人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

父の脱皮

ゴールデンウィークの最中、祖父が他界した。米寿のお祝いの席で、「曾孫の顔を眺められるのはいつかなあ?」という親族による善意の暴言が流れても「いいや、あなた自身が幸せならいいんだよ」と微笑むだけで決して暴言には加担しない、そんな祖父が大好きだった。

突然救急搬送された祖父、「保険証の持参忘れを病院受付に責められたので納得いかない」と苛々する母、「そうか…」と沈黙の父、「毎日お見舞いに行こう」と張り切る叔母。その二ヶ月後、延命治療の選択肢に懸けても、嗚呼、あっけなく、逝ってしまった、五月晴れでした。

 

既に四年前、祖母は逝ってしまっているので、どうやら父はついに両親を亡しくたというわけだ、今どんな気持ちだろうか、父の表情は大体いつも変わらなくて、それは通夜でも変わらなかった。それでも喪主として、皆の前に立つ父をはじめて主体的な存在と思えたのだから不思議だ。いままで一体彼をなんだと思っていたんだろう。幼い頃、この人は父親役割を全うすることも演じることもできない人なんだなと気付いて、それからは不思議な生き物だと思って接していた。自分のことでいつも精一杯で、「家庭」という枠の中に嵌っては生きられず、つねに芸術に親しんでいた父。さて、私は彼にとって何者だったのだろうか。娘というよりも、「たまたま同居することになった小人」であり「いつの間にか成長していた大人」であり「わりと趣味のあう他人」であったのかもしれない。私にとっても、父という呼称は便宜上/法律上でしかなく、実際は、沢山の作品を紹介してくれた教養人であり、The Beatlesを愛するミュージシャンであり、寡黙で無機質な変なおじさんであった。役割を担えなくたって、個として十分に関わることはできる。名付けられた関係性に縛られる必要はなくて、個と個の、人間としての関係性が豊かであればそれでいいのだと、私はいつの間にか学ばされていたのかもしれない。

 

通夜が終わり、葬儀場(に併設された大部屋)にて、祖父の遺体と共に一晩眠ることになった。そこには、父、叔母(父の妹)、私、が泊まりこむことになった。通夜で居合わせた祖父の甥が、私の夫の同僚だったということが発覚したので、当初その話題で持ち切りとなった。続いて叔母が「そういえばさ、お父さん(私視点では祖父)のきょうだい関係って」「末っ子だったのに、戦後も家族を養うために頑張っていたんだよね」「お父さんがお母さんと結婚してからは…」と語り出す。そこに居る私は良い意味で空気みたいで、兄妹が生きてきた長い歴史を穏やかに傾聴する。

 

それまで寡黙だった父が淡々と呟く。「そういや…、子供の頃は…、皆の家と比べて、自分の家は大分変なのだと気付いたんだよ」「あんなに親が怒鳴り散らしている光景は、他とはちがくて…、すごく嫌で…、わりとトラウマになっていたんだなあ」

そんな父の独白を、はじめて聞いた私は、得体の知れない感情が湧き上がってきたのだった。

「でも、私が実家にいた頃も、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんは相当な喧嘩をしていたけれど」と、伝えると、「ええ…?そうだったっけか…」と驚いている。「もうその頃には、その環境に慣れすぎて、心が鈍くなって、おかしいとも気付けなくなっていたんじゃないの」と叔母が指摘する。生まれてから今までずっと両親と同居し、過保護なほど愛情を注がれた結果なのかどうかは知らないが、どこか受け身で無責任さがあって、騒音からそっと逃げ出すように、孤独を選ぶことが多かった父。勝手にカテゴラズするのも失礼な話なんだけれど、機能不全家族というか、アダルトチルドレンっぽさが否めない感じもあった。

しかし祖父が入院してから、父は少しずつ大人びていったそうだ(大人に大人びるという表現もおかしいはずだが彼にはぴったりである)。その結果、「私、この人が伴侶で良かったかもしれない」「なんだか、お父さんのことを見直した」と母がぼそっと呟いた。生まれてこの方二十年余り、こんな展開になるとは想像できなかった。呪いでもある親という存在を失うとき、まるで脱皮するかのように、前を向き始めた彼の微かな変化に逸早く気付いたのは母だった。

父の脱皮にも驚いたけれど、それと同様に、この母の発言にも驚かされた。三十年近く一緒にいれば、「この人はこういう人だから」という傲慢ともいえる「理解」が芽生えるものだと思う。それを塗り替えてしまう瞬間というものがあるのか、今確かにあったのだ、人と人はどんな瞬間でも出会い直せるのだ、新鮮なあなたを発見できるのだ、その事実が衝撃だった。

