人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

サバイバー紀行(8月29日)

「あなたとの訳わからないあの日々に、私はどれほど救われたか」

※性暴力に関する記述があります。安全と感じられる場所でお読みください。※

 

十年前、加害者に自宅を知られていた私はもうそこに住み続けることができる心理状態ではなくて、焦る気持ちで荷造りをしていた。しかし時間と身体の感覚がない。そのため全然終わらない。途方に暮れていた。何故かそのタイミングでバイト仲間のKさんが「引っ越しするの?手伝うよー」と名乗り出てくれた。もともと全く親しい間柄ではなかったので、初めて自宅の場所を教えた。二人で雑談しながらダンボールに本を詰めたりしたら思いの外、作業が捗った。流れでそのまま一緒の布団で添い寝して夜が明けた。隣で眠っている人の身体を眺めて、私の身体はここにあったのか、生きてて良かったのかと思えた。また別の晩かな、私のベッドを引き取ってくれると言うので、透き通るような夜道の中を川を超えた先のKさんの部屋まで「重いね」と二人で担いだんだった。

 

今日十年ぶりにその時の話をされた。私はベッドを譲ったことを忘れてしまっていて、Kさんが「あれは夜逃げのようだった」と言うので「そうだね、訳わからなかったよね」と笑った。そして「あなたとの訳わからないあの日々に、私はどれほど救われたか」と添えた。気恥ずかしくて顔は見れなかったが。

再会は拍子抜けするくらい普通だった。過度に緊張もせず、美化もせず。普通に近況を話して散歩するだけ。幸せな時間だった。時差ありで、帰宅してから涙腺が緩む。愛する腐れ縁から電話がかかってきて、突然泣き出す私にびっくりしつつ再会できて良かったねと笑っていた。彼女の子どもがわたしの名前を覚えて、目が合うたびに名を呼んでくれたことを思い出した。

 

被害に遭った直後、深く信頼する人たちはわたしの取り乱すその語りをただ黙って頷いて聞いてくれた。わかりやすく怒るでも悲しむでも鼓舞するでもなく、ただ黙って受け止めてくれた。そのひとりが添い寝してくれたKさんで、もうひとりは彼女だった。

 

近々その二人を十年越しに引き会わせることが決まった。一生分の幸福を使い果たしたかもしれない。ほんとうに嬉しい。

 

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帰り道、清澄白河の通りには案山子がたくさん並んでいた。近所を散歩しただけなのに、この十年を総括して、その先に踏み出せたような旅だった。元気で生きていてほしい。今度はわたしが与える番なのだろう。とりあえず生きないといけないと思った。

 

3年ぶりくらいに啜ったカップラーメンと共に、葛西のビジネスホテルにて。

 

Prego con tutto il cuore per l'anima

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6年前の8月14日。今年の8月14日。その偶然に立ち竦む。映画『イデオッツ』のストファーを思い出す。彼は「お仲間」たちと「演劇」をしながら共同生活を送っている。その表現は露悪的で差別的で品性の底が抜けている。しかし低すぎるがあまりに転じた遥か遠くで、魂の癒える土地を創ろうとしているようにも見える。「お前たちは本物か?」という、破壊衝動にも似た鋭利な問いかけ。彼の痛々しい叫びに付き合いきれなくなったお仲間たちは自然と脱退していく(ただひとりの"かわいい生き物"を除いて)。何かを取捨選択でき、忘却することができ、凡庸を演じられる者たちは、生きるに値しない社会が変わらなくてもこの地で生き残れる。しかしそれが出来ない者たちは一体どこへ行くのだろう。迷惑がられて、疎まれて、下降して、もう漂流できる体力も残っていないのに。

EXIT 2007:『イディオッツ』を高く評価する - livedoor Blog(ブログ)

"虚偽は真実と入れ替わり、虚構は現実を凌駕する。映像は表層の皮膜を突き破って、裸形のかたちを掘り当てようとする。人間は何処にいるのか。*1"

 

