人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

爆音に埋もれ河原を走るときの

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爆音を鳴らして走る車に出会う。これは騒音なのだ、と認識する前に「運転席は気持ち良いだろうな」という共感が過ぎる。田舎だけかと思ったら都心でもたまにああいう踊り狂った車たちに出会う。私もランニングをするときはあんな感じだ。クラシックやrie fu を耳から注入して脳内を音でいっぱいにして河原を走る。疲れたという感覚よりも気持ち良いという快楽が先走るので、長い走路もへっちゃらなのである。音楽は良い。時間も痛みも流してくれるから。

 

ということで今日は久々に河原を走った。半年ぶりくらいだと思う。さいきん気持ちが落ち込んで背中が丸まってからだが弛んでいた気がして、水を浴びた野菜みたいにシャキッとしたくて、浅いヒールからスニーカーに履きかえて深夜に飛び出したのだ。

 

友人らの性暴力告発の側にいると、当然だが自分の過去も蘇る。「ひとりで夜道は危ないよ、気を付けて」と言う人の善意。なんの力も与えない善意。なんどひとりで街を歩くたびに暴力に遭う場面を想像したか、どうやって社会的に抗うか脳内シュミレーションしたことがあるかを彼らは知らない。当然知らなくて良いことなので、わたしはなんとも言えない顔をして聞き流す。「赤裸々に性被害を語って、男に守られたいのか、ちやほやされたいのか」と言う人の悪意。私が言われた言葉ではないが決して気分が良いものではなかった(数年経った今でも思い出すので深く傷ついたのだろう)。それでもその悪意の裏には「私のほうが辛かったのに」というかなしみが滲み出ていたから「そうではないんでないの」と応答した後は、ただ聞き流した。

 

「嫌だったなら、その時に言ってくれれば良かったのに」と恨みつらみを向けられることがある。時差があることは責められない。そしてそのとき直ぐには伝えられなかった事情や背景があったことを想像したい。たくさんの選択肢がある中で沈黙を選ぶとき、そこには葛藤と静かに燃える感情があるはずだ。ベラベラ支離滅裂に言葉を並べてしまう夜と、何も言えずにただ夜道を走るしかない夜と、もう掴むことのできない奇跡のような時間を懐かしむ夜。いろいろな夜があって良くて、それをすべて洗い流すような大音量の音楽があって、カラオケには行きづらいからと誰もいない夜道でバカみたいに歌える初夏がある。

 

もともと運動神経は良い方で小学生高学年のころ陸上選手に選ばれたことがある。しかし出場した大会ではビリ欠で、苦笑いされたことが懐かしい。中学時代は不真面目で、悪友たちとマラソン大会を競歩大会にしてしまったな。上京して出会った尊敬する人は身体の引き締まったランナーで、彼の愛する八丈島を訪ねて駅伝大会を応援したこともある。添い寝フレンドだった人ともよく待ち合わせて西東京の河原を走り、脂肪が落ちない二の腕を揉まれたりした。夫は一緒に走ろうと私を誘うけれど他人の歩幅に合わせられるはずもなく目の前をスイスイ走り抜ける。今はそういう記憶を思い出しながらひとりで夜道を走っている。肌を剥き出して駆ける。すると足元を照らすように東京タワーが紅く光り始める。

誰になら会いに行けるのか?

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LINEアカウントが予期せず消滅してしまった。昔の携帯番号で新しいアカウントを作成する。プロフィール画像を愛する腐れ縁のお子とのツーショットにしたら彼女に「あなたの子と思われるよ?」と笑われる。何枚か差し替えて悩んだ挙げ句、父とのツーショットにした。感染症流行直前の秋、辻井伸行のコンサートに行ったときのもので、私は茶髪短髪、久しぶりに会った父は若干髪が薄くなっていた。個を重んじるという価値観の形成には父の存在が大きく影響している。どうしても自分の人生しか生きられない彼のことが私はほんとうに好きなのだ。

生まれ育った環境と元々の素質もあるかもしれないが、共同体に親和性を持ちつつ(抵抗なくケア関係にコミットできて)幸福を独占するのではなく関係者間の最大公約数を探り(ポリアモラス傾向)自由を愛する個人主義者の私は、広く浅く(時に深く)他者とつながれて、どこへでも生きていける。派閥とか自分には関係がないし誰の味方か敵かという線引きもない。その時必要と感じたことを選んで(選べないものもたくさんあるが)今を積み重ねて生きている。うっすら離れていった縁はあるにせよ、他者に明確に拒絶されることもない(例外として性暴力被害直後と色恋での人間関係の失敗は何度かあるが恋愛をやめてからはその機会自体が消滅した)。

