人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

2021年夏紀行(7月17日〜19日)

私が私のためだけに旅できるようになったのはいつからだろう。慣れた土地でも特定の誰かと過ごす時間を旅のように味わえるようになったのはいつからだろう。誰にも尽くす気がない、自分にしか興味がないことを一切隠さず振る舞う人と散歩し続けた夜以降かもしれない。

誰かの指示や願いを介さずに、自分の身体と意識だけをその土地へ持っていくという感覚。それを得てからは、特段事情がない限りお土産コーナーに滞在することはなくなった。自分の旅を彩ることに金を払う。旅先で会える人との時間をふんだんに味わう。すると旅を通じて調律された私の身体自体がお土産になる。

月1、2回の外泊を設定するようにして数ヶ月が経つ。都心のビジネスホテルに泊まりその街を散歩することが多い。それが毎回とても楽しい。

 

7月17日(土)

■10時

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オリンピック関連のニュースに毎日気が滅入っている。極めつけは、感染症対策を理由に盲聾の水泳選手が介助者の同行を許可されなかったこと。重度障害者への外出・コミュニケーション支援は生きる上で欠かせない権利であるのに。また翌週、税金が投じられ公営放送されたオリンピック開会式に手話通訳が用意されていないこと(8/8訂正:用意されていたが意図的に放映されなかったこと)にもドン引きしてしまった。

昔、知人に「海外ではイベント主催者に通訳を用意してもらうのではなく、通訳者を自分で雇う場合がある。それが本当の自立。日本の障害者もそうしたらよい」と言われたことがある。一理あるかもしれないが現実を見ないようにするための、地に足がついていない発言だと感じた。この社会で障害当事者が自分でサービスをつけるPA制度は確立されていないし、通訳者の存在意義も十分認められていないし、そもそも差別偏見があり、社会的マイノリティが安全に稼げる労働環境が用意されていない中で、毎回自力で通訳者を探し雇うのは不可能に近いからだ。だからこそまずは公的機関や力を持っている側が配慮すべきであるし、社会を耕すべしだし、そこから議論の幅を広げるしかないと私は思っている(様々な人の様々な意見もぜひ聞いてみたい)。

 

■13時

演劇ワークショップに参加する。オリジナルの脚本を作ってみるという回。どうしても登場人物が非シスジェンダーの非異性愛者あるいは無性愛者ばかりになってしまう。それがわたしの生きる景色そのままだからだろう。仲間の居場所を物語の中に作り出す試みはなかなかエキサイティングだった。するとオリンピック開会式が、マイノリティや虐げられた経験を持つたくさんの人の声を排除してきたことの帰結なのだなと納得もしてしまった。当事者を制作チームに入れずその意思や痛みを問わない作品はリアリティを欠きちぐはぐになる。5年前からあるいは他国開催の時代からずっと、反対運動をし続けてくれた人たちの存在を何度も思い出して、自分はなにもわかっていなかったんだなといつも以上に猫背になった。

 

■17時

奔人(ぽんちゅ)に誘われて、新宿2丁目のイベントに参加する。子孫繁栄を祝う祭りが多い中で、生殖に抗うというか生殖機能に価値を置かない祭りがそこにはあった。抑圧された内なる欲望を自覚してそれを満たそうとする人のエネルギーを浴びて、意図せずかなりの力を貰ってしまった。ひび割れた彫刻を強引に修復させてしまうような引力。美しくないこと許せないことは変わらず私の身体と共に横たわっていて、それでも同時に深い海の底からあふれ出るような透き通ったよろこびがある。まさにレジリエンスの体験だった。

 

■19時30分

祭りを早退し日本橋へ向かう。汁無し坦々麺で腹ごしらえをする。

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■20時30分

無事チェックイン。2つのミーティングを終えて、貸し切り風呂。就寝したかったが寝付きが悪い。
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7月18日(日)

