人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

2021年夏紀行(7月30日〜8月2日)

笹井宏之の歌は、いつも生活の延長線上にある。桃を食べるときにも浮かんでくる。突然再生されたと思ったらすぐに鳴り止む音楽のようでもある。

「透き通る桃に歯ブラシあててみる (こすってはだめ)こすってはだめ」

「嫌われた理由が今も分からずに泣いている満月の彫刻師」

「さあここであなたは海になりなさい 鞄は持っていてあげるから」

「しっとりとつめたいまくらにんげんにうまれたことがあったのだろう」

穂村弘の笹井宏之評が好きだ。その一部を引用する。

〈私〉のエネルギーで照らし出せる世界がある一方で、逆に隠されてしまう世界があるのではないか。笹井作品の優しさと透明感に触れて、そんなことをふと思う。

笹井ワールドにおける魂の等価性と私が感じるものは、一体どこからくるのだろう。その源の一つには、或いは作者の個人的な身体状況があるのかもしれない。

 

どんなに心地よさやたのしさを感じていても、それらは耐えがたい身体症状となって、ぼくを寝たきりにしてしまいます。(略)短歌をかくことで、ぼくは遠い異国を旅し、知らない音楽を聴き、どこにも存在しない風景を眺めることができます。あるときは鳥となり、けものとなり、風や水や、大地そのものとなって、あらゆる事象とことばを交わすことができるのです。(歌集『ひとさらい』「あとがき」より)

ここには鳥やけものや風や水や大地と「ぼく」との魂の交歓感覚が描かれている。私は本書のタイトルとなった歌を思い出す。

 

えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい

 

口から飛び出した泣き声とも見えた「えーえんとくちから」の正体は「永遠解く力」だった。「永遠」とは寝たきりの状態に縛り付けられた存在の固定感覚、つまり〈私〉の別名ではないだろうか。

〈私〉は〈私〉自身を「解く力」を求めていたのでは。

旅の道中でもその永遠が思い出されるのだった。

 

7月30日(金)

■17時

厚労省担当者との会議を切り上げて神田へ向かう。秋葉原を散歩する。ソイネ屋の跡地を眺める。テイクアウトしたつけ麺を頬張るが、欲張りすぎたせいで食べきれなかった。

 

7月31日(土)

■12時30分

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チェックアウト後の空白の時間。行き先に悩む。ひとまず浅草橋まで歩き、シェアハウスの住民におすすめしてもらった喫茶店でオムライスとレモンソーダを注文する。

笹井宏之の「泣くなんて思ってなくて白菜をまるかじりするしかない朝だ」という歌を思い出しながら、レモンをまるかじりする。白菜をまるかじりするしかなかった心境と涙の訳を考える。私は生ぬるいむなしさを打壊するための酸味を求めてレモンを口に含んだ訳だけど、白菜はそうではなくてやさしくて甘いから。せきとめきれない涙と合わさって、へんてこな味がしたかもしれない。ともすれば奇跡みたいな出来事に遭遇した可能性に掛けたくもなる。

続けて「交尾するときはあんなに美しいなめくじに白砂糖かけっぱなし」という歌を読み返しながら、甘すぎる誘惑と政治が跋扈するこの日常に殺されかけている可能性を思う。生殺与奪の権を握られているものたちが最も美しく在れる瞬間を知りたくて、Google検索。なめくじの交尾は「自家受精も可能」「身体の前後に性器があり巴体勢で絡まる」「雌雄同体のため相手は異性でなくても構わない」という特徴があるらしい。自分と共通項がありすぎて思わず吹き出してしまった。

 

■15時

耳たぶが寂しかったため新宿で金色の耳飾りを購入。旅先で会う人たちに何かお菓子をと思ったがなかなかピンとくるものがない。

■16時

芸術祭の会場へ向かう。道中にお菓子屋さんがある。オリジナルテーマソングが鳴り響いていて、なかなか個性的である。

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店内を眺めていると子連れの若い男性に声をかけられる。「今日でお店閉じちゃうみたいですよ!」と。終始ラテンのノリ(?)で話しかけられて愉快。贈り物を選び会計をしたあとも声をかけられ、「妻も来たわー!」とパートナーを紹介されそうな流れになる。軽く会釈をして退出。

