人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

再発不安ね(2022年7月近況)

5月に退院してから毎週リハビリ通院をしていたが可動域制限もほとんどなくなったので今月から軽い運動をして良い(でもジャンプは駄目!)という指示が出た。許可の出た自転車も勇気を出しながら乗って、競歩も始めていた。いたのだが、手術部位を動かすたびにポキポキ鳴って痛むようになってしまった。もしかして再手術する必要あるのかなぁ、お金ないなぁ、痛みに脳を支配されたくないなぁ…と涙が出ている。お盆休みで主治医に問い合わせもできずこの2週間ほど不安が強い。

退院後から倦怠感が続いていて、疼痛と共に生きている。肉体機能の喪失やそれに伴う心身の苦痛に慣れていかないといけないとは分かってもいる。意識不明の重体の後退院して毎日何万歩散歩しているんですよと語る人、癌やてんかんの再発が怖くてたまらないと不安を語る人、ただ芸術鑑賞をしたいのに障害があるという一点で高価かつ非効率な手続きが必要になる人とよく語り合えるようになった。健常という万能感を失うことで確実に上がる世界の解像度。一番つらいのは想定外の事故により当初の計画が崩れてしまい進路が確定していないことだ。労働法のインプットも文化的な生活も甚だ遠い。さらに旧知の方から想定外の転職先(高収入だが絶対大変!)を紹介され悩みのタネが増えてしまった。春から新しい場所で暮らすという意志はいずれにしても固いのだが。さて、どうしようかな。

 

最近嬉しかったことは、ベジャール・ガラとミカドが同料金だったこと(バレエとストリップ、毎月通いやすい価格で癖になりそう*1)かなぁ。それ以外には新宿二丁目で長谷川博史さんの追悼会*2で水着姿でゆらゆら揺れていた。フロアで流れていた「真夜中のドア」を今日もずっと聞いている。

ジュ―シィ―!ラストステージにて

次の誕生日を迎える前にドラァグメイクを習い、写真に残して、これまでの人生を総括する形のZINEを作る。そして「誕生月だから祝ってくれない?」と連絡を取って、添い寝フレンドだった人に会いに行くわよ。(今決めた)

*1:東京文化会館の5階席とストリップ劇場の立ち見中央席、どちらも穴場かもしれない

*2:私は直接の交流はなかったが、LGBTQ界隈で有名であったし愛された方だった:故・長谷川博史さん 思い出エピソード・追悼メッセージ募集 – JaNP+ [日本HIV陽性者ネットワーク・ジャンププラス] (janpplus.jp)

眠れない起き上がれない日は踊るしかない

2022年7月8日は、盆博という盆踊り企画を心待ちにしていた。盆踊りを愛する有志で開催された会で、この日は16の盆踊り*1を味わえる豪華なラインナップだった。今年は開放的な夏にしたくて、外出のたびに腹出しを心掛けていた*2ので、この日もそのつもりで着替え用のキャミソールを鞄に詰めて出勤した。お昼頃、安倍元首相が奈良での選挙応援演説中に銃撃されて意識不明の重体という情報を知る。当日夕方には搬送先で亡くなったという報道。腹を出せる気持ちではなくなって、でも一緒に踊る約束をしていた人に会いたかったので、スカイツリー近くの会場に向かった。胸元は開けて、しかし臍は隠して20人ほどの見知らぬ人たちと円になった。唄が鳴り響く。愛好家が代わりばんこに腹の底から歌っている。その声自体が浮き立つ舞いのようである。見様見真似で動いてみる。時計回りに歩いて跳ねて耕して立止まる。ひたすら繰り返す。慣れてきたら、自動的に手足は滑らかに動いていく。無心になれる。あぁ、踊りに来て良かった。身体を痛めつけて快楽に酔えるような爆音の箱でなくてよかったかもしれない。少しの距離感を間違えたら自傷になりかねない夜だったから。