■9時15分

朝食提供時間ぎりぎりにお座敷へ。
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■11時30分

東京駅でのお見送りのため宿を出る。

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夕方の予定まで2時間ほどあるので銀座あたりをプラプラする。
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本日終了ということで、オーディオ専用ゲーム👾の展示会へ。視覚情報は一切ない、音声だけで楽しめるゲームが3種類ある。視覚障害者にも開かれた遊びの機会をというコンセプトが掲げられていたけれど、行列の中で、視覚障害のある方は一組のみ。彼らが「なんだか健常者ばかりだね。視覚障害者のコミュニティに宣伝したんかな」と話していたので、相槌を打った。ゲーム自体はめちゃくちゃ難しかった。ホラーテイストのロールプレイングは人気で順番回ってこなくて、私は空から降ってくる皿を割るゲームをした。皿は全く割れなくて、あまりの出来の悪さに、私の時だけスタッフさんがフォローする事態に。恥ずかしかった。
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愛するチョコレート屋さんも大行列。30分以上の待ち時間。諦めずに手に入れたマンゴージェラートは大変美味しかったが、映画上映に間に合わなくなった。

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■17時35分

5分遅れて『プロミシング・ヤング・ウーマン』鑑賞。

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一人のちっぽけな女が、愛する女の魂のために奔走する映画。エメラルド・フェネル監督が「世の女性は家でも職場でも恋人からも『過去に執着するな』と言われる。だからこそ『過去を忘れる気はない』と女性が宣言したらどうなるか興味があった」という動機から制作した作品。

"有望な男性"優位社会をぶっ壊す映画だった。「狂うしかなかった女」の既視感に笑い、号泣しつつ、終盤の虚しさには涙が引っ込んでしまった。私はサバイバーの声を聞きたかったからだ。サバイバーを救いたい人たちが加害者が生んだ構造に巻き込まれ酷く傷つくことを知っている。そしてその傷つきは被害当事者の受傷とは似て非なるものだとも知っている。復讐の主体は誰かという問いの中で、サバイバーの物語と出会いたかったのだと思う。魂の殺人といわれているようで報われない。しかし、名を忘れられた全て人たちへのレクイエムでもあることに異論はない。そして、物語の中でラヴァーン・コックス(トランスジェンダーを公言する女優)がネックレスを託された意味について考えてたら泣きそうになった。私は途中からニーナを自分の一部としてみていたからどうしても乗り切れない部分があったが、クィアの物語であるならば腑に落ちる感情が確かにあった。

後日鈴木みのりさんが、ストリッパー(セックスワーカー)を軽んじて消費してきた文化や創作者たちへの問題提起があったこと、そして多様な女性(白人シス女性以外)の描かれ方、Intersectionalityに触れられた論評が見当たらないことを指摘していた。またフェネル監督はLGBTクィアの性暴力被害の実態を確実に意識したはずだという語りを聴けて、丸裸のまま土に沈んでいた私が報われる気がした。

「自分都合で、何度でも出会い直しを提案する人の気持ち悪さ」についてのお話も印象的だった。なんど悔やんでも失ったものは戻らない。その現実を受け止め、失ったものを抱えて生きて行こうとする強い覚悟を軽んじる態度の傲慢さ。私の中にもあり、あなたの中にもあるものだ。ひび割れた土地まで降りて、目を合わせてもらえて、初めてやり直せるチャンスが与えられるのに。傷つけてしまった事実は変えられない(偶発的に傷が癒える可能性はあるにせよ、そのタイミングは一方的にコントロールできるはずがないのだ)。許されないままで出会い直せる道もあるけれど、それは相手からすれば苦渋の決断である。だれかを踏みにじったことを忘れてしまったら、再会の道は永久に閉ざされる。そういう意味でもあまりに完成された寓話だった。

■21時

放心状態でホテルに戻る。割り切れない鑑賞体験のせいか、なか卯の牛丼しか喉に通らないという不可解な身体になってしまう笑。
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■22時

昨晩と風呂場が入れ替わっていた。貸し切り状態を満喫。
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■2時

またもや眠りにつけず、自慰をしてなんとか今日を強制終了する。

 

