人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

私は私の欲望のDJ(2021年4月近況)

中学生の時、同級生の女の子に押し倒されて、眩しいくらいの性欲を浴びて、そこから私の人生とセクシュアリティが始まったともいえる。それから色々あったけど、かなしいことに(とても幸福なことに)、結局彼女に押し倒された日に戻ってきてしまう。恋愛とは喪失の快楽に過ぎないと思って、暴力の表面はこんなに滑らかで美しいのかと感じて、いまだその答えは塗り替えられていない。だから私はこの先の人生でもう恋愛関係を探さないし名乗らない。しかし自分なりの恋愛哲学は持っているから、『燃ゆる女の肖像』で二人の女が恋に落ちた瞬間と、永遠の別れを刻んだ瞬間についての文脈は理解できる。神話を読む感覚も、物語を紡ぐことの価値も理解しているつもりだ。ただ、自分の肉体を意思するときに、リアリティの中で生きようとするときに恋愛がもたらす矛盾に耐えられないというだけなのだ。

だれかを傷つけてしまうことがある。そうとしか生きられないこともある。折り合いがつけられない部分、どうしようもない自身の性質があって、その上で他者が離れていくのは仕方ないことだ。それでも離れたくないと粘る人が現れるので、罪悪感で逃げ出したくなる日々がある。楽観的を体現したような友人と途方もない旅に出てしまいたくもなる。自分の価値や意思を曲げざるを得ず、他人の人生に巻き込まれることは被災のようだから。誠に申し訳ありません。それを私は腐れ縁と呼んでいる。

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今月末は「2021年サバイバー旅行」計画を立てている。友人と関西に出向き、お世話になった人に挨拶しに行く。昨年は、2011年1月に遭遇した性暴力と今までについてよく考えたし、よく思い出した。部屋の鍵をいつも開けて歓待してくれた添い寝フレンドだった人のこと、失ってしまった友人や恋人のこと、生き直すための奔放な道のりのこと。ピアノを弾いて感情の揺らぎを整える日も多くあった。同時にサバイバー仲間たちの闘いと共に在った一年でもあった(今もたくさんの告発は続いている)。そんな仲間たちを労うことで、自身の過去も受け止められる、不思議な感触もあった。

過去に被害経験を持つサバイバーであっても、生きづらさを抱えた当事者であっても、二次加害に加担していい理由には決してならないと言いたい。あなたが生き延びた事実に敬意を払う。あなたの心を軽視してきた全てのものたちを共に憎む。しかし、あなたが抱える痛みの矛先を、今闘っている告発者に向けることは明らかに間違いである。被害者と加害者という逢う魔が時のような二者関係から解放され、傍観という形で私たちを踏みにじってきた社会に変化を要求していこうと言いたい。時間が止まる日があることを知ってほしい。それでも、時間が動き出す日があることも知ってほしい。ーそんなことを考えて、京都のアートスペースで寝泊まりするつもりだ。性暴力を身近で経験したお兄さんと散歩しながらいろいろなことを語らう予定だ。敬愛する友人とかつてソープ街だった温泉街を歩き海を見る予定だ。東京を忘れて、羽を伸ばしたいと思う。

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最近は他者に向かう性欲が減退しているが、「わたしはあなたに欲情している」と表現してもらえることは有難い(それを拒否してもいい関係性に限るが)。相手の欲望を慮ることには慣れているけど構ってあげる義理もない。察してコミュニケーションは苦手である。土俵に上がってきてほしいのだ。自分の中にある様々な欲求をボリューム調整できるDJみたいな私がいる。自身にとってのセックスや性的接触の目的を改めて問い直すと(他者との共同作業としての)性的欲求の追求は余暇でしかなく、なくても大丈夫だということに改めて気付く。なくしてはいけないものー忘れ形見のような添い寝があって、歓待としての身体があって、それを再現したいという原点に戻ってきた。

自慰をすると、過去に身体接触した他者が入れ替わり登場するようになって最近はとても愉快だ。皮膚を移植されたように私の身体が覚えていることを、とてもうれしく思う。触れあいのその後を生きるとは、他者の肌が、私を生きる肌になる。アルモドバルの『私が、生きる肌(La piel que habito)』を思い出す。他者の身体の記憶が私の身体に流れてきて、私の身体は私だけのものでなくなる。人に触れることはとても恐ろしくてとても気持ちが良いことだ。伝播されるのは、興奮だけでない。さまざまな感情と迷いがある。折り合いがつけられない諦めのような祈りがある。そういう他者の身体の記憶を一生忘れたくないと思う。

