誰になら会いに行けるのか?

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LINEアカウントが予期せず消滅してしまった。昔の携帯番号で新しいアカウントを作成する。プロフィール画像を愛する腐れ縁のお子とのツーショットにしたら彼女に「あなたの子と思われるよ?」と笑われる。何枚か差し替えて悩んだ挙げ句、父とのツーショットにした。感染症流行直前の秋、辻井伸行のコンサートに行ったときのもので、私は茶髪短髪、久しぶりに会った父は若干髪が薄くなっていた。個を重んじるという価値観の形成には父の存在が大きく影響している。どうしても自分の人生しか生きられない彼のことが私はほんとうに好きなのだ。

生まれ育った環境と元々の素質もあるかもしれないが、共同体に親和性を持ちつつ(抵抗なくケア関係にコミットできて)幸福を独占するのではなく関係者間の最大公約数を探り(ポリアモラス傾向)自由を愛する個人主義者の私は、広く浅く(時に深く)他者とつながれて、どこへでも生きていける。派閥とか自分には関係がないし誰の味方か敵かという線引きもない。その時必要と感じたことを選んで(選べないものもたくさんあるが)今を積み重ねて生きている。うっすら離れていった縁はあるにせよ、他者に明確に拒絶されることもない(例外として性暴力被害直後と色恋での人間関係の失敗は何度かあるが恋愛をやめてからはその機会自体が消滅した)。

 

一人を満喫する夜。友人知人たちから連絡が入る。人間関係には恵まれているし私も他者が好きである。ただ呼ばれない限りは自分から積極的に会いに行こうとはならない。それはなぜか。一体誰になら会いに行けるのかということを改めて考えたい。

 

①私の人生によく登場する腐れ縁の彼女とは、お互い気が向いた時に適当に連絡を取り合い、適当に返信をし、適当に年2・3回会う。お子の成長を見たいので今後会う頻度は上がるかもしれない。彼女とお子は私の人生に絶対に必要な人間だが、毎日顔を合わせる関係性ではない。会う頻度と関係性の厚さは全く比例しない。

②私の人生によく登場する奔放な女たちとは毎月会えたら嬉しいなと思う。ただ自分から会いに行くのではなくて、決まった日時に場所を開くので自由にお越しくださいというスタンスだから良くて、それがちょうどよい距離感のように思える。

③私の人生によく登場する同居人は、その実態の通り会いに行かずとも毎日会っている。実家暮らしのときの血縁者と同じ枠組みで、関係性に「名前」があるからこそ一緒にいるための意思が生まれる。関係が厚くなくても、関係性が成り立つ。裏ワザのようだ。絶対人生に必要かはわからないが、複雑な回路を辿って腐れ縁のような存在にもなり得る。

④私の人生によく登場する添い寝フレンドは、そういう意味では不思議と会いに行ける存在だったと思う。なぜ懲りずに気軽に訪ねることができたかというと、いつも家の扉を開放してくれているからだと思っていた。けれど少し違うようだ。最近、家の扉を開放してあなたを待つよと言ってくれる人が現れたものの特に行く理由が見つからなかった。つまり、開放された家のみに惹かれていた訳ではなくてそれ以外の明確な理由があった。それは添い寝フレンドだったあの人が「見えない(invisible)クィア」だったからに他ならず、自分と似たような生き物だと信じられたからだ。見えやすく自分の型を持っているシス/トランスジェンダー異性愛/同性愛者の皆とはまた異なる身体の預け方があり、帰属意識というのかな、ただ側にいるだけで心が軽くなって穏やかな気持ちになれた。添い寝それのみで完結する関係なので、性的興奮は初めから想定されていないけど、あの人の睫毛に触れて輪郭をなぞり化粧を施すときはエロティックな気持ちが芽生えることもあった。Aセクシュアル的コミュニケーションとでもいうのか、セクシュアルな文脈を取っ払って、とにかく毎日が夏休みのようだった。日替わりのカレンダーをめくる。想定外の発見に胸を躍らせる。忘れられはしないだろう小さな光の粒を手繰り寄せて。

 

それをいま言葉に出来たのは、先日夜のそらさんという方が書かれたこの文章に出会ったからだ。

だから、トランスはトランスであるだけで、すでに未来を生きています。シスジェンダーをやらされているあいだには決してイメージできなかった未来、手詰まりで真っ暗になってしまっていた自分の将来を、トランスすることでぎりぎりで時間を脱臼させて、自分の前に開くのです。だから、現在を生きるトランスジェンダーたちは、トランス以前には決して手に入れられなかった未来を、いま、おのおの生きています。

ジェンダー規範に反するような服装をしたトランスジェンダー。男性とも女性とも言えない奇妙ないで立ちのノンバイナリー。幸せそうにキスするレズビアンカップル。パブリックスペースをプライベートな「ハッテン」場へと変換していくゲイたち。パレードの先頭を走り抜けるダイク。ブースの上で踊るドラアグクイーン。非シス・非ヘテロな「クィア」という言葉で表現されるのは、いつもこうした目に見える存在で、たいていはいつも、恋愛や性愛、性行為の文脈とセットになっています。しかし、わたしはいつも思います。世の中には無数の「見えない(invisible)クィア」がいるのに、と。

でも、わたしは言いたい。そんな風に可視的でないとしても、今日もどこかでクィアたちは生きている。そうして生きて、あり得なかったはずの未来の時間をそれぞれの方法でひねり出しながら、窒息させられそうな社会の中でなんとか呼吸をして、来なかったはずの「明日」の時間を生き延びている。この、脱臼した時間のなかに捻出されたぎりぎりの「未来」の時間を見ようとしないで、「子ども」という分かりやすい次世代の存在に注目するなんて、わたしには到底無理です。

どんな新しい性愛をクィアは見せてくれるだろうか?どんな新しい生殖の可能性をクィアは開くことができるか?そんなことが「未来(Future)」の掛け金になっているのだとしたら、わたしはその「未来」を拒絶します。これが、不可視化されて続けているクィアとしての、わたしの「反-未来主義」です。

これを読んだとき涙が止まらなくて、感謝の気持ちでいっぱいになった。私は厳密にはAセクシュアルと括れはしない(どちらかといえばノンセクシュアルあるいはデミセクシュアルまたはグレイセクシュアルと括られやすいかもしれない)が、Aセクシュアルの感覚が強烈に根付いている私もいる。たまたま、パズルが噛み合うと性的興奮が生じる場面もあるが恒常的な性的欲望はない(関連してワンナイトの価値が全くわからないし、色々な人と親密にはなりたいがその時に性的接触はセットでなくて良いしそこに強烈な価値はない)。だから性的であってもなくてもどちらでも良いという世界の中で、全力で触れあえる人を探していきたい。それと筋トレも再開する。夏だし堂々と裸になりたいから。