7月19日(月)

■9時

ホテルから出社する。みんな、生き延びようねという思いを抱えて電車に揺られた。

生殖の結婚/生殖と結婚

愛する腐れ縁の子を初めて抱いたとき、この日のためにわたしは生き延びたのかもしれない、なんてそんなことを思った。嗚咽のなかで諦めそうになりながら待ち望まれた命。一歳半になる頃には血縁家族と猫の次にわたしの名前を覚えたらしい。定期的に会って遊んでビデオ通話をして成長を見守っているからだろう。この子にのっぴきならない愛情を注ぐことを当然に歓迎し、配偶者とは別枠の深さと重みをもって接してくれる彼女にいつも感謝している。

 

今まで「自分は産めないけど、元カノと元カレとの間に子どもが産まれたら最高なのに」と願うことが何度もあった。愛する人たちの間に産まれた子ならば惜しまず尽くすのにという妄想。わたしが考える親密圏のケアネットワークの最たるものがそれなのだろう。残念なことにその通りになるはずもなく、元恋人たちと再会すればみんな他のだれかと幸せに生きているのだが。

 

 

『ダイエット』という作品で、大島弓子が非婚姻関係による「成人間(高校生なので成人というには語弊があるが)ケアネットワーク」を描いている。摂食障害のため入退院を繰り返す主人公。その友人である女の子と男の子(二人は恋人という名前を持っていたがその子の存在により関係性はより親密にヘンテコリンに転換する)が、自分たちでその子を「育て直そう」と決意して物語の幕は閉じる。生贄にすることとは真逆で、子という名を持つその人を、責任を途絶えせずに愛することが大人たちの関係を満たすのかもしれない。『ダリアの帯』では、産まれてこれなかった我が子を想い続けた女性が、現実をくぐり抜けきるまでを描いた。大島弓子は喪失と再生を繰り返し描いてきた漫画家で、それはいつもリアリズムの中で息をしている。

昨日偶然出会った大島弓子評がそれを明確にとらえていた。世界にたしかに実在していたもの、神さまの視線さえ届かないくらい怖ろしいようなある場所で起こったこと、その現実を伝えることができるのは作家しかいないのだとある。それが大島弓子だという。納得しかない。

 

過去にも何度か書いているが、母が子を失い泣き崩れる痛みの記憶が(当時9、10歳だった)わたしの身体に刻みこまれている。 

その記憶、出生主義への違和感、自身が性的マイノリティだという自覚が相絡まって、高校生になる頃には「私は生涯子どもを持たない気がする、孫の顔は見せられないから許してね」と親に伝えていた。ずっと産むこと自体に関心がなかった。しかし今までそれを考えずに済んだことはない。

 

note.com

なぜ私たちは、産む性として生まれてきたのだろう。産みたいか産みたくないかにかかわらず、人生そのものが、自分のためではなく出産のためのように扱われるのはなぜなのか。萩尾望都山岸凉子、アトウッド、よしながふみも、問い続けてきたのは、その一点ではなかったか。

 

読み応えのあるエッセイを読んだ。女のからだを「産めよ、増やせよ」政策と結びつける政治がある。女のからだは、その人個人のものではなく国家のものだというメッセージとも受け取れる。それに抗ってきたのがフェミニズムだ。しかしまあ「産む機械」という侮蔑的な言葉の凄みを思う。奇妙なことに、この身体の中に産む機械としてのわたしが一部存在しているようにも思えてくる。能力があるかもわからないのにね。

10代、性別違和が強く子宮摘出が出来ないか調べる中で、本当に必要としている人のために機械になれたらと苛まれる日があった。19歳、特に性暴力被害に遭ってからは、予期せぬ妊娠をどうやって防ぐかそればかりを考える日があった。ピルそしてミレーナを使用してからは薔薇色の人生であり、得体のしれない近未来の恐怖を一旦脇に置けること、その上で他者の身体に触れられることが喜ばしくて仕方なかった。人生で一度だけ、生殖欲求というのかな、形見がほしいと感じた出会いがあったが、薬物による幻覚だったのだろう…。酔狂しすぎたことを後悔し恋愛を辞めてからの人生は、現実という地に足をつけて晴れやかでそれは健やかなものになった。