命を繋ぐのはいつも綱渡りみたいだ。なんとか足の裏をつける地に辿り着き、そこで一晩だけでも一緒に踊れたら良かった。渡りきれず、ずっと綱の上を往復するしかないあなたがいて、少しでもその腕にふれて手を引けば落下してしまう、そういう嵐の中を生きてきたあなたがいる。春は死なないでと約束しても、夏は跡形もなく散っていく。秋は私が生まれ、冬はあなたと添い寝した。夏だけが繰り越せない。一回きりなのだ。火が舞うように、決定的な別れと出会いだけがある。

 

Sukyeon Kim plays Liszt Liebestraum No. 3 - YouTube


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*1:故・國定陽一さんのブログ引用。私もこの映画が忘れられない。大迷惑な乱交パーティーに興じ、異物になりきって性行為を演じていたはずの若者二人が我に返る場面。それはまさに、裸形のかたちを堀り当てられてしまった瞬間、その肌に触れて身体しかそこに存在しなくなった瞬間だったはずだ。胸糞映画なんだけど、私にとってその場面が今もなお光

雨の日の盆踊り、夢のなかで

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十代の頃、雨の日が好きな理由に「路上に現れる変質者も、雨の日は家に籠もりたいだろうから(遭遇せずに済む)」というものがあった。実際そういう統計があるかは知らんけど、雨の粒がアスファルトを打ち付けるたび、得体のしれない大きな何かに守られたような気がしていた。

真夜中を雨が支配する。少し窓を開けて雨音を部屋に招いて、Michael NymanのAll Imperfect things(すべて不完全なるもの)を聴く。水中に飛び込んで這い上がるまでの、清らかで涼しい音の並びに身を委ねる。

連日夜遅くから試験勉強を始めるものだから今晩は流石に眠くてたまらない。そして愛する友人らが試験当日に送迎を申し出てくれたの本当にうれしい。恵みの雨のよう。やったー落ちたら来年も頼めるかな、なんてふざけたことを思う。

ということで今年のお盆は引きこもっている。会いましょう、という心躍るいくつかのお誘いを延期してしまってすみません。ゴールデンカムイの全話無料公開キャンペーンも試験後までお預けにしてます。

 

*****

 

今月に入って二つのトランスジェンダー/ノンバイナリーの物語に出会えたよろこびをここに残しておく。心の澱みが拭えてあかるい光が差し込んでその反動で涙が流れたことも。

 

一つはこちら。

『女の体をゆるすまで』(著者インタビュー:「つらくても真実の方がいい」セクハラ経験を描く漫画作者に聞く“誹謗中傷と戦う理由”  / 「愛する誰かがいなきゃ救われないなんて、そんな残酷な話がありますか」 セクハラ事件からジェンダーの揺らぎに向き合う漫画『女の体をゆるすまで』
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この物語を読んで、「女たち」という枕詞があるコミュニティへの馴染めなさ、ある種の飛び込めなさ、を感じていた理由の一つは、シスジェンダーの女性サバイバーに対して、自分自身が当事者とは言い切れないally(※)としての連帯感を抱いていたからかも知れないなと腑に落ちた。『女への(性)暴力をやめろ』という叫びを当然支持する。ただ、女性とされる人たちは同類とみなして私を抱きしめようとするのだが、私の身体はそこにはないんだよね。だから透明になる日もあったし、嘘をついているような罪悪感も感じてきた。野良サバの歴史は長いのだ。

登場する漫画編集者のチル林さんは、ally(女の身体を割り当てられたことに違和はないが、著者のペス山さんに寄り添い共に闘う)の鏡みたいですごかった。こういう人がこの世とあの世を接続してくれるから、アーティストは勇敢にその点をくぐり抜けて開かれた土地を創り、掬い上げた魂を生者のもとに還せるのだろう。

バイブと添い寝するという謎の番外編も最高だったな。ノンバイナリー/トランスを生きる体で自慰を探求することの意義、私にとっては自分の身体を自分のために調理するというか、旬の野菜を生まれてはじめて味わうようなよろこびを感じる。

 

※allyについて(参考)

アメリ・ラモン(Amélie Lamont)が始めたオープンソースのガイドGuide to Allyship 

 