2時間踊り続けた後は、エスニック料理店で麺を啜る。平成生まれの資本主義育ちの、今まで何人もの自死を通過してきた私にとっての、現政権のアイコンだった権力者の死は、大いに衝撃的なものだったから、支離滅裂な呟きになっていた気がする。暴力は許されないだとか、裁かれてほしかっただとか、そういうSNSの憐憫にも疲れていたと思う。身体の安全は精神の安全より常に優先されてきたという嘆きも再び流れてくる。暴力というものが、あまりに身近にあった。まるできょうだいみたいに。その空間にいないものとして扱われた人たちのこと、愛や信頼という言葉の裏で飲み込まれていったもの。そういうものが社会に既に数えきれない程あった。性に関する規範もその一つだ。今回の比例代表選挙はSWASHの要さんに一票を投じた。セックスワーカーの権利*3は、私を解放させたものの一つだったからである。

帰路、何も考えなしに意味もなく(そうするのが当然かのように)手をつないで、夜の橋を歩いて隅田川を見渡すのは、生きる歓びそのものだろう。終電には間に合ったが、自宅でうまく眠れずTwitterを眺めていると大野左紀子さん*4が以下のテキストを絶賛していて、気になって拝読する。未来の私が何度も読み返すであろう内容だった。

ある一日に乾杯する|韻踏み夫|note

そんな光景に辟易した彼は酒を飲みたくなり、行きつけの焼き鳥屋へ向かうが、そこで待っていたのも同じような光景で、店員はニュースに釘付けで注文さえ取りに来ないほど。いつも顔を合わせる常連も、今日に限っては酔いが回っていないようである。その薄汚さを語り手は突く。「ついさっきは駅で腹を押さえて倒れていた労務者にはさわろうともしなかったくせに/泰子さんにだけはさわりたいらしい」。テレビでは言っている。「死んだ警官が気の毒です/犯人は人間じゃありません」。そのことに周囲は同調しているが、内心語り手は反論する。「でもぼく思うんだ/やつらニュース解説者みたいに情にもろくやたら情にもろくなくてよかったって」。だから、語り手は、テロを非難するヒューマニズムの方を冷徹な目で眺めているのである。彼らの「情」など偽善にすぎない。

これに続く、友部正人「乾杯」の歌詞が美しくて恐ろしかった。偽りのない隙間を許さない鋭い言葉と裏腹に、脱力した気だるそうな声色。今日という日を思い出すとき、この曲を再び聞きたくなるのかもしれない。ビールを手に取るのかもしれない。言葉に出来ないもので溢れて身体が分裂してしまいそうなとき、踊り、そして音楽がその不自由で不安定な身体を支えてくれる。今までそういうことばかりだったはずなのに、ボケッとしていて忘れていたんだなぁ、恥ずかしい。

翌日、容疑者の犯行動機が明るみになった。その供述には、何度も練られたものだろうと思わせる切実さが垣間見え、込み上げるものがあった。宗教二世の問題。今まで出会ってきたはずの、でも私が声を聞こうとしなかったから聞こえなかったのであろう声を想像した。Gay Erotic Artistの田亀源五郎さんが、「宗教的蒙昧による性的少数者差別思想と、政府が深く関わっている国で、ゲイとして生きていくことは、未来への展望の暗さも含めて、なかなかタフであることよ😗」と呟いていた。私もタフな一員だったのか。普通に生きているだけなのに、保守政党のいう伝統を壊すような家庭や人間関係を作っている自分は明らかな危険分子なんだなぁと自覚して半笑いしてしまった。どうりで忌み嫌われる訳である*5。翌々日は投票日だったんだけど、風呂にも入れず身体が動かなかった。選挙結果速報を一人で見るのが嫌だったし、政治と絡めて自分の生まれた土地、育った家庭環境、上京後のことを対面でだれかに聞いてほしくなった。私は一般的に政治の話はするし、マイノリティの尊厳を求めるデモやパレードには行くけれど、感情的に具体的な政党批判はリアルタイムでしてこなかった。だから選挙の日に気軽に電話をかけられる人が早々浮かばない。性の話に加えて政治宗教の話を屈託なく語れる友人が殆どいないことの寂しさを初めて知った。ゴメン今日会える?と連絡を取ると、到着した相手は私の布団にいつのまにか寝そべっている。運よく或いは持ち前の自由な魂によって、奪われてこなかった人の明るさに、いつも助けられる。寝起きに大事な話をしたのにだいたい忘れてしまって、根を張り続ける好意だけしか手元に残っていない。月曜日は仕事を放棄して好きな音楽を聴いて、踊って回復に努めた。とりとめないですが、ここらへんで。

