人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

サバイバー紀行(3日目)

4月30日(金)

 

■9時30分

大阪で人と会う約束があるため、十分眠れていないが気合で起床する。下宿先から自転車を借りる。鍵の使い方に戸惑い、初めての道に戸惑い、予定していた電車の時間を逃す。

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西大路駅まで自転車で2キロ以内の距離である。西大路駅には私が大好きなものがある。


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聖地…。

WACOAL本社(の外観)を堪能する。毎年予約をして館内見学しているのだが、昨年に続き、感染症対策で見学できず。館内にあるWACOALミュージアムは誰でも観覧可能で、創業の経緯や商品の歴史を学べる場所だった。東京の友人らを連れて行きたかったが、仕方ない。いつでも自由に入れるようにするにはここで働くしかないなと毎回思う。

 

■11時

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駅前のパン屋で卵サンドとツナサンドとカフェラテを購入。梅田駅へ。ZOOM会議に急遽呼ばれたため参加する。30分で終わる。

 

■13時

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友人宅に招かれる。猪肉(大阪の魔女の店で特別に仕入れたとのこと)の赤ワイン煮込みが待っていた。骨から出汁。脂身がほろほろ蕩ける。牛蒡、マッシュルーム、じゃがいも、セロリも心身に染みた。多種類のパンは視覚的にも楽しかったし、グレープフルーツのサラダも美味しくて、味わい過ぎて食べ終わりがかなり遅くなってしまった。


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贈り物を交換しあう。好きなものを選んでいいと言われる。サングラスしているフェミニストのステッカーを選び、スマホに貼り付ける。多幸。


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食後はシャーベットとタルト、青色のハーブティー(ピンク色に変化する!)を愉しんだ。「大阪に移住したらどうか」と繰り返し誘ってもらえて嬉しかったな。加えて、進撃の巨人のライナーはパラディ島とマーレ島どちらでも自由に生きられなくて自己が引き裂かれてしまったけど、あの人には第三の島が必要だったし、第三の島とは大阪なんだわ、という話になり大笑いした。

そして「私はあなたたちの、土地を愛する姿勢が前々から好きなんだ」と伝えた。自分の生きる土地の歴史や見所、行きつけの店、そこで育まれた愉快な人間関係について。その一つ一つが真剣で、ここで生きていくという意思が明らかで、とても安心する。関西はみんな泥臭くて個人を本当に大切にする。大変だけど楽しいよ、助け合って暮らそうよ。というメッセージは、本当に魅力的だったし、光が差し込む心地がした。

 

■20時

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帰り道、WACOAL本社のネオンにうっとりする。昼間のピンクリボン乳がん啓発のシンボル)は夜にはパープルリボン(暴力根絶のシンボル)に光り輝いていた。

帰宅して戯曲講座のシナリオ作りに取り組む。基礎がなっていないので、子どもが考えたような内容になってしまう。いやそんなことない。子どものほうが豊かな書き方をするかもしれない。自身の創造性の乏しさに、かなり落ち込む。

 

■22時

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家主と家主の恋人と1時過ぎまでお喋りをする。明日みんなで早起きをしてダムタイプのイベントに参加しようと約束する。

ポリアモリーの話題になる。過去の親密な人間関係のすべてがその人を構成してきた大切な要素であるという話をする。嫉妬は否定されるべきではないし、モノアモリー特有の「この人だけ」も美しいし素晴らしいものだ感じていると伝える。複数の人を対象とした場合に愛情が薄くなってしまうのではないか?という疑問もあがり、それは、モノでもポリでも関係ないと答える。自己と他者に全力でコミットできるかという素質や能力には個人差がある。ただ、その対象が増えるのでポリの方が実践が複雑で困難が生じやすいかもしれない。またこの話題は恋愛や性愛の話とも限らず、生活(選択した他者と生きていく)の話でもあると伝える。人生のパートナーたちと全力で生きている、私の周りのポリアモリー実践者たちが思い出される。彼らの愛情の底知れない深さを私は知っている。それを薄いと形容するなんて絶対できないし、なかなか真似したくてもできないから眩しいのだという話をした。こんなふうに、関西で初めて出会った人たちに、私の大好きな人たちのことを話せることも嬉しかった。大好きな人たちをここに呼びたいとも思った。気楽で濃厚な時間を過ごせたことを振り返る。またもや銭湯に行きそびれ下宿先のシャワーをお借りした。就寝3時。

