人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

墓場でキスをする(2021年6月近況)

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青野くんに触りたいから死にたい』というとんでもない傑作がある(なので15年ぶりくらいに月刊誌を購入してしまった)。

数日間付き合ってすぐに死んでしまった恋人「青野くん」が不在の世界で生き続ける意味はないと強迫的に後を追おうとした優里ちゃんと、それを契機として「人ならざるもの」としてこの世に戻ることを条件つきで許された青野くん。

所有して独占して同一化して蕩けて溶けちゃうような関係性は死んでしまいそうになるくらい気持ちよくて取り憑かれたように幸福でヌルっとジメジメして這い上がれない暗い場所だってことを思い出させる物語である。恋愛を描いているようで、愛という名前で括られるすべての関係性(親密圏)にひんやりとメスを入れて血肉を広げるような刺激的な物語である。

残飯の描写が不気味すぎる。選ばれなかった食材。傷む生モノ。誰もいなくなった空間。それを廃棄する人。宴は永遠に続かない。誰ともぴったり重なれない。墓場でひとり。そういうことが一コマに詰まっている。「人ならざるもの」の身体、死者の身体、生者の身体。それらが混ざり合って私の生きる肌にべったりと触れてくる。夏の夜にひとりで読むと寒気がするかもしれない。

「あなたに触れたい」という欲望。アサーティブ・コミュニケーションを目指して自他を尊重しましょうと皆が唱える時代、私たちは非暴力に努め工夫しながら欲望を満たそうとする。しかし「人ならざるもの」の身体はそんなのお構いなしにやってくる。身勝手な欲望をこれでもかと言うくらい露悪的に伝播させる。だから思いやりとは真逆のことが起きてしまう。そんな世界でどうやってI LOVE YOUを表現できるだろう?と問いかける寓話。選ばれない人を生み出す痛み、選ばれることの苦しみを抱える幽霊の青野くんと、選ばれて求められる喜びを一度も知らなかった優里ちゃんが肌を合わせることの意味と結末は何なのか、それを想うたび泣けてきてしまう。

 

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一昨日は、「#シェアハウスでの性暴力」というトークイベントに参加した。性や暴力の話を茶化さない空気をひとりひとり作っていくことの重要性を再確認した(発起人の皆さま、ありがとうございました)。私は、「こんな場所に来たのが悪い」「あなたにも非がある」と疎まれた経験を持つ者同士で連帯したり文句言ったり交渉したり再訪できる道が残されてほしいと発言した。実際に自分がそういう連帯に励まされているからだ。

その一つが、メンヘラを自称する最高の女ともだちである。彼女と「共に暮らしたシェアハウスは私達にとってのポケモンセンター(療養所)だったね」と語る夜がある。自身が内包する加害者性と被害者性・強靭で脆弱な精神についてを掘り下げて語り合う夜があって、もう会えぬ人々を想う夜がある(連帯できなかった、もう会えない人のことを私たちは何度でも思い出している)。被害者ぶってはいけないし、自分で責任を取らないといけないという暗黙の了解もある。何故ならお互いに傷つけあったからだ。責任を果たすとは、トラブルが起きた原因を考えて、後から自分の感情や過ちを見つめて理解をしようと努めることに他ならない。一方的に修復を望むことは身勝手だということも学んだ。

その女の子とは時差ありで恋人が被ったことがあった。私と彼が別れた後に、彼と彼女が付き合って、そのまま愉快に3人で暮らした時期があった。今は私と女の子のみ縁が続いていて「あの彼は本当に可愛かったねえ、元気かな。」と語ったりしている。今思えば、奇跡みたいな時間だったのかもしれない。非恋愛関係に形を変えることができたことも有り難かった。親密な時間を経由した3人で住まいを共にできて本当に楽しかったのだ。彼から「性被害に遭ったからといって、男性に憎悪を向けないで」と叱られたこともあったし、彼と私で精神的に揺らぐ彼女を支えた夜もあった。きっと二度と手に入らないだろう、奇妙で貴重で綺麗な思い出。