もう一つはこちら。

「尼寺から追い出された山姥の詩」

冒頭からしてすごく良い。

「子ども」とは未来の象徴とされている。人間の存在意義が、必ず死に絶える「個」ではなく「種の保存」へと還元されるこの社会において、障害のない異性愛者たちの適切な仕方での生殖/再生産こそが正しい未来を延長する手段であり、「子ども」は未来の象徴なのである。

しかし、そうした象徴としての「子ども」から除外されるクィアな子供、有色の子供、障害のある子供たちは、始めから未来を期待されず、常におぞましい他者として想定される。再生産の失敗や死と結びつけられるクィアな人々は、異性愛中心主義社会の中では「子ども」が象徴する未来を脅かす存在なのだ。

だからこそ、クィアな子供たちは、どこに向かって育っていけばいいのか、自分たちの未来はあるのか、と苦悩する。

(中略)

女性とされる存在たちと類縁的な苦しみを持つ者として、抑圧の根源に共に抗うことが出来たらどんなに良いだろう。しかし、わたしはそんな「女」という意味からも程遠い場所に立ち尽くしている。

「私が生きられる身体の終着点」という言葉に、明確な実感が伴った。

それは何故だろうと自問自答してみる。性暴力被害の後、ノンバイナリー(と形容してしまうのがただしいかはわからないが)な友人との添い寝で命を分け与えて貰ったこと。自分がバイナリーな身体を生きてはいないこと。だから肌を寄せ合える関係が、生きられる身体を一緒に探してくれる(お互いに身体を変形しあえる)相手とのみ成り立つことに気付かされたのだった。「生きられない身体」に欲情されても抱かれても、そこに生身の私はいないから意味がないんだよね。周りの皆みたいな性欲を向けられないし、フェチズムもちんぷんかんで頓珍漢。しかしそこには劣等感も優越感もなくて、ただ単に必要なものが違うだけなのだ。性に合わない、それ以上でも以下でもない。

 

身体の意味するものがいかに変質しようと、私が何人生まれようと、交歓と混沌を惑わない旅、「女/男」という枠組みでは必ず取りこぼされる沢山の命を切り捨てない旅に安堵する。いつまで生きられるかわからんが、こういう航海もあるのだと、未来を生きる子どもたち社会から遭難しやすい子どもたちに残していきたい。目に見えるもので簡単に私を表現するなという怒りと哀しみがこの土地に染み込んでいる。同じ思想を取り込んだ身体があれば連帯できるなんて軽々しいし嘘だけど、それでも呼吸の仕方を教えてくれた人たちがいたから、終着点(と信じたい場所)を見失わないまでいられるのだと思う。

 

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人生の参考文献にしている『プシコ・ナウティカ』の著者である松嶋健の論考を引用したい。

ケアの論理では「その人が何を欲するか」ではなく、「何を必要とするか」が出発点となる。悩み苦しむ人の身体に寄り添い、より心地よい方向へと関係性や環境を調えるのが主眼となる。ケアとは「ケアする人」「される人」だけではなく、家族、関係者、薬、食べ物、道具、場所、環境などのすべてからなる共同的で協働的な作業とされる。

「それは、人間だけを行為主体と見る世界像ではなく、関係するあらゆるものに行為の力能を見出す生きた世界像につながっている」とはどういうことか?

欲望するものと、必要なもの。両者は似ているようで異なるらしい。現実を生き抜くためには後者をまずは整えないと全身が悲鳴を上げてしまうような気もしている。欲しがること/欲しがられることは生きるための血肉や血潮になるとは言え、それだけでは自分と誰かの命は守られない。その意味で、つまり自分自身をケアするために、恋愛の欲望に負けたかった私ではなく、恋愛は要らない(添い寝さえあればこの生を引き受けられる)と判断した私と何年も一緒に生きている。必要なものが何かを見誤らずに、そして欲しかったものが欲しくなかったものに変わり果てた時に、錯覚に甘んじない覚悟がほしいのだ。またやってくるであろう、生きてて良かったなと思える出会いと再会のために。

 

(◕ᴥ◕)今年も愛しくて狂おしい夏だった

(◕ᴥ◕)秋よ、はやく来てくれ

 

だめだ眠いから自慰して眠るわ。

よい夢見てくださいな!