 

 

十代の頃、家族みんながちゃんと揃っていたとき、私はどうしてもこのコミュニティをあいせなかった。あいせなくてもいいのだし、自分の人生をただ充実させればいい、そう思って上京した。幸いなことに「好きに生きればいい、あなたはあなたなのだから」と両親や友人は見守ってくれていたし、最悪、地元に戻らなくても、家族の顔を忘れても、過去を抱きしめられなくても、別にいいのだ、そう気楽に構えられるようになっていた。ただ、亡くなってから初めて知る祖父母の歴史、その両親を失い変わっていく父、諦めていたはずの父という人間を再発見した母、どれもすべてが新鮮で、 いじらしくて、あたたかかった。変わるはずがなかった(そう思い込んでいた)ものが、一気に紐解かれ、再編集されていく、その理屈もトリックも説明がつかなくて、ただただその光景を前に、目頭滲ませ立ち尽くすしかなかった。陳腐な表現かもしれないけれど、ただただ感動するしかなかった。人の死は本当に不思議なもので、それはだれかにとっての再出発の儀式でもあり、生き続けるための必然でもある。四年前も同じことを感じたけれど、四年後の今日もそう感じたのであります。


 

鳥飼茜とバッドフェミニストとセックスワーク

鳥飼茜先生が描く、孤独な女同士の同居生活『地獄のガールフレンド』の最終巻が先週発売された。連載当初のインタビュー*1でもこんなことが書かれていたので印象的だった。

“女友だちいらない”って決めた。それ、1話の冒頭に描きましたね。そこから女の人と距離を取って生きるようになったんです。距離を取ったほうが友だちになりやすい。結びあえるときに結ばれればいい。いらない時はいらないという距離をとってつきあえば楽だと気づいたんですね。なので、マンガのなかでも徹底的にそうしてます。

 

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もうひとつ、 『先生の白い嘘』という漫画(連載中)でのインタビュー記事も読み応えたっぷりだ。これです!

いちいち「この人にレイプされるかもしれない」と思ってたらやっていけないから、当然ながら「男女は関係ない、相手を信頼している」ってことにしている。そうやっているうちにいろんなものが「なかったこと」になっていくような危機感があるんです。性被害とか性差別とか。それは女性から男性へのものも含めて。

でも実際にそういう被害は存在しているし、信頼ベースじゃないと進まないところにつけ込んでくる人もいるから、それをないことにしたままで「抑圧から完全に解放された」みたいな時代を迎えることは期待できないです。 

鳥飼先生って、「性」について、どちらかの性別だけにとりわけ甘い蜜を与えるわけでもなく、かといって厳しすぎもせず、きわどいながらも目を逸らしてはいけない話題を、近所のお姉さん的なポジションで気さくに問いかける人って感じがする。「男と女がどうやって共生していけるか」についてオリジナルな表現で鋭く見つめる、可能性に富んだ漫画家だと思うのです。 

 

 

異性に対してはっきり「違う」と物申せない自分にモヤっとするとき

『地獄のガールフレンド』最終巻で、こんなシーンがある。

可愛い自分が大好きで常時モテモテでビッチな女性、「奈央さん」に対して、「得してるんだから、嫌な目にあっても自業自得な部分もあるよね」とさらっと言う「石原くん」の回。

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(続きは是非読んでみてください!「奈央」さんの「嫌な目に遭ってもビッチで可愛い私を変えることはない」という逞しさが格好いいのと、女友達が正しさでは測れない彼女の魅力を全肯定するという流れが◎)

 

性被害の自己責任論を唱える人(被害者にも落ち度が…と繰り返す人)は性別問わず居るものなので、男性に限られた話ではない。ただ、性別が違うと、気づきにくい面や共感できない面があることも確かではある。「正論」「理屈」だけでは簡単に片付けられない(片付けてはいけない)「社会的性差」「背景」「感情」そして「被害者支援の在り方」というものがある。

異性に対して、同性以上に、「どう伝えても伝わらないから、笑って/黙って済ませた」みたいな経験を持つ人は多いかもしれない。たとえば職場で「これはセクハラっぽいな」「イヤな扱いだな」と思う場面でも、はっきり「それは違うと思います」と、怒れずに、曖昧に対応してしまった経験はわりとあるんじゃないかなと思う。

 

 

そんな中、こんな機会に恵まれて少しほっとできた。

今週金曜日に参加したイベント。

LOVE PIECE CLUB - トークイベント - 【3月ワークショップ】野中モモさん×ラブピースクラブ『バッド・フェミニスト』出版記念リーディングトーク

バッド・フェミニスト。ネットでも話題になったからご存知の方もいることでしょう。

ピンクが好きだし男も好き…。フェミニストなのに女性蔑視な歌詞が多いヒップホップをつい楽しんでしまう…。そうした矛盾も引き受けて尚、「私はこういう立場を取る」と態度をあらわにしています。その勇気!