サバイバー紀行(2日目)

4月29日(木・昭和の日)

 

■12時

睡眠不足とワインの影響か、昼過ぎに起床。いつもと違う肌触りの布団の中で今日は何をしようかと迷う。網戸や雨戸がない窓の外は大雨である。新宿は豪雨だろうか。1時間位経過。腹が減ってくる。家主に紹介された東九条のカフェに行こうか。店舗を検索すると緊急事態宣言で臨時休業。困ったな。東京の友人が息子さんたちを連れてこちらに来ていたっけ。イベントの打ち合わせも兼ねて会いに行こうと思い連絡を取る。夕方に合流する約束がつく。

 

■14時

鏡を見る。頬の赤みが引いたのでほっとする。私はアトピー性皮膚炎持ちで、心身の体調を崩すと肌も荒れ地になるし、少し日焼けするとポツポツと湿疹が出てしまう。とりあえず化粧をして着替える。昨日がdenimday(1992年、デニムは同意がないと脱がせられないはずだから無罪という判決に対抗するためにイタリアで始まった運動)だったのを思い出してデニムを穿く。鏡を見るとやはりパーマが取れかけている。適当にヘアオイルを塗りたくるが正解がわからなくて困ってしまう。ま、可愛いだろうと自分に言い聞かせる。友人との待ち合わせまで自室でPCを開くが何もできずぼーっとしてしまう。

トントン。

突然、子どもが現れる。昨夕出会ったアーティストがそこにいて、「忘れ物を取りに行く間、この子を少し見ていてもらえないか。」ということだった。もちろん歓迎する。おいで、と招き入れる。あちらも緊張していて、名前を聞くと沈黙。年齢を聞くと「さんさい」と答えてくれる。この部屋から出て館内を探検したいか聞くと首を横に振る。私の部屋を安全な場所だと認識してくれたようで、何に興味があるか一つ一つ確認し、「昆虫」の学習動画を一緒に見る。私も勉強になる。

 

■15時

ドリルの音を怖がってしまうそうなので、まだしばらくこの部屋で過ごすことにする。童謡を歌う。リラックスしてくると声が大きくなりジャンプする。私は飛び跳ねる人が好きなので、嬉しくなる。スマホのピアノアプリで演奏をする。買ってきたもらったおにぎりを一緒に食べる。心配になるほど一口が大きい。窒息してしまわないよう丁寧に見つめる。私が持参したキラキラしたイヤリングを耳につけたいという。耳たぶの重みに喜んでいる。顔を振るたびに耳から垂れる金色の三角やお星さまや霞草が揺れる。美しかった。この子のことだけを考えていれば良い時間に慰められて、自分の徒労を知る。

普段から育児に携わっている人が散々悩んでいるであろうジェンダー規範を思う。なかなか適切な教材が見つからない。お子さんの性別や望む遊びを私が決めつけてもいけないし、私も自分の性別をどう表現したらよいか迷う。自分のことを「お姉さん/お兄さん」「おばさん/おじさん」と名乗るのには抵抗があるので、沈黙する。私のバイアスがかかっても良くないので、親御さんの意向も事前に確認しておけば良かった。

 

■19時

お子さんとお別れをして、片道50分くらいの友人と息子さんたちの家に行く。手作りのタコライスをご馳走になる。

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ずっと暮らしたくなるような安心感のある空間だった。人生にリタイアしているという話をして笑ってもらう。奔女会と奔人会の打ち合わせと下見をする。グラウンドルールの紙芝居を東京に忘れてしまったので印刷が必要だと気付く。晴れた日にこの庭でお酒とケーキを味わえるなんて楽園のようだと思った。