 

 

家庭内暴力や虐待を受け、生き延びてきた沢山の人たちの話を聞くとき、坂口安吾の「親がなくても、子が育つ。ウソです。親があっても、子が育つんだ。」という言葉が脳内で何度も再生される。何十年も施設に閉じ込められている人たちに出会う。壮絶な現実に耐えきれなくなり、人口が減っているのは良いことだし、このまま人類は消えたほうが良いのではないかと、進撃の巨人ジークに共鳴する日もある。

 

しかし、生きていると、疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思う時が、あるですよ。戦いぬく、言うはやすく、疲れるね。しかし、度胸はきめている。是が非でも、生きる時間を、生きぬくよ。そして、戦うよ。決して、負けぬ。負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありやせぬ。戦っていれば、負けないのです。決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません、ただ、負けないのだ。(坂口安吾『不良少年とキリスト』)

 

別の文脈で、優生保護のもとに子を持ちたいという欲求さえ否認され続けてきた人たちの声を聞く。子を持ちたかったが、それは叶わなかったという年上の友人たちの声を聞く。その現実を引き受けた先で生き方を切り開く激しくて静かな意志の、なんと格好良いことか。

同時にオルタナティブな子育てにチャレンジしている友人らの顔も浮かぶ。社会的疎外とケアの辛さや愚痴を聞く。育て続けることが難しく誰かに託すという勇気や、暴力被害の結果の出産する/しないという選択に立ち会う。当然なんだけど一人ひとりの唯一無二の生き方があって、一つだって裁くことなんてできない。しかし欲しいものがある人、選択肢がなかった人には切羽詰まるような有限性がある。決断をいつも見送り、相手の人生を自分の都合で長引かせることをすることを私は良いとは思わない。柔軟な選択肢があり生殖のモラトリアム期間を持てる立場はある種の特権と感じる。生き方を比較しても仕方ない、しかしセンシティブな話題だけに言葉を選ぶのはとても難しい。とはいえ、添い寝フレンドとの添い寝によって生かされた身だから、降りかかる現実を抱きしめるしかないと結論づけてもいる。

 

先日、男友だちに生殖機能の検査をしに行こうと提案されることがあった。結局実現には至らず、今週ひとりでクリニックを訪ねる予定だ。生殖を強く望んでいなくても、生殖を望みあう関係でなくても、パートナーでなくても「自分の身体について知りたい」という動機だけをもって一緒に検査を受けるという発想がすごく嬉しかった。クィア仲間というか、自分の身体を出発点にするフェミニズム的な試みがほんとうに好ましかった。しかしそれを冒頭の腐れ縁に何気なく話したら「何それ、不妊治療で悩んでいる、時間がない人のことを考えてほしい…。」と言われてしまった。固有の経験に想いを寄せられず、彼女の傷を無神経に開いてしまったことを謝罪した。

 

だからこの文章もある立場の人が読めば、本当に不快で仕方がないものだと思う。火に油を注ぐようなものなので、ここには書かないけれど「自分が生殖の実践主体になるとしたら」というシュミレーションも頭の中にはある。予測不可能で何が起こるかわからないが、これから始まる30代の人生を想像する。契約結婚をしている同居人や、今ある親密な人たちとの付き合いの中で、何らかの形で育児にコミットメントしたいと考えている。生殖は突き詰めれば能力主義と運任せの行為であると思うし、だからこそ実践主体となることから距離を取りたいという自分もいる。同時に生殖/家族/愛等の厄介なイデオロギーから距離を取りつつも、生殖の実践主体となろうとする知人らと疎遠になるのではなく、愉快な切り口で付き合い続ける道はないものか。そういった話ができる場がほしいので、試しに開いてみることにした。どうぞよろしくお願いします。

 