 

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今日は一人のセックスワーカーが客に殺害されたというニュースとそれを矮小化して揶揄する職業差別を見聞きして、心身ともにダウンしてしまった。訪問診療中の医師が患者に恨まれて刺された事件を何件も知っているからこそ、暴力やハラスメントは、密室な空間/関係性を持つ対人サービス業で起こりやすいもの(だからこそ対策が練られるもの)であり、セックスワークだけを取り出して廃止を論じることの無意味さを思う。セックスワーカーヘイトクライムに遭う背景には、それを個人や業種に責任を転嫁させる構造・社会に跋扈する偏見や差別が強く影響している。どんな仕事であっても搾取は起きる可能性があるし心を病むことがある。Sex work is work。より安全で権利行使できる労働環境、特定の業種が見下されない社会を目指す以外にないだろう。二度とこのような痛ましい事件が起こらないように願いたい。そのために行動していきましょう(自分の出来る形で)。

参考:セックスワーカーの権利運動が目指す 「職業差別」撤廃

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身体性について


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世界バレエフェスティバルの時期がやってきた。2018年開催時はU29チケットでかなりお得に鑑賞できたので、連日劇場に足を運んだ覚えがある。今年もU29チケットの恩恵に与りたかったがU25チケットしか販売されておらず、新型コロナウイルスの影響を思う。せっかくなのでS席チケット(2万7千円)を購入した。2階席の最前列を確保できて幸運だった。普段はここまで奮発しないけど、3年に1度の貴重な機会だし、こんなご時世だし、数万円の差を気にする必要もないので即決した。

気がつけばよくバレエの舞台を観に行っている。鑑賞後、天井から垂れる糸に肉体がぶら下がったような感覚が訪れるから好きだ。うつくしくてピンと張られた意識に身体が調律されるというか。トレーニングを受けていないので、数日経つと、すぐだらしない身体の使い方に戻ってしまうのだけど。

今日、偶然目にした記事<このバレエには想定外の衝撃がある。Netflix配信ドラマ『ナビレラ』は「おじいさんが踊る」だけの話ではない。>にこんなことが書いてあった。

バレエは、スポーツではない。隅々まで研ぎ澄ませた肉体と精神によって、しばしば「人ならざる存在」をも体現する芸術だ。

そのとおりだと思う。人形や動物、死者(幽霊)や精霊。神話や御伽噺のキャラクター。バレエは肉声や文字を必要としない芸術である。力強く繊細な身体だけがある。生きなさい、と命じてくるような説得力だけがある。

定期的にこの記事<シルヴィ・ギエム『ボレロ』 バレエによる天岩戸開き>を読むのだが、シルヴィ・ギエムの踊るボレロを一度で良いから観てみたかったなと悔やまれる。ギラギラしてそれでいて静寂で、命の循環を感じる踊り。膨大なエネルギーを注入される踊り。これまで友人を連れて上野水香ボレロを観に行ったことなら2度ある。また私はボレロを観に行く時だれかを誘うだろう。この世に存在するのに疲れて果ててしまった時にこそ、他者と共に観たい作品である。

ベジャールの『ボレロ』は、まさに神としての太陽をバレエによって天降(あふ)らせる代用宗教だった。

太陽の無限の恵みを求める、人間の言語を絶した呼びかけ。

私はギエムのダンスに、一つの神話の再現を見た。

そして、神話の再現こそは、「祝祭」の本質なのである。

祝祭としての身体性と考えるとしっくり来る。「あの、一回生の出来事」によって生かされる日々がある。非日常的な、もう同じ感触は味わえない、人生で一度だけあったこと。そういう身体の記憶に生かされている。

 

