人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

去る者追わず、やがてひとり眠れて

10年前の冬、添い寝フレンドだった人の家をたびたび訪ねては、あれは何色だったかなあ、やさしい香りのやわらかい布団に包まって眠っていた。あの日は冬で、それは青いロングスカートだった。駅のエスカレーターが昇る間にカシャカシャという音がして、振り返ると私のスカートの中に手があって、睨んで腕を掴んだら「すみません消しますから」と言いながら私の手を乱暴に振り払い、盗撮犯は走り去った。「捕まえてください、助けてください」と大声を出したけど、誰も助けてくれなくて、白い目で見られるだけの駅構内の居た堪れなさを覚えている。

上司による性暴力被害から時間も経っていない時期で、慣れた足で警察署に向かったが、現行犯逮捕でないとねえ無理だねえと帰されてしまった。悔しさが染み付いたそのスカートを見るのも嫌ですぐに燃えるゴミとして捨てた。当時お世話になっていた相談団体のお姉さんに「ごめんなさい。もう動けません。疲れてしまいました」と連絡をして、添い寝フレンドからは「どうした?すぐに来てだいじょうぶだよー」と返事が来て、真冬の夕暮れの中アパートに辿り着いた。扉を開けて、何があったかを簡潔に伝えた。泣いていたか、抱きしめてもらったか、細かいことは覚えていない。けれどそのやさしい表情と非性的な空間に慰められたことは覚えている。鍋かカレーかな、暖かい食べ物を作ってもらって一緒に食卓を囲んだ。いつものようにアニメを流して、なんてことない普通の日常を一緒に過ごした。

 

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当時20歳になったばかりの私は、高校生の頃から好きだった緑川ゆき先生の漫画『蛍火の杜へ』にえらく感銘を受けていた。ちょうどアニメ映画化されDVDが出ていた頃で、「これ観ようよ」と私から提案した。アルバイトを掛け持ちする苦学生が背伸びして買ったのであろう豪華なディスプレイで、6畳の洋室の中央に置かれた楕円形のテーブルに肘をついて、一緒にそれを眺めた。

この物語は、人に触るとこの世から消えてしまう「人ならざるもの」であるギンと、共に過ごす毎夏の積み重ねの中であなたに触れたいという渇望を募らせる少女・蛍による、生きとし生けるものの風物詩である。私たちは彼らとは違い当然のように肌に触れあえる関係だったが、観終わった直後はお互い涙が頬を伝って、恐怖のような寂しさのような歓びのようなその全てが内包されたような不思議な感触のまま何度もたくさんハグをした。幸福と呼ぶべき瞬間はあの時に違いなかった。砂を飲み込むように苦しくて麻痺していた体が再び息を吹き返した瞬間。行き止まりのように思えた回路がちゃんと繋がった瞬間。人に抱きしめられ、人を抱きしめることが私は好きなんだと思い出せた瞬間でもあった。

 

そして、今年1月。性暴力被害からぴったり10年の節目が訪れた。

 

記念日反応と言うのがただしいのか、「10周年だから」と幾度となく意識しがちで、このタイミングでの出会いは全て必然のように感じていたし、性暴力の告発をする友人たちのそばで、自分に出来ることを探せるはずだと思っていた。しかし4月頃から心身のバランスが取れなくなっていた。突然同居人である夫の身体に触ることが出来なくなり(特に性的な文脈で)触られるたびに身体が強張るようになった。と思えば、表面的な快楽でその場をやり過ごすような野生的な振る舞いもあった。ちぐはぐで、極端な表現が増えるようになっていた。頭では自分の体調の崩れを理解しつつも、上手くコントロールが出来なかった。重心がなくなる感じがした。

今月に入り、友人たちに励まされ抱きしめられ、ようやく現実感が戻ってきた。身体の中でたくさんの声が蠢いている。それを外に出していかないといけない。職場に「今日は仕事を休みます」と連絡を入れて、寝たきりの自分を許すことにした。夫が私の好きな参鶏湯を作って看病してくれる。有難さと申し訳なさでいっぱいになった。脚色のない事実、反する自身の願望と行き場のない感情を整理する必要性に駆られて、「性暴力匿名相談ダイヤル」のボタンを押した。