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■18時

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腐れ縁の女と合流する。先ほど出会ったパパさんを思い出すようなラテン音楽。会場全体が熱気を帯びる。オーケストラによるカルメン組曲とタップダンスの組み合わせ。子どもたちが椅子から立ち上がり一緒に踊る姿も最高。夏の終わり、試験が終わったらタップダンスを習おうか?陽気な気分でコンサートマスターに挨拶し関西行きの切符を買う。

■21時

移動途中、オンラインで専門職会議に参加。若手職員から労働環境の是正や労働組合の話題があがり希望を感じた。

 

8月1日(日)

■8時

過去に訪れた記憶を手繰り寄せ、予約必須の土釜の朝ごはんを頂く。

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■9時30分

蝉の大合唱を聞く。
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「合唱といふより連鎖反応の蝉蝉蝉蝉、破裂しさうだ」

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■11時

今年GWに連泊させてもらった家とお世話になった人に会いにいく。彼の愛する人とも再会。心のなかでハグをする。初対面の際に捨て身の覚悟で語らいすぎたからか、タイムラグを感じず緊張も不安もなく近況報告しあえた。そこでも労働問題の話になり、当然相模原の話もできた。私が真っ昼間からセクシュアリティの話をしまくるのはご愛嬌というかそれも込みで歓迎してもらえて本当に嬉しかった。

 

■13時30分

びわ湖ホールまで車で送ってもらう。至り尽くせり!

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今旅の目的でもあるカルメン鑑賞の時間が近づいてきた。胸が高鳴る!f:id:kmnymgknunh:20210803202411j:image

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同時刻、西東京にて愛する友人らが主催する差別と暴力に抗議するためのセックスワーカー追悼活動が開始されたので勝手にひとりで参戦。目の前のびわ湖を歩く。心は共に。(※以下の写真は主催者様サイトから頂きました。)

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■17時30分

観劇終了。舞台でカルメンが「私は自由だ」「死に方くらい自分で選ばせろ、あんたの言いなりにはならない」と何度も歌い唸ったラストと、本日の追悼行動とが重なる。そして今年ストーカー規制法が改正されたことも思い出された。

愛を理由に暴力を正当化し、カルメンに妄執するホセは現代であれば絶対にストーカー規制法の対象。橋本治恋愛論じゃないけど、恋愛は狂い狂わせる才能がある人間たちの筋トレであり戯れという自覚が必要なのよ。恋愛感情が美しい素晴らしいものと持て囃される世の中で生身の命が失われるのは本当にやるせない。今回のオリエ演出ではスペインらしさ(ジプシー文化や闘牛士など)は手放され、現代日本が舞台になっている。カルメンはロック歌手でホセは国家公務員(警察)という設定。だからか、日本社会の構造に魂を殺されてきた不自由な男が権力を失った途端、路頭に迷い一方的にファム・ファタール認定した女に依存し、彼女が渇望した自由を全否定したという筋書きに奇妙な説得力を持たせていた。総合的な批評はこちらが的確に思えた。

社会的に弱い立場の人が命を奪われやすいことと、その人が弱い人間であるかは決してイコールではない。子どものような純粋な感性と、したたかに現実を生き延びてきた自負とが内在するカルメン。"恋愛感情の継続を願うことは不自由を約束すること"だと感じる私からは、恋愛ではなくただ自由だけを追い求めていたようにも見えた。彼女にとっての恋愛関係は一瞬一瞬の衝動でしかないからだ。男性(恋愛)を独占し続けることに興味がない。自分の感性に正直であることを貫いて、常に変化を欲する奔放な生き様がよく表現されていた。だからこそラストが哀しい。出来るなら前作のトゥーランドットの舞台のように思い切った新解釈がほしかった。『プロミシング・ヤング・ウーマン』もそうだったけど、女性や特定のマイノリティばかりが犠牲になる物語をわたしはもう簡単には受け入れたくない。殺されていいはずの人はいない。どんな理由があってもだ。生きさせろ。物語の中でも、現実の中でも、たったそれだけの事を叫ばないといけないことが悔しい。人と人が連帯するときのシンパシーは、「殺されたのは/忘れ去られたのは自分だったかもしれない」という点にあるだろう。言葉を奪われてきた人の、暴れるしかなかった人たちの、言葉にならない言葉が伝わってほしいし、そうでないと困るのだ。追悼活動はかなりの反響があったよう。炎天下を参加された方、参加できたかを問わず関心を持ちそれぞれの思いを抱えていた方、本当にお疲れ様でした。

