人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

ロールキャベツと雄鹿と

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私はまったく料理が得意ではない。仕事で一汁三菜を作る機会はあるものの、自炊についてはほとんどしなくなった。同居人のほうが料理がうまいし、はずれがない(何を作ってもだいたい美味い)からである。だから自然とやめてしまった。結婚して4年目くらいからそれは顕著で、6年目の今は台所という祭壇での創造的行為がはるか遠い。それでも肌寒い季節、気が向いたら作りたくなる料理がある。それはロールキャベツである。これだけは誰からも褒められる。気づかないうちに鍋の中がすべて空っぽになっていることもあるくらいだ。

恋愛をやめる直前は、そこそこ料理のスキルがあった*1。当時は布団にくるまってずっと寝ている年下の恋人のために、日々自炊をしていたからである。ここでもロールキャベツは好評で、美味しいね、と微笑む彼が確かに食卓にいた。ある日突然いなくなっちゃったけど。
  

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先日、ご縁があり「食する」体験をみんなで共有する機会があった。鹿の解体をするという催しだ。命をいただく(奪う)ということ、命を引き継ぐ*2ということ、命を生み出す(奪われる)ということについて、考えさせられる昼下がりだった。

 

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たまたま、雄鹿の男根を切る役回りになってしまった

鹿に触れて、彼のにおいを身につけたまま、腐れ縁の彼女に会いに行った。彼女の産んだ子が、この世のすべての愛情を独り占めするみたいに父親に抱かれていた。母と子の誕生日は一日違いだという。待ち望まれた人。何度も諦めそうになりながら授かった命だと知っているからこそ、再会のたびに涙ぐんでしまう。それだけで私も今日まで生きてきた甲斐があるなあと反芻される。

 

それにしても、その日は素晴らしい旅路だった。彼女に誕生日祝いの海色のピアスを渡した後、そのまま中央線で移動して、同行者に紹介された、精子提供者兼育児パートナーを探しているという人と荻窪の夜を過ごした。この世界は生殖の話題で満ちあふれている。でも私は人を選ぶという能動的行為が何より苦手なのだと思う。そんなことを熱弁してしまった。望む生活や生き方のために相手を厳選すること。約束や契約に対する違和感、人が人を選別する(される)というその決定的な重さに耐えられないから、今もふらふらしているのかもしれない。

今の結婚の決め手は、夫が『暇だったから(誰でも良かった)』『可も不可もない相手だったから』と表現したことだった。それだけで、うまくいくと思った。結局、これまでのどんな関係性よりも、自由気ままに過ごせている。最低限かつ最大限のどうしても譲れない条件(わたしの場合は同じ布団で毎日寝れることだったが)だけが擦りあえさえすればなんとかなるのかも知れない。人と人が出会うなんて、偶然でいいし、ほんとうは誰でもいいはずだ。それでも、「誰でも良かった」は案外成り立たないのよ、人生が交差するタイミングが噛み合うなんて奇跡みたいなものなのよ、と、野方にあるシェアハウスで料理上手な女性が呟いていたのを思い出す。

 

この人とはきっと長く続いていくのだろうな、と確信できるような出会いが訪れるときがある。その場合名付けず約束もしないことでその状態が担保されることもあれば、その逆のパターンもある。「この人だ!と確信したら(又は関係に名前をつけたら)絶対に手放さない人」がいる。そういう存在に遭遇すると、その意志の強さにいつも私は驚かされる。手放さない人は、その名の通り何が何でも是が非でも手放さない。自分から別れを切り出す選択肢は絶対にないし、別れた後も関係性の修復を諦めない。傷つくことが約束されている未来にまで意志を持ち越すことはとても苦しいことなのに、代替可能な関係性や明るい欲望が誘惑してきても、けっして靡かないし意志を曲げない。勝つことは無理なので、闘わずに逃げ切るしかない。自分の主張を通しがちな私も、「手放さない人」に根負けしたことが数回ある。あの引力には敵わなかった。自分には真似できない力の方向性だからこそおそろしい。

目の前にあるものを積極的に手放してきたが、しかし人生で一回だけ、知らないうちに関係性を手放されていたことがあった(前述のロールキャベツを食べて喜んでいた、失踪した人である)。失ったあとも彼のことを決して手放すまいと耐えようとしたけど、最終的には手放しちゃったのだ。この人生から、恋愛するという行為自体を。

 

さて育児に関しては、どうだろう。関係性や社会的役割は手放すことができるが、血縁の事実は手放せないかもしれない*3。生殖行為に携わった二者関係は、はじめからおわりまで当事者でしかない。当事者とは引き裂かれるしかない存在のことを指すだろう。経済面・身体面・メンタルヘルス・パートナー関係・ケアの問題など、あらゆる現実が襲いかかってきて、共同育児ができるか否かの選択は理想通りにはいかないし、その多くが予定調和的にはいかれはしない。

実は先日旅先の倉敷で、予期せずコンドームが破れてしまうという出来事があった。子宮内避妊システム(IUS)を使用しているので大事には至らなかったが、不思議な体験だった。ふと、大島弓子『桜時間』が思い出された。そこで、もし自分自身が生殖の機会を望むのであれば『桜時間』の主人公のように、縁のあった3人のうち誰かの子どもを妊娠し、ずっと誰の子どもかわからないまま、4人目以降の愛する誰かと共に生きることが、たった一つの解なのではないかと感じた。ふざけているように感じられるかもしれないが、私の生き方と照らし合わせると(もしも私が妊娠能力のある身体を持っていて生殖行為の主体となる時があるのだとしたら、)この方法以外に生殖の道はないのではないかと腑に落ちたのだった*4

 

地獄のような気持ち良さだねと笑いあう夜があり、あの世で温泉に浸かるように添いながらいたわりいつくしむ夜がある*5。生殖機能も性感染症もない世界に生きれていたら、もうちょっと解放されるかもしれない、逆に苦しめられるかもしれないということを空想する。それでも主体的避妊と感染症予防を心掛けることで、誰とでも同じ出発地点で泳いでいけるような気がして、たとえそれが幻想であっても、命がこと切れるまで、ぐつぐつ煮え切りたいと思ったりもする。

 


安藤裕子 / Lost child,

 

*1:料理とは日々の鍛錬の賜物で、身体が覚えていることもあるが、ブランクが空けばスキルも低下するし詳細を忘れる

*2:私が死んだときは誰が私の身体(意志する主体でなくなった身体)に触れてくれるだろうか

*3:もちろん徹底して血縁から距離を取ることはできるし、血縁の有無にかかわらず子どもは自分の力で勝手に育つ

*4:なお、周囲の親しい男性にはドン引きされている

*5:奪われたものを取り返しにいく試みー私たちは奪われたものと対峙できると信じられる場所で闘おうとする。ふたたび手に入れた尊厳を誰かに贈与(継承)するために生きようとする。それは宛先不明で未来の誰かに与えられ、忘れた頃に他の誰かが与えてくれる。他者に触る/触られるということは果てしなく無意味で、時や肉体を超えた歓待で、非人間による人間的行為であるからこそ、おそらく命を終えるその時まで手放せないものだろう