開口一番に、大号泣しながら「性暴力被害から10年の節目だ生きてて良かったね」と自分に呪いをかけすぎていたことについて語った。そのまま40分間ずっと話を聞いてもらった。翌朝は頭が割れるように痛くなり、涙も枯れてこのまま水分不足で死ぬんじゃないかと不安になるほどだった。

自分の心身をコントロールできない日があることを理解できると良いし、自分の望む物語を過信しすぎないことが大切である。ある程度自己を操縦できる時ならば、生活圏の親密な他者に適度に甘えられるし、安定したケア関係は成立する。しかしそう上手くはいかないこともある。親しい人に専門家のような役割を求めるのは厳しいこと(だし、不健全な関係の中では回復が遠のく)と私は感じてもいる。生活圏外での調律が必要なタイミングを見逃さないようにしたいと常々思う。なので一切利害関係が発生しない、トレーニングを受けた見知らぬ第三者の存在がいつも*1有り難い。

 

「嫌なことは嫌だと表現することが自分を守ることだし、無理に人に触れなくてよいと理解しているんです。しかし、もう一生私は誰とも触れあえないかもしれない…と自分に呪いをかけてしまって困っているんです」と電話先の相談員に伝えると、「そうなの?もう一生誰かと触れあえなくて良いと、本当にそう思うの?」と問いかけられる。すると「いいえ!」と即答する私がそこにいた。喉に詰まっていた禍々しい固まりが一斉に流れる。全く面識のない相手だからこそ、遠回りせず本心を言えたのかもしれない。不思議なもので、その翌日、全く抵抗感なくセックスというか性的な接触(※私は恋愛感情や性欲が伴わなくても親愛な人と愉快に肌を重ねることができる)ができた。2ヶ月半のレス解消。やっぱり人に触るのは良いものだなあ、と思えた。本当に良かった。

 

その日以降、コントロールできなかった涙もピタッと止んだ。憑き物が落ちたように身体が楽になった。性暴力被害後、助けてくれようとした人を沢山失ってしまったので、その傷が何度もパックリ開いては乾いてを繰り返しているのだと客観視できたことも自分を助けた。だから自己開示した相手から強い拒絶を受けたり被害当時と似たような場面に出くわすと、タイムスリップして10年前の身体の感覚が戻ってきてしまう。トラウマの再演というやつだ。まあ、生きているからこそ血が噴き出るのだと思うと心って面倒で面白い。そして腹が立つし、めちゃくちゃ健気で可愛いな。私は野良なりに逞しく生きてきたが、当然弱る時もあることを忘れないようにしたい。失ってしまったものは沢山あるけれど、選べた今の環境もあるし、大切に想ってくれる友人たちがいる。だから個として尊重される付き合いを選ばないといけない。そしてサバイバー仲間たちの尊厳や多様な生き方を何より大事にしたいし応援したい。何を美しいと感じるか、その価値と感性を捨ててまで縋りたいものはないはずだ。

 

楽園はないけれど、完璧な世界もないけれど、ぼちぼち生きていれば、生き返る瞬間がまたやってくる。そうそう。怪我の功というべきか、一人で眠れるようになったのです。10年経ってようやくだよ。ようやく、添い寝フレンドだった人がただしく過去になったのかもしれない(本当にそうかはわからない、そう思いたいだけかもしれない)。ただ今日は晴れやかな身体で、穏かな心でピアノを弾きました。

ここまで読んでくださった方、ありがとう。どうかあなたも元気で好き勝手に生きててくれ!ください!

