抜け殻のようでもある。

添い寝によって生き延びたら20代が終わった。一貫性を持てる部分なんてごくわずかであると思っている。添い寝が大事だってこと以外は、いらないというか、あまり重要でない気もしている。

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暑さが過ぎたのと、最近美味しいものを食べすぎなので、河原ランニングを再開している。どうしよう、10年を振り返るエントリにする予定だったけど、もう力尽きそうだ…。どうしても特筆すべきことは、添い寝フレンドだった人との再会と、脱精神科入院医療を果たしたイタリアで学んだ歓待の思想(実存主義と演劇表現の効用)と、奔放な女達との饗宴だろうか。生きることに精一杯だったからこそすべてが重要な出会いだった。もう会えない人もいる。けれど、あの時側にいてくれたあなたたちの存在に助けられたことは正真正銘の揺るぎない現実だ。駆けるしかなかった20代を東京で過ごせて良かったと思う。30代は東京を出れると良いが。

ただ、東京には親愛なる重要な他者が複数いる。元カノの腐れ縁(最近生まれたお子も当然)・契約結婚して7年目になる夫(そう呼ぶのもしっくりこないし婚姻関係はそろそろ解消でよさそうだが)・ほぼ毎週ハグしている友達(言葉にならない心地よさに謎は深まる)・メンヘラ上がりの可愛いが過ぎる女の子(ババアになったら一緒に暮らそうと告白されている)・そして添い寝フレンドだった人…他にもなぜかコロナ禍なのに(だからこそ?)縁が深まりそうな人たちが登場。親しい人たちに贈り物をしていきたい。相手の生き方が滲み出るその身体を見つめて形どっていく、私の身体も変容させて出来上がったものを受け渡す。もう既にたくさんを貰いすぎたから、あとは返礼に費やしたいと思うのです。

今年の誕生日は添い寝のように循環して交換しあえる手の平で他人の身体に触れることが出来たので感極まってしまった。感情が良い意味でめちゃくちゃだ。生きてきた今までを振り返れるような、人生が転換し得るような活路を与えあうような、それでいて存在を労わり合えるような、そういう一回限りの巡り合わせ、その瞬間がとても愛おしい。

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生き延びたよおめでとうケーキ