人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

待ち望まれた野良猫のように

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引き寄せられるような家がある。それらは本当に存在していたのか疑いたくなるような場所なのだが、しかし確かな身体の記憶と共にある。

特製のコーンスープを用意してくれた、子を欲しがっていた伯母さん夫婦の暮らす寮。中学生になって始めて迎えたクリスマスの翌日に熱愛のような性衝動のような混沌とした感情を私に浴びせた女の子が両親と妹と暮らす一軒家。蒸し暑い季節、反抗期で家を飛び出したときにかならず匿ってくれた安全基地のような同級生の部屋。八丈島の山奥にある魔女の家。墓参りの帰りに必ず挨拶しに行った、世界中のどこにも売っていないような柔軟剤の香りが充満する玄関。添い寝フレンドだった人がひとりで住んでいた、阿佐ヶ谷から自転車で10分のアパート。常に開かれていて無秩序なまますべてを歓待する、ギークたちが暮らすシェアハウス。止まらないお喋りと注がれるワインとハグとキスで夜が明けた、イタリアの食卓。

 

滅多に起こり得ないはずだったこと。感性を委ねられ、心から脱力できる他者の家では、待ち望まれた野良猫のようにわたしは美しい存在になれる。実は、家の外にもそのような場所がある。それは街角で突然始まる演劇だったり、初めて駆け上がった坂から眺める海だったり、誰かが落としたまま誰にも拾われることのない鍵たちが眠る草原だったりする。

いつ命が絶えてしまうかはわからないけど、美しいものとして撫でられた日のことを抱きしめていきたいし、いつかまた在るかもしれないその日を秘かに夢見たい。そして予期せず私と居合わせた誰かが、自分の中にある美しさと出会える瞬間があるならば、それ以上の歓びはない。底に触れて深く息ができる場所を諦めることがないように、酔っ払うことのできないあなたの生きる季節が、ふたたび満ち足りますように。

名乗ることの恥について

水曜日、職場近くの豆腐屋で自家製合鴨弁当が280円(特別価格)で売っていて、どしゃ降りの後の乾いたコンクリートを突き進み、ピクニック気分で駅前のベンチでそれを味わう。ハイヒールで新宿の街を駆けるのに疲れて、帰宅する頃には和室に敷いた布団に吸い込まれるように眠ってしまった。蚊に刺された痒みで目覚め、4時半にシャワーを浴びて、夜明けを感じて、カプースチンを聴きながらこの記事を書いている。

 

選択的夫婦別姓最高裁判決は残念で、いや残念を通り越して、この国が望む「夫婦/家族/パートナー」関係を築くことの地獄を再認識した。自分は選択的夫婦別姓が実現したとしても法律婚を選べないけれど、それによって不便が解消され生きやすくなる人たちが確実に増えるし、多様性が認められた社会のほうが肩こりも減るだろうし命を落とす人も減るだろうから、法改正をひたすらに望み続ける。しかし地獄はいつ終わる?自分が死ぬまでにこの家族制度とそれを補強するシステムは解体されるだろうか?

 

金曜日、物を失くしてばかりで注意力は散漫しているものの生への活力が戻ってきた気がする。外泊先で優雅にのびのびと自慰もできる。立て続けにあったスピーチ依頼も無事終えた。疲労からか頭痛がする。こうした社会的な場での登壇について、グダグダで脱線しまくりで沈黙もして呂律が回らなくてボケボケの自分を許せるようになってきたことは嬉しい。複数いる自分が統合される日が多くなったというか、更新の連続で今がいちばん生きやすい。


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今、芸術や福祉、社会構造そして個の尊厳を問うはずの業界での性暴力告発が相次いでいる。支援者/協力者としてではなく告発を選べなかった一人のサバイバーという立場で私は告発者たちの側に居続けている。近しい問題意識を持つ有志によるZINE制作が決まった。自分自身に対して期待する。誰にも奪わせないものを作れるとしたら、輪郭を何度も引き直したコントロールの効かないこの身体から出発する以外にないだろうから。

かつて「添い寝アーティストを目指しています」という自己紹介の仕方をしていた。それは、添い寝によって尊厳を再獲得できたことの意味と価値、その感触をどう表現(贈与)できるかを考え続けるという意思表示でもあった。