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バーバラ・ハマーの映像作品を観て、「私って男の人に本当の意味で傷つけられることはないから、自分にちょっとカッコいい男の恋人がいたらどんなに楽しいだろうか」と呟いている人(女を愛する女)のことを思い出した。これは私にとっても真理で、女の人に慰められたら破滅的に惚れてしまいそうになるから泣けなくて、男の人の前ではわんわん泣けるという現象がたびたび起こる。私にとってのシスヘテロ男性(可愛らしくてさっぱりした魂の)って、終わらない夏休みのような存在なのだ。バカンスが欲しくなった時に、持ちつ持たれつ、助け合って生きていけたらいいなと勝手に願っている。でも、私は愛する女性やノンバイナリーの友人たちを優先してしまうこともたくさんあると思う。そんな都合のいい自分を自覚しながら、ごめんね、許してと伝える。もうダメなの、と心細くなるのは一瞬で、全然ひとりでも生きていけることに気付き、調律された楽器を抱えて新しい演奏に挑む。

 

あなたが生きていること、生き続けてくれていることが、私の最大限の励みになる。と宮地尚子が最新著書のあとがきに記していたが、私も同じような思いでこの世を漂っている。あなたに生きていてほしい。ひとまずあと一年は、労働を頑張る。来年4月からは新しいことを始めていたい。

だれのことも許さないまま、だれの体温も忘れないまま


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定期的に訪ねてくれる友人らの助けによって、先週あたりからひとりでも眠れるようになってきて、なんというか大丈夫だという感覚が充足してるのと「ああ、そうだ、もともと私は自律して生きていける生き物だった」と気付いている。逆説的だけど、「自律した生き物だからこそこまめに手厚く人に助けてもらえる」のだ。それは求めるという行為の範囲が概ね明確で(自分に必要なものの質量を理解していて)相互贈与のバランスが取れる間柄であれば持続可能なケア関係が成り立つからに他ならない

逆に自律的であれない時に人は他者を駒のように乱暴に扱ってしまう(不幸とはそういう性質を孕む)。次々と新しい手が差し伸べられることはあるにせよ、愛したかったはずの他者は離れていくし、いつもその喪失にさえ気付けない。しかし他者を乱暴に消費し攻撃してしまう人の多くは本当は悪者でなくて誰かの生贄だった人であり、犠牲と名付けるしかない逆流の時を必死にもがいている誇り高き生存者だ。ただ彼らが生み出す迷路から離れる決意をする人の選択は尊重されるべきである。何故かというとどんな理由や背景があれ暴力を受け続けて良い人はいないからである

だれのことも許せない未来があって良いと思う。そして故意にその領地に足を踏み入れることはできないが、自分と同じ低さまで降りてきてしまったあなたをただ見つめ抱きしめることしかできない朝があって良いと思う

かつてそこにあったその苦しみは私だけのものだから同じ高さに降りてほしいとは決して願わない(到底無理であるしなにより愛する人にはあの救いようのない苦しみを与えたくはない)。しかし、偶然伝播してしまって私の代わりに流れたその涙については記憶から消えてはくれないし、それは夜道を照らしてくれる眩い光となり、我が海を潤す活路となり、生きる助けになっている。本当にありがとって、清々しい気持ちでひとり布団に撫でられる。眠りに誘われて、夢の中でならやっとこの身体で泣けるのだ、今宵もポケモンゲームミュージックを聴きながら

 

10人と入れ替わり暮らしてみる(2021年2月近況)

同居人(夫)がスノボ生活に専念するため短期不在になったことで、気のいい友人や奔放な仲間たちが次々と泊まりにきてくれている。

 

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ちょうど7年前、以下のような実験的生活を送っていたことを思い出す。

1週間限定シェアメイトを募集しています。(10月末で終了となりました) - blog.922(移転しました) (hatenablog.com)

 

当時は3人の他者と入れ替わりで1週間を共にして、まずまず健康で文化的な生活を送った。寮母さんに向いているねと言われたりとか、夜本当にやることないねと笑ったりとか、料理を作りあって味の違いを面白がったりした。そのうちの1人の男性とはまるっきり初対面だったのに軽やかに仲が深まり一昨年は滋賀の実家に挨拶に行くなどよくわからない展開にもなった。