バレエつながりで、もうひとつ別の記事<「ブラック・スワン」は媚薬いらずの官能映画、女の子を誘って見てみよう。>を紹介したい。

山岸凉子がすぐれたホラー漫画を描き、バレエ漫画も描いているのは偶然ではない。その理由がようやく実感として理解できた。
バレエとホラーは、肉体を過敏に意識するという根っこで深くつながっている。そしてエロっつーか官能も身体性に関わっている。いじめるように自分の肉体を駆使して美に近づくバレエダンサーに感情移入させられ、その敏感になった肉体を刺激する演出の連続が、観客を恐怖/興奮させないわけがない。

端正な身体と狂気が描かれるバレエ作品を鑑賞した後は女性を口説くための絶好の機会が到来すると筆者は指南する。たしかに尖端まで過敏になって恍惚としている状態なので成功率は高まるのかもしれない(日常に戻って冷静になっても偽りなく触れあえる関係性ならなお良いと思うけど)。ここでいうセックスとは指先が触れ合うだけで完成されて満足するような身体の体験を指すのだろう。

ダーレン・アロノフスキーブラック・スワン』と山岸凉子の関連性については納得である。山岸凉子の作品には「霊感」についての表現が多く登場するのだが、それが大いに発揮されるのがバレエ漫画だと感じる。畏れを纏った官能的な肉体が漫画のコマを突き破るというか、立体を成して脳裏に焼き付くというか、そういう瞬間がある。たとえば、『アラベスク』のラ・シルフィード。たとえば、『プレプシコーラ』のノクターン。漫画を手に取らずとも、その場面をすぐに思い出せるから不思議だ。震えるような表現に出会えたことに感謝したい。

 

バレエフェスティバルまであと3ヶ月。それを楽しみになんとか生き延びようと思う。そして健やかな身体を作るために惜しまず医療にお金をかけたい。

・来月は東京都のHIV/AIDS普及啓発月間なので検査予約を取った。

・歯科定期検診の通知がきたのでクリーニングしに行く。

・婦人科で紹介状をもらう。近隣のクリニックでミレーナを外した後に諸々の検査をしたい。

・子宮頸がんを予防するためのHPV9価ワクチンを打つ。10万円弱。

・私の自治体では新型コロナウイルスのワクチンも7月には打てるようだ。予約は大変らしいが頑張る。

・久々に体重計に乗ったら1.5kg太っていたのでランニングを継続。余裕ができたらボクシングも数年ぶりにやりたい。

 

皆さんもどうかお身体ご自愛くださいな。

 


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↑バレエではないけど、Alvin Ailey American Theater(昨年で設立60周年だったらしい)のダンサーを待ち受け画面にしている。美しすぎて溜め息、である。

参考:それでもわれわれは踊る ― アルヴィン・エイリーの『リヴェレーションズ』がこれまで以上に元気なわけ

Alvin Ailey American Dance Theater: Chroma, Grace, Takademe, Revelations (2015) - YouTube

50年前の話

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大学生に「ピザを注文するから一緒に食べよう」と自宅に呼ばれた日の道端の紫陽花。きれいだった。眩しかった。正直いうと、最近は心も体も猫背になってしまっていたから。4月初旬からパワーレス状態で、GWあたりから資格勉強が全く手につかなくなり、どうしようもなかったんだけど、試験申し込み期限が迫ってきて、やっと1万4000円くらいの受験料を支払った。先週から再び図書館に行けるようになって、国民年金法のテキストを開いています。


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珍しく仕事がトントン拍子にうまくいきストレスのない一日だった。余裕があったので、帰宅して東京事変を流しながら半裸で冷やし中華を作った。黒胡椒を振った鶏ささみ肉は前いたところの上司の趣味である。美味しいので私も真似するようになった。ココナッツミルクも夏の始まりという感じがして好きだ。一気に飲み干した。

 