待ち望まれた野良猫のように

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引き寄せられるような家がある。それらは本当に存在していたのか疑いたくなるような場所なのだが、しかし確かな身体の記憶と共にある。

特製のコーンスープを用意してくれた、子を欲しがっていた伯母さん夫婦の暮らす寮。中学生になって始めて迎えたクリスマスの翌日に熱愛のような性衝動のような混沌とした感情を私に浴びせた女の子が両親と妹と暮らす一軒家。蒸し暑い季節、反抗期で家を飛び出したときにかならず匿ってくれた安全基地のような同級生の部屋。八丈島の山奥にある魔女の家。墓参りの帰りに必ず挨拶しに行った、世界中のどこにも売っていないような柔軟剤の香りが充満する玄関。添い寝フレンドだった人がひとりで住んでいた、阿佐ヶ谷から自転車で10分のアパート。常に開かれていて無秩序なまますべてを歓待する、ギークたちが暮らすシェアハウス。止まらないお喋りと注がれるワインとハグとキスで夜が明けた、イタリアの食卓。

 

滅多に起こり得ないはずだったこと。感性を委ねられ、心から脱力できる他者の家では、待ち望まれた野良猫のようにわたしは美しい存在になれる。実は、家の外にもそのような場所がある。それは街角で突然始まる演劇だったり、初めて駆け上がった坂から眺める海だったり、誰かが落としたまま誰にも拾われることのない鍵たちが眠る草原だったりする。

いつ命が絶えてしまうかはわからないけど、美しいものとして撫でられた日のことを抱きしめていきたいし、いつかまた在るかもしれないその日を秘かに夢見たい。そして予期せず私と居合わせた誰かが、自分の中にある美しさと出会える瞬間があるならば、それ以上の歓びはない。底に触れて深く息ができる場所を諦めることがないように、酔っ払うことのできないあなたの生きる季節が、ふたたび満ち足りますように。

名乗ることの恥について

水曜日、職場近くの豆腐屋で自家製合鴨弁当が280円(特別価格)で売っていて、どしゃ降りの後の乾いたコンクリートを突き進み、ピクニック気分で駅前のベンチでそれを味わう。ハイヒールで新宿の街を駆けるのに疲れて、帰宅する頃には和室に敷いた布団に吸い込まれるように眠ってしまった。蚊に刺された痒みで目覚め、4時半にシャワーを浴びて、夜明けを感じて、カプースチンを聴きながらこの記事を書いている。

 

選択的夫婦別姓最高裁判決は残念で、いや残念を通り越して、この国が望む「夫婦/家族/パートナー」関係を築くことの地獄を再認識した。自分は選択的夫婦別姓が実現したとしても法律婚を選べないけれど、それによって不便が解消され生きやすくなる人たちが確実に増えるし、多様性が認められた社会のほうが肩こりも減るだろうし命を落とす人も減るだろうから、法改正をひたすらに望み続ける。しかし地獄はいつ終わる?自分が死ぬまでにこの家族制度とそれを補強するシステムは解体されるだろうか?

 

金曜日、物を失くしてばかりで注意力は散漫しているものの生への活力が戻ってきた気がする。外泊先で優雅にのびのびと自慰もできる。立て続けにあったスピーチ依頼も無事終えた。疲労からか頭痛がする。こうした社会的な場での登壇について、グダグダで脱線しまくりで沈黙もして呂律が回らなくてボケボケの自分を許せるようになってきたことは嬉しい。複数いる自分が統合される日が多くなったというか、更新の連続で今がいちばん生きやすい。


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今、芸術や福祉、社会構造そして個の尊厳を問うはずの業界での性暴力告発が相次いでいる。支援者/協力者としてではなく告発を選べなかった一人のサバイバーという立場で私は告発者たちの側に居続けている。近しい問題意識を持つ有志によるZINE制作が決まった。自分自身に対して期待する。誰にも奪わせないものを作れるとしたら、輪郭を何度も引き直したコントロールの効かないこの身体から出発する以外にないだろうから。

