人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

性暴力と贈与

(支離滅裂な思考のメモです でも大事な内容だと思うので公開します)

 

慈善事業を行う裏で地位を利用して性暴力加害を繰り返していた人がいる。被害者たちを心理的・経済的・社会的にサポートするための手立てが不十分な中、彼の周囲が「社会的制裁は受けたし更生しようとしているから許してあげるべき」「まだ若いし、本でも出して再出発すれば良いのでは」とイネイブラーのような立場で安易な擁護を行っていた。

 

被害者たちの声を聞き続けた女性がそれを批判した上で「被害者も加害者もまともに生き直せない社会をどうしたら変えられるか」「大切なものを奪ったのだから、自分の大切なものを差し出さないと釣り合わないのではないか」というようなことを書いていた。

 

それを拝読し、加害行為者やその周囲が加害の事実を忘れようとする(なかったことにしようとする)社会だから、サバイバーは自分に起きた出来事に釣り合うものが見つからず彷徨うことになるんだなと腑に落ちた。

 

『加害側が贖罪の方法(自分のためではなく被害者の復権のために何を差し出せば良いか)を見つけること』『被害側が自分の復権に適う報復とは何かを見つけること』その両方が必要なのだとわたしは思う。社会はその困難とも思われる選択肢を用意することから目を逸らさないものであってほしい。わたしが小松原織香さんの修復的司法研究に惹かれたのは、この実践に果敢に挑んでいたように見えたからだろう。

 

先月はじめて、自身の性暴力経験を公の場で語る機会を頂けた(何をされたのかという具体的な加害行為や加害者の特徴について語ることを11年間ずっと沈黙してきたが、皆さんは穏やかに聞いて下さった)。憑き物が落ちたような感覚でとても有難い経験だった。

前述の「等価交換(贖罪としての贈与)」について思うことがある。性暴力という形で私を貶した加害者は40歳ほど年上だった。当時その人を法的に訴えることはできなかったし(弁護士の助言に従って手紙を送ったが応答はなかった)直接的な制裁も告発もできなかった。だが、相手が自分よりも先に老いぼれて死を迎える(私は死なずに生き延びる)という事実が私にとっての等価交換であり贈与で、それが自分の中でなんとか折り合いをつけられた理由だったのかもしれないことに改めて気付いたのだ。

であれば、加害行為者が簡単には老いぼれない場合、能力主義が浸透する社会の中で有能だからと復帰を望まれている場合には、どうやって折り合いをつければ良いのだろう?被害を受けさえしなければ損失せずに済んだものがあったかもしれない。思い描いていた未来の選択肢が奪われてしまい途方に暮れている中で、世間の声(加害行為者の再出発を声高らかに望む声)が聞こえてくる。「金目当て、売名目的の告発」「漬け込まれるような落ち度があったのでは」「加害者と被害者の問題だし、周りを巻き込むな」といった二次加害発言が聞こえてくる。被害を経験した者にとって、こんなに理不尽な仕打ちはないだろうと想像する。折り合いがつけられるはずがない。予期せぬ出来事によって人生が変化せざるを得なくても、再出発の機会を得られる社会でなければ、信じるに値する社会でなければ、なんのためにサバイブしたのか自問自答することになりかねない。

 

そもそも加害者は被害者を対等な人間(というよりも尊厳のある存在)と思っていない(暴力を振るっていい人と振るわない人を選別していて、暴力を振るわれなかった人たちはその二面性を受け止めきれず分断される)側面が少なからずある。なのできっと「相手の大切なものを奪ったのだから、自分の大切なものを差し出さないと釣り合わないのではないか」なんていう論理は、加害者にとっては破綻していて現実味を帯びないだろう。(相手も自分も権利を持つ人、虐げられてはいけない人、対等を目指しうる関係だと思えないとき、愛情や教育やケアといった建前で暴力が正当化される。最悪なことに、助けてあげた、与えてあげた、愛していたという認知になっていることもある)

 

復権に関する贈与が成り立ちにくいことは百も承知の上で書いておく。それでも本来の意味での更生支援とは、暴力を振るわれた相手は下位の存在ではなく、尊厳と権利を持つ個体であると学ぶことを土台とする。そのうえでようやく加害の事実を見つめることができる。加害行為によって相手の大事なものを奪ったことに対峙できる。相手の復権のための返礼について思いを巡らす時、どうかそれを手伝える社会であってほしい。

 

もう一度繰り返す。

『加害側が贖罪の方法(自分ではなく被害者の復権のために何を差し出せば良いか)を見つけること』『被害側が自分の復権に適う報復とは何かを見つけること』この両方が必要なのだとわたしは思う。

 

最後に、被害を経験した側も、自分なりの報復や復権の仕方を最終的には自らで選ばないといけないだろう。他人に判断や行動を期待し委ねてしまうのではなく。

 

自分の痛みが放置されたまま忘却される社会、復権のための選択肢が用意されない社会に対して、抗議し選択肢を求めるアクションは本当に重要なことだ。怒りと連帯(一時的な連帯であっても)によってエネルギーを取り戻せる側面もある。ただこれは、本来は非当事者(社会の構成員)の役割ではないだろうか。告発を通して社会運動を巻き起こさなければ、被害当事者は回復できない/社会が変わらないという構図を安易に賞賛してしまえるのは、サバイバーへの甘えのように思うし、社会運動を選べないサバイバーと間の分断を作ってしまうことになりかねない。あくまで報復や復権の仕方を探すための手段や過程として社会運動を選んでも良いし選ばなくても良い社会、どんな形であれ自分ために生きられる、そんな社会になってほしい。

 

性暴力の記憶や後遺症から、被害者という色に染まりきってしまったアイデンティティから、自分という存在(個)を取り戻すこと、再出発できること、サバイブした意味を見い出せること、誰にも決して侵食されない自分の領域と内なる力を信じられること、それを困難とさせない社会がほしい。そして性暴力を含むあらゆる暴力被害経験によって生きられなかった人々がいること、生き延びた人々がいることを決して忘れないでほしい。