フェミニストらしからぬからといって主張を引っ込めるのではなく、矛盾を認めながらもフェミニストであることを掲げる、だから、「バッド・フェミニスト」。

フェミニズムフェミニストに対して、「こうであらねばならない」と貼られるレッテルや過度な期待は、社会に根強くあります。ひょっとしたら、ときには、自分自身の中にも。しかし『バッド・フェミニスト』冒頭で著者はこう言います。「フェミニズムが完璧でないのだとしたら、それが人々による運動だからであって、人々にはどうしたって欠陥があるのです」。

矛盾を否定するのではなく完璧ではない自分や他人を受け入れ、分断を乗り越えることを目指す『バッド・フェミニスト』は、わたしたちが連帯し、力をつけることを応援してくれます。

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このイベントで、「自分がバッド・フェミニストだと感じる時について語る」というグループワークがあって、席の近い5〜6人が匿名で語り合うという時間があった。

フェミニズムについての勉強が不十分だから名乗っちゃいけない気がする(二波とか三波とかわからない)(フェミの定義さえわからない)」「(男性への服従と呼ばれやすい価値観があるので)フェラを乗り気でしたい時に少しモヤっとする」「結婚や出産の話題が振られて女性差別的だと感じても怒れずに見過ごしてしまう」「他人からフェミニストだと思われることに抵抗がある」etc…

 色んな方が、「フェミニズム的な考えを支持したいけど、自分はフェミニスト像とはかけはなれているんじゃないか」という葛藤や悩みを持っていることがわかって、「お互いに、完璧ではないことや矛盾も受け入れあって連帯していけるかも」という希望的観測を抱ける時間が、心地のよいものだった。

こういう機会が多くあれば、鳥飼茜先生が描いた『地獄のガールフレンド』のように、「持っているものや立場は違うけれど、どうしても男性とはわかりあえない部分があって、そこを女同士で愚痴りあえて、いざというとき助け合える空間」が発展していけるかもしれないなと思った。

 

 

しかし、性的決定権や性労働の話題になると、女性同士でも結構分断されている感がある…。

続けて、今日はこのイベントに参加

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講演会「セックスワーカーの安全、健康、権利――オーストラリアとアメリカの運動から」3月18日大阪・19日東京開催 | SWASH

五年前、大学学生時代の私は、セックスワーカーに対して偏見だらけだった(今無いとは決して言い切れないけど、昔はもっとダメだった。「当事者抜き」で物事を考えて「風俗はセーフティネットで必要悪(福祉で救済)」「望んで働いている人はいない(問題が解決されて他の労働が見つかれば皆辞めるだろう)」みたいな意識があって、無知のまま勝手な憶測で他人を乱暴に語っていた。*2

 

しかし、「権利」っていわゆる道徳や文化・価値観とは別のものなんだ。事情や背景は人それぞれだけど、それを引き受けた上で、性について自分で決めることは、その人の権利なんだ。だれとセックスしようと、セックスで稼ごうと、双方に合意があって、その人の意思によるものであれば、だれかにとやかく言われる筋合いはないし罰せられるのはおかしいこと(同時に、どんな状況であれ合意がなければ性暴力)なんだ。

自分が性に対して真正面から向きあえるようになってから、それにようやく気付けた。

性労働自体が悪いこと、早く脱出するべき、という保護の視点じゃなくて、劣悪な労働環境によって起こる暴力や犯罪を防ぐという労働者の権利の視点が必要なんだということ。他の労働者と同じく「自身の心身を守れて安全に働けること」「無理だと感じたら転職できること」「不当な扱いをされたらそれを訴えられて社会が一緒に怒ってくれること」が求められている。

 

「風俗の仕事は、技術が要るぶん、面白いよー」「妻が風俗嬢ってめっちゃいいじゃんね」と語る現役セックスワーカーの友人の明るい表情に憧れるようになった。他の労働同様に、やりがいもあれば、ポジティブな経験の引き出しだってたくさんあるんだよね。

