人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

Dear survivor.

窒息しそうなさまざまな社会規範からの逸脱は、一見自由を獲得したかに見えながら、その結果負ってしまったスティグマや疎外感から束縛を受け、再び出口を見失う。回復や支援などという言葉に絡め取られ、なんかいいことしてるはずなのに、なんて窮屈なのだろうと思うこともしばしばだ。そのような時、どのような脱却の仕方があるのだろうか?不断の脱却は可能なのだろうか?このセミナーでは、生のなまなましさがはみ出していく表現としての「奔」の目撃者でもある二人の講師にお話を伺う(倉田めば)

Freedomセミナー「規範からの脱却~奔放な人生を祝って」

3月19日(日)大阪にて、1時間ほど好き勝手喋ることになりました。

奔ZINEを買ってくださったつばきさんが(昨年末初対面だったのですが)年明けに「一緒に登壇しませんか」と声をかけてくれて、そのご縁で知り合った倉田めばさんと打ち合わせの中で死を祝うという話をして、今回のセミナーでは(私がもっとも大切にしている)「奔放な人生を祝って」という言葉をタイトルに入れてもらえてとにかく嬉しかった。

チラシのプロフィール写真は、奔ZINE作成に合わせてサバイバー仲間の卜沢さんが撮影してくれたものです(ドラァグメイクを試して半裸になった時のものです)。

 

喪失を祝うということ。「奔(ぽん)」という言葉には、周縁化されて生きてきた人の知恵、技術、価値、逞しさ、弱さ(強かさ)、儚さ、激しさ、愚かさ、プライド、そのほか言葉にならないもの、沈黙や抵抗のすべてが詰まっているはず。つばきさんから「『奔』には"回復"を求めてくる支援者や専門家の存在って不要ですよね?」って問われたとき、「はい!」と即答したの。あらゆる生き延び方を祝っている。むしろ忌み嫌われ、不快だと怒られ、嘲笑われるような生き延び方があって、それらを含むあらゆる生(と死)を、その人が試行錯誤した数々を絶対に否定しない、そして見下したりしない。誰かの人生と自分の人生を比べる必要がない、だからいつのまにか自分が生きていない他者の人生(私が生きられなかった私の人生)さえも労うし、祝っている。ーーーその瞬間に、私はフェミニズム女性差別を温存し、マイノリティを引き裂いてきた社会構造からの脱却。あるいは、自己からの解放)というものの原点を感じる。

 

性暴力被害に遭って、自分の身体があるべき場所になくなってしまってからは長い旅路で、添い寝に助けられ、薬物を必要としていた人たち(この世を去った友人も)との暮らしに助けられ、儀式のような性的行為に付き合ってくれた男性陣に助けられ、元々の自分を生きようとするトランスの仲間に助けられ、暴れてはやらかしまくるメンヘラビッチのお姉さんたちに助けられて。そして仕事を通じて慢性疾患や障害と共に生きている人々に教えられて。同時にたくさんのものを失ってしまって、もう修復できないものもたくさんあって。高橋りりすさんは「私たちは生き残った。」と言った。私は勇気を出せなかったサバイバーだった。あるべき場所なんてそもそもあったのだろうか?延命した身体で、残りの命をどこに燃やせばいいか、悩んだ先に「添い寝を伝承すること」そして「奔放な女/人を祝うこと」という二つの解があった。

 

 

奔ZINE「添い寝と生還」

ハムさんの書かれるものはこのアカウント作る前からずっと読んできて、20代から30代にかけて自分も受けてきた大小の性被害や欲望し欲望される存在であることへの戸惑いについてたくさん力をもらってきた。そういう意味でなんとなく、私にとってハムさんはストリップに近い存在(?)。だから今回zine『添い寝と生還』としてまとまった形で文章を読めて直接ご挨拶までできてうれしかった! やわらかさとかたさ、実践をもって自由を拡張し論理をもってそれを世界に開いていく強靭さ。ストリップについての箇所も、まだ語られていなかった、来るべき語りという感じでとにかくうれしい🪩💖

うさぎいぬさんからこのコメントをもらった時、生き延びると良いことがあるんだなぁと驚いてしまって……。(その人が贈ろうとは意志していないものを勝手に受け取っているだけなのだけど)たった一つの贈り物をくれた全ての人は私にとって重要な他者。とりあえずこれからも何度でも脱いでいく。10年近く読み続けてくれて、ほんとうにありがとうございます。