今もその旅は続いている。しかし他者の尊厳を十分に考え抜かない中でアーティストを名乗ろうとしていた自分を心から恥ずかしいと思う。当時の東京での日々は、表現者・愛好家・批評家などが周囲にたくさんいてその人たちが語る言葉やハイコンテクスト文化を全て鵜呑みにして「アーティストたるものこうあるべき」というイメージが膨らんでいたように思う。しかし、今は抽象度が増していて、自身の中の矛盾や戸惑いを自覚したまま、アーティストと呼ばれる/呼ばれたい人たちを眼差せるようにはなった。関西のアーティストと交流できて東京の特異性を知り相対化できたこともそうだし、この数年で誰かの沈黙が破られる瞬間に多々立ち会ってきたことが最たる理由かもしれない。中途障害とも言い表せる、人生が突然プツンと分断されて連続性が失われたような体験、トラウマティックな出来事を抱えて生きるたくさんの人に出会ってきた。自分の声を取り戻すため、当時だってそのために抗っている人がたくさんいたのに、自分の回復に精一杯で、その静かな闘いを想像し敬意を払えていなかった。名乗ることの恥を思う。

 

https://sth-totalkabout.hatenablog.jp/entry/confession0620

このエントリを忘れないようにしたい。表現する者が、性暴力をテーマとする作品を世に出す過程で被写体の尊厳を無視し続けたことを。

境界を揺らがし得る相手との作品だからこそ、物語る身体を切り拓く可能性を抱けるからこそ、クリエイティブな活路を見いだせるかもしれない。しかし、表現"された"側からの「取り下げてほしい」という声を拾う道が残されていなければいけない。いついかなるときだってサバイバーの体験はサバイバーのものなのだから。おのずと『他者との関係性』をテーマとする作品が生まれたとき、それは避けられない道なのだ。

私自身、これまで何度か取材を受けたり美しい物語にされたり映像を撮られたりする中で、表現する側の好きなように創造されて良いと考えてきた。それは後から文句を言える関係性があると思えたからであり、コミュニケーションではなくてもディスコミュニケーションならばそれはそうと納得できたからである。しかし、ほんとうの意味で特別な交流があったのにかかわらず不在の存在として扱われること以上の苦しみはない。コミュニケーションもディスコミュニケーションも存在しない世界は、忘れられた街角みたいに、どこよりも寂しい。

 

土曜日、ゆにここカルチャースクールクィア講座に参加した。私が繰り返し使ってきた「自由」とか「尊重」という言葉の意味は、「普通に息をさせてくれ」であったことが思い出される。ある側面で力を持つ側の都合次第で線引きをされる(いないことにされる、存在を否認される)ことに対する全力の抵抗。幸福は最初から必要としていないし、生きる目的はそれだけなのだ。望んでもいない応援歌が届くとき、炭酸水を頭からぶっかけられたみたいに皮膚が痛む。底が見えない水の中をおそれずに飛び込んできてくれた人に鰓を差し出したいと思う。どうか、何を感じているか、声を聞き、目を合わせてほしい。規範通りには生きれはしない者同士が存在を祝福しあえる夜を探し続けたい。

これから、たくさんの熱を浴びに行く。舞台公演の予約で祝日がびっしり埋まる。カルメンピアソラの夏。音に埋もれ、踊りに担がれ、演技に慰められ、歌に愛でられ、ぎっしり肉づいたかなしみを削ぎ落とし、邂逅のための身体を調律せねばという思いだけがそこにはある。

去る者追わず、やがてひとり眠れて

10年前の冬、添い寝フレンドだった人の家をたびたび訪ねては、あれは何色だったかなあ、やさしい香りのやわらかい布団に包まって眠っていた。あの日は冬で、それは青いロングスカートだった。駅のエスカレーターが昇る間にカシャカシャという音がして、振り返ると私のスカートの中に手があって、睨んで腕を掴んだら「すみません消しますから」と言いながら私の手を乱暴に振り払い、盗撮犯は走り去った。「捕まえてください、助けてください」と大声を出したけど、誰も助けてくれなくて、白い目で見られるだけの駅構内の居た堪れなさを覚えている。

上司による性暴力被害から時間も経っていない時期で、慣れた足で警察署に向かったが、現行犯逮捕でないとねえ無理だねえと帰されてしまった。悔しさが染み付いたそのスカートを見るのも嫌ですぐに燃えるゴミとして捨てた。当時お世話になっていた相談団体のお姉さんに「ごめんなさい。もう動けません。疲れてしまいました」と連絡をして、添い寝フレンドからは「どうした?すぐに来てだいじょうぶだよー」と返事が来て、真冬の夕暮れの中アパートに辿り着いた。扉を開けて、何があったかを簡潔に伝えた。泣いていたか、抱きしめてもらったか、細かいことは覚えていない。けれどそのやさしい表情と非性的な空間に慰められたことは覚えている。鍋かカレーかな、暖かい食べ物を作ってもらって一緒に食卓を囲んだ。いつものようにアニメを流して、なんてことない普通の日常を一緒に過ごした。