そして今回は10人の他者(前回と違ってある程度気心知れた人達)が入れ替わり同居してくれて、数日間を共にした。セクシャルな関係の人もいたがそれは少数で、基本的には別々の布団あるいは部屋で眠った。入浴、食事、睡眠、細やかな所作、それぞれ生活の振舞いについて個別性があり面白かったし、同様に相手も生活者としての私について良くも悪くも色々感じただろうなと思った。多様な人と暮らしてみると、自分の至らなさ(面倒な嗜癖や習慣)とか、他者の存在のありがたみを改めて感じてしまう。矛盾だらけで気分屋の私と6年も同居できている夫は凄まじいほどに強者だし、お互いがあり得ないくらい自己中心的に振舞うことによって最上級の寛容な状態を維持していたのだということも理解できる。また同居する相手を毎日固定せずに柔軟にやっていけたほうがストレスがないとも感じたし、愉快で安定した暮らし(=私にとっての快適な暮らし)とは何だろうなという疑問に立ち返った。

どんな暮らしであれば快適なのだろう。適度に招いたり訪れながらの単身生活がそれに値するのかもしれない。あるいは特定の大人3人を固定して、追加で誰かが自由に転がり込むという暮らしが理想的強度かもしれない。添い寝フレンドだった人のような存在を探して、それは深く深く眠れたらそれで十分なのかもしれない。かといって、20歳の疲れを知らない脳と肉体の所有者だった頃とは違う。めぐる季節の中で、目移りしたものに飛び乗れるエネルギーも、目の前の相手との生活をあっさり捨てられるような速度も失ってしまった。身体は一つしかないし、加齢と共に体力は消耗するし、そこまでお金もないし、昼間は労働に縛られているし、精神的な弱さで周囲を振り回すようなことも減ったからである。手放せない思い出も積み重なって、自身や他者を丁寧に扱わない人に捧げたい時間も余裕もなくて、それゆえに身体に鈍さも感じる。

しかし人生はあっという間に終わる。いつだって急に喪失してしまう。自身の健康が損なわれていくとき、社会の仕組みに頼らざるを得なくなることを考える。有事の際のセーフティネット、ある種の特権とされているのが「婚姻関係(付随する家族制度)*1」である。しかしその制度を選択せずに、あるいは選択した上でその中身を戦略的に拡張させながら、多様な他者と助け合って生きていく道を探りたいとも思う。その意味では、今回の性別も年齢もライフスタイルも多様な10人との生活は、成人間のケア・ネットワークそのものだった*2し、余生をどう愉快に満たすか考える上で参考になる経験だった。ひとまず来月も同じように他者と暮らしてみて、仮定でも良いからなんらかの結論と方向性を定めたい。

 

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毎月浅草橋にて読書会が開かれている

最小の結婚: 結婚をめぐる法と道徳

本書が、結婚と養育をいったん分離し、むしろ「結婚」の再定義に着手する点は興味深い。結婚と養育の分離はすでにファインマンが提起しているところであるが、彼女が法的カテゴリーとしての結婚を廃止し、他の社会関係と同じ規則(契約法や財産法)によって統括することを提案するのに対し、本書は(母子ではなく)成人間の ケア関係を、国家が依然として保障すべき価値とみなす。そして、これらケア関係の維持を可能とするための権利(在留や居住、病院や刑務所での面会権など)が国家によって付与されるために、「結婚」という法的枠組みを必要とするのである。このように結婚を成人間のケア関係として切り取るなら、異性か同性かの区別が重要でないのと同様、性愛関係である必要もなく、また排他的な二者間に限定する必要もない。むしろ、性愛に基づく関係のみに特権を与えることで、友人関係や成人間のケア・ネットワークが差別されてきたことに著者の問題意識がある。

参照:ジェンダー研究 第23号(通巻40号) | (ocha.ac.jp)

 

*1:社会的に承認されうる関係性であり婚姻に準じる関係性を含む。今はまだ、異性愛で、一対一で、恋愛や性/生殖をベースとした関係性が結婚の条件として想定される

*2:私が一方的に助けられただけだったかもしれない。それでは意味がない。目指したいケア関係というのは、いつでも関係解消できる自由が担保できてかつ相互に与えあえるものがある、総合的なバランスの上に成り立つものだと思う