かつて「添い寝アーティストを目指しています」という自己紹介の仕方をしていた。それは、添い寝によって尊厳を再獲得できたことの意味と価値、その感触をどう表現(贈与)できるかを考え続けるという意思表示でもあった。

今もその旅は続いている。しかし他者の尊厳を十分に考え抜かない中でアーティストを名乗ろうとしていた自分を心から恥ずかしいと思う。当時の東京での日々は、表現者・愛好家・批評家などが周囲にたくさんいてその人たちが語る言葉やハイコンテクスト文化を全て鵜呑みにして「アーティストたるものこうあるべき」というイメージが膨らんでいたように思う。しかし、今は抽象度が増していて、自身の中の矛盾や戸惑いを自覚したまま、アーティストと呼ばれる/呼ばれたい人たちを眼差せるようにはなった。関西のアーティストと交流できて東京の特異性を知り相対化できたこともそうだし、この数年で誰かの沈黙が破られる瞬間に多々立ち会ってきたことが最たる理由かもしれない。中途障害とも言い表せる、人生が突然プツンと分断されて連続性が失われたような体験、トラウマティックな出来事を抱えて生きるたくさんの人に出会ってきた。自分の声を取り戻すため、当時だってそのために抗っている人がたくさんいたのに、自分の回復に精一杯で、その静かな闘いを想像し敬意を払えていなかった。名乗ることの恥を思う。

 

https://sth-totalkabout.hatenablog.jp/entry/confession0620

このエントリを忘れないようにしたい。表現する者が、性暴力をテーマとする作品を世に出す過程で被写体の尊厳を無視し続けたことを。

境界を揺らがし得る相手との作品だからこそ、物語る身体を切り拓く可能性を抱けるからこそ、クリエイティブな活路を見いだせるかもしれない。しかし、表現"された"側からの「取り下げてほしい」という声を拾う道が残されていなければいけない。いついかなるときだってサバイバーの体験はサバイバーのものなのだから。おのずと『他者との関係性』をテーマとする作品が生まれたとき、それは避けられない道なのだ。

私自身、これまで何度か取材を受けたり美しい物語にされたり映像を撮られたりする中で、表現する側の好きなように創造されて良いと考えてきた。それは後から文句を言える関係性があると思えたからであり、コミュニケーションではなくてもディスコミュニケーションならばそれはそうと納得できたからである。しかし、ほんとうの意味で特別な交流があったのにかかわらず不在の存在として扱われること以上の苦しみはない。コミュニケーションもディスコミュニケーションも存在しない世界は、忘れられた街角みたいに、どこよりも寂しい。

 

土曜日、ゆにここカルチャースクールクィア講座に参加した。私が繰り返し使ってきた「自由」とか「尊重」という言葉の意味は、「普通に息をさせてくれ」であったことが思い出される。ある側面で力を持つ側の都合次第で線引きをされる(いないことにされる、存在を否認される)ことに対する全力の抵抗。幸福は最初から必要としていないし、生きる目的はそれだけなのだ。望んでもいない応援歌が届くとき、炭酸水を頭からぶっかけられたみたいに皮膚が痛む。底が見えない水の中をおそれずに飛び込んできてくれた人に鰓を差し出したいと思う。どうか、何を感じているか、声を聞き、目を合わせてほしい。規範通りには生きれはしない者同士が存在を祝福しあえる夜を探し続けたい。

これから、たくさんの熱を浴びに行く。舞台公演の予約で祝日がびっしり埋まる。カルメンピアソラの夏。音に埋もれ、踊りに担がれ、演技に慰められ、歌に愛でられ、ぎっしり肉づいたかなしみを削ぎ落とし、邂逅のための身体を調律せねばという思いだけがそこにはある。