 

「児童との性交渉(買い手と年齢や立場の差が大きい場合=明らかに合意形成が難しい)」「搾取」「暴力」はNGだという共通認識はあるかもしれない。(性被害者のケアが優先で大前提だともちゃんと前置きがあったうえで強調されていたが、)ただ、すべてのセックスワーカーが「自己決定できない可哀想な被害者」では決して無い、ということは認識差が大きい。自分の意思で性労働を選ぶ人だっている。そんな「自己決定して従事している当事者」にも、労働者として、人間として、安全と健康が守られる権利があること。それが理解されず対立が生まれることもある。被害の大きさやその人の心情を、支援が必要かどうかを、第三者がジャッジしてしまうことは大変危ういことだ。

(って私が言わなくても多くの人が指摘していることだけど。)

 

 

また、講演の中で、ポルノを「汚いもの」「恥ずかしいもの」「女性が虐げられるもの」「オナニー目的のもの」と毛嫌いしまう人もいると思うけど、「マイノリティな性指向/性嗜好を持つ人をサポートするもの」という見方もあるんだよ〜!!という話も良かった。それに、『ポルノが自分を貶めない』と思えれば、ポルノを楽しみたい女性はいる。「(女性への暴行が強調されない)女性向けポルノ」「(当事者が製作する)トランスジェンダー向けポルノ」も登場しているという話もあった。

「欲望への権利を誰もが持っている」「他人の欲望を自分の道徳観や価値観で否定してしまうことは危険」「性に関してポジティブ*3な環境がなければ自由に性を語れない。性暴力被害者にとっても沈黙を破れる環境がエンパワメントに繋がる」という部分も良かった。

 

 

性労働の非刑罰化が主流になっていくか

また、『性労働が刑罰化』されてしまうほど、セックスワーカー自身の安全が脅かされてしまうよねっという点が改めて語られていた。

内容は以下参照。

非犯罪化というモデルは、セックスワーカーの権利の保護を強化しやすい。具体的には、
・保健医療へのアクセス
・犯罪行為を受けたときに、警察などへの被害の届け出ができる
・安全性を高めるために、セックスワーカーが団結したり、一緒に働いたりできる
・家族が、セックスワークでの稼ぎに依存することで罪を問われないという安心感を得る

買春側も処罰の対象としない、という部分は、セックスワーカーを守るために、である。はっきりしておきたいのは、いかなるセックスも同意がなければならないということだ。権利としてセックスを要求することは、誰にも許されない。

 

 

 

さいごに、性産業で働く人を支援したいと考えている人へ是非読んで欲しい記事

 当事者やアライとして活動する人々の、力強い言葉に学ばされる機会が本当に多い。

素晴らしい記事をシェアします✨

 

 左が、貧困とかのネガティブな動機のセックスワーカー、一緒くたの考え方です。右が、労働環境や労働条件の改善によって搾取とリスクをなくすという考え方。

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前者だと、とにかくセックスワークをしなくて済むようにすることが主眼に置かれます。夜の仕事関係の人間関係しかないのは関係性の貧しい人々だとみなす考え方です。

後者の考え方であれば、性産業内での搾取や暴力をなくすことに主眼を置きますので、当然、夜の仕事関係者の多様性の広がりや、社会関係資本に開かれた業界を目指すことになります。

それから、これもよくある見方として、風俗をいやいやしている人が辞めれるようにとか、好きでやってる人は別にいいけど、みたいな見方があります。これも働いている人を二分する考え方でよくないと思います。

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実際には一般的な労働者がそうであるように、セックスワーカーも可変性のあるモチベーションです。

 

 

 

 

"自分が「生きるか死ぬかの苦境でなければ選択肢にのぼらないだろう」という偏見をセックスワークに対して持っていたのではないか。数多くある職業の中で特にセックスワークばかりが「なぜその職業を選んだのか」を問われ語られること自体が、セックスワークを他労働と分断し差別的に扱うことだった"

 

  

経験のあるなしに関わらず、すべての人はセックスワークに従事しうる―。

セックスワーカーの支援は、セックスワーカー自身によってつくられてきた。セックスワーカーでない支援者は、まずかれらの蓄積に敬意を払い学ぶ必要がある。  セックスワーカーにはさまざまな人がいる。プロ意識がある人もない人も、経済的に困難な人もそうではなく見える人も、心理的に落ち着いている人も取り乱している人も。「無防備」に見える人の心の中で何が起きているのかはわからない。大事なのは、その人の力を奪わず、よりよい支援を目指すことだ。