 

■21時30分

ソーシャルグッド業界で起きた性暴力問題を考える女たちとノンバイナリーの会(ZOOM)に参加する。遅刻の上、配慮の足りない登場の仕方をしてしまい反省する。この会には肩書のない有志が集っている。私も、専門家でも支援者でもなく一人のサバイバーとしての立場で参加することにしている。

そこで「当事者であることは、その問題から逃れられないということで、闘わない以外に生きられない。という自分に刻んだ呪いのような祈りから解放されたい」と感じ、抵抗なくその言葉が身体から出ていく場面があった。それは在日外国人への差別について話題になったタイミングだった。非当事者に「あなたは休んでいていい。私たちが代わりに闘うから」と言ってもらえて、「当事者は闘わなくてはいけないもの」という声から開放される日があるという語りの中だった。そういう日が来ると期待したい、微かな希望を持ちたいと表明した。今までは希望さえ持てなかった。生きていると、自分が突き動かされていくような出会いがやってくる。不思議だよねぇ。

ハラッサー体質の人ほど、問題を指摘されると他者を拒絶するし、「いい人」でいることに執着するという話も出た。そしてそういう人ほど「悩み続けて、この問題に向き合います」という表明だけを繰り返すという話もした。それにつく大量の「いいね!」に魂が削られるという話をした。気付けは深夜の1時近く。銭湯に行くタイミングを逃してしまったので下宿先のシャワーを借りた。眠くてたまらないけれども自分の感情に振り回されてなかなか寝付けない。なんとも愉快な夜だった。

サバイバー紀行(1日目)

 

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奔放な人生を祝って

4月28日(水)

■6時

京都に到着する。キャリーケースが重い。取っ手が壊れてしまい、駅のコインロッカーに収納できない。雨も降ってきてだるい。駅のトイレですぐに入れるビジネスホテルを探す。7時にチェックインできるところがあるらしい。予約して、五条に向かう。

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まるき製パン

ホテル近くに行きつけのパン屋があるので、立ち寄り、ハムコッペ・サラダコッペ・ミルクアーモンドコッペを購入。ミルクアーモンドコッペは初めて口にする。桃源郷のような味。味わっていると次第に名前が思い出せなくなり、翌日名前を検索する。

 

■12時

ホテルに着いてからとりあえず自慰をしたが、雑念ばかり生じてしまい、あまり良くなかった。身体が火照って終わった。そのまま1時間ほど仮眠を取れたが、仕事関係の電話が鳴りやまず、チェックアウトぎりぎりまで対応。ふとホテルの案内を読むと新型コロナウイルスのことを武漢ウイルスと強調する文面があり、もう利用するのは止めようと思った。

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 ■17時

下宿先に到着する。家主に滞在費(多いと言われた)と手土産と名刺を渡す。案内された部屋では、アーティストが家を整えている。ドリルの音と木材のいい香りがした。非住人とのことだが、二人きりになったタイミングで「何か困ったことがあれば連絡してね」と連絡先をいただく。好きになりそう。すぐに好きになった。定期的に来る方らしいのでまた会える日を楽しみに待つ。あまり事前に説明を求めなかった自分のちゃらんぽらんさに笑ってしまうが、家主と二人暮らしになることがわかる。快諾する。

 

■19時

トークイベント「《栗田隆子×堀江有里》"I Say a Little Prayer" キリスト教+アクティビズム+フェミニズムアーカイブ配信を視聴する。

キリスト教フェミニズムに共通するものとは、変わるものがなかったとしても抵抗していくことではないかという話。回復した人が「(同じように苦しむ人に施しを与えようとする)支援者」にしかなれない循環ではなくて、サーキュレートできる人、構造を批判し変えられる人が生まれてほしいという思いが語られていた。既存の何かを延命させてしまう共同体(それが成り立つには排除とセットである)の魔力について。たったひとりで祈るのではなく他者と共に祈れたらという願いについて。栗田さんと堀江さんのキャラクターがまた良くて、謙虚で、愉快で、等身大である。こういう年の重ね方、変化の仕方をしていきたいと思った。本日までの配信で全部視聴しきれなかったことが悔やまれた。