*1:佐左エ門音頭(埼玉県杉戸町)、木曽踊り(長野県木曽町)、新野の盆踊り(長野県阿南町新野)、津具の盆踊り(愛知県設楽町)、白鳥の拝殿おどり(岐阜県郡上市)、石徹白の盆踊り(岐阜県郡上市)、根尾盆踊り(岐阜県郡上市)、徳山おどり(岐阜県揖斐川町)、大須の盆踊り(岐阜県本巣市)、燈籠祭りの「ションガイナ踊り」(岐阜県揖斐川町)、上野の盆踊り(福井県南越前町上野)、池田追分(福井県池田町)、穴馬踊り(福井県大野市)、阪本踊り(奈良県五條市)、陸上の墓踊り(鳥取県岩美町)、麦わら音頭(兵庫県伊丹市)

*2:f:id:kmnymgknunh:20220712001702j:image

*3:「性労働自体は性暴力ではないし、労働環境下での性暴力はあってはならない」という主張や、「異性/親密間/無償/長期的/モノアモリー/実名のセックスが正義で、それ以外のセックスは不正義であり、金銭を介在させるなんてもっての外」という道徳思想や恥の意識に抵抗する態度

*4:8年ほど前にブログに書かれていたミヒャエル・ハネケ「ピアニスト」評を読み、それからずっとフォローしている。昨年あたりに毒まんこという最高にロックな活動をしていたと知る

*5:過去にも書いた。"クィアやノンバイナリーたちが日々直面している性愛について、いつになったら順番が回ってくるのかということだ。…ノンバイナリーは存在そのものが現在の社会秩序を脅かすものであり、その事実を引き受けて生きている、とある。ノンバイナリーの政治はこれまでのクィア理論や運動の積み重ねを生かすことができるはずだ、という確信と希望。加えて私は男男の性愛と女女の性愛の差異さえも内包するコミュニケーションの可能性をノンバイナリーの生き方に感じてもいる。”

さみしくない海、ねむらない海

 


さみしくて見にきた人の気持ちなど海はしつこく尋ねはしない(杉崎恒夫)という句を思い浮かべない海などなかったのに、今回は過去も未来も忘れて没頭するしかないあたらしい海だった。どうして出会うたびに表情が違うのか、どうしていつも静かに許してくれるのか、どうして武器を持たずに深く呼吸できるようになったのか。6月の夕暮れは少し冷えていたから、ざばん、と飛び込めなくて恐る恐る身体を水面に沈めた。ここは、山戸結希「あの娘が海辺で踊ってる」の聖地である。舞う娘は二人いて、一人とっての海は生活の為の土地であり還る場所だったが、もう一人にとっては何も尋ねはしない代わりに永遠を約束してはくれない避難所だった。私は海のない土地で生まれたが、この物語と同様に少女から情熱的な愛を捧げられる10代を過ごした。そして「あの娘」と離れてからは、行き当たりばったりの一人旅ばかりしている。

半年ぶりに関西を訪れた。白無垢嫁入りツーショットを撮ったという女性たちと再会し「ネコ&タチ」というスナックを訪れようという話になったが、コロナ禍のため常連以外は入れなかった。地元の子どもたちが待ち合わせ場所にするほど身近なネコタチは、私にとっては幻のスナックに位置づけられた。別件、大久保美紀さんがキュレーターを務めるファルマコン展の最終日イベントに参加した。大久保さんのことは、添い寝/soine論で知りもうすぐ10年が経つ。添い寝の伝承について考えながら、関西の知人から紹介された、武藤大祐さんの限界集落の芸能と現代アーティストの参加 : 滋賀県・朽木古屋六斎念仏踊りの継承プロジェクトに関する論文を読み終わる(朽木古屋六斎念仏ウェブサイトはこちら)。伝承と継承は少し意味合いが異なるものの、この論文では、民俗芸能の「継承」とは一体どのような事態をいうのか、という問いについて3点が導かれる。「芸能」「担う身体」「行う場」これらの総体が、社会的機能の根拠となる(引き継がれる状態を生み出す)ということが書かれている。生活知識としての「民俗」が、「芸能」として元々の目的から離れ、それ自体で自律性を帯びる過程(二つの相反する性格がぶつかりあい、せめぎ合う行動伝承)を民俗芸能たるものとする。続けて、とあるパフォーマンスを「儀礼」(効力を目的)とも「上演」(娯楽を目的)とも呼べる点にも注目する…。ありがたいことに、私にとっての添い寝が「効力/娯楽」「生活(民俗)/芸能」それぞれの側面をどうせめぎ合うものか、その追求が必要だと示された気がした。