 

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当時20歳になったばかりの私は、高校生の頃から好きだった緑川ゆき先生の漫画『蛍火の杜へ』にえらく感銘を受けていた。ちょうどアニメ映画化されDVDが出ていた頃で、「これ観ようよ」と私から提案した。アルバイトを掛け持ちする苦学生が背伸びして買ったのであろう豪華なディスプレイで、6畳の洋室の中央に置かれた楕円形のテーブルに肘をついて、一緒にそれを眺めた。

この物語は、人に触るとこの世から消えてしまう「人ならざるもの」であるギンと、共に過ごす毎夏の積み重ねの中であなたに触れたいという渇望を募らせる少女・蛍による、生きとし生けるものの風物詩である。私たちは彼らとは違い当然のように肌に触れあえる関係だったが、観終わった直後はお互い涙が頬を伝って、恐怖のような寂しさのような歓びのようなその全てが内包されたような不思議な感触のまま何度もたくさんハグをした。幸福と呼ぶべき瞬間はあの時に違いなかった。砂を飲み込むように苦しくて麻痺していた体が再び息を吹き返した瞬間。行き止まりのように思えた回路がちゃんと繋がった瞬間。人に抱きしめられ、人を抱きしめることが私は好きなんだと思い出せた瞬間でもあった。

 

そして、今年1月。性暴力被害からぴったり10年の節目が訪れた。

 

記念日反応と言うのがただしいのか、「10周年だから」と幾度となく意識しがちで、このタイミングでの出会いは全て必然のように感じていたし、性暴力の告発をする友人たちのそばで、自分に出来ることを探せるはずだと思っていた。しかし4月頃から心身のバランスが取れなくなっていた。突然同居人である夫の身体に触ることが出来なくなり(特に性的な文脈で)触られるたびに身体が強張るようになった。と思えば、表面的な快楽でその場をやり過ごすような野生的な振る舞いもあった。ちぐはぐで、極端な表現が増えるようになっていた。頭では自分の体調の崩れを理解しつつも、上手くコントロールが出来なかった。重心がなくなる感じがした。

今月に入り、友人たちに励まされ抱きしめられ、ようやく現実感が戻ってきた。身体の中でたくさんの声が蠢いている。それを外に出していかないといけない。職場に「今日は仕事を休みます」と連絡を入れて、寝たきりの自分を許すことにした。夫が私の好きな参鶏湯を作って看病してくれる。有難さと申し訳なさでいっぱいになった。脚色のない事実、反する自身の願望と行き場のない感情を整理する必要性に駆られて、「性暴力匿名相談ダイヤル」のボタンを押した。

開口一番に、大号泣しながら「性暴力被害から10年の節目だ生きてて良かったね」と自分に呪いをかけすぎていたことについて語った。そのまま40分間ずっと話を聞いてもらった。翌朝は頭が割れるように痛くなり、涙も枯れてこのまま水分不足で死ぬんじゃないかと不安になるほどだった。

自分の心身をコントロールできない日があることを理解できると良いし、自分の望む物語を過信しすぎないことが大切である。ある程度自己を操縦できる時ならば、生活圏の親密な他者に適度に甘えられるし、安定したケア関係は成立する。しかしそう上手くはいかないこともある。親しい人に専門家のような役割を求めるのは厳しいこと(だし、不健全な関係の中では回復が遠のく)と私は感じてもいる。生活圏外での調律が必要なタイミングを見逃さないようにしたいと常々思う。なので一切利害関係が発生しない、トレーニングを受けた見知らぬ第三者の存在がいつも*1有り難い。

 