 

🎹今日の練習曲🎹

戦場のメリークリスマス/坂本龍一



②Energy Flow/坂本龍一

 

ゼルダの伝説 時のオカリナタイトルテーマ

 

④愛を奏でて/エンニオ・モリコーネ


 

*1:「あなたに心理療法は不要。喪の期間を生き抜いて」と専門家に言われた経験から、医療の力ではなく身近な人の手を借りながら雑に生き抜いてきたんだけど、時々調子を崩すので2~3年に1度の頻度でこうした匿名電話相談のお世話になっている

墓場でキスをする(2021年6月近況)

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青野くんに触りたいから死にたい』というとんでもない傑作がある(なので15年ぶりくらいに月刊誌を購入してしまった)。

数日間付き合ってすぐに死んでしまった恋人「青野くん」が不在の世界で生き続ける意味はないと強迫的に後を追おうとした優里ちゃんと、それを契機として「人ならざるもの」としてこの世に戻ることを条件つきで許された青野くん。

所有して独占して同一化して蕩けて溶けちゃうような関係性は死んでしまいそうになるくらい気持ちよくて取り憑かれたように幸福でヌルっとジメジメして這い上がれない暗い場所だってことを思い出させる物語である。恋愛を描いているようで、愛という名前で括られるすべての関係性(親密圏)にひんやりとメスを入れて血肉を広げるような刺激的な物語である。

残飯の描写が不気味すぎる。選ばれなかった食材。傷む生モノ。誰もいなくなった空間。それを廃棄する人。宴は永遠に続かない。誰ともぴったり重なれない。墓場でひとり。そういうことが一コマに詰まっている。「人ならざるもの」の身体、死者の身体、生者の身体。それらが混ざり合って私の生きる肌にべったりと触れてくる。夏の夜にひとりで読むと寒気がするかもしれない。

「あなたに触れたい」という欲望。アサーティブ・コミュニケーションを目指して自他を尊重しましょうと皆が唱える時代、私たちは非暴力に努め工夫しながら欲望を満たそうとする。しかし「人ならざるもの」の身体はそんなのお構いなしにやってくる。身勝手な欲望をこれでもかと言うくらい露悪的に伝播させる。だから思いやりとは真逆のことが起きてしまう。そんな世界でどうやってI LOVE YOUを表現できるだろう?と問いかける寓話。選ばれない人を生み出す痛み、選ばれることの苦しみを抱える幽霊の青野くんと、選ばれて求められる喜びを一度も知らなかった優里ちゃんが肌を合わせることの意味と結末は何なのか、それを想うたび泣けてきてしまう。

 

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一昨日は、「#シェアハウスでの性暴力」というトークイベントに参加した。性や暴力の話を茶化さない空気をひとりひとり作っていくことの重要性を再確認した(発起人の皆さま、ありがとうございました)。私は、「こんな場所に来たのが悪い」「あなたにも非がある」と疎まれた経験を持つ者同士で連帯したり文句言ったり交渉したり再訪できる道が残されてほしいと発言した。実際に自分がそういう連帯に励まされているからだ。

その一つが、メンヘラを自称する最高の女ともだちである。彼女と「共に暮らしたシェアハウスは私達にとってのポケモンセンター(療養所)だったね」と語る夜がある。自身が内包する加害者性と被害者性・強靭で脆弱な精神についてを掘り下げて語り合う夜があって、もう会えぬ人々を想う夜がある(連帯できなかった、もう会えない人のことを私たちは何度でも思い出している)。被害者ぶってはいけないし、自分で責任を取らないといけないという暗黙の了解もある。何故ならお互いに傷つけあったからだ。責任を果たすとは、トラブルが起きた原因を考えて、後から自分の感情や過ちを見つめて理解をしようと努めることに他ならない。一方的に修復を望むことは身勝手だということも学んだ。

その女の子とは時差ありで恋人が被ったことがあった。私と彼が別れた後に、彼と彼女が付き合って、そのまま愉快に3人で暮らした時期があった。今は私と女の子のみ縁が続いていて「あの彼は本当に可愛かったねえ、元気かな。」と語ったりしている。今思えば、奇跡みたいな時間だったのかもしれない。非恋愛関係に形を変えることができたことも有り難かった。親密な時間を経由した3人で住まいを共にできて本当に楽しかったのだ。彼から「性被害に遭ったからといって、男性に憎悪を向けないで」と叱られたこともあったし、彼と私で精神的に揺らぐ彼女を支えた夜もあった。きっと二度と手に入らないだろう、奇妙で貴重で綺麗な思い出。

 