何度も思い出し笑いをしてしまう。今日は70歳手前の同僚(二度の心筋梗塞から生還したサバイバー)と二人きりになる場面があり、世間話を始めたつもりが何故か奔放トークが始まってしまった。「若かりし頃、部下に好きな男を寝取られたこと、急に思い出しちゃった。」と彼女が語り出す。私が冷静に「それって計算してみると…50年前の…NTRですね!」と返すと「そうなるわねェ!アッハッハッハ!!!」と腹を抱えて笑い転げるのだ。つられて本当におかしくなってしまって、声を上げて笑った。ああ愉快。「50年経っても寝取られ体験は忘れられない(場合がある)」という貴重な知見を得れたし、過去をこんな風に大笑いして語ってくれる彼女があまりに魅力的で、多大なパワーを貰えた気がしている。今日はゆっくり風呂に浸かり続きのテキストを開いてピアノを弾いて、電池が切れたように眠れたら良いな。毎晩お花畑みたいな夢ばかり映し出す自分の脳にうんざりしているから。

家庭内ストリップ

ヨレヨレのパジャマ姿で寝転がっていると「お尻が丸くなったのでは?」とちょっと意地悪な口調で指摘されたので、「あらそう?見てみてよ。」と畳の上で仁王立ちした私は、Tシャツを捲り、ズボンを下ろし、下着を剥ぎ取って裸になった。少し間が空いた後、「いい身体です。失礼しました。」と襖の外から声がした。

 

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この間、このZINEを愛する友人に紹介したら「全裸になろうかな?」という返信が来た。彼女の前なら私も堂々と裸になれそうな気がして「え?一緒に全裸なる!」と即答してしまった。

「trailer zine vol.1」を開帳すると、韓国人でありゲイである作家/写真家の「僕の乳首は普通にデカい。」という自己紹介が始まる。そこから不穏な希望が輝き始める。

新型コロナウイルスで国境が閉鎖された2020年東京で、クィア・カルチャーに関わっていた国籍も様々な人の姿とインタビューがそこには刻まれていた。Vol.1(Vol.2もある)では、彼の12人の素晴らしい友人のことが紹介されていた。

ドラッグ・パフォーマーの一人が「魔法少女になりたい。魔法少女になったら、ホモフォビアやトランスフォビアと戦いたい。世界のあらゆる偏見、セックスと性労働、ボディーイメージに対してね。」と語る。さらに別の一人が、SNS上で乳首を載せようとするとき性別が問われる理不尽さに怒る。他人ではなく自分の身体を鏡に映す。愉しい踊り方を導く。自由と権利を一緒に守ろうとしてくれない人とは生きられないと叫ぶ。誰にでも開かれているドラァグアートのこと。クィアでなくウィアードな空間。ノンモノガミーな実践。BLACK LIVES MATTER。「人そのもの或いはマイノリティが生きてきた葛藤の歴史について学ばずに文化だけ愛するの?」という批判。

生身の身体と言葉が熱を帯びている。同世代*1が主体となって、一人ひとり自分の声を持って表現していること自体に大変励まされた。そしてこのようなパワフルで親しみあるロールモデルに出会えたことで、友人と全裸になるという野望が具体性を帯びてくる。同時にド派手な女装にも挑戦したいと心躍った*2

先日、性的マイノリティやクィアの尊厳を否定するような自民党議員の発言が世に流れた。種の保存という言葉の想像力のなさ、そしてトランスして生きる人たち*3への憎悪に呆れてしまう。何故そこに生きている当事者を見ない?肥大された恐怖やスティグマを根拠に排除しようとするの?

しかしそれは今回だけではなかったし、日常でいつも起こっていたことだ。私は女とも男とも言い切れないジェンダー/セクシュアリティをずっと生きてきた。それを尊重してもらえるとき、やっと裸になれた。共にいる空間がストリップ劇場に変わる。生き延びた身体には歴史がある。だから目の前のあなたと私を美しいと思う。規範に添えない、規格外の身体がある。プライドという言葉が電流のように全身を巡る。生き延びること、それだけ。息を潜める他の仲間を想うこと、社会に合わせて擬態してきた時間を想うこと、それをひたすら労うこと。服を脱ぎ捨てて、在りたい身体を探ること。

 