 

一人を満喫する夜。友人知人たちから連絡が入る。人間関係には恵まれているし私も他者が好きである。ただ呼ばれない限りは自分から積極的に会いに行こうとはならない。それはなぜか。一体誰になら会いに行けるのかということを改めて考えたい。

 

①私の人生によく登場する腐れ縁の彼女とは、お互い気が向いた時に適当に連絡を取り合い、適当に返信をし、適当に年2・3回会う。お子の成長を見たいので今後会う頻度は上がるかもしれない。彼女とお子は私の人生に絶対に必要な人間だが、毎日顔を合わせる関係性ではない。会う頻度と関係性の厚さは全く比例しない。

②私の人生によく登場する奔放な女たちとは毎月会えたら嬉しいなと思う。ただ自分から会いに行くのではなくて、決まった日時に場所を開くので自由にお越しくださいというスタンスだから良くて、それがちょうどよい距離感のように思える。

③私の人生によく登場する同居人は、その実態の通り会いに行かずとも毎日会っている。実家暮らしのときの血縁者と同じ枠組みで、関係性に「名前」があるからこそ一緒にいるための意思が生まれる。関係が厚くなくても、関係性が成り立つ。裏ワザのようだ。絶対人生に必要かはわからないが、複雑な回路を辿って腐れ縁のような存在にもなり得る。

④私の人生によく登場する添い寝フレンドは、そういう意味では不思議と会いに行ける存在だったと思う。なぜ懲りずに気軽に訪ねることができたかというと、いつも家の扉を開放してくれているからだと思っていた。けれど少し違うようだ。最近、家の扉を開放してあなたを待つよと言ってくれる人が現れたものの特に行く理由が見つからなかった。つまり、開放された家のみに惹かれていた訳ではなくてそれ以外の明確な理由があった。それは添い寝フレンドだったあの人が「見えない(invisible)クィア」だったからに他ならず、自分と似たような生き物だと信じられたからだ。見えやすく自分の型を持っているシス/トランスジェンダー異性愛/同性愛者の皆とはまた異なる身体の預け方があり、帰属意識というのかな、ただ側にいるだけで心が軽くなって穏やかな気持ちになれた。添い寝それのみで完結する関係なので、性的興奮は初めから想定されていないけど、あの人の睫毛に触れて輪郭をなぞり化粧を施すときはエロティックな気持ちが芽生えることもあった。Aセクシュアル的コミュニケーションとでもいうのか、セクシュアルな文脈を取っ払って、とにかく毎日が夏休みのようだった。日替わりのカレンダーをめくる。想定外の発見に胸を躍らせる。忘れられはしないだろう小さな光の粒を手繰り寄せて。

 

それをいま言葉に出来たのは、先日夜のそらさんという方が書かれたこの文章に出会ったからだ。

だから、トランスはトランスであるだけで、すでに未来を生きています。シスジェンダーをやらされているあいだには決してイメージできなかった未来、手詰まりで真っ暗になってしまっていた自分の将来を、トランスすることでぎりぎりで時間を脱臼させて、自分の前に開くのです。だから、現在を生きるトランスジェンダーたちは、トランス以前には決して手に入れられなかった未来を、いま、おのおの生きています。

ジェンダー規範に反するような服装をしたトランスジェンダー。男性とも女性とも言えない奇妙ないで立ちのノンバイナリー。幸せそうにキスするレズビアンカップル。パブリックスペースをプライベートな「ハッテン」場へと変換していくゲイたち。パレードの先頭を走り抜けるダイク。ブースの上で踊るドラアグクイーン。非シス・非ヘテロな「クィア」という言葉で表現されるのは、いつもこうした目に見える存在で、たいていはいつも、恋愛や性愛、性行為の文脈とセットになっています。しかし、わたしはいつも思います。世の中には無数の「見えない(invisible)クィア」がいるのに、と。

でも、わたしは言いたい。そんな風に可視的でないとしても、今日もどこかでクィアたちは生きている。そうして生きて、あり得なかったはずの未来の時間をそれぞれの方法でひねり出しながら、窒息させられそうな社会の中でなんとか呼吸をして、来なかったはずの「明日」の時間を生き延びている。この、脱臼した時間のなかに捻出されたぎりぎりの「未来」の時間を見ようとしないで、「子ども」という分かりやすい次世代の存在に注目するなんて、わたしには到底無理です。