 

(ᵔᴥᵔ)おやすみんちゅ

豆を煮る

フェミニズムとか、よくわからんのよ」と彼女は言う。

私にとっては、身動きの取れなくなった世界から脱するためにそれが必要だったことを伝える。リプロダクティブ・ヘルス/ライツの思想を知って、臨床家や研究者、芸術家が世に出してくれたサバイバーの個人史に触れて、傷だらけで生き延びてきた生身の女たちに出会って、肉体に合う形のブラジャーを発掘して、他者を私の身体に招いて、そういった交歓の中で「自分の体は自分のもの」だという確信を得れたのだと説明した。

彼女は「そうかあ」と特にしっくりこない様子だったが、社会/異物との接点を見過ごさない生き方をしているあなたこそが敬愛すべき実践者であると思う。

 

差別や偏見について一見ただしい振る舞いができる人、知識理論を取り込み美しい言葉を並べられる人に後ろから突然刺されるみたいな事が、わりとある。「連帯しようね」と手を差し出してくれるあなたたちは自分の思い通りにならないとその手を一方的に振り払う。一筋の光を見出して期待しすぎるのも原因とはいえそのバグがいつも悲しい。

よくわからんのよと言う人とのほうが性に関して心底語り合えたり、家庭内外の労働について真剣に意見交換できるのは何故だろう。また、「LGBTとかポリアモリーとかマジでわからん」といいながらゲイの友人と当たり前に裸のつきあいをし、共通の大事な人への愛を私と深く共有してくれる男友だちのことも思い出された。なんらかのカテゴリや先入観から出発するのではなくて、目の前に現れた世界に対峙する魂の靭やかさを持っている人たち。今生きている世界の違和から目を反らさず、社会がこうあるべきとする答えではなくて自分はどうしたいのかについてを立ち止まって問える人たち。大事な友人だ。

 

昨年スペインの避妊法を学ぼうというイベントに参加した。そこにシスジェンダーを名乗る若い男性が参加していて、カレは「避妊にまつわる女性の大変さを知って勉強になりました」とコメントしていた。私は意地が悪いから、「避妊についての主体性はあなたにもあるのでは?」と返してしまった。初対面なのにごめんなさい。でも、本当はいつも気になっている。シスジェンダーの男性自身が「自分の身体をケアしているか」と自問できているかについて。自分の肉体を語り得る言葉を持っているかについて。男同士でその可能性を模索しているかについて。その点に無頓着に見える人のことを信用しきれない私もいる。

 

性的な誘いをもらうときに「とにかくあなたを気持ちよくさせたい」という紳士な態度に敬意を払いつつ「それは私には必要ないかもです」とお断りしてしまうことがある。「あなた自身があなたの身体をどう語るか/感じるかに興味があるので」という叫びのような応答がある。自分を隅々までほぐしていくこと、家を建てる必要もない広大な野原に自由に寝そべれるかということ。それができる人と一緒に眠りたいだけだから。もともと私が他者の身体になかなか触れられないのも、そういった感覚が関係しているだろう。よくわからないまま、まずはお互いに自分の身体を抱きしめてそこから発せられることばを紡ぎながら、友だちになりたい。そこそこ浅くて親しくて広い付き合いはできるけど、その先で手をつなげる出会いはそんなに多くない。

 

定期的に大きな愛を注いでくれる女たち。嵐のような葛藤のあとに、非恋愛関係として縁が続いている人たち。今年の誕生日も祝いに来てくれるようで嬉しい。片方なくすまで毎日身につけて、なくしたら片方は自室に飾って毎日見つめていたいからイヤリングが欲しいと言おう。感染者数が少し落ち着いたら我が家で一緒にご飯を食べられたら良いなあ。

コロナ禍で最近また自炊をするようになったんだけど、今日は鰆の塩焼きとひじき煮(大豆をたくさん入れた)が美味しく出来上がった。出汁もきれいに取れて、豆腐と豆苗と玉葱の味噌汁も良い感じになった。そして社会保険の勉強をしながら、オブザーバーとして修士論文発表を聞かせてもらっていた一日だった。こんな時代だからか寄付にもハマっていて、今日も知人が所属するプロジェクトを知り微々たる額だが応援をした。そしたら誤って生活費の口座から引き落としされてしまい、来週の給料日まで1000円弱で生活することになってしまった。笑えてきた。なんだか雨も強くなってきた。

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追伸

趣味でタップダンス(ジャズバレエの基礎を習いつつ)を始めようと思うのですが興味ある方ご一緒にどうでしょう?