時間は有限だからお墓の前で急がないといけない。なのに仮初めの生を肯定し力を与え合うような眠りの中で息継ぎをしている。お気楽な心地で、進路どうしましょう、どこで暮らしましょうと悩んでいる。時を止めてしまえればと願う海辺にて。

 


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翼をあげる(2022年6月日記)

翼をあげる

翼のある人を(羨むことはあっても)だれも妬んだりしない。 ないものを持つという想定自体かなわないから。家のない人を(羨むことはあっても)だれも妬んだりしない。帰路ある人々は建築物のない暮らしを想定していないから。持てるはずなのに何故手に入らないのだという執着めいた感情が、妬ましさを生み出す。同線上には生きていないことが明白ならばそんな回路は生まれない。翼のある人はいつも与える側であるが、自分が何を与えているかを知る由もない。翼を持っていることさえ気付かないのかもしれない。飛んでいるだけで(つまり存在しているだけで)それ自体が地上を這うしかない人々の希望になる。プラチナエンドという漫画を手に取った後、トーマの心臓を想った。翼を持つ者が翼を持たない者にその翼を与えるためには、命を捧げる(翼を自分の身体から手放す)という掟がある。トーマは愛するユーリに自らの翼を与えた。翼を捥がれた者が再生するにはそれ以外に選択肢はないと知っていたからだ。かつてわたしも誰かに翼を与えられたことがあっただろうか。BGMとしてピアソラ「天使の再生」を流してみる。

 

マゾと名付け

たくさんのマゾを飼っているというお姉さん(かつお兄さん)のつぶやきに感銘を受けたと熱弁してしまった。他者を所有することは独占することと同義だと勘違いしていたこと、私は既にたくさんの人そして身体を所有していたことに気付いたので、言葉の選択を改めることにした。添い寝フレンドだった人の身体に触れなくなって10年近く経つ。猫と猫の半同棲のような形で一緒に眠った日々の後、遠方に住んでいたこともあったが、何故か今自転車で14分の距離にその人は暮らしている。示し合わせた訳でもないし、頻繁に連絡を取り合って定期的に会う訳でもないが、あなたがわたしの生活圏内に確かに存在しているということは嬉しい。でも側にいてもいなくても、寂しいとは感じない。もう私の身体の一部で、消えることはないからだ。マゾを飼っている人はマゾたちを(おそらく言葉にできないほどの切実な密度を込めて)「道具=わたしが処分しなければずっと側にいるもの/生きていない関係」と表現していたが、私はそのような間柄を象徴と表現したいのかもしれない。お互いがいくら変化しても自明なもの、何があっても失うことがないもの。身体に刻まれたたくさんの軸があり、だからわたしは何者にでもなれるしなれない。いつも死が迫って来ることに怯えていたが、最近は肉体が消えてしまう事自体も恐怖ではなくなってきた。象徴を伝承することだけに集中すればいいとさえ思う。

道具あるいは象徴であるときに名前は要らない。もう既に所有しているからである。対照的に名付けがないと不安で不安でたまらない人に、わたしたちは名前を与える。創造主のように。惚れられた相手からの意志や誠意をみせてほしいという懇願に応えるために。7回くらい名前を与えた人がいる。これは自身の尊厳を奪われないための抵抗でもある。共になんとか生きていくための、適切な距離を探り直すための攻防戦でもある。名付けられた人は排他的で特別なものを与えられたと解釈して安堵する。実際はとんでもないすれ違いが起きているので、滑稽だし、残酷だし、でも馬鹿馬鹿しくて可愛らしい。