■20時

国際セーフ・アボーション・デーJapanプロジェクト「配偶者の同意がないと中絶できない日本~なにが問題か」リアルタイム配信を視聴する。

母体保護法の問題点と、歴史や法の運用について等盛りだくさんの内容だった。中絶について配偶者同意が必要なのは世界では残り11か国のみ。2011年にはWHOによる是正勧告があったが、先進国で唯一日本だけが変わらない。まず「婚姻」はリスクだなという感想が浮かぶ。事実婚でも法律婚でも、妊娠した場合は配偶者の同意が求められる。最近ようやく厚労省の通達が出て一筋の希望は見えるものの、配偶者の同意がなければ産むしかない現実は変わらない。妊娠の経緯が配偶者あるいは非配偶者からの望まない性交(性暴力)であった場合でも同様だ。法律は残酷に機能する。自分の意思のみで選択ができないこの状況を回避するには、「婚姻」をしない(法律上の配偶者を持たない)が最適解である。

私もミレーナで高い避妊効果を維持できていなければ、今の契約結婚事実婚という体にしてある)は維持できていないであろう。避妊の徹底が遂行できない場合は性行為自体にも消極的になってしまう。一刻も早く妊娠の可能性がある側の意思決定の権利が確立されてほしい。パートナーや第三者の意見を軽視したいということではない。相談先はあればあるほど良いと思う。ただ最終的な決定権が身体の所有者以外にある現状が明らかにおかしいのだ。

 

■22時

家主が帰宅する。うれしいことにウェルカム呑みを提案していただき3時間以上を共にする。

福祉と芸術業界で明るみになる性暴力の話をする。それぞれが尊厳を扱う分野であることを、福祉に関わる者やアーティスト自身が忘れているのではないか?という話をする。個別の関係性においても、すべてはつながってくる。スポットライトを浴びれる表現者とシャドーワーカーたち。自分の存在が隠されたり軽視されてまでそこに留まる必要はないのだということ。SWASH代表の要さんも仰っていたけど、やりたいことがあったとしても、新自由主義の中ではそれで生計を立てようとすると綻びが生じる。私たちはそういう社会に生きているのだ。

裸になることはかなしみでしかないのか?という長年の問い。何も想像せずに、なんとなく、簡単に、人に触れることが出来る側に自分はいないこと。非人間として尊厳を求めて生きるしかないということ。自分は愚かだから他者に期待ばかりしてしまうこと。気持ち悪がられてしまうこと。初対面の相手に、まるでシナリオに沿った台本を読み上げるかのようにペラペラと告白してしまった。本当は話さなくていいことかもしれない、聞かせることそれ自体が暴力かもしれない、そんな迷いの中での発言を傾聴してもらえて感謝である。

そして他者の作品に興味を持てないことへの戸惑いについても語らえて良かった。身に降りかかったすべてを表現せずにはいられない訳ではなくて、自身の生活やキャリアの利害を考慮して取捨選択できてしまう「余白」を持てる人をアーティストと呼ぶことはできないし、その作品に興味を持てなくて当然ではないかという話をした。そして表現”できる”ことの暴力性に無自覚な表現者があまりに多く、声をあげられない人、去っていく人に目を向けられないという二次加害的な現実を共有した。障害をもつ家族を扱った作品に、「彼女は表現ができないから、私が代わりに」というステイトメントが添えられることがある。表現ができない、表現が苦手であると言い切ることのおそろしさを思った。親密圏内での暴力は美しい形で免罪される。そういうものはうんざりだと思った。愛する友人の話もした。理不尽な暴力を経験した彼女が、あまりに傷つけられて生卵を投げるしかなかった話をした。彼女の憤りを伝えた。今こそ、日本版『talkback』が必要だと思っている。