 

2021年夏紀行(7月30日〜8月2日)

笹井宏之の歌は、いつも生活の延長線上にある。桃を食べるときにも浮かんでくる。突然再生されたと思ったらすぐに鳴り止む音楽のようでもある。

「透き通る桃に歯ブラシあててみる (こすってはだめ)こすってはだめ」

「嫌われた理由が今も分からずに泣いている満月の彫刻師」

「さあここであなたは海になりなさい 鞄は持っていてあげるから」

「しっとりとつめたいまくらにんげんにうまれたことがあったのだろう」

穂村弘の笹井宏之評が好きだ。その一部を引用する。

〈私〉のエネルギーで照らし出せる世界がある一方で、逆に隠されてしまう世界があるのではないか。笹井作品の優しさと透明感に触れて、そんなことをふと思う。

笹井ワールドにおける魂の等価性と私が感じるものは、一体どこからくるのだろう。その源の一つには、或いは作者の個人的な身体状況があるのかもしれない。

 

どんなに心地よさやたのしさを感じていても、それらは耐えがたい身体症状となって、ぼくを寝たきりにしてしまいます。(略)短歌をかくことで、ぼくは遠い異国を旅し、知らない音楽を聴き、どこにも存在しない風景を眺めることができます。あるときは鳥となり、けものとなり、風や水や、大地そのものとなって、あらゆる事象とことばを交わすことができるのです。(歌集『ひとさらい』「あとがき」より)

ここには鳥やけものや風や水や大地と「ぼく」との魂の交歓感覚が描かれている。私は本書のタイトルとなった歌を思い出す。

 

えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい

 

口から飛び出した泣き声とも見えた「えーえんとくちから」の正体は「永遠解く力」だった。「永遠」とは寝たきりの状態に縛り付けられた存在の固定感覚、つまり〈私〉の別名ではないだろうか。

〈私〉は〈私〉自身を「解く力」を求めていたのでは。

旅の道中でもその永遠が思い出されるのだった。

 

7月30日(金)

■17時

厚労省担当者との会議を切り上げて神田へ向かう。秋葉原を散歩する。ソイネ屋の跡地を眺める。テイクアウトしたつけ麺を頬張るが、欲張りすぎたせいで食べきれなかった。

 

7月31日(土)

■12時30分

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チェックアウト後の空白の時間。行き先に悩む。ひとまず浅草橋まで歩き、シェアハウスの住民におすすめしてもらった喫茶店でオムライスとレモンソーダを注文する。

笹井宏之の「泣くなんて思ってなくて白菜をまるかじりするしかない朝だ」という歌を思い出しながら、レモンをまるかじりする。白菜をまるかじりするしかなかった心境と涙の訳を考える。私は生ぬるいむなしさを打壊するための酸味を求めてレモンを口に含んだ訳だけど、白菜はそうではなくてやさしくて甘いから。せきとめきれない涙と合わさって、へんてこな味がしたかもしれない。ともすれば奇跡みたいな出来事に遭遇した可能性に掛けたくもなる。

続けて「交尾するときはあんなに美しいなめくじに白砂糖かけっぱなし」という歌を読み返しながら、甘すぎる誘惑と政治が跋扈するこの日常に殺されかけている可能性を思う。生殺与奪の権を握られているものたちが最も美しく在れる瞬間を知りたくて、Google検索。なめくじの交尾は「自家受精も可能」「身体の前後に性器があり巴体勢で絡まる」「雌雄同体のため相手は異性でなくても構わない」という特徴があるらしい。自分と共通項がありすぎて思わず吹き出してしまった。

 