 

来月3月で4週年となる奔女会を一旦閉じるタイミングで、このような登壇の機会をいただけたことに心から感謝です。良い区切りなので、できれば現地でお声掛けしてもらえると嬉しいです。

どうぞ宜しくお願いします。

 

 

 

忘れるために書いているのか?(2023年1月近況)

私の性暴力被害に泣いた人たちが、他人の性暴力被害を疑って薄笑いしているのに遭遇するたびにいつも私は引き裂かされてきた。あの日の涙に助けられたのに、この腕は力を失って、抱き締め返すことができない。そこにはサバイバーとしての怒り、悲しみ、そして空洞があった。ZINEには上手く書けなかったけど、好きな人に好かれるだけでは生きられない、自分だけが満たされることを最優先できない、そんな価値の中で生きている。

 

2023年2月4日、自民党がまた性的マイノリティへの差別発言を繰り返している。

この時にも腹が立って、以下の記事を書いたけど、あれからちっとも政治は変わっているように思えない。「性」をめぐるすべてのことが、ずっと馬鹿にされ続けている。馬鹿にしていい存在であるはずがないでしょう。私たちと、私たちが生きる時間と、私たちが葛藤してきたこの身体と、どうか出会ってほしい。

 

ZINEで一区切りついたのか、数年積読だった本を読み始められるようになっている。やっと自分の人生が始まった、という気さえする(いや大袈裟かも)。いつだって、変化するために、あがいている。変化はいつも私に光をくれるから。死ぬまで(生の実感のために)のらりくらりと脱出というか、脱皮し続けるのだろう。ZINEに登場した人たちとの思い出を全世界に公表できて、私だけのものではなくなったことへの安堵もある。それはつまり忘れるための準備かもしれない。過去を置いて、これからの関係をもう一回発明したいという欲望かもしれない。

 

突然だけど、愛する同居人のことを夫と呼ぶのをやめている。そして海外放浪が決定した。長生きに執着がないから、全財産もすっからかんにする。

北欧に行く予定なので、セックスワークの捉え方の違いを肌で感じたいと思っている。生殖医療、多様な家庭を想定した社会保障にも興味がある。自分がサバイバーである事実は消えることはないけれど、それ(回復)を目的としない学びの価値を味わいたい。このブログもリニューアルして、「裸になることは哀しみではなかった」ところから再出発する文章を書けたら良いなあと思う。栗田隆子さんが「書くことは人と出会うことだ」と書かれているのを読んだ。また新たな文体を手に入れられたなら、また新たな出会いがやってくるのだろう。

 

ここ数年、仕事方面で登壇の機会をもらえることが多々あったが、サバイバーあるいは当事者だと語らなければ、意識の高い専門職みたいな扱いをされてしまうばかりだった。 「キラキラしていますね」「やる気にあふれていてすごい」みたいなコメント。共に考えてほしいという切実さにまで届かないこの腕を眺めて、自分の存在は無力で、ぶらんと垂れ下がる。今後の登壇では、自分のやり方を変えるというか、表現を変えていきたい。それが出来るかもしれないと漠然とした希望を持てるようになったから、頑張ってみる。

 

繰り返しになるが、昨年ZINEを出せたことは本当に大きかった。そのご縁で年末年始に良い出会いが偶発した。裸になることを、剥きだすことを、あっけらかんと表現する人たち。そしてそれを客席から愛する人たちとの出会い。ここで重要なのは、客席というのは傍観席ではないということだ。表現する者たちを尊重するための境界線であり、自身の生そのものを見つめ、明らかにするための視座でもある。

 

性暴力告発をする友人の側にいるときに、「(経験の異なる)被害者として」「サバイバー仲間として」「友人として」「専門職として」どの立場で居たらいいのか悩ましくて、よく葛藤して、よく自問自答していた。立場が違うと(何に価値をおいて振る舞うかの差異によって)、発言の意図や内容が変化してしまって、二次加害をしてしまう危険性が大きくなるからだ。でもこうして時間が経ってみると、全部ひっくるめた態度を選べるかもしれないと思う。もう誰に対しても、複雑で混沌とした私として自己紹介していいのかもしれない。インターセクショナリティを実践するというか、複雑性をあっけらかんと表現していく。これが30代の目標になりそうだ。

 

うまくまとまらないが、ここらへんで。(ぜひ、4月までの間に気軽に遊びに来てくださいね!あんまり会えなくなっちゃうから!)