「嫌なことは嫌だと表現することが自分を守ることだし、無理に人に触れなくてよいと理解しているんです。しかし、もう一生私は誰とも触れあえないかもしれない…と自分に呪いをかけてしまって困っているんです」と電話先の相談員に伝えると、「そうなの?もう一生誰かと触れあえなくて良いと、本当にそう思うの?」と問いかけられる。すると「いいえ!」と即答する私がそこにいた。喉に詰まっていた禍々しい固まりが一斉に流れる。全く面識のない相手だからこそ、遠回りせず本心を言えたのかもしれない。不思議なもので、その翌日、全く抵抗感なくセックスというか性的な接触(※私は恋愛感情や性欲が伴わなくても親愛な人と愉快に肌を重ねることができる)ができた。2ヶ月半のレス解消。やっぱり人に触るのは良いものだなあ、と思えた。本当に良かった。

 

その日以降、コントロールできなかった涙もピタッと止んだ。憑き物が落ちたように身体が楽になった。性暴力被害後、助けてくれようとした人を沢山失ってしまったので、その傷が何度もパックリ開いては乾いてを繰り返しているのだと客観視できたことも自分を助けた。だから自己開示した相手から強い拒絶を受けたり被害当時と似たような場面に出くわすと、タイムスリップして10年前の身体の感覚が戻ってきてしまう。トラウマの再演というやつだ。まあ、生きているからこそ血が噴き出るのだと思うと心って面倒で面白い。そして腹が立つし、めちゃくちゃ健気で可愛いな。私は野良なりに逞しく生きてきたが、当然弱る時もあることを忘れないようにしたい。失ってしまったものは沢山あるけれど、選べた今の環境もあるし、大切に想ってくれる友人たちがいる。だから個として尊重される付き合いを選ばないといけない。そしてサバイバー仲間たちの尊厳や多様な生き方を何より大事にしたいし応援したい。何を美しいと感じるか、その価値と感性を捨ててまで縋りたいものはないはずだ。

 

楽園はないけれど、完璧な世界もないけれど、ぼちぼち生きていれば、生き返る瞬間がまたやってくる。そうそう。怪我の功というべきか、一人で眠れるようになったのです。10年経ってようやくだよ。ようやく、添い寝フレンドだった人がただしく過去になったのかもしれない(本当にそうかはわからない、そう思いたいだけかもしれない)。ただ今日は晴れやかな身体で、穏かな心でピアノを弾きました。

ここまで読んでくださった方、ありがとう。どうかあなたも元気で好き勝手に生きててくれ!ください!

 

🎹今日の練習曲🎹

戦場のメリークリスマス/坂本龍一



②Energy Flow/坂本龍一

 

ゼルダの伝説 時のオカリナタイトルテーマ

 

④愛を奏でて/エンニオ・モリコーネ


 

*1:「あなたに心理療法は不要。喪の期間を生き抜いて」と専門家に言われた経験から、医療の力ではなく身近な人の手を借りながら雑に生き抜いてきたんだけど、時々調子を崩すので2~3年に1度の頻度でこうした匿名電話相談のお世話になっている

墓場でキスをする(2021年6月近況)

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青野くんに触りたいから死にたい』というとんでもない傑作がある(なので15年ぶりくらいに月刊誌を購入してしまった)。

数日間付き合ってすぐに死んでしまった恋人「青野くん」が不在の世界で生き続ける意味はないと強迫的に後を追おうとした優里ちゃんと、それを契機として「人ならざるもの」としてこの世に戻ることを条件つきで許された青野くん。

所有して独占して同一化して蕩けて溶けちゃうような関係性は死んでしまいそうになるくらい気持ちよくて取り憑かれたように幸福でヌルっとジメジメして這い上がれない暗い場所だってことを思い出させる物語である。恋愛を描いているようで、愛という名前で括られるすべての関係性(親密圏)にひんやりとメスを入れて血肉を広げるような刺激的な物語である。

残飯の描写が不気味すぎる。選ばれなかった食材。傷む生モノ。誰もいなくなった空間。それを廃棄する人。宴は永遠に続かない。誰ともぴったり重なれない。墓場でひとり。そういうことが一コマに詰まっている。「人ならざるもの」の身体、死者の身体、生者の身体。それらが混ざり合って私の生きる肌にべったりと触れてくる。夏の夜にひとりで読むと寒気がするかもしれない。

「あなたに触れたい」という欲望。アサーティブ・コミュニケーションを目指して自他を尊重しましょうと皆が唱える時代、私たちは非暴力に努め工夫しながら欲望を満たそうとする。しかし「人ならざるもの」の身体はそんなのお構いなしにやってくる。身勝手な欲望をこれでもかと言うくらい露悪的に伝播させる。だから思いやりとは真逆のことが起きてしまう。そんな世界でどうやってI LOVE YOUを表現できるだろう?と問いかける寓話。選ばれない人を生み出す痛み、選ばれることの苦しみを抱える幽霊の青野くんと、選ばれて求められる喜びを一度も知らなかった優里ちゃんが肌を合わせることの意味と結末は何なのか、それを想うたび泣けてきてしまう。