   

“ 「売春は悪くないけど買春はダメ」論に“イイネ!”していた私が、「買春者も罰しない形でのセックスワーカーの非犯罪化が現状ベスト」と思うようになるまでに考えたこと”

 

 

 

以上、おすすめエントリでした。他にも素晴らしい活動されている人や記事がたくさんあるので事ある毎に紹介していけたらと思います。

充実した週末だったな〜明日から仕事行きたくないな〜(お手上げ)

*1:『地獄のガールフレンド』鳥飼 茜インタビュー 女子ってなんか、めんどくさい。でも女子ってなんか、にくめない!  |  このマンガがすごい!WEB

*2:本当に本当に恥ずかしい過去だ

*3:セックスポジティブ=セックスは素晴らしいからセックスしよう!!ではなく、性や欲望をネガテイブに捉えないこと(性嫌悪の人を敵対視することではない。性嫌悪に至る辛い経験をした人を分断するのは間違いだと思う)、セックスをしないという選択も含め性に関して主体的に決められること、自分の選択に責任を持てること

おばさん心、自分がもうひとりほしくなる心

都内の水族館を巡っていた時期があった。十代に別れを告げて間もないあの頃、不慣れな東京の街を散歩するようになったあの頃の話だ。
ちょうどその頃、齢四十位の友人ができた。感性が瑞々しく、流行に乗ったファッション、少年にも見えるあどけない顔立ち、長年積み上げてきた社会人としての振る舞いがバランスよく組み合わさった男性という印象だった。
三十歳前後の女性が自身を「おばさん」と表現したり、五歳しか違わない年齢の相手を遠ざけるかのように「おじさん」と呼ぶような風潮、加齢を「うつくしくないもの」「避けたいもの」「自虐が必要なもの」とするような風潮に疑問だらけの私は、二十歳差という事実に特別な意味を持たず、彼を「おじさん」と呼んだことも感じたこともなかった。

 

そんなある日、池袋のサンシャイン水族館に同行する約束をした。普段は複数人で高円寺の喫茶店や水道橋で鍋を囲む事が多かったし、単独での外出は初めてだったので、緊張しつつも前日の夜は楽しみで仕方がなかった。
当日、彼はいつも通りお洒落な格好で(華奢な襟付きシャツ、そして半ズボンに柄タイツだった)私を待っていてくれた。

水族館に向かう途中、ガードレール下を歩きながら、彼が呟いた。「ああ!なつかしいな。十年前、彼女とここを歩いたんだよ」
「そうですか」と相槌を打つ。すると、次々と「彼女はこういう子でさ、名前はこういう漢字で、あの日はこんな事があって…」と開口したきり止まらない。
現在にはさほど関心がないのか、彼は昔話をひたすら続ける。過去の思い出を恍惚とした表情で語る姿に驚いた。膨大なノスタルジーが感じられた。そこまでの熱い想いがわからなかった。一切共感も出来なかった。

そのとき初めて、『ああ、この人は、「おじさん」なんだ』と気付いて、なんていうか、拍子抜けした。

水族館に到着しても、彼の思い出話は続く。時系列も不明だし、話にオチもないし抑揚もないし、自分の立ち位置に悩まされる。意中の相手の思い出話ならば輝かしく傾聴できる。しかし単なる友人であったので、出来ればお互いの現在について、具体的に言えば目前の水槽内の魚について、話題を広げたかった。「うんうん」と笑顔を振り向け続けるだけの、無料キャバ嬢役は疲れてしまったし、「興味がないんです」ともはっきり言えない自分にもまったく呆れた。

 

「自分の輝かしい過去」「自分の甘酸っぱい切ない過去」を語ることはそんなにも楽しいものなのか、と不思議な気持ちでいっぱいになった。

高齢者と関わる時にも、似たような光景がある。普段どんなに腑抜けているような表情でも、自身の歴史、思い出を語る時は人が変わったように生き生きするのだから面白い。

自分の生まれていない時代について傾聴することは楽しい。その人に興味があれば尚更だ。しかし同様に、同じ内容の自分語りが延々と続けば、疲れてくるのも事実だった。

 

 