■15時

耳たぶが寂しかったため新宿で金色の耳飾りを購入。旅先で会う人たちに何かお菓子をと思ったがなかなかピンとくるものがない。

■16時

芸術祭の会場へ向かう。道中にお菓子屋さんがある。オリジナルテーマソングが鳴り響いていて、なかなか個性的である。

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店内を眺めていると子連れの若い男性に声をかけられる。「今日でお店閉じちゃうみたいですよ!」と。終始ラテンのノリ(?)で話しかけられて愉快。贈り物を選び会計をしたあとも声をかけられ、「妻も来たわー!」とパートナーを紹介されそうな流れになる。軽く会釈をして退出。

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■18時

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腐れ縁の女と合流する。先ほど出会ったパパさんを思い出すようなラテン音楽。会場全体が熱気を帯びる。オーケストラによるカルメン組曲とタップダンスの組み合わせ。子どもたちが椅子から立ち上がり一緒に踊る姿も最高。夏の終わり、試験が終わったらタップダンスを習おうか?陽気な気分でコンサートマスターに挨拶し関西行きの切符を買う。

■21時

移動途中、オンラインで専門職会議に参加。若手職員から労働環境の是正や労働組合の話題があがり希望を感じた。

 

8月1日(日)

■8時

過去に訪れた記憶を手繰り寄せ、予約必須の土釜の朝ごはんを頂く。

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■9時30分

蝉の大合唱を聞く。
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「合唱といふより連鎖反応の蝉蝉蝉蝉、破裂しさうだ」

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■11時

今年GWに連泊させてもらった家とお世話になった人に会いにいく。彼の愛する人とも再会。心のなかでハグをする。初対面の際に捨て身の覚悟で語らいすぎたからか、タイムラグを感じず緊張も不安もなく近況報告しあえた。そこでも労働問題の話になり、当然相模原の話もできた。私が真っ昼間からセクシュアリティの話をしまくるのはご愛嬌というかそれも込みで歓迎してもらえて本当に嬉しかった。

 

■13時30分

びわ湖ホールまで車で送ってもらう。至り尽くせり!

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今旅の目的でもあるカルメン鑑賞の時間が近づいてきた。胸が高鳴る!f:id:kmnymgknunh:20210803202411j:image

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同時刻、西東京にて愛する友人らが主催する差別と暴力に抗議するためのセックスワーカー追悼活動が開始されたので勝手にひとりで参戦。目の前のびわ湖を歩く。心は共に。(※以下の写真は主催者様サイトから頂きました。)

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■17時30分

観劇終了。舞台でカルメンが「私は自由だ」「死に方くらい自分で選ばせろ、あんたの言いなりにはならない」と何度も歌い唸ったラストと、本日の追悼行動とが重なる。そして今年ストーカー規制法が改正されたことも思い出された。

愛を理由に暴力を正当化し、カルメンに妄執するホセは現代であれば絶対にストーカー規制法の対象。橋本治恋愛論じゃないけど、恋愛は狂い狂わせる才能がある人間たちの筋トレであり戯れという自覚が必要なのよ。恋愛感情が美しい素晴らしいものと持て囃される世の中で生身の命が失われるのは本当にやるせない。今回のオリエ演出ではスペインらしさ(ジプシー文化や闘牛士など)は手放され、現代日本が舞台になっている。カルメンはロック歌手でホセは国家公務員(警察)という設定。だからか、日本社会の構造に魂を殺されてきた不自由な男が権力を失った途端、路頭に迷い一方的にファム・ファタール認定した女に依存し、彼女が渇望した自由を全否定したという筋書きに奇妙な説得力を持たせていた。総合的な批評はこちらが的確に思えた。