真夜中でも眩い光は差し込んで(2021年1月近況)

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年が明けてから、とにもかくにも意志強に生きないといけなくなってしまったので、自分を奮い立たせるための忘備録です。

①憧れの人との別れ

佐藤郁夫氏 逝去のお知らせ – 認定NPO法人 ぷれいす東京 (ptokyo.org)

結婚の自由をすべての人に訴訟(同性婚訴訟)【東京・第1回】原告佐藤さん意見陳述

佐藤さんは、『HIVポジティブである人と共に生きること』を教えてくれた人で、ゲイであることをずっと隠して生きてきた経験から、未来を生きる性的マイノリティの人々が同じ思いをしなくて済むようにと同性婚訴訟の原告となった人。個人的にも大変お世話になった方でした。

もう誰も、社会に想定されていない存在とされないように―その意志を継いでいかなければと胸に刻みます。制度の拡充と権利行使によって掬えるものがあるのではと考え、昨年から講演会を企画したり自治体に働きかける運動をしています。有志のみんなと頑張ります。

 

②あの娘が海辺で踊ってる

上記のこともあり毎日気持ちが晴れなくて、こんなご時世ですが海を見に行きました。私の故郷には海がないのですが、子どもの頃、自転車を走らせればすぐ隣に海があったのならこれほどに孤独感は抱かずに済んだのではないかと時折空想します。最たる理解者。風は冷たくて、水面は澄んだ青でした。カモメがその上で踊っていました。

 

③転職活動

メインの労働に加え、月5の副業、月2のNPO活動(有償ボランティアという形式)を毎月やりくりしているのですが、働き方を見直していく予定です。理由の一つに弁護士や警察との案件が続いて参ってしまったことがあり、先週より上司から「休みの日は仕事のメール見なくていいんだよ」と言われて、出勤時間以外は受信箱を開かないようにしたら、すこぶる精神衛生が良くなりました。睡眠時以外は常にクライアントからのメールを確認する癖がついてしまっていたようで、改めたく、労働者としての振る舞いを減速させたいと思います。そして今の会社ではたくさんのチャンスを頂き経験も積めたため、来年春からは今と毛色の違う労働に従事したいです。

 

④資格試験と余生の過ごし方

昨年はじめてテキストを開いて独学で社労士試験を受けてみたのですが惨敗だったので、今年こそは合格するという誓いを立てたいです。いや、今ここで立てます…。働きながらなので、自発的に効率的な学習時間を捻出する必要があります。そこで、前述の「出勤時以外はGmailを開かない」に加え、「朝と深夜以外(具体的には10時~22時の間)はTwitterとLINEを開かない(※急を要する面白エピソードがあった場合を除く)」をルールにしようかなと思います(8月末の試験まで)。友だちとは普通に遊びたいし気にせず誘ってほしいけれど、一人の時間や移動中はなるべく携帯を見ずに、試験勉強にあてたい。うまく行動に移せない時は、せめて読書をしたいです(私の「本の世界」―中井久夫コレクション とか、最小の結婚: 結婚をめぐる法と道徳とか)。

そして今冬は同僚の誘いで平日に初級者向スケート教室(無心になれてお尻が引き締まる)と戯曲講座(オンライン)に通うことになりました。休日は気の合う友人作りを目的にポリーフレンドリー企画にもちょこちょこ顔を出す予定です。

資格試験が一段落ついた後は、語学学習(手つかずの英語、伊語、手話)と読書(積読の山を崩したい)が出来たらいいなと思っています。昨年は家族をヨーロッパの船旅に連れていくはずが、コロナ禍で断念してしまった経緯から、リベンジしたいのもあります。個人的にはイタリアの仲間に会いたいのとアナルコフェミニスモに関心があるのでスペインが熱いという感じです。

 