ZINE(30年の人生振り返り)を作りました

奔ZINE「添い寝と生還」

ついに、三十年の人生に、一区切りつけることができました。

目次は以下の通りです。



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~購入方法~

【面識のない方】

氏名(ペンネーム不可)と連絡先+可能ならSNSアカウントを明記の上、メール下さい。kmnymgknunh★gmail.com

【面識のある方】

気軽に声かけてください。次回会える時に持っていくか、郵送します。

 

価格とお渡し方法は改めてご連絡いたします。(11月文フリでは1000円で販売。)

84ページ。表紙カラー/本文白黒。

A5冊子で文字がかなり小さいです(フォントサイズ9にしてしまった)。

ひとりでは入稿作業が出来ず、うさぎいぬさんに助けていただきました。心から、ありがとうございます。

 

※私の野良文体(?)が約9万文字続きます。ご参考までに1エッセイ転記します。

 

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わたしを癒してくれたもの

 

 生身の誰かに癒された気になってはいけない。それは相手を供物にすることだから。そう強く心に刻むようになった。その人が個人であることを奪う行為は、傷つける・苦しめるとも次元の異なる不幸、そう感じるようになった。喪失した対象にしがみつくのと喪失そのものにしがみつくのは全く違うことだ。だから私はナマモノ以外に救いを求めていった。


 性的行為を拒否して別れてしまった高校時代の元カレに連絡を取ることがあった。コミュニケーションを拒んだ私のことを彼は恨んでいたはずだが、彼は私が性暴力被害に遭って人生が一変したことを伝えた時ただしく哀れんでくれた。なんとも不思議なもので、私は私を憎む人からの同情になら耐えることができた。その際贈ってくれたのが、「重力と恩寵」だった。シモーヌ・ヴェイユの生き方と思想は、先述のハーマンと合わせて生き延びる指標になった。私は自分が癒されるためにハーマンとヴェイユの翻訳をいつも写経し、Twitterで出会った詩人mさん*1を四六時中インターネットの海で追いかけて、博多まで会いに行った。彼の「坂のある非風景」というブログは詩集だった。影響を受け、吉本隆明ジジェク、フォークナー、ピーター・グリーナウェイ、その他多彩な思想と作品に出会った。自分の中にある美しいもの、美しいと感じられる心を探すうえで重要な時間だった。また、叔父の影響で漫画が好きだったので、よく古本屋に出向いて掘り出し物を探しにいった。萩尾望都ならトーマの心臓残酷な神が支配する大島弓子ならロストハウス、バナナブレッドのプディング、夏の終わりのト短調山岸凉子なら日出処の天使、バレエ表現全般。植芝理一ディスコミュニケーション三浦健太郎ベルセルク*2よしながふみの大奥と愛すべき娘たち。阿部共実の月曜日の友達。そして私の生きる世界の延長上を生きるトランスジェンダー、ノンバイナリー、非異性愛者、非性愛者が登場する作品全般は宝物になった。Wacoalのブラジャーも自分の身体を肯定するきっかけになり、感謝している。人に会えない日は、原っぱで眠った。山に登ったり、間伐をしたり、海で泳いだり、浜辺で黄昏たり。自然とのふれあいも私の中にある美しいという価値を呼び起こしてくれるものだった。

 

 性暴力被害の翌年、大久保さんのソイネ論*3を拝読し、衝動的に秋葉原のソイネ屋*4に何度か通った。ソイネ担当になった女の子と同じ布団に入りまどろむ意識の中でおしゃべりをして終わったが、かわいくて無害な少女という条件の下に成り立つ添い寝は、私の遭遇したそれと全く異なるものだった。私が頂いた添い寝は、対価や報酬・ケア役割・セックスや親密関係への期待が排除されていた。「ただそこに在る」だけのもの、剝き出していて何でもないもの。そして手ぶらで、待ち時間もなかった。子どもの頃、学校を休んで、真っ昼間に眠り続ける私を発見した母が「え?死んでるの?」と問いかけてきたことがあった。暗闇の中から聞こえるその声が、なんだか嬉しかったのを覚えている。眠る姿はいつも夢と現の間にあって、吸い込まれそうな暗さがあって、無防備で恐ろしいほど可愛い。寝息が聞こえなければ、体温に触れられなければ、生きているかもわからない。眠ることは滅びの方法でもある。それでも共に眠れたなら「君もひとりだったのか」とその孤独を受け入れる、唯一の方法になる。