どんな新しい性愛をクィアは見せてくれるだろうか?どんな新しい生殖の可能性をクィアは開くことができるか?そんなことが「未来(Future)」の掛け金になっているのだとしたら、わたしはその「未来」を拒絶します。これが、不可視化されて続けているクィアとしての、わたしの「反-未来主義」です。

これを読んだとき涙が止まらなくて、感謝の気持ちでいっぱいになった。私は厳密にはAセクシュアルと括れはしない(どちらかといえばノンセクシュアルあるいはデミセクシュアルまたはグレイセクシュアルと括られやすいかもしれない)が、Aセクシュアルの感覚が強烈に根付いている私もいる。たまたま、パズルが噛み合うと性的興奮が生じる場面もあるが恒常的な性的欲望はない(関連してワンナイトの価値が全くわからないし、色々な人と親密にはなりたいがその時に性的接触はセットでなくて良いしそこに強烈な価値はない)。だから性的であってもなくてもどちらでも良いという世界の中で、全力で触れあえる人を探していきたい。それと筋トレも再開する。夏だし堂々と裸になりたいから。

「もうあなたが戻ってこないかと思った」と言われた


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「もうあなたが戻ってこないかと思った」と言われた。旅に出ていて、2週間ぶりに出勤した日のことだ。その人はいつも腹を空かせた私に寿司を食べさせてくれる、親子以上歳の離れた心理士で、尊敬している上司でもある。「この場所を拒絶しているのかと思ったの。(あなたの魂が)すうっと離れていくような、そんな気がした」言われたので「どうしても喪の期間が必要だったのです」と返した。そして「この職場は嫌いじゃないです。同僚も良い人ばかりで安心できて楽しいです」と伝えると、「それはちょっと本当じゃないね」と返ってきて、「その通りですね。大袈裟に表現しすぎました。でも本当に居心地は悪くないんです」と苦笑する。「そう。良かった」と彼女はやさしく微笑んだ。

 

久々に帰宅したら、想像通りの荒れ地のような部屋が完成されており、いそいそと物を片付け掃除機をかけ衣類を洗うしかない日々である。とはいえ私は嫌いではない。この家と家族が。この2週間は叱られるくらい好き勝手に生きていて、資格勉強を投げ出していた。そろそろ気持ちを切り替えたい。今日は昼過ぎまでずっと横たわっていた。異性愛規範や性愛規範を浴びると後から脳が疲労するのがわかる。痛みには時差がある。入管法改正案の採決が先送りになって安堵した。

 

ダムタイプのS/Nを観て、感染症としてのAIDSは恋愛・性愛を問うたけど、今回の新型コロナウイルスという感染症は家族や共同体を問う』という呟きが流れてきた。そのとおりだ。この時代だからこそ自分にとっての親密圏(リスクがあっても会いたい人や関係性を維持したい人)が明確になってしまった。しかしそれは両者が同じくらいの思いの強さがなければ成り立たないのだから奇跡だね。それくらい人と会うことにエネルギーが必要だし、軽い気持ちで会えないというか、罪のような視線を感じる。同居イコール家族とされてその関係性だけは社会から許される。家族ではない他者のところへ、それでも会いに行ける/来てもらう関係性や突き動かされる感情があることを歓びたい。

 

変異株の脅威。もし自分が新型コロナウイルスに感染して重篤化したとして、この世から去る場面を想像する。「20代女性」と性別を勝手に分類されて報道されるのは嫌だな、と強烈に浮かんだ。その時はその時だ。だが、親しい人には生きて延びてほしいな。イタリア人の友だちがよく「Sogno d'oro(良い夢を)」と連絡をくれるのだけど、直訳するとそれは「黄金の夢」となる。どんな夢だろう。添い寝フレンドと眠りと祈りの旅をして目覚める朝のようだったらどんなに。

サバイバー紀行(12日目/最終日)

5月9日(日)


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■9時30分 

京都滞在最終日。午後14時から東京中野で面接を予定しているためそろそろ下宿先を出ないといけない。掃除機をかけ、お借りしたシーツ等を洗濯する。家主と恋人さんが京都駅まで見送ってくれる。また年内に会いましょうと話す。急いで新幹線に乗り込んだため、お土産も写真もない。あっさりと街と別れる。車内で販売していた抹茶アイスにマカダミアナッツをふんだんに乗せて遊ぶ。

 