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今日は一人のセックスワーカーが客に殺害されたというニュースとそれを矮小化して揶揄する職業差別を見聞きして、心身ともにダウンしてしまった。訪問診療中の医師が患者に恨まれて刺された事件を何件も知っているからこそ、暴力やハラスメントは、密室な空間/関係性を持つ対人サービス業で起こりやすいもの(だからこそ対策が練られるもの)であり、セックスワークだけを取り出して廃止を論じることの無意味さを思う。セックスワーカーヘイトクライムに遭う背景には、それを個人や業種に責任を転嫁させる構造・社会に跋扈する偏見や差別が強く影響している。どんな仕事であっても搾取は起きる可能性があるし心を病むことがある。Sex work is work。より安全で権利行使できる労働環境、特定の業種が見下されない社会を目指す以外にないだろう。二度とこのような痛ましい事件が起こらないように願いたい。そのために行動していきましょう(自分の出来る形で)。

参考:セックスワーカーの権利運動が目指す 「職業差別」撤廃

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身体性について


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世界バレエフェスティバルの時期がやってきた。2018年開催時はU29チケットでかなりお得に鑑賞できたので、連日劇場に足を運んだ覚えがある。今年もU29チケットの恩恵に与りたかったがU25チケットしか販売されておらず、新型コロナウイルスの影響を思う。せっかくなのでS席チケット(2万7千円)を購入した。2階席の最前列を確保できて幸運だった。普段はここまで奮発しないけど、3年に1度の貴重な機会だし、こんなご時世だし、数万円の差を気にする必要もないので即決した。

気がつけばよくバレエの舞台を観に行っている。鑑賞後、天井から垂れる糸に肉体がぶら下がったような感覚が訪れるから好きだ。うつくしくてピンと張られた意識に身体が調律されるというか。トレーニングを受けていないので、数日経つと、すぐだらしない身体の使い方に戻ってしまうのだけど。

今日、偶然目にした記事<このバレエには想定外の衝撃がある。Netflix配信ドラマ『ナビレラ』は「おじいさんが踊る」だけの話ではない。>にこんなことが書いてあった。

バレエは、スポーツではない。隅々まで研ぎ澄ませた肉体と精神によって、しばしば「人ならざる存在」をも体現する芸術だ。

そのとおりだと思う。人形や動物、死者(幽霊)や精霊。神話や御伽噺のキャラクター。バレエは肉声や文字を必要としない芸術である。力強く繊細な身体だけがある。生きなさい、と命じてくるような説得力だけがある。

定期的にこの記事<シルヴィ・ギエム『ボレロ』 バレエによる天岩戸開き>を読むのだが、シルヴィ・ギエムの踊るボレロを一度で良いから観てみたかったなと悔やまれる。ギラギラしてそれでいて静寂で、命の循環を感じる踊り。膨大なエネルギーを注入される踊り。これまで友人を連れて上野水香ボレロを観に行ったことなら2度ある。また私はボレロを観に行く時だれかを誘うだろう。この世に存在するのに疲れて果ててしまった時にこそ、他者と共に観たい作品である。

ベジャールの『ボレロ』は、まさに神としての太陽をバレエによって天降(あふ)らせる代用宗教だった。

太陽の無限の恵みを求める、人間の言語を絶した呼びかけ。

私はギエムのダンスに、一つの神話の再現を見た。

そして、神話の再現こそは、「祝祭」の本質なのである。

祝祭としての身体性と考えるとしっくり来る。「あの、一回生の出来事」によって生かされる日々がある。非日常的な、もう同じ感触は味わえない、人生で一度だけあったこと。そういう身体の記憶に生かされている。

 

バレエつながりで、もうひとつ別の記事<「ブラック・スワン」は媚薬いらずの官能映画、女の子を誘って見てみよう。>を紹介したい。

山岸凉子がすぐれたホラー漫画を描き、バレエ漫画も描いているのは偶然ではない。その理由がようやく実感として理解できた。
バレエとホラーは、肉体を過敏に意識するという根っこで深くつながっている。そしてエロっつーか官能も身体性に関わっている。いじめるように自分の肉体を駆使して美に近づくバレエダンサーに感情移入させられ、その敏感になった肉体を刺激する演出の連続が、観客を恐怖/興奮させないわけがない。