 

Sophie Calleというフランス人の現代作家が一九七九年に行った変なパフォーマンスに『眠る人々(Les Dormeurs)』(publié en 1980)というのがある。この作品の中で、Sophie Calleは自分のアパートに八時間ごとに二十八人(母、自分を含める)を招待し、自分が毎日眠っているベッドで八時間、眠ってもらい、彼女はその間彼らの寝姿を撮影する。二十八人の招待者達は、人と決してすれ違わない日本のラブホテルとは違って、交代がしらお互いに顔を見合わせる。そして、彼らが寝ていたぬくもりの残るベッドに入り、八時間を過ごす。シーツを変えたのはたった数回であるらしいから、シーツも枕も共有することになる。この作品において、Sophie Calleは彼らと添い寝している訳ではない。しかし、彼女はある意味で、添い寝を仕事として雇われる少女達のように他者として眠る人々の横(à côté)に存在し、彼らを見つめている。「見守っている(observe)」といった方がいいかもしれない。彼女は眠る人々と共にベッドに入ることなく、一定の距離を保ってプロジェクトを遂行するが、それでも、知らぬ人々(四人だけが知人で、見知らぬ人もたくさん含んでいた)の寝息を聴き、寝返りを打つ姿を眺めながら、狭い寝室で八時間という時間の長さを共有することは、「眠る」という行為が本質的にもつ親密さゆえに、奇妙な感情を呼び起こす経験であったことを証言している。
(大久保美紀さんブログ「添い寝/Soine がなぜ気になるのか」2012/10/4) 

 

 その頃eiko/komaというダンサーと出会い「sleeping together」を踊った。十数人の人間が床の上で無心に転がるというもので、目を瞑って自由に寝返りし続けると、いつか必ずだれかに触れてしまう。その交錯がなんとも愉快だった。自分でも何かを作ろうと思い立ち、添い寝映像を撮影することにした。安藤裕子「のうぜんかつら(リプライズ)」をBGMにして、私が添い寝を語り、偶然居合わせた三人に広々とした布団に寝転がってもらう(眠ろうとしてもらう)というものだった。当時はそれをYouTubeに投稿するので精一杯だったが、いつかリベンジしたいと思う*5。また、辺見庸「自動起床装置」に登場する起こし屋と植物や、太宰治「斜陽」で眠る僕にそっと毛布をかける奥さんに、添い寝の片鱗をみていた。

 

 萩本創八・森田蓮次の漫画「アスペルカノジョ」の第一二〇話を何度も読み返している。かつていじめっ子だった少女が今度はいじめの標的になる。給食のシチューの中に虫を入られてから、中身の見えないものが食べられなくなってしまうというエピソードがある。見て見ぬふりをした友人に許しを要求された時、「許してほしいならこの虫食べてよ」と突き返す。中立を気取られて腹が立たないはずがない。しかし同時に「でもあいつらを憎むほど自分も同じことをやってたって思いしらされる」と押し潰されそうな思いを吐露する。元通りには戻らない身体がここにあっても、誰かを同じくらい傷つけた過去が、自分への抱擁を許さない。かつてその少女にいじめられた「斎藤さん」は、項垂れる彼女を眺めて、顔を歪ませる。絶対に許さないと決めたのに、癒しを拒絶された身体を目の前にしたとき、撤回のことばが零れ出る。自分と同じ低さまで降りてきて、初めて目を合わせられたから。そして語り部のような役割の男が、自販機の前で「透明な水」を探す。その描写にふれるたびに涙が止まらなくなってしまう。

不幸があまりに大きすぎると、人間は同情すらしてもらえない。嫌悪され、おそろしがられ、軽蔑される。同情はある段階まで降りて行くが、それより下へは降りて行かない。愛がその下まで降りて行くのは、どうしてだろう。—そう問うた、シモーヌ・ヴェイユの言葉が反芻する。