⑤音楽


Kapustin Plays Kapustin - Piano Sonata No 1, Op 39, Sonata-Fantasy


Kapustin Plays Kapustin - Piano Sonata No 2, Op 54


Kapustin plays Kapustin - Paraphrase on Aquarela do Brasil, Op 118

一時的ではありますが無駄に広くて風通しの良すぎる家に一人暮らしの今、誰の気配もない空間を自分の好きな音楽で満たせるようになったことは収穫です。最近はカプースチンがお気に入りで、陽気な淋しさに胸が締めつけられます。真夜中でも眩い光は差し込んで、眠り落ちてもこの世界は賑やかなのだと信じられるような、他人事のような軽快さがとても心地良いです。それとは別に友人お薦めの音楽を聞かせてもらうのも嬉しいし愉快です。(計算してみたら、月の半分は何人かの友人が我が家で過ごしてくれているので、安全面でも精神面でも有難いなという気持ちでいっぱいです。)それにそうだピアノ譜も何冊も追加購入しているので、感情を込めて弾ける曲を増やしたいです。undertaleとピアソラの譜面もあるのですが連弾用なので、どなたか一緒に弾きませんかね?私は譜面を追うので精一杯な技術しかなく即興のセンスも皆無だけれど…。

こうして久々に一人の時間がたっぷりとできて、同居人(客人)が固定されず入れ替わる生活をしていると、睡眠不足との闘いの中で代替のきかない十年前の添い寝の感触が蘇り、既存のライフスタイルや価値観が揺さぶられ、あらたな発見もあったりして、またそれについても出会う人々と美味しいお茶でも飲みながらゆるく語れたら良いなと思います。

皆さまもどうかご自愛くださいね。

良い夢を。また夢で、おしまい

物語を持ち込まずに愛するということ(2020年振り返り)

昨年は怒涛の一年だったので、リマインドを。  

旅先で「なんで私に」と思うほどの業が深い昔話や体験を聞くことがある。あれは呪いの分け前なんだと思う。自分一人で背負うには余りに大きいものを遠い世界から来た者に話して楽になる。「話す」は「離す」。

こんなつぶやきが流れてくるとき、人様の秘密を預かることの多い人生だったかもしれないと振り返る。つまるところ、誰かにとっての私はいつも遠い他者であることが多いのだ。関係性の継続を約束させない存在、場面が次々と切り替わる映画のような存在、分け与えた呪いに大きな物語を見い出さない存在として*1

 

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年末年始に幾原邦彦輪るピングドラム*2を鑑賞した。奇しくも感染症による分断の危機が蔓延する時代にこの作品に出会えたことを心から感謝した。それは私自身、貪欲に与えられたい/貪欲に与えたいと思える他者がいなければ希望を欠くような時代が到来したと感じていて、身近な人間関係を見直す契機*3となったからでもある。 

Amo: Volo ut sis. 『輪るピングドラム』を見て - 衒学四重奏 (hatenablog.com)

鑑賞の動機は、ハンナ・アーレントの言葉「愛するとは、汝が存在することを我が意志するということである」について調べている中で、上記の論考を発掘したこと。鑑賞後「愛とは、何者でもない、何者にもなれない、誰からも選ばれない、あなたが存在していることそれ自体」という感情が沸き上がってきて、これまで多くの人から受け取った歓待の感触を思い出した*4

 

非人間は非人間だからこそ自分から最も奪われた尊厳とは何かを知っている。非人間となったからこそ知った尊厳がある。その尊厳を相手に提供することが非人間にできる人間的行為なのだ。非人間であることはそれ自体において否定的であるからこそ、人間的行為は必然になり、目的になる。

このつぶやきを読んで泣けてしまう夜があった。奪われたものを取り返しにいく試み及びそのプロセス*5とは、人間として生きていきたい者が選んだ再生の物語である。私たちは誰から命じられるでもなく、奪われたものと対峙できる戦場を探し、目的のために闘い続ける。私の場合は「身体接触」と真正面から対峙できるようになったことで物語は完結した。だからこそ、この先はそれを伝承/贈与して生きていきたい。生まれてしまったからには、接触そのものを、生存そのものをよろこびあいたい。*6

輪るピングドラムは、そのような経験―不完全な者同士で命を分かち合った経験を思い出させてくれる物語だ。誰かを延命させるために捨て身の覚悟をした者(私はそれを自己犠牲とは呼びたくないが)にはかならず返礼品がある、その循環がピングドラムだったと解釈したい。不思議なもので、贈り物は宛先不明で未来の誰かに与えられ、忘れた頃に他の誰かが与えてくれる。唯一無二の関係性は得られなくても、巡り巡って「愛する」は廻っていくし、それが生存戦略になり得ることを示唆する*7。そして『運命を乗り換えようとする意志』と『予め定められた運命への信仰』について、それぞれに希望を見出すこと、二つの望みが捩じられながら共存する光景に既視感を覚えるのは私だけではないはずだ。苹果ちゃんが多蕗先生とキスする運命を信じた結果、別の人(晶馬くん)からキスが与えられたというエピソードがある。彼女は誰からキスを与えられたのか永遠に気づかない。それが贈与の本質であると思う。