 

体内に招かれる

自分の股を目的地とするような挿入行為に快楽以上のものを感じない。快楽を中心とすることには意味がないというか、それを反復することに重きをおけない。私は私の股の門番のようでもある、しかしいつも鍵は開けっ放しで笑っちゃうくらい情けない。じっと待ち構える。ようやく停滞寸前の日々を打破するような、清々しい気持ちになれる身体接触がやってきた。私の初めての性経験が同級生の女の子との行為であったことが思い出される。相手が望み、私の身体が相手の内臓に入っていくこと。いつの間にかペニスの登場によってその感覚が鈍くなっていたことは世界の欠如に近しい。許可を得て、相手の内臓に招かれるということはとてもありがたいことだ。身体の造形や構造を問わず、最大限それぞれの身体を活用し、捧げ合って、交換しあえることに価値を置きたい。足を怪我してうまく股周りが動かないことも功を奏したと思う。この基本に立ち返れたことは不幸中の超幸いかもしれない。

 

 

 

幽霊に二者択一を迫られる(2022年5月日記)

青野くんに触りたいから死にたい、という漫画のことを以前も書いた。この物語はおとぎ話の世界よりも現実の世界のほうがずっとずっと怖いという事を教えてくれる。人を愛する、人とコミュニケーションを取る、と簡単に言えてしまうけれど、その中にどれほどの暴力的な要素が入り混じるのか、生き延びるための栄養や土地が剥奪されうるのかを教えてくれる。萩尾望都『残酷な神が支配する』とつながるテーマだ。弱い立場の人間は知らずのうちに誰かの供物になっている。供物にならないためには、何も捧げないという意志が必要になるのだが、それ自体がとてつもなく苦しくて難しい。意志だけでなく構造がそれを許さないこともある。どうしても(あなたが)ほしい、助けてほしいと乞われると、揺さぶられてしまう。それが愛されたい人または自分が生き延びるために必要な条件を持つ人からであればなおさらだ。自分の時間を自分の身体を自分の心を明け渡してしまう。与えたのか、それとも奪われたのか、その主体性を問う議論はいつも途中で空中分解する。アンパンマンは顔を失ってもいつでも原状回復できるおとぎ話だが、現実はそうはいかない。失ったものは戻ってこない。そして失った地点から私たちは復権を願う。しかしその時、与えた(奪った)相手に直接「返してほしい」と直談判することができるだろうか。現実はいつもひんやりしていて無関心だ。それでも、青野くんに触りたいから死にたいと名付けられた物語はそれに果敢にチャレンジする。

 

幽霊になった青野くんは、ずっと二者択一の物語に苦しめられてきた男の子だ。生者であった頃、選ばれた側の子どもとして、選ばれなかった弟と引き裂かれてきた。「すべての親はすべての子どもを愛するものだ」が真実ではないこと、親も時に不完全な子どもであり不誠実で不器用な人間である事実に気付けたとき、選ばれなかった子どもはどこへでも行ける。坂口安吾も、太宰治を追悼する中で、親なんかいなくても(いないほうが)人は自分の生を全うできると断言した。けれど、選ばれた側の子どもはどこへ連れて行かれるのだろう?冷たい土に埋められて供物になるしかないのだろうか?*1

青野くんは供物だった子どもで、優里ちゃんは供物になりたかった子どもだった。同じくらい寂しかった。しかし優里ちゃんは幽霊となった青野くんと出会い、自身を捧げたことで、はじめて生者との接点を得ることになった。友人と呼べる存在が出来たのだ。その一人である堀江さんが生者と死者の世界は並行世界にあることを導く。優里ちゃんを中心とした皆はあの世とこの世に優劣をつけず大切な人たちを守るため、交差し合おうとする。しかしいつもトラブルに見舞われるし、青野くんは望まない自分になってしまう。かつて自分が嫌悪した、相手を供物にしようとする欲望に食われそうになるのである*2