 

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ZINEの最後には、生まれて初めて作った戯曲(未完)も掲載しています。

添い寝をテーマにした、15分程度の戯曲「代わりに眠って」です。

 

私が愚かで至らないあまりに会えなくなってしまった方々、そして社会にある差別、暴力被害や疎外の結果亡くなってしまった方々もたくさんいました。今まで出会ってくださったすべての方のことを思い出して余生を過ごします。この30年(特に高校時代からのブログの読者さんとは13年くらいになるかも)の間、私と出会ってくださって、ありがとうございました。あなたの身体のことを私は忘れません。(あなたと私の人生を祝って)

*1:アカウントは@Entwurf。「夜の生き物は光の尊さを知っている。昼の生き物は夜の生き物とは出会えない。出会えない関係のほうが利害がぶつからず長続きしたりする。長続きする関係には瞬間がないので、永遠の愛を語ることがけっしてできない。永遠と持続の交換」と書き写された手帳を見つけた。学生最後の春休みに博多に会いに行った。何故か一日に三回くらい駅内でラーメンを啜った。同時期、非性的であるために自らのペニスを切除して食す会を開いたアーティストもこの詩人に会いに来たとのこと

*2:ガッツは性暴力サバイバーだったから、仲間を見つけたと思えた。彼が他者を通して自身の裸と対峙した時はわんわん泣いた

*3:「添い寝/Soine がなぜ気になるのか」http://www.mrexhibition.net/wp_mimi/?p=990( 2012/10/4)/「追記:添い寝/Soine論 少女達のぬくもりを、さがすなかれ。」http://www.mrexhibition.net/wp_mimi/?p=1014(2012/10/07)

*4:2012年~2013年頃に秋葉原で営業されていた風俗店。性的サービスは禁じられており、コース時間に応じて女の子と眠ることができた

*5:今年「都市と芸術の応答体2022」に参加して、ロードムービーをやってみている。眠りの路、添い寝をいつか映像にできるだろうか

サーティワン(2022年9月10月近況)


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阿佐ヶ谷は一番の安全圏だったのかもしれない。

8年ぶりくらいに友人らと再会することになり、阿佐ヶ谷に集った。だいたいのこと、みんな覚えていなかったり、朧気に覚えていたりした。私は当時は学生で、でも生きるのに精一杯だったから、学業に専念できず、色々な人に小銭を借りては寝床を転々としていた。周りに迷惑をかけすぎていてそれはもう酷い評判だったらしい。当時の日記を読み返すと、ハーマンやヴェイユの言葉を書き写した後に、懺悔の嘆きが並んでいる。私を叱ってくれる懐の深い人がいて、その人たちのお陰で踏みとどまれた部分があったのだろう。露頭に迷ってしまって、身体の感覚を失って、進学の意欲も失って、なにかを楽しむ心を失って、西東京で恋人と友人を失って、財布も紛失しまくっていた19歳の自分を哀れだったと今なら振り返ることができる。哀れだったねと代わりに泣いてくれた人たちの涙が集まり、乾いた皮膚が再び息を吹き返す。それを証明するかのように、今もこの身体に留まっている瑞々しい記憶がある。


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阿佐ケ谷の二軒目、おでんBARに入る。みんな口を揃えて"大根が美味い"と笑顔になった。

自己紹介も自己開示もしない。お互いの友人が突然合流しても誰も気にも留めない。沈黙の中でゆったり時間だけが過ぎていく。その空気を浴びたら、シェアハウスという場に助けられていたことを思い出した。何者ですかと尋ねないしあなたの社会的役割にもアイデンティティにも興味はないという場。基本全てが流れていくだけだからあんまり助けてもらえはしないが、誰からも説教されたり憐れまれたりしない環境、何者であるかを名乗らずに床に伏せていて良い環境にどれほど救われたことだろう。あれから12年が経つけれど、セーブデータをどうやって30代に引き継ぐかを迷い倦ねている。とりあえず来月文フリに向けて人生をまとめるzineを書いている。そのために、この秋はお世話になった人たちに寄稿文を書いてもらったりインタビューをお願いしたりしている。