去る者追わず、やがてひとり眠れて

10年前の冬、添い寝フレンドだった人の家をたびたび訪ねては、あれは何色だったかなあ、やさしい香りのやわらかい布団に包まって眠っていた。あの日は冬で、それは青いロングスカートだった。駅のエスカレーターが昇る間にカシャカシャという音がして、振り返ると私のスカートの中に手があって、睨んで腕を掴んだら「すみません消しますから」と言いながら私の手を乱暴に振り払い、盗撮犯は走り去った。「捕まえてください、助けてください」と大声を出したけど、誰も助けてくれなくて、白い目で見られるだけの駅構内の居た堪れなさを覚えている。

上司による性暴力被害から時間も経っていない時期で、慣れた足で警察署に向かったが、現行犯逮捕でないとねえ無理だねえと帰されてしまった。悔しさが染み付いたそのスカートを見るのも嫌ですぐに燃えるゴミとして捨てた。当時お世話になっていた相談団体のお姉さんに「ごめんなさい。もう動けません。疲れてしまいました」と連絡をして、添い寝フレンドからは「どうした?すぐに来てだいじょうぶだよー」と返事が来て、真冬の夕暮れの中アパートに辿り着いた。扉を開けて、何があったかを簡潔に伝えた。泣いていたか、抱きしめてもらったか、細かいことは覚えていない。けれどそのやさしい表情と非性的な空間に慰められたことは覚えている。鍋かカレーかな、暖かい食べ物を作ってもらって一緒に食卓を囲んだ。いつものようにアニメを流して、なんてことない普通の日常を一緒に過ごした。

 

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当時20歳になったばかりの私は、高校生の頃から好きだった緑川ゆき先生の漫画『蛍火の杜へ』にえらく感銘を受けていた。ちょうどアニメ映画化されDVDが出ていた頃で、「これ観ようよ」と私から提案した。アルバイトを掛け持ちする苦学生が背伸びして買ったのであろう豪華なディスプレイで、6畳の洋室の中央に置かれた楕円形のテーブルに肘をついて、一緒にそれを眺めた。

この物語は、人に触るとこの世から消えてしまう「人ならざるもの」であるギンと、共に過ごす毎夏の積み重ねの中であなたに触れたいという渇望を募らせる少女・蛍による、生きとし生けるものの風物詩である。私たちは彼らとは違い当然のように肌に触れあえる関係だったが、観終わった直後はお互い涙が頬を伝って、恐怖のような寂しさのような歓びのようなその全てが内包されたような不思議な感触のまま何度もたくさんハグをした。幸福と呼ぶべき瞬間はあの時に違いなかった。砂を飲み込むように苦しくて麻痺していた体が再び息を吹き返した瞬間。行き止まりのように思えた回路がちゃんと繋がった瞬間。人に抱きしめられ、人を抱きしめることが私は好きなんだと思い出せた瞬間でもあった。

 

そして、今年1月。性暴力被害からぴったり10年の節目が訪れた。

 

記念日反応と言うのがただしいのか、「10周年だから」と幾度となく意識しがちで、このタイミングでの出会いは全て必然のように感じていたし、性暴力の告発をする友人たちのそばで、自分に出来ることを探せるはずだと思っていた。しかし4月頃から心身のバランスが取れなくなっていた。突然同居人である夫の身体に触ることが出来なくなり(特に性的な文脈で)触られるたびに身体が強張るようになった。と思えば、表面的な快楽でその場をやり過ごすような野生的な振る舞いもあった。ちぐはぐで、極端な表現が増えるようになっていた。頭では自分の体調の崩れを理解しつつも、上手くコントロールが出来なかった。重心がなくなる感じがした。

今月に入り、友人たちに励まされ抱きしめられ、ようやく現実感が戻ってきた。身体の中でたくさんの声が蠢いている。それを外に出していかないといけない。職場に「今日は仕事を休みます」と連絡を入れて、寝たきりの自分を許すことにした。夫が私の好きな参鶏湯を作って看病してくれる。有難さと申し訳なさでいっぱいになった。脚色のない事実、反する自身の願望と行き場のない感情を整理する必要性に駆られて、「性暴力匿名相談ダイヤル」のボタンを押した。