 

「わたし」か「わたし以外」かどちらかを選んで!と相手に二者択一を迫る行為は、ドラマチックで恐ろしくてなんだかホラー映画みたいだ。この社会では、恋人とそれ以外、配偶者とそれ以外、親子とそれ以外、という風に「最も大切な人 選手権」が当然のように開かれる。お馴染みのお祭り。私はその二者択一の物語にずっと苦しめられてきた当事者である。どうしても大切な人たちがいて、それは二人以上で、業務みたいに綺麗に役割を割り切れるものでもなかったから、私は私なりにそれに抗ってきた。臨死体験としての性暴力被害があって、その先に添い寝フレンドという象徴と出会って、そこからずっと二者択一の物語に回収されないための、復権のための旅をしてきた。供物(贈与)に関することはずっと命題であった。そして踊りを望むのは、故郷のような世界、供物としての幽霊/非人間と共に存在する世界に触れたいからなのだと思う。

 

the能ドットコム:ESSAY 安田登の「能を旅する」:第3 回 能的『おくのほそ道』考

能のワキ僧にあこがれて旅をした人はたくさんいますが、もっとも有名なのは江戸時代の俳人、松尾芭蕉でしょう。

 

舞踊家が能楽師に聞く能の本質:能とはあらゆる人を癒すもの|まゆかかく|note

何かを見せているというより、回って次元を変えているのです。天の岩戸でも、アメノコヤネノミコが祝詞を詠み、アメノウズメが踊る。巫女の神格化、最古の巫女と言われる「ウズメ」には「渦」、渦巻くという言葉が入っています。

 

今月から芸術ワークショップに参加している。テーマはロードムービーである。松尾芭蕉が能と深く関わっていたというメンバーからの語りを聴く。能舞台には目付柱、目柱、ワキ柱、笛柱、シテ柱、そして「あの世からこの世」の道がある。能におけるシテ(幽霊、土地に佇むもの)とワキ(旅人、土地にやってくるもの)のような存在について皆で考えるとき、青野くんを取り巻く交流が思い出されるのだ(そういえば、青野くんのお母さんは、能面のような顔をしている)。最新刊で、山の頂上で優里ちゃんが「青野くんと出会う前の私は、現実の世界にいたけど(プールの水面下で)死んでいた」と語る場面がある。その上で、今自分が確かに生きていることを実感し、「生きる」とは時を進めること(変化すること)なんだね、と結ぶ。芭蕉の奥の細道も、青野くんに触りたいから死にたいも、この世のものではない存在(幽霊/非人間/象徴)と出会ってしまった者が映し出す、ひとつの旅のように思える。

 

ひょっとすると、小松原織香さんが『性暴力と修復的司法』で書かれていたこととも重なるのかもしれない。能/舞いと幽霊の話を考えるとき、小松原さんが加害経験と別の時間軸で生きるまでの過程を「解体的対話」と名付けていたことが腑に落ちるのである。(※「瞬間的で魔術的な力をもつ出来事」を他の出来事と同列に扱えるようになったとき、性暴力被害者と加害者が、その二者関係から解放される、お互いの関係に必然性がなくなるということを指す)

 

 

今ここに生きている私が私の人生を解体していくこと、二者択一の物語から解放されること、それに気付かせるような象徴と出会い時を進めるための意志を持つこと、それがロードムービーの核にあるのではないか。今年は、添い寝を出発点として、ものを生み出すための一年としたい。その他近況としては手術後かなり体力が落ちてしまい通勤するにも一苦労である。今日は主治医から自分の筋組織や骨の画像を見せてもらったんだけど、紅くて白くて綺麗だった。跡が残るのは全然気にならないから再発だけを防ぎたい。松葉杖生活はそろそろ終わるだろうけど、年内まではリハビリが続いて外出の機会は減るだろうから、この不運な状況も力に変えていけたらいいなぁという感じです。

 

 

*1:残酷な神が支配する、のラストではそれが逆転した。土の中で供物となり埋葬されたのはサンドラになった

*2:その時、悪霊という意味の黒青野くんとして区別される