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Twitterを眺めていると、東山で美術ヴァギナ展という催しがあったことを知る。しかも今日まで。先日美術手帖のサイトでは検索できていなかった。旅の間はSNSを見ないようにしていたためか。面接をすっぽかしても良かったかもしれない。く、悔しい。

 

■13時15分

中野駅に到着する。
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面接会場に入る。なんと、緊急事態宣言のため面接が中止になっていた。おいおいなんの連絡もなかったのだが…。ヴァギナ展を見てから東京に戻る選択肢もあったのか…。アクエリアスを飲んでぼーっとする。

 

■15時30分
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まあ、時は戻せないのでカレーを食べて帰宅することにする。同居人には帰宅日時についてなんの連絡もしていない。どこに行くかも伝えていない。旅の間も、一度だけ「レインコートどこにある?」というメールがあったのみ。自由に旅に出て、ときどき帰宅できる関係性と住まいがあることに助けられている。そばに居れば関心を持って文句を言ったり踊ったりするけど、いざ離れれば無関心で目の前のことに取り組める。関係性が始まった時みたいにシェアハウスで暮らすのが性に合っているのだろう。

 

帰宅したら、まず「ただいま」と言う。そして関西で出会った人たちに一緒に過ごせた日々についての感謝を伝える。名古屋からずっと連絡をくれたサバイバー仲間にも連絡を返す。19時からはダムタイプトークイベントを見る。明日からまた東京での労働と生活が始まる。資格勉強を休んで後先考えず散財して食べたいものを食べたいだけ食べて筋トレも他者との身体接触も控えていたので、全身が弛んでいるはず。顔も丸くなった。リフレッシュできて気力は戻ったけれど、姿勢は悪いままだ。生きるためのチューニングがいつも上手くいかない。明日がまた来るのかと思うと暗澹たる気持ちになる。根が暗いのだから仕方ない。でも旅をすることで自分のやらなくてはいけないこと(やらなくてもいいこと)を見つめ直せる。胸を張って、尻を引き締めて生きていきましょう。人生お疲れさまでしたケーキ。

サバイバー紀行(11日目)

5月8日(土)

 

■10時

スマホを開き、緊急事態宣言が月末まで延長されたことを知る。国民投票法改正案も採決された。オリンピック開催を強行する動きにも疲弊させられる(翌日追記:東京オリンピック開催中止の署名に加わった。栗田隆子さんのコメントに賛同する)。今回の緊急事態宣言発令の直前、私はオペラ鑑賞をしていた。なんなんだこの国はと言葉にならない感情に支配され、生まれて初めて首相官邸宛に意見を送った。もともとちぐはぐだった世の中がさらに狂っている。

今ここに存在することの尊厳が軽視され続けていること、私たちは気づかぬうちに力を奪われていること。入管に収容されている人達と入管法も、性暴力の告発者と揺れ動く周囲も、家庭内暴力を断ち切ろうという決死の覚悟も、給付金の対象から外される職業差別も、セックスワークを不健全と「道徳」で切り捨てる社会も。医療が崩壊しいつ事切れるかわからなくなった社会で、今こそ語るときだと言わんばかりに、これまで見えなくさせられていたものがどんどん表沙汰になる。戦時中のようだと指摘する声もあがっていた。少しでも感性を鈍らせたら楽なほうに流れていける。魂は削がれて意思を手放せてしまう。鋭くなりすぎると見たくなかったものが見えてしまうから、惨めな自分が浮き彫りになる。かなしいが、自分を軽視するものをどうしても許せなくもなる。だからこそ旅に出るしかなかったのかもしれない。

 

■11時35分

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戦場のメリークリスマス』リベンジのため京都シネマへ。館内は満員のように見えた。20歳くらいの時に自宅鑑賞したのだが、うたた寝してしまい内容がほとんど頭に入らずで、明け方に見たビートたけしのぼやけた笑顔しか記憶にない。そのため初見のような心持ちでスクリーン越しに出会い直せた。

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正直とても驚いた。奇妙な手触りと哀愁のある戦争の記録に。暴力と過去を美化する幻想に支配された島の美しさに。男が男を愛する、そして欲望するということを丁寧に描いた作品であったことに。近年レズビアン(というよりも女と女が欲望しあう過程や生き様)を描いた作品がピックアップされ、『燃ゆる女の肖像』はその代表格であるが、論者たちが「やっと女による女のための作品が世に出たのだ」と喜んでいた意味をようやく理解した。昭和の映画業界の男社会を想像すると、『戦場のメリークリスマス』のような、男が男を眼差す作品が世の光となり商業映画としても成功している狭間で、光を充てられなかった沢山の女たち、光を浴びれなかった女の物語があっただろうから。児玉美月氏の映画評によれば、大島渚は『愛のコリーダ』で女同士の性愛を男ありきの受動的なものでも、男に捧げる自己犠牲的なものでもないと言い切ったとある。女同士の性愛はセクシュアリティと権力の問題を無効化させる作用があるのに対し、男同士の性愛はセクシュアリティと権力がシステムに組み込まれてしまっている故に問題を常に現前化させるものだとも指摘する。