 

また、この考察でも書かれているように、物語の核となるものに「家族の呪い(運命)」がある。たとえば血縁家族の中で生きること。それは子の立場からすれば、偶然生み落とされた他者との関係性の中で織りなす生存戦略にすぎない*8。では強い意志による選択家族であればそれを克服あるいは超越できるだろうか?否、それもまた偶然に左右されたり、意志ではどうにもならない現実があるだろう。この作品は血縁家族だけでなく、選択家族(自由意志に基づいて形成されるコミュニティ)についても限界があることを誠実に表現する。そしてその上でどう他者と生きていけるかを提案し、すべての望みは手に入らないという現実と、その戦場で生き延びた者たちへの肯定に満ちあふれた物語である。

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未見の方は是非ご鑑賞を。私もBlu-rayディスクを購入しちゃうかもしれない

 

***ここから近況報告***

私はこうしたフィクションの物語は愛せるのに、自分を主軸とした関係性の中で”意志の物語”を紡ぐことがとても苦手で、物語がどんどん肥大化して運命論に傾倒して、現実(生活)との乖離に耐えられなくなってしまうところがある。そのため恋愛や家族といった親密圏に居場所のなさを感じてきた*9。それでも地割れせずに生きていきたかったから、恋愛と距離をとることで自身への生存戦略を課したのである。結果、契約結婚はへんてこりんで愛おしい「家族」の形を生み出したし、このまま続いていくのだと思っていた。しかし昨年は予想外かつ愉快な展開があり、新たに親密な人間関係が生まれたこと、恋愛に対峙する状況が出来たので、その人たちについてここに記録しておきたい。

 

◆6月に開かれた知人の独立記念祭で出会った、旅の同行者のような人。その存在を通して、かつて与えられたもの、海の底で眠っていた宝物箱がふたたび開かれる感覚がある。鍵をなくした日の合鍵のようで、自分ひとりでは出会い直せないものたちばかりだから助けられる。恋愛に関する価値観(距離感)が似ているところがあり、説明不要な気楽さがある。ビッチを愛しているという共通点、奔放さを愛する気質も感じられることから、かけがえのない友人である。

 

◆上述の彼と共に暮らしている女性。恋愛感情/関係と共存できる人でもある。内面世界に対して驚くくらい正直で、涙がうつくしくて、不思議なほどすぐに信用することができた。地に足がついている人でもある。彼が私との関係をカミングアウトし、昨年10月に出会った。恋愛の文脈があまりに苦手であるため当初は関係性の構築に悩んでしまうこともあったが、悩みに悩んだ結果二人との関係性を切り捨てたくはないという思いに至り、恋愛が絡む人間関係を諦めずに試行錯誤していくことにした。

 

上記に加え、前々から縁が続いているかけがえのない存在のことも記しておく。

 

◆愛する女の子。出会ったときは彼女は10代の家出少女だった。男性と結婚し、春に家を買うことになったらしいのだが、「40年後、わたしがローンを払い終わったら一緒にシェアハウスやろう。一緒にババアになろう」という告白をしてくれた。いつも受け取れる範囲最大限の贈り物を与えてくれる人。年末年始もお互いの家を行き来して泊まり合い、美味しいものをたくさん作って食べた。

 

◆愛するビッチ。慈善団体で起きた性暴力に関して命懸けで闘っている人でもある。社会構造を問う運動家でもあり、好戦的な姿勢に励まされる。京都で一緒に暮らさないかとスカウトを受けている。今年転職がうまくいったら真剣に検討したいと思っている。年明けに一緒にベジャールボレロを観賞できて幸せだった。

 

◆腐れ縁。恋愛と性愛の原体験の相手。昨年は私の誕生日に彼女の子どもと初対面したのだが、この人に出会うために生まれてきたのかもしれないと心が震えたし、第二の親族ポジションを目指したくなっている。人間関係の順位や情愛の深さは測れないが、彼女だけは例外。彼女を失ったら私は気が狂うだろう。

 