 

■18時

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びわ湖ホールを出て、昨夏知り合った方と浜大津駅で再会を果たす。素敵な店主さんのいるワイン酒場のような定食屋。チーズも、鱧カツも、関西ハムも、山菜煮も美味しかった。この出会いも不思議と耕された関係性で、会うのは2回目なのに、まっすぐ飛び込んでいける居心地の良さがあって、4時間があっという間だった。(寛大さに甘えて喋りすぎたかもです。ごめんなさい。自分から会いたいと誘えたことも珍しくて幸せだった。)追悼活動の流れで風俗に関する私の考えを伝えたらゴダールのような答えがかえってきたことにも心底LOVEを感じた。物の怪の類の話も良かったなあ。大阪で暮らす大好きな人たち(ポリー実践者でもある)と必ず引き合わせますねと約束して解散。

国に対する信用が墜落している中、心身のバランスが崩れないように取捨選択しながら個人で出来る範囲の感染症対策をし、ワクチン接種を済ませ毎週PCR検査するという日常に疲れてしまった。心許せる人たちと再び人生を交差させたり合流するんだいう気持ちだけでなんとか生きながらえている。

 

■23時

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www.youtube.com

ホテルに戻り、部屋中にカルメンの音楽を流す。作曲家ビゼーも若くして天命を終えた芸術家(カルメン初演3ヶ月後、36歳で死去)。児童合唱団にいた頃、子役で出演したことがある私にとって、カルメンは原点の一つ。今日という日に鑑賞できて良かった。のんびり風呂に入る。二の腕ぷにぃのため逆腕立て伏せをしてから就寝。

 

8月2日(月)

■9時

誰との約束もない日。ゆっくり起きてホテルバイキングへ。

■12時

二度寝してチェックアウト。ミシュラン蕎麦屋を再訪しようかなと街歩きを検討しつつ、暑さを理由に断念。京都駅周辺で過ごすことにした。

■14時
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こちらも訪れたことのあるお店。山椒ソーダは歯がゆい味がする。タピオカ用のストローで一気に吸い上げる。底には冷えた山椒がごろごろ眠っている。

■15時

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「Wacoal本社のある京都でブラジャーを必ず買わねば」という使命感に駆られて伊勢丹へ笑。今夏で終了してしまうスタディオファイブはなんと!店舗、完売、在庫、無し…!

店員さんに相談した結果ウェブサイトでの購入が間に合う。感謝しかない。パルファージュのV-Richブラ(下写真)はその場で試着して即決購入。破滅的な美しさ、私にとってのファムファタール…。

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■18時

駅前のWacoalコワーキングスペースで勉強するか悩んだが、早めに東京に戻ることにして新幹線の中でテキストを開いた。

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東京駅に無事到着。帰宅してブログを書いていたら深夜3時になってしまった。明日からまた頑張らないとだね。

 

「魂がいつかかたちを成すとして あなたははっさくになりなさい」

昨日8月1日(八朔)は、笹井宏之の誕生日だったらしい。ご存命であれば39歳(享年26歳)。会ったこともない人の誕生日と命日が身体に刻まれている。側にいるように、その息遣いは作品に宿っている。そんな作家にはめったに出会えない。魂の通う旅、その流れそのものに愛を込めて。どうかまたあなたと再会できますように。