人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

サバイバー紀行(5日目)

5月2日(日)

※5月5日2時に作成しているため、かなり記憶が曖昧になっています。

 

■9時半

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起床する。リビングに降りる。庭が賑やかである。滞在者たちがラジオ体操をしている。アイヌ語バージョンが流れ、そのあとは大阪弁バージョンにうつる。両方参加する。


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朝ごはんの茶粥。美味しい。

 

■11時

昼食まで西成区を散歩する。f:id:kmnymgknunh:20210505021235j:image

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天王寺駅の映画館は緊急事態宣言下で休館となっていた。

 

■12時

みんなで昼食を囲む。昨日出会った小学生と大富豪で遊ぶ。タイに20年住んでいた方から沢山の愉快なエピソードを聞く。事情があって日本に居られなくなった子どもを親がタイに逃がすという「島送り」体験者の話に驚いた。

 

■14時

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突然、釜ヶ崎芸術大学に入学することになる。大学といっても建物があるわけではなく釜ヶ崎という地域そのものが大学になるというプロジェクトであるらしい。失踪を繰り返し、60回転職してきた人の話が冒頭にある。移動や移住を繰り返してきた労働者たち、今は高齢化して釜ヶ崎で生きるおっちゃんたち*1から様々な話や生きる技術を学べる時間でもある。自由に参加し早退していい部活動のようなゆるさ。何もわからないまま参加してしまったが、歓待の場であることは確かだった。本日の企画は第1回・ダンボールでつくる山車(だし)作り。2時間ほど、なんでも思いつくままに語り合う時間。そのあと実際にダンボールに触るという構成だった。土地を移動していくという話の中で、魂は落っこちてしまうものだからという話があがる。沖縄の古くからの言伝えでは、人間には七つのマブイ(魂)があり、強いショックを受けたときにマブイが体から抜けて落ちてしまい元気がなくなるといわれてきたという。そんなときは出来るだけ早く落としたマブイを拾い、元あった体の中に戻すことが肝心だと信じられているそうだ。

また、ダンボール山車を棺桶に見立てる話もあった。生まれ死に行く場所はどこになるのかという問いでもあった。火事の多い江戸で葛飾北斎が住まいを捨てる際に必ず筆だけを持って逃げたという話があがる。手放せないものは何か。旅に出る時に持っていきたいものが答えではないかという話がある。私は何も要らないかなと思う。この身体と添い寝の記憶さえあればどこでも生きていけるし、死ぬこともできるような気がする。(翌日追記:大島弓子の漫画は持参したいかもしれない。)


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それぞれのダンボール山車が完成する。7月には松山まで山車を走らせるらしい。よくわからない時間だったが、創造しないという選択肢はなくて、勝手にみんなの手足が動くのだった。何故、ダンボール山車なのか。灯火のような語り。限界集落の伝統とそこで生きる人々に触れたという記憶。それが地域を超えて伝播されていく。今釜ヶ崎で始まる"何か"の背景と価値が自然と共有出来ている稀有な空間だった。

 

■18時30分

家主を待つ間たくさんの方とお喋りする。奈良はかき氷の聖地であるとか、燃えるかき氷があるとか、奈良はいいぞという話を沢山聞かせてもらう。奈良といえば法隆寺。ちょうど今、萩尾望都竹宮惠子の大泉サロンを巡る著書が話題だが、そこで山岸凉子がイタコのように登場していたそうだ。『日出処の天子』の厩戸皇子聖徳太子)の人生を思い出す。愛を乞う厩戸は「貴方は私を愛していると云いながら本当は自分自身を愛しているのです。そこから抜け出さない限り孤独から逃れることは出来ない」と突き放される。そして自分を見捨てない子を道連れにして黄泉の道を歩む。トゥーランドットも似たような話だ。欲望せず権力を持ってしまった者たちは彷徨うしかない。その先が黄泉の道か、自害の道かしかないのは救いがない。他の道を探れないものだろうか。そんなことを考えながらいつか奈良という地を散歩できたらよいなあ。

 

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ココルームを出てから少し散歩して、寿司を食べて帰宅する。通天閣を初めて見る。

 

■21時

ドライブの途中、スーパー銭湯に行く。たくさんの裸体が目の前を通過する。鏡に映る自分の肉体を眺める。好きな身体だなあとしみじみ眺める。

 

■22時30分

今晩も3時近くまで共有スペースでお喋りする。脳が回転する。ダムタイプの話を何度も思い出す。何らかのラベルに当てはめてから自分を語ることは、一理はあっても十害あるかもしれない。自分がどういう人間かことば(非言語を含め)を尽くすということ。それでも伝わらないこともあるけれど悔いは残らないということ。「新しい人間関係の海へ、勇気をもってダイブする」という古橋悌二の実践。想像通りか想像以下になってしまう関係性に創造性はないのではないか?という指摘を受ける。あらゆる変化を喜び、想像しなかった側面の誕生を望みたい。言語には限界があるので行動しなければ示せないものがある。奔放さとは勇気を持ってダイブすることであり、進撃していくこと。だから私は奔放な人が好きなのだ。倒れるように就寝。