社会的に弱い立場の人が命を奪われやすいことと、その人が弱い人間であるかは決してイコールではない。子どものような純粋な感性と、したたかに現実を生き延びてきた自負とが内在するカルメン。"恋愛感情の継続を願うことは不自由を約束すること"だと感じる私からは、恋愛ではなくただ自由だけを追い求めていたようにも見えた。彼女にとっての恋愛関係は一瞬一瞬の衝動でしかないからだ。男性(恋愛)を独占し続けることに興味がない。自分の感性に正直であることを貫いて、常に変化を欲する奔放な生き様がよく表現されていた。だからこそラストが哀しい。出来るなら前作のトゥーランドットの舞台のように思い切った新解釈がほしかった。『プロミシング・ヤング・ウーマン』もそうだったけど、女性や特定のマイノリティばかりが犠牲になる物語をわたしはもう簡単には受け入れたくない。殺されていいはずの人はいない。どんな理由があってもだ。生きさせろ。物語の中でも、現実の中でも、たったそれだけの事を叫ばないといけないことが悔しい。人と人が連帯するときのシンパシーは、「殺されたのは/忘れ去られたのは自分だったかもしれない」という点にあるだろう。言葉を奪われてきた人の、暴れるしかなかった人たちの、言葉にならない言葉が伝わってほしいし、そうでないと困るのだ。追悼活動はかなりの反響があったよう。炎天下を参加された方、参加できたかを問わず関心を持ちそれぞれの思いを抱えていた方、本当にお疲れ様でした。

 

■18時

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びわ湖ホールを出て、昨夏知り合った方と浜大津駅で再会を果たす。素敵な店主さんのいるワイン酒場のような定食屋。チーズも、鱧カツも、関西ハムも、山菜煮も美味しかった。この出会いも不思議と耕された関係性で、会うのは2回目なのに、まっすぐ飛び込んでいける居心地の良さがあって、4時間があっという間だった。(寛大さに甘えて喋りすぎたかもです。ごめんなさい。自分から会いたいと誘えたことも珍しくて幸せだった。)追悼活動の流れで風俗に関する私の考えを伝えたらゴダールのような答えがかえってきたことにも心底LOVEを感じた。物の怪の類の話も良かったなあ。大阪で暮らす大好きな人たち(ポリー実践者でもある)と必ず引き合わせますねと約束して解散。

国に対する信用が墜落している中、心身のバランスが崩れないように取捨選択しながら個人で出来る範囲の感染症対策をし、ワクチン接種を済ませ毎週PCR検査するという日常に疲れてしまった。心許せる人たちと再び人生を交差させたり合流するんだいう気持ちだけでなんとか生きながらえている。

 

■23時

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www.youtube.com

ホテルに戻り、部屋中にカルメンの音楽を流す。作曲家ビゼーも若くして天命を終えた芸術家(カルメン初演3ヶ月後、36歳で死去)。児童合唱団にいた頃、子役で出演したことがある私にとって、カルメンは原点の一つ。今日という日に鑑賞できて良かった。のんびり風呂に入る。二の腕ぷにぃのため逆腕立て伏せをしてから就寝。

 

8月2日(月)

■9時

誰との約束もない日。ゆっくり起きてホテルバイキングへ。

■12時

二度寝してチェックアウト。ミシュラン蕎麦屋を再訪しようかなと街歩きを検討しつつ、暑さを理由に断念。京都駅周辺で過ごすことにした。

■14時
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こちらも訪れたことのあるお店。山椒ソーダは歯がゆい味がする。タピオカ用のストローで一気に吸い上げる。底には冷えた山椒がごろごろ眠っている。

■15時

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「Wacoal本社のある京都でブラジャーを必ず買わねば」という使命感に駆られて伊勢丹へ笑。今夏で終了してしまうスタディオファイブはなんと!店舗、完売、在庫、無し…!

店員さんに相談した結果ウェブサイトでの購入が間に合う。感謝しかない。パルファージュのV-Richブラ(下写真)はその場で試着して即決購入。破滅的な美しさ、私にとってのファムファタール…。

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■18時

駅前のWacoalコワーキングスペースで勉強するか悩んだが、早めに東京に戻ることにして新幹線の中でテキストを開いた。

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東京駅に無事到着。帰宅してブログを書いていたら深夜3時になってしまった。明日からまた頑張らないとだね。

 

「魂がいつかかたちを成すとして あなたははっさくになりなさい」

昨日8月1日(八朔)は、笹井宏之の誕生日だったらしい。ご存命であれば39歳(享年26歳)。会ったこともない人の誕生日と命日が身体に刻まれている。側にいるように、その息遣いは作品に宿っている。そんな作家にはめったに出会えない。魂の通う旅、その流れそのものに愛を込めて。どうかまたあなたと再会できますように。