端正な身体と狂気が描かれるバレエ作品を鑑賞した後は女性を口説くための絶好の機会が到来すると筆者は指南する。たしかに尖端まで過敏になって恍惚としている状態なので成功率は高まるのかもしれない(日常に戻って冷静になっても偽りなく触れあえる関係性ならなお良いと思うけど)。ここでいうセックスとは指先が触れ合うだけで完成されて満足するような身体の体験を指すのだろう。

ダーレン・アロノフスキーブラック・スワン』と山岸凉子の関連性については納得である。山岸凉子の作品には「霊感」についての表現が多く登場するのだが、それが大いに発揮されるのがバレエ漫画だと感じる。畏れを纏った官能的な肉体が漫画のコマを突き破るというか、立体を成して脳裏に焼き付くというか、そういう瞬間がある。たとえば、『アラベスク』のラ・シルフィード。たとえば、『プレプシコーラ』のノクターン。漫画を手に取らずとも、その場面をすぐに思い出せるから不思議だ。震えるような表現に出会えたことに感謝したい。

 

バレエフェスティバルまであと3ヶ月。それを楽しみになんとか生き延びようと思う。そして健やかな身体を作るために惜しまず医療にお金をかけたい。

・来月は東京都のHIV/AIDS普及啓発月間なので検査予約を取った。

・歯科定期検診の通知がきたのでクリーニングしに行く。

・婦人科で紹介状をもらう。近隣のクリニックでミレーナを外した後に諸々の検査をしたい。

・子宮頸がんを予防するためのHPV9価ワクチンを打つ。10万円弱。

・私の自治体では新型コロナウイルスのワクチンも7月には打てるようだ。予約は大変らしいが頑張る。

・久々に体重計に乗ったら1.5kg太っていたのでランニングを継続。余裕ができたらボクシングも数年ぶりにやりたい。

 

皆さんもどうかお身体ご自愛くださいな。

 


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↑バレエではないけど、Alvin Ailey American Theater(昨年で設立60周年だったらしい)のダンサーを待ち受け画面にしている。美しすぎて溜め息、である。

参考:それでもわれわれは踊る ― アルヴィン・エイリーの『リヴェレーションズ』がこれまで以上に元気なわけ

Alvin Ailey American Dance Theater: Chroma, Grace, Takademe, Revelations (2015) - YouTube

50年前の話

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大学生に「ピザを注文するから一緒に食べよう」と自宅に呼ばれた日の道端の紫陽花。きれいだった。眩しかった。正直いうと、最近は心も体も猫背になってしまっていたから。4月初旬からパワーレス状態で、GWあたりから資格勉強が全く手につかなくなり、どうしようもなかったんだけど、試験申し込み期限が迫ってきて、やっと1万4000円くらいの受験料を支払った。先週から再び図書館に行けるようになって、国民年金法のテキストを開いています。


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珍しく仕事がトントン拍子にうまくいきストレスのない一日だった。余裕があったので、帰宅して東京事変を流しながら半裸で冷やし中華を作った。黒胡椒を振った鶏ささみ肉は前いたところの上司の趣味である。美味しいので私も真似するようになった。ココナッツミルクも夏の始まりという感じがして好きだ。一気に飲み干した。

 

何度も思い出し笑いをしてしまう。今日は70歳手前の同僚(二度の心筋梗塞から生還したサバイバー)と二人きりになる場面があり、世間話を始めたつもりが何故か奔放トークが始まってしまった。「若かりし頃、部下に好きな男を寝取られたこと、急に思い出しちゃった。」と彼女が語り出す。私が冷静に「それって計算してみると…50年前の…NTRですね!」と返すと「そうなるわねェ!アッハッハッハ!!!」と腹を抱えて笑い転げるのだ。つられて本当におかしくなってしまって、声を上げて笑った。ああ愉快。「50年経っても寝取られ体験は忘れられない(場合がある)」という貴重な知見を得れたし、過去をこんな風に大笑いして語ってくれる彼女があまりに魅力的で、多大なパワーを貰えた気がしている。今日はゆっくり風呂に浸かり続きのテキストを開いてピアノを弾いて、電池が切れたように眠れたら良いな。毎晩お花畑みたいな夢ばかり映し出す自分の脳にうんざりしているから。