フェミニズムの文献で、「自由に生きることこそが最大の抵抗」「相反する側の存在をいかに引き受けられるかを考えるためのもの」という表現を読む。実践には必ず苦痛が伴う。面倒だと言われる。見ないふりをされる。諦められてしまう。個としての立場といっても様々な側面がある。生活者として、表現者として、生存者として、社会的存在として、非社会的存在としての自分がいる。そのすべてを見つめたら、狂いそうになるかもしれない。潔癖にフェミニストであろうとするのはいささか難解だ。時に矛盾を引き受けて甘い汁を吸う日があるかもしれないし、そうやって生きるしかない日もあったと思う。ただそれに慣れてしまい鈍感になれることが怖い。高度に生きれなくて良い。けれど、自分と愛する人がただ自由であることを望みたい。権力と所有の欲望から距離を取り、混沌を愛しつつ、それを冷静に見つめられる健やかさを手放さずにいられますように。

友達100人できるかな

最近のうれしかったことについてです。

昨日ブログ(移転後)の読者数が100名に達しました~!地味にうれしい。

今年に入って7~10年間ぶりの再会が複数あったことも飛び回りたいほどうれしい。

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先日たまたまコナンの最新映画を観に行ったら、椎名林檎(の音楽)とも再会できたこともうれしかった。自発的に聴く機会を失っていたから。他者との出会いと再会は、音楽と似ている。読書や映画は能動的体験(読み解くには意志が必要)で、音楽は受動的体験と言っていた詩人の受け売りなんだけど。

他者も音楽も私の意志や都合とはお構いなしに勝手にやってくるものなのです。落雷のように降りかかることもあれば、知らないうちに慣れ親しんでいることもある。どちらの出会いに対しても私はいつも受け身で、なにかを待ち望むように、刺激が全身を巡る感覚を愉しみます。時々思い出してまた味わいたくなるような日もあれば、すっかり忘れ去ってしまう日もある。あちらからやって来てくれ、数年ぶりの再会があって、過去と未来がつながる。そして今の私と邂逅できる瞬間が本当にうれしいのだ。

リアルの友人に「あなたは大好きだけどあなたのSNSは嫌い」と言われることがあり、これも本当にうれしい。私も二つは別物と思っているから、どうしてもSNSとリアルを同一視したコミュニケーションができない(だからすぐに個人アカウントが停滞してしまう)。リアルで仲良い人たちは私のSNSを無視してほしいし、SNSで仲良い人たちはリアルで一生出会わないほうがいい。恐らくそれが仲良く続いていくコツである。

人生は本当に短い。若くして亡くなってしまう人、大きな事件に遭遇する人、別人格のようになってしまう人、一人では生命を維持できなくなった人の人生に触れることばかりで、明日は我が身と感じるし、自分もいつまで生きていられるかわからない。本音を言えば、奔放な生き方をしている人たちといつまでも宴を開いていたい。歓待された部屋で添い寝だけしていたい。うれしいなと感じられる一瞬一瞬を抱きしめていたい。

 

ブログ読者の方々、いつもありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。

 

 

 

告発者と共に在るということ

※性暴力に関する内容です。あなたの心身の健康を第一に考えていただけると嬉しいです。その上で安全と思える場所でお読みいただくか、今は読まないという選択をしてください。

 

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性暴力を受けて傷付いた人のケアを望みますーそう公言するときのケアとは具体的に何なのかを語れない人を私は信頼しないようにしています。「今」の「その人」が望むものが何なのかを悩み抜いて初めて共に在るための言葉が紡げると思うからです。そうでないと単なる自分が可愛いだけの体裁を整えた人になります。「ケアを望む(または、望まない)」の主語を当事者に返すべきだとも思います。

 

三者として、距離感を検討し自分の心を守ることはもちろん大切です。関わりを持てないことは責められることではありません。ただ、自分の心身を守るために対象から距離を置くことと、そこに存在する痛みを慮れず性暴力の構造に加担することは別物です。