昔々、裁判沙汰になって身近な人たちをたくさん傷つけ失って、性的事柄のすべてが嫌悪対象になってしまったとき、裸になることは哀しみでしかなかった。でも今は違うと断言できる。裸になることは哀しみを超えていく。消し去るのでも踏み潰すのでもなくて、抱きしめながら*4

*1:20代後半から30代半ば

*2:2022年9月、ついにドラァグメイクを体験した

*3:「トランスジェンダーとともに」あるために、男性がなすべきこと:REDDY:エッセイ (u-tokyo.ac.jp)

*4:(深夜、誰もいない河原を走る。ひとりリサイタルを始める。椎名林檎と一緒に腹の底から「尊厳」と叫ぶ。おすすめです!)

爆音に埋もれ河原を走るときの

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爆音を鳴らして走る車に出会う。これは騒音なのだ、と認識する前に「運転席は気持ち良いだろうな」という共感が過ぎる。田舎だけかと思ったら都心でもたまにああいう踊り狂った車たちに出会う。私もランニングをするときはあんな感じだ。クラシックやrie fu を耳から注入して脳内を音でいっぱいにして河原を走る。疲れたという感覚よりも気持ち良いという快楽が先走るので、長い走路もへっちゃらなのである。音楽は良い。時間も痛みも流してくれるから。

 

ということで今日は久々に河原を走った。半年ぶりくらいだと思う。さいきん気持ちが落ち込んで背中が丸まってからだが弛んでいた気がして、水を浴びた野菜みたいにシャキッとしたくて、浅いヒールからスニーカーに履きかえて深夜に飛び出したのだ。

 

友人らの性暴力告発の側にいると、当然だが自分の過去も蘇る。「ひとりで夜道は危ないよ、気を付けて」と言う人の善意。なんの力も与えない善意。なんどひとりで街を歩くたびに暴力に遭う場面を想像したか、どうやって社会的に抗うか脳内シュミレーションしたことがあるかを彼らは知らない。当然知らなくて良いことなので、わたしはなんとも言えない顔をして聞き流す。「赤裸々に性被害を語って、男に守られたいのか、ちやほやされたいのか」と言う人の悪意。私が言われた言葉ではないが決して気分が良いものではなかった(数年経った今でも思い出すので深く傷ついたのだろう)。それでもその悪意の裏には「私のほうが辛かったのに」というかなしみが滲み出ていたから「そうではないんでないの」と応答した後は、ただ聞き流した。

 

「嫌だったなら、その時に言ってくれれば良かったのに」と恨みつらみを向けられることがある。時差があることは責められない。そしてそのとき直ぐには伝えられなかった事情や背景があったことを想像したい。たくさんの選択肢がある中で沈黙を選ぶとき、そこには葛藤と静かに燃える感情があるはずだ。ベラベラ支離滅裂に言葉を並べてしまう夜と、何も言えずにただ夜道を走るしかない夜と、もう掴むことのできない奇跡のような時間を懐かしむ夜。いろいろな夜があって良くて、それをすべて洗い流すような大音量の音楽があって、カラオケには行きづらいからと誰もいない夜道でバカみたいに歌える初夏がある。

 

もともと運動神経は良い方で小学生高学年のころ陸上選手に選ばれたことがある。しかし出場した大会ではビリ欠で、苦笑いされたことが懐かしい。中学時代は不真面目で、悪友たちとマラソン大会を競歩大会にしてしまったな。上京して出会った尊敬する人は身体の引き締まったランナーで、彼の愛する八丈島を訪ねて駅伝大会を応援したこともある。添い寝フレンドだった人ともよく待ち合わせて西東京の河原を走り、脂肪が落ちない二の腕を揉まれたりした。夫は一緒に走ろうと私を誘うけれど他人の歩幅に合わせられるはずもなく目の前をスイスイ走り抜ける。今はそういう記憶を思い出しながらひとりで夜道を走っている。肌を剥き出して駆ける。すると足元を照らすように東京タワーが紅く光り始める。