家庭内ストリップ

ヨレヨレのパジャマ姿で寝転がっていると「お尻が丸くなったのでは?」とちょっと意地悪な口調で指摘されたので、「あらそう?見てみてよ。」と畳の上で仁王立ちした私は、Tシャツを捲り、ズボンを下ろし、下着を剥ぎ取って裸になった。少し間が空いた後、「いい身体です。失礼しました。」と襖の外から声がした。

 

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この間、このZINEを愛する友人に紹介したら「全裸になろうかな?」という返信が来た。彼女の前なら私も堂々と裸になれそうな気がして「え?一緒に全裸なる!」と即答してしまった。

「trailer zine vol.1」を開帳すると、韓国人でありゲイである作家/写真家の「僕の乳首は普通にデカい。」という自己紹介が始まる。そこから不穏な希望が輝き始める。

新型コロナウイルスで国境が閉鎖された2020年東京で、クィア・カルチャーに関わっていた国籍も様々な人の姿とインタビューがそこには刻まれていた。Vol.1(Vol.2もある)では、彼の12人の素晴らしい友人のことが紹介されていた。

ドラッグ・パフォーマーの一人が「魔法少女になりたい。魔法少女になったら、ホモフォビアやトランスフォビアと戦いたい。世界のあらゆる偏見、セックスと性労働、ボディーイメージに対してね。」と語る。さらに別の一人が、SNS上で乳首を載せようとするとき性別が問われる理不尽さに怒る。他人ではなく自分の身体を鏡に映す。愉しい踊り方を導く。自由と権利を一緒に守ろうとしてくれない人とは生きられないと叫ぶ。誰にでも開かれているドラァグアートのこと。クィアでなくウィアードな空間。ノンモノガミーな実践。BLACK LIVES MATTER。「人そのもの或いはマイノリティが生きてきた葛藤の歴史について学ばずに文化だけ愛するの?」という批判。

生身の身体と言葉が熱を帯びている。同世代*1が主体となって、一人ひとり自分の声を持って表現していること自体に大変励まされた。そしてこのようなパワフルで親しみあるロールモデルに出会えたことで、友人と全裸になるという野望が具体性を帯びてくる。同時にド派手な女装にも挑戦したいと心躍った*2

先日、性的マイノリティやクィアの尊厳を否定するような自民党議員の発言が世に流れた。種の保存という言葉の想像力のなさ、そしてトランスして生きる人たち*3への憎悪に呆れてしまう。何故そこに生きている当事者を見ない?肥大された恐怖やスティグマを根拠に排除しようとするの?

しかしそれは今回だけではなかったし、日常でいつも起こっていたことだ。私は女とも男とも言い切れないジェンダー/セクシュアリティをずっと生きてきた。それを尊重してもらえるとき、やっと裸になれた。共にいる空間がストリップ劇場に変わる。生き延びた身体には歴史がある。だから目の前のあなたと私を美しいと思う。規範に添えない、規格外の身体がある。プライドという言葉が電流のように全身を巡る。生き延びること、それだけ。息を潜める他の仲間を想うこと、社会に合わせて擬態してきた時間を想うこと、それをひたすら労うこと。服を脱ぎ捨てて、在りたい身体を探ること。

 

昔々、裁判沙汰になって身近な人たちをたくさん傷つけ失って、性的事柄のすべてが嫌悪対象になってしまったとき、裸になることは哀しみでしかなかった。でも今は違うと断言できる。裸になることは哀しみを超えていく。消し去るのでも踏み潰すのでもなくて、抱きしめながら*4

*1:20代後半から30代半ば

*2:2022年9月、ついにドラァグメイクを体験した

*3:「トランスジェンダーとともに」あるために、男性がなすべきこと:REDDY:エッセイ (u-tokyo.ac.jp)

*4:(深夜、誰もいない河原を走る。ひとりリサイタルを始める。椎名林檎と一緒に腹の底から「尊厳」と叫ぶ。おすすめです!)