 

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一昨日は、「#シェアハウスでの性暴力」というトークイベントに参加した。性や暴力の話を茶化さない空気をひとりひとり作っていくことの重要性を再確認した(発起人の皆さま、ありがとうございました)。私は、「こんな場所に来たのが悪い」「あなたにも非がある」と疎まれた経験を持つ者同士で連帯したり文句言ったり交渉したり再訪できる道が残されてほしいと発言した。実際に自分がそういう連帯に励まされているからだ。

その一つが、メンヘラを自称する最高の女ともだちである。彼女と「共に暮らしたシェアハウスは私達にとってのポケモンセンター(療養所)だったね」と語る夜がある。自身が内包する加害者性と被害者性・強靭で脆弱な精神についてを掘り下げて語り合う夜があって、もう会えぬ人々を想う夜がある(連帯できなかった、もう会えない人のことを私たちは何度でも思い出している)。被害者ぶってはいけないし、自分で責任を取らないといけないという暗黙の了解もある。何故ならお互いに傷つけあったからだ。責任を果たすとは、トラブルが起きた原因を考えて、後から自分の感情や過ちを見つめて理解をしようと努めることに他ならない。一方的に修復を望むことは身勝手だということも学んだ。

その女の子とは時差ありで恋人が被ったことがあった。私と彼が別れた後に、彼と彼女が付き合って、そのまま愉快に3人で暮らした時期があった。今は私と女の子のみ縁が続いていて「あの彼は本当に可愛かったねえ、元気かな。」と語ったりしている。今思えば、奇跡みたいな時間だったのかもしれない。非恋愛関係に形を変えることができたことも有り難かった。親密な時間を経由した3人で住まいを共にできて本当に楽しかったのだ。彼から「性被害に遭ったからといって、男性に憎悪を向けないで」と叱られたこともあったし、彼と私で精神的に揺らぐ彼女を支えた夜もあった。きっと二度と手に入らないだろう、奇妙で貴重で綺麗な思い出。

 

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今日は一人のセックスワーカーが客に殺害されたというニュースとそれを矮小化して揶揄する職業差別を見聞きして、心身ともにダウンしてしまった。訪問診療中の医師が患者に恨まれて刺された事件を何件も知っているからこそ、暴力やハラスメントは、密室な空間/関係性を持つ対人サービス業で起こりやすいもの(だからこそ対策が練られるもの)であり、セックスワークだけを取り出して廃止を論じることの無意味さを思う。セックスワーカーヘイトクライムに遭う背景には、それを個人や業種に責任を転嫁させる構造・社会に跋扈する偏見や差別が強く影響している。どんな仕事であっても搾取は起きる可能性があるし心を病むことがある。Sex work is work。より安全で権利行使できる労働環境、特定の業種が見下されない社会を目指す以外にないだろう。二度とこのような痛ましい事件が起こらないように願いたい。そのために行動していきましょう(自分の出来る形で)。

参考:セックスワーカーの権利運動が目指す 「職業差別」撤廃

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身体性について


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世界バレエフェスティバルの時期がやってきた。2018年開催時はU29チケットでかなりお得に鑑賞できたので、連日劇場に足を運んだ覚えがある。今年もU29チケットの恩恵に与りたかったがU25チケットしか販売されておらず、新型コロナウイルスの影響を思う。せっかくなのでS席チケット(2万7千円)を購入した。2階席の最前列を確保できて幸運だった。普段はここまで奮発しないけど、3年に1度の貴重な機会だし、こんなご時世だし、数万円の差を気にする必要もないので即決した。

気がつけばよくバレエの舞台を観に行っている。鑑賞後、天井から垂れる糸に肉体がぶら下がったような感覚が訪れるから好きだ。うつくしくてピンと張られた意識に身体が調律されるというか。トレーニングを受けていないので、数日経つと、すぐだらしない身体の使い方に戻ってしまうのだけど。

今日、偶然目にした記事<このバレエには想定外の衝撃がある。Netflix配信ドラマ『ナビレラ』は「おじいさんが踊る」だけの話ではない。>にこんなことが書いてあった。