◆添い寝フレンドだったKさん。性的文脈のない世界で、いつも部屋の鍵を開けて待っていてくれた人。別の場所から差し込んだ光のような接触をくれた人。干からびた私に水を与えてくれた人。この人がいなかったらもう一度何かを信じて生きていくことができなかったと思われる。昨年偶然連絡を取り合ったところ、同じ区にいることが判明。秋ごろお茶に誘われたがこわくて会うのを断ってしまった。勝手な想像だけど、普通に結婚して親になっていそう。再会の気配が薄まってしまったのだけど、今年何らかのアクションがあるかもしれない。

 

◆奔女会のみんな。一昨年の5月から定期開催されているエンパワメントグループの参加者たち。支えられています。LOVE。

 

◆夫(保留)。保留としているのは、今年元旦の契約結婚更新時に彼が不在であったため。再会のタイミングで今後の関係性の名前や契約内容を協議していく。自分の機嫌は自分で取れて、ひたすらに自身の欲望と意志のみを主張する男。彼にセクシャルな女性パートナーがさらに見つかることを願う。一切気を遣う必要がないので本気でゲームを楽しめる関係性、時には猫のようにただ存在しあえる。私からスカウトしたことから、関係性が変形していくことを前提に明確な意志を向ける相手でもある*10

 

以上、親密な人達についての記録でした。今年は感染症の影響もあり不安定な幕開けでしたが、自分にとって手放せないものは何かを問い、輪るピングドラムが思い出させてくれた贈与について考えていきたいと思います。そしてどんな人にでも、なんどでも、軽快に『LOVE(あなたの存在それ自体)』と伝えていきたい。今年もよろしくお願いします。

それではまた一年、愉快に生き延びましょう!

 

***以上、近況報告終わり***

 

 

以下ネタバレ考察注意!

しっくりずっしりきた考察引用先

・生きる目的の無い晶馬は陽毬を救い、彼女に家族を与え、林檎を分け合った。陽毬には生きる目的が出来たが、晶馬に何も与えていない事を気にしていた。その後、冠葉が家族として受け入れられ、陽毬にバンドエイドを貰い彼女に全てを捧げようと決めた。陽毬は知らないうちに冠葉と林檎を分け合っていた。何故なら彼女は彼に生きる目的を与えたから。

・冠葉が林檎を手にする事が出来たのは、彼が晶馬のように空っぽの人間じゃなく、護るべき大事な人たちを持っていたから(真砂子とまりお、彼の檻に書かれた言葉はそれを現わしている)で、彼の箱は外の世界とつながる事が出来、彼は林檎に手を伸ばす事が出来た。そして、彼と晶馬がそれを共有する事で晶馬にも目的が出来た。『陽毬のために+冠葉=高倉家での暮らし』それが晶馬がひたすら高倉家を維持し続けようとした理由。何故なら、それこそが冠葉と林檎を分け合った時に受け取った彼の存在理由だから。

・しかし、彼はいまだある種の空っぽ状態であり、それが彼の愛への欠落へと繋がるのだが、それを変える者として苹果が登場する。苹果が来た事で(その名前の通り)、彼女は晶馬の林檎として影響を与え始め、彼の林檎の一部となり彼が世界に対して閉じていた部分を満たしていった。彼は自分の中の壁を越えるまでそれを認めようとはしなかった。比喩的な林檎と苹果のキーとなる違いは、苹果は彼に目的を与えていない事で、何故なら彼はもうそれを持っていたから。彼女が与えた物は運命の鎖を断ち切る意思であり、それは彼に欠けていた物だ。

・ゆりと多蕗が愛することについて話していたが、それこそが林檎だ。愛する事は人生に意味を与える。それが無くなれば不必要となり、存在しないのも同然となる。それは死にも等しい。これが冠葉が粉々になった事、子供ブロイラーで描かれた事の説明になる。彼は自分の目的を放棄する事で見えなくなり、死んだ。それに対し晶馬は自分の林檎(愛)を持っていたが、彼は苹果の替わりに自分を犠牲にし炎に焼かれ死んだ。陽毬は呪いによって死ぬ事を決めた子羊だ。彼女を救うためにここまで長くかかったのはそのためだ。