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添い寝フレンドだった人もそのうちの一人だ。再会してからというもの、毎年誕生日祝いをしてくれるようになった。今年は公園で美味しい自家製コーヒーを淹れてくれた。汗ばむ秋の昼下り、当時を振り返るために路上で色々語り合った。どうして私と寝てくれた?とかそういう話だ。「私ら30代のスタートを切ったけどもう疲れたよね?」と頷きあった後に「40代で自由奔放にやれる人はさ、生まれつき生命力の強い人なんだよ」とその人は笑って言った。自宅で金木犀の鉢植えを愛でて3年になるらしい。残業ばかりで若白髪が増えていたようにも見えた。この人になら私の寿命をあげられるのになぁと思う。先にもらったのは私のほうだから、元の場所に返す(差し出す)というだけなんだけど。一緒に眠った阿佐ヶ谷の日々があるから今もこうしてここに存在できている。それがとても嬉しい。

誕生月、(私にとっては)大きな決断をした。13年滞在した東京を離れる。リセットが必要で、有り金すっからかんにしたい。そしたらこれから財布を落としても困らないし‥。最近はそのことばかり考えている。

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年末は関西のストリップ劇場を回る予定です。それでは皆さんお元気で!

 

あなたの何が私を照らしたか

半年ぶりに会った友人が、恋人の好きなところを全て箇条書きにして持ち歩いているのだと教えてくれた。酔っぱらった時に、同僚に回し読みしてもらうのだという。そして今後生殖の可能性があると告白される。「子どもが生まれたら、うちに時々来たら良い。私が実家に滞在していたら、そちらに来たら良い。私の親も歓待するだろうから。(私と縁のある人の子なら彼らは共同育児をするだろうから)」と返す。そういえばちょうど先週くらいに親から久々にLINEが届いていた。良い顔で微笑む、産まれたばかりの従兄弟の赤子とのツーショット写真だった。それは私に対する「子を産め、孫の顔が見たい」という圧力では一切ないはずだ。私達の間にはそういう信頼がある。10代、女の子と激しい恋愛をしていた時、病気を疑って婦人科に連れていってもらった時、産ま(め)ない人生になりそうだと伝えた時、親はあんたの人生はあんたのものだからという顔でそのまま受け止めた。20代、知人をスカウトして契約結婚すると伝えた時も、夫以外に親しい人がいると伝えた時も、血縁によらない養育を検討した時も、親は好きにしなよと微笑んで受け止めた。とてもありがたい態度だったと振り返る。私には20年前に亡くなったきょうだいがいて、その子と共に生きていて、やはり生殖のことを考えると割り切れない思いが蘇る。どうしても切り離せない存在なのだと思う。そのことを次の誕生日までに必ず書いておく。

もうそこにはいなくなった人のことを、どう語れるのだろう。なぜ沈黙できるのだろう。決定的な諍いのあとに、光の差し込まない土地で暮らす側になることをどうして選べるだろう。誰かに照らされたいと思えたことがなかった。私が私を照らすのだと、表現を尽くしてきたつもりだ。親しくなるたびに理解した気になって、恍惚の中でその人を映し出す彩度がどんどん荒くなって、偶像でも人間でもない腐りかけの供物になる。それがいつも嫌だった。愛とは何かを語るたびに、あなたが透明になって私の身体を通過する。それがいつも悲しかった。代弁しないから代弁しないでほしい、そういう思いがあった。親しい又はあまりに傷つけられてきた他者についてを語る時は、可能な限り慎重に努めた。仕事でもそうだった。代わりにならないしなれない。私以外のだれのこともわたしは主人公にしない。仮に題材にするならば、かならず名を開き注釈をつけねばと意志をした。それでもあなたの何が私を照らしたか?それだけを知りたいと思う。その結果拠り所にしていた物語は諸共破壊されないといけない気がしている。

職場の心理士に研究に打ち込めと言われたり、私のことを何にも知らない議員に秘書になれと言われたりしている。しかし何も手につかなくなった私だけがそこに立ち竦んでいて、帰り道を探している。しばらく戻りませんので、探さないでくださいと言えたらいいのに、それさえできずに安住の輪に回帰していくのは、なんと無様だろう。深呼吸をしてから、添い寝フレンドだった人に珈琲豆を挽いてくれないかと連絡をする。翌日「挽く!笑」と応答があって心が舞う。しかし宴もたけなわ。終幕に向けて、受信予約したラブレターがここに届くのを待つだけである。