バレエは、スポーツではない。隅々まで研ぎ澄ませた肉体と精神によって、しばしば「人ならざる存在」をも体現する芸術だ。

そのとおりだと思う。人形や動物、死者(幽霊)や精霊。神話や御伽噺のキャラクター。バレエは肉声や文字を必要としない芸術である。力強く繊細な身体だけがある。生きなさい、と命じてくるような説得力だけがある。

定期的にこの記事<シルヴィ・ギエム『ボレロ』 バレエによる天岩戸開き>を読むのだが、シルヴィ・ギエムの踊るボレロを一度で良いから観てみたかったなと悔やまれる。ギラギラしてそれでいて静寂で、命の循環を感じる踊り。膨大なエネルギーを注入される踊り。これまで友人を連れて上野水香ボレロを観に行ったことなら2度ある。また私はボレロを観に行く時だれかを誘うだろう。この世に存在するのに疲れて果ててしまった時にこそ、他者と共に観たい作品である。

ベジャールの『ボレロ』は、まさに神としての太陽をバレエによって天降(あふ)らせる代用宗教だった。

太陽の無限の恵みを求める、人間の言語を絶した呼びかけ。

私はギエムのダンスに、一つの神話の再現を見た。

そして、神話の再現こそは、「祝祭」の本質なのである。

祝祭としての身体性と考えるとしっくり来る。「あの、一回生の出来事」によって生かされる日々がある。非日常的な、もう同じ感触は味わえない、人生で一度だけあったこと。そういう身体の記憶に生かされている。

 

バレエつながりで、もうひとつ別の記事<「ブラック・スワン」は媚薬いらずの官能映画、女の子を誘って見てみよう。>を紹介したい。

山岸凉子がすぐれたホラー漫画を描き、バレエ漫画も描いているのは偶然ではない。その理由がようやく実感として理解できた。
バレエとホラーは、肉体を過敏に意識するという根っこで深くつながっている。そしてエロっつーか官能も身体性に関わっている。いじめるように自分の肉体を駆使して美に近づくバレエダンサーに感情移入させられ、その敏感になった肉体を刺激する演出の連続が、観客を恐怖/興奮させないわけがない。

端正な身体と狂気が描かれるバレエ作品を鑑賞した後は女性を口説くための絶好の機会が到来すると筆者は指南する。たしかに尖端まで過敏になって恍惚としている状態なので成功率は高まるのかもしれない(日常に戻って冷静になっても偽りなく触れあえる関係性ならなお良いと思うけど)。ここでいうセックスとは指先が触れ合うだけで完成されて満足するような身体の体験を指すのだろう。

ダーレン・アロノフスキーブラック・スワン』と山岸凉子の関連性については納得である。山岸凉子の作品には「霊感」についての表現が多く登場するのだが、それが大いに発揮されるのがバレエ漫画だと感じる。畏れを纏った官能的な肉体が漫画のコマを突き破るというか、立体を成して脳裏に焼き付くというか、そういう瞬間がある。たとえば、『アラベスク』のラ・シルフィード。たとえば、『プレプシコーラ』のノクターン。漫画を手に取らずとも、その場面をすぐに思い出せるから不思議だ。震えるような表現に出会えたことに感謝したい。

 

バレエフェスティバルまであと3ヶ月。それを楽しみになんとか生き延びようと思う。そして健やかな身体を作るために惜しまず医療にお金をかけたい。

・来月は東京都のHIV/AIDS普及啓発月間なので検査予約を取った。

・歯科定期検診の通知がきたのでクリーニングしに行く。

・婦人科で紹介状をもらう。近隣のクリニックでミレーナを外した後に諸々の検査をしたい。

・子宮頸がんを予防するためのHPV9価ワクチンを打つ。10万円弱。

・私の自治体では新型コロナウイルスのワクチンも7月には打てるようだ。予約は大変らしいが頑張る。

・久々に体重計に乗ったら1.5kg太っていたのでランニングを継続。余裕ができたらボクシングも数年ぶりにやりたい。

 

皆さんもどうかお身体ご自愛くださいな。

 


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↑バレエではないけど、Alvin Ailey American Theater(昨年で設立60周年だったらしい)のダンサーを待ち受け画面にしている。美しすぎて溜め息、である。

参考:それでもわれわれは踊る ― アルヴィン・エイリーの『リヴェレーションズ』がこれまで以上に元気なわけ

Alvin Ailey American Dance Theater: Chroma, Grace, Takademe, Revelations (2015) - YouTube