・眞悧が言っていたように、檻は彼らの人生と社会への関わりを現わしている。”その箱は自分自身だよ”、箱は人との間の壁なんだ。冠葉と晶馬は”望まれない子供”であり、愛に飢えていた。冠葉はそれを陽毬から受け取った。それを受け取った晶馬は彼らと家族を作った。2人に分け与えられた愛は最終的に陽毬の命を救うために陽毬の元に戻っていった。(林檎に関して何を表しているのかまとめるのは難しいかもしれない。ピングドラムにおいて林檎は人生に意味を与える愛と目的の両方を暗喩している)

・彼らは彼らの檻から解放されたわけじゃなかった。ただ分け合い、飢え死にしなかっただけだ。眞悧は愛も目的も見つけられず、冠葉が晶馬にしたように手を差し伸べられもしなかった。彼は他の人達との壁となる彼の檻の中に一人きりで、世界を憎み破壊しようとしていた。”林檎は愛のために死ぬ事を選んだ人へのご褒美だよ”だから2人の少年たちは愛を選び(第1話で林檎について言っていた会話のように)彼らは自分達自身の林檎によって報われたわけだ。”始めから”スタートすることで。

この林檎がピングドラムだ。


「輪るピングドラム」のラストシーンのBGM(運命の子たち) Mawaru Penguindrum

*1:しかし年明けに、15年来の友人に重大な秘密を打ち明けられた。今回ばかりはもう旅人ではいられないと思った。親密な家族の前でさえも自分を偽らざるを得ず、異国の中を生き抜いてきた孤独を知ったら、それを共に抱えながら一緒に生きていきたいと伝える以外になかったからである。過去にたくさんのものを与えてくれた人であるからこそ、今度は私が与えられたものを返していく番が来たのだと思った

*2:東日本大震災の年に深夜アニメ枠で地上放映されていたそうで、今年で10周年とのこと

*3:いま、親密圏としての「同居家族」だけは、社会の合意の上で、生死を分かつ運命共同体とされる。しかし不急不足とは括れない同居家族と同等の親密な関係もあるなかで、手中の関係性にどう線を引くのか?親密圏をどう解釈するか?ということが一人ひとりに問われているのだろう

*4:物心ついた時から、環境には不自由なかったのに自分の居場所がないという感覚を持っていて、透明な色のカメレオンが人に擬態しするように生きていたそんな私の世界に色を与えてくれた初恋の女性のこと。上京後19歳の時に暴力被害に遭遇して、再び存在そのものが透明になってしまって、どうしたものかと八方塞がりになった時、自身の部屋を解放してくれた添い寝フレンドのこと。試行錯誤の末、私は自分の身体感覚や輪郭を取り戻せたし、性愛を愉快なものに捉え直すことができた。それらの経験に立ち会ってくれる人たちが確かにいてくれたためだ

*5:これらを総称としてビッチ活動(ビッ活)と呼びたい

*6:快楽追求を目的にした接触へのモチベーションが続かないのはこの目的のためだろう。同様に恋愛に付随する行為も私にとっては快楽という分類になってしまうため、人生に不要である

*7:既に「愛する」を分け与えられて延命した人間にとっては、物語や目的の見えない「愛してる」は空虚かつ呪いにもなりうるとわかるし、既に与えられた運命の意味が変わってしまわないよう「愛してる」を拒絶する場合もあるかもしれない

*8:親の役割を担う者は、意志を持って家族/親子/配偶者という形を維持しようとする場合もあれば、できない場合もある。すべての意志はありがた迷惑で、すべての血縁の絆はエゴであるのかもしれない。大島弓子の『夢虫・未草』では林子という少女が両親の離婚に巻き込まれるのだけど、最後に凛とした表情で一粒の涙を流す。それは、親を守るために子どもであることと決別する覚悟の涙のようにみえる。彼女の旋毛めがけて、親が唱える「自由意志(石)」が重くのしかかる。家族は生存に欠かせない呪いのようだ、しかし、かならず断ち切れる呪いでもある

*9:輪るピングドラムに登場する苹果ちゃんのように暴走をしてきた。恋愛関係を選択できる人たちは、代替え可能な役割やロマンティックな物語を自覚しつつ楽しみ、かつ現実で目の前の人間とオリジナルな関わりを築く意志を持つことが出来るらしい

*10:関係性の中に物語はないけど、意志はある。親密な他者に対しては、私が関与しない世界もあることが何より大切だし、そりゃあもう好き勝手に豊かに生きてほしい