他者のトラウマに触れるとき代理受傷する可能性はいくらでもあります。その自覚なしに境界線を踏み込もうとすると、いくらでも二次加害が起こります。なので慎重に対峙し、自分と他者を守る術を学ばないといけないです。大したことないだろうと性暴力を軽視した瞬間に性暴力の構造に負けます。直接の当事者ではなくとも突き動かされそうになる自身を深呼吸して見つめる必要があります。それくらい引力があります。性暴力は、長年染み付いた構造の問題であるからこそ、個人の問題に矮小化もしてはいけないし、加害被害間の二者関係だけでなく周囲の人間関係を揺らがしやすい特徴を持ちます。性暴力とはあらゆる「信頼」を巣食う、おそろしい魔物のようだと思います。

  

心的外傷と回復 〈増補版〉

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性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

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トラウマの医療人類学【新装版】

トラウマの医療人類学【新装版】

  • 作者:宮地 尚子
  • 発売日: 2019/10/02
  • メディア: 単行本
 

 

 

抑圧された人が長い沈黙の後に告発をする背景には、何度も対話(人間として真っ当に扱われる対応)を求めた過去があります。無かったことにしようとされたり、忘却を願われることに対する抵抗です。数え切れないほど自責の念にかられ、それでも復権のために自身を奮い立たせる、想像を超える積み重ねと闘いがあったはずです。突然、暴れ出した訳ではありません。突然、気が狂った訳ではありません。突然、感情的になった訳でもありません。いよいよ声をあげるしかなかったーその沈黙の重みを想像してほしいのです。

 

それなのに、第三者が表立って「事実関係はわからないし、コメントを避けるべき」と先導したり「どっちにも言い分がある」「だれにでも弱さがある」と中立のような振る舞いを選べるのは、沈黙させられてきた側に対してあまりにも残酷な仕打ちです。権力差があるから、権力を持つ側が変わろうとしないから、問題が拡大しどんどん拗れていることを理解してほしいのです。

心の外傷は目に見えないのでわかりづらいかも知れませんが、例えば大きな事故で一命を取り留めた傷だらけの人が目の前にいるとしたら、直接的又は間接的であれ、事故に関係した加害側の非や責任を無効化しかねない中立的発言は出来ないはずです(例え加害者側が長年の友人だったとしても)。当然だれにでも再出発する権利はあります。ただ、被害に遭った当事者もそこに居て、今も同じ時を生きています。渦中にあるその人が感知できる可能性のある場所でそれを呟けるのはあまりに配慮に欠けています。告発をするのにどれほどの覚悟と勇気があるのか想像できたら、時に激しく見えるその人の強さが必死に生き延びた結果であるとわかるはずです。だからこそ周囲の人間は、暴力を受けた人をさらに傷付けやしないかを第一基準にして言動や語る場所を選ばないといけないのです。

 

被害に大小はありません。軽いか重いか比較されうるものでもありません。その上でどう生き抜くかは一人ひとり異なるし、その全てに私は敬意を払います。個人差があるけれど、性暴力はとにかく回復に時間がかかることが多くて、治癒したと思ったら突然傷口がぱっくり開くこともあります。それでも生きることは嫌なことばかりじゃないから、希望があるから(あると信じたいから)生きているわけです。時が止まる日もあるし、動き出す日もあります。その揺らぎと共に私たちは生きています。今ここにある身体を労りながら。

 

自身の存在を蔑ろにされたと感じて孤独を抱えている人がいないか見渡すこと、切実なその声に耳を傾けることが必要だったし、それは今もこれからも必要だと考えます。彼らに光を灯さずに、それどころか置き去りにしたままで語られる「未来」に果たして希望はあるのだろうかと悩んでしまいます。美しい「歴史」を語れる側はいつも狡くて強い。なかったことにできて、「未来」を語れることの特権性を身に刻まないといけないと思ってもいます。