開口一番に、大号泣しながら「性暴力被害から10年の節目だ生きてて良かったね」と自分に呪いをかけすぎていたことについて語った。そのまま40分間ずっと話を聞いてもらった。翌朝は頭が割れるように痛くなり、涙も枯れてこのまま水分不足で死ぬんじゃないかと不安になるほどだった。

自分の心身をコントロールできない日があることを理解できると良いし、自分の望む物語を過信しすぎないことが大切である。ある程度自己を操縦できる時ならば、生活圏の親密な他者に適度に甘えられるし、安定したケア関係は成立する。しかしそう上手くはいかないこともある。親しい人に専門家のような役割を求めるのは厳しいこと(だし、不健全な関係の中では回復が遠のく)と私は感じてもいる。生活圏外での調律が必要なタイミングを見逃さないようにしたいと常々思う。なので一切利害関係が発生しない、トレーニングを受けた見知らぬ第三者の存在がいつも*1有り難い。

 

「嫌なことは嫌だと表現することが自分を守ることだし、無理に人に触れなくてよいと理解しているんです。しかし、もう一生私は誰とも触れあえないかもしれない…と自分に呪いをかけてしまって困っているんです」と電話先の相談員に伝えると、「そうなの?もう一生誰かと触れあえなくて良いと、本当にそう思うの?」と問いかけられる。すると「いいえ!」と即答する私がそこにいた。喉に詰まっていた禍々しい固まりが一斉に流れる。全く面識のない相手だからこそ、遠回りせず本心を言えたのかもしれない。不思議なもので、その翌日、全く抵抗感なくセックスというか性的な接触(※私は恋愛感情や性欲が伴わなくても親愛な人と愉快に肌を重ねることができる)ができた。2ヶ月半のレス解消。やっぱり人に触るのは良いものだなあ、と思えた。本当に良かった。

 

その日以降、コントロールできなかった涙もピタッと止んだ。憑き物が落ちたように身体が楽になった。性暴力被害後、助けてくれようとした人を沢山失ってしまったので、その傷が何度もパックリ開いては乾いてを繰り返しているのだと客観視できたことも自分を助けた。だから自己開示した相手から強い拒絶を受けたり被害当時と似たような場面に出くわすと、タイムスリップして10年前の身体の感覚が戻ってきてしまう。トラウマの再演というやつだ。まあ、生きているからこそ血が噴き出るのだと思うと心って面倒で面白い。そして腹が立つし、めちゃくちゃ健気で可愛いな。私は野良なりに逞しく生きてきたが、当然弱る時もあることを忘れないようにしたい。失ってしまったものは沢山あるけれど、選べた今の環境もあるし、大切に想ってくれる友人たちがいる。だから個として尊重される付き合いを選ばないといけない。そしてサバイバー仲間たちの尊厳や多様な生き方を何より大事にしたいし応援したい。何を美しいと感じるか、その価値と感性を捨ててまで縋りたいものはないはずだ。

 

楽園はないけれど、完璧な世界もないけれど、ぼちぼち生きていれば、生き返る瞬間がまたやってくる。そうそう。怪我の功というべきか、一人で眠れるようになったのです。10年経ってようやくだよ。ようやく、添い寝フレンドだった人がただしく過去になったのかもしれない(本当にそうかはわからない、そう思いたいだけかもしれない)。ただ今日は晴れやかな身体で、穏かな心でピアノを弾きました。

ここまで読んでくださった方、ありがとう。どうかあなたも元気で好き勝手に生きててくれ!ください!

 

🎹今日の練習曲🎹

戦場のメリークリスマス/坂本龍一



②Energy Flow/坂本龍一

 

ゼルダの伝説 時のオカリナタイトルテーマ

 

④愛を奏でて/エンニオ・モリコーネ


 

*1:「あなたに心理療法は不要。喪の期間を生き抜いて」と専門家に言われた経験から、医療の力ではなく身近な人の手を借りながら雑に生き抜いてきたんだけど、時々調子を崩すので2~3年に1度の頻度でこうした匿名電話相談のお世話になっている