そこで私が考えるのは男女どちらかに当てはまらないクィアやノンバイナリーたちが日々直面している性愛について、いつになったら順番が回ってくるのかということだ。このエッセイに出会って強く励まされもした。ノンバイナリーは存在そのものが現在の社会秩序を脅かすものであり、その事実を引き受けて生きているとある。ノンバイナリーの政治はこれまでのクィア理論や運動の積み重ねを生かすことができるはずだ、という確信と希望。加えて私は男男の性愛と女女の性愛の差異さえも内包するコミュニケーションの可能性をノンバイナリーの生き方に感じてもいる。反政治的で非政治的で無政治的でもあり、誰かであり誰でもない存在としての共鳴があるのではないかと。

死生観の違いや西洋コンプレックス、秩序と反乱。日本軍と捕虜軍の中で生み出され交換されるものについては、こちらの批評が良かった。セリアズ少佐(デヴィッド・ボウイ)の生き方は奔放そのもの。進撃の奔人(ぽんちゅ)じゃん。もう今さら生き方は変えられない。運命には抗えない。過去と今には勝てない。しかし私たちは未来に向かって種を蒔くことはできるという、強烈なメッセージ。生殖だけが人の人生ではない、長生きするだけが人の人生ではない。功績や生きた証を残すことだけが人の人生ではない。固有のバトンを繋ぐ必要もない。しかしこの一回性を懸命に生き延びて、種を蒔くことなら出来る。誰に読まれるかもわからない個人的な文章を書くこと(日記)もそれに近いのかもしれない。重なる痛ましい暴力描写には目を背けたくもなったが京都の映画館で鑑賞できて良かった。大島渚が自宅を抵当に入れ無一文になる覚悟で挑んだ作品。今の時代を生きるアーティストはそこまで出来ないし、させてももらえないという批評もあった。その時代でないと生み出せないものがあるということ。未来について予測がつかない今この時代に出会たことに感謝する。


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オリジナルTシャツ(花を食べているプリントのほう)は初日で売り切れてしまったらしい。渋々パンフレットのみ購入する。帰宅したら戦場のメリークリスマスを弾こう。

 

■15時30分

映画の余韻が残り、こんな時間になってしまった。どこでお腹を満たそうか。せっかくなら懐かしい場所に行こうかと考え、mumokutekicafeに向かう。

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■17時30分

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洋酒の染み込んだケーキを食べる。

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■20時

帰宅し荷造りを始める。性暴力に関する交流会(ZOOM)に参加する。参加された方々お疲れさまでした。どうかご自愛くださち。

性暴力が起こる/軽視される構造を変えたいという原動力で私たちは連帯できるかもしれない。ただ、それはきっと長期戦になることがほとんどで、自分の傷を見つめ続けるという孤独との闘いでもある。だから挫けて闘えない日もあって良い、それを何度でも思い出すことが大切だ。自分なりに呼吸ができる場所を見つけられること、過去と今そして未来を生きるサバイバーの力を奪わないシステムの構築を探りたい。自己紹介ではうまく話せなかったけど。

昨日、佐々木さんが「私は“わきまえてきた”サバイバーだったのかもしれない」 という文章を世に出された。大変うれしいことに奔女会のケーキが添えられていた。生き延びたことの労いと祝福について触れてもらえて良かった。歓待の場を開き続けることは、私にとっての"添い寝"のお裾分けなのだと思う。あの時たしかに私の身体は祝福されたのだから。

 

■22時45分

京都滞在の最後の夜。家主と恋人さんが夕飯をお裾分けしてくれた。卵とじうどん、美味しかったな。

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1階の共有スペースで、ムレスナ紅茶とタルトをご馳走になる。短期滞在にかかわらず本当にリフレッシュできたことの感謝を伝える。眩しいくらいに素敵なお二人と一緒に過ごせて良かった。明日は10時25分発の新幹線に乗る予定。駅まで車を出してもらえることになった。就寝3時30分。