 
そんな私も二十五歳になった。
わりと楽しい人生だったな、これからどういう生活を送ろうか、どういう最期を迎えたいか、そんなことを考えることが増えた。結婚していく人もいれば、亡くなる人もいる。私を忘れてしまった人もいれば、私が忘れてしまった人もいる。
過去を随分思い出すようになった。瑞々しい思い出を辿って、あの時あの人と一緒に唄った曲を聴いてみたり、あの時あの人と語り明かした一晩の思い出がよみがえってくる。歳を重ね、出会った頃のあの人の年齢に近づいていく、そう気づくと妙にそわそわしてしまう。
それすごくなつかしくて、すごく恋しくて、もう味わえないと思うとすごく切ない。
あの時の私のあの記憶を、誰か共有してくれないかなあ、なんてふと思うのだ。

だれか私の話を延々と聴いてくれないか、なんてふと思うのだ。
ああ、サンシャイン水族館へ向かう途中のあの彼も、過ぎ去った人を悼み、自分のいのちを自覚するあの爺ちゃん婆ちゃんにも、こういう過程があったのかと腑に落ちてくるものがあった。

 

「(突然無償で)一方的に傾聴する側」の負担を考えれば、自分語りに他人を巻き込む行為は本来は危ないことだ。そこまで他人は他人に興味がないのだから。自伝を出したって、多くの人に愛される作品になったって、隅々まで自分を共有してくれる人なんて現れない。自分が辿ってきた道は自分だけの道だ。たとえ古びた町の廃れた線路上を一緒に歩いたとしても、交差することはないかもしれない。どうしても感じ方や受け止め方には差が出てしまう。そう在りたかった(そう在ったはずの)自分は、他人から生まれることはない。
自分の人生を一番知っているのは自分だけなのだ、そう思い直し、「あんなこともあったね」「そうだねえ」と眠りにつくまでのあいだ、自分自身と対話ができたらどんなに心安らぐだろう。
自分がもう一人ほしい。それが叶えばこの心の内がどんなに解(ほぐ)れるだろうと。

こんなような、自分がもうひとりほしくなる心を、おばさん心と呼んでみよう。
この、おばさん心をどう解せるか、時にはどうやって昇華できるのか、それに悩み続けることが思春期を過ぎた大人たちの醍醐味であればいい。だれとも共有できないそれを、自分の心身から手放せる方法を発見してから息絶えられれば、いいのだが……。

平坦な寂しさをこれからもずっと、抱えて生きていくのだ。寂しさを忘れられる日なんてきっとないのだねと、先に寝入った人の呼吸数を数えながら思う。久しぶりに思いっきり泳いで、鱗を撫でるふりをして、でも水面に上がるしかなくて、イヤになっちゃうことばかりでもしょうがないねと頷いて最寄り駅の灯りに照らされる梅の花を見つける夜でした。

 

(29年8月若干加筆修正)

 

家族以外の医療同意代行(LGBT,成年後見制度のメモ)

医療同意の代行、身近な問題になったので、メモを残しておく。

まず、医療同意権には多くの議論がされてきた経緯があるということ。

大まかに言えば、この三点。

①「本人が同意をできないときに家族などの本人以外の者が代行するという考え方

②「そもそも医療同意は一身専属的なものなので本人しか行使することができず、第三者に代行させるとはできないという考え方

③「医的侵襲を伴う治療を分類して、軽微なものであれば代行してもよいが、重要な医療行為のについては代行を認めてはならないという考え方

 

 しかし、「同意者がいないから手術ができない」 事態になっては本人、医療従事者、関係者すべてに不利益が生じてしまう。そこで、誰が同意代行者になるか、という点が問われる。

手術の同意や入院時の手続きや面会など、家族が呼ばれ家族が説明を受けそれに同意する、というのが主流ではある。しかし、実は、家族関係だからといって医療同意権があるという法的根拠はない。

誰であろうと、本人(成年)の医療同意を代行する権限は無いのである。

※未成年の場合、特に同意ができない幼い子どもが対象の医療は、以前から親権者や後見人に医療同意権が認められている。根拠は民法で、教育監護権の付与するところにある。*1

 

 成年後見制度における、任意/法定後見人にも医療同意権は今までなかった(しかし去年の法改正により、今後法定後見人にも同意権が与えられる方向に…)もちろんケアマネージャーや生活保護ケースワーカーにもない。けれど、「身寄りがない状況」「意思決定ができない状況」は多い。緊急を要する状況の中で、『誰かが医療同意をせざるを得ない』という、グレーな対応がされてきた歴史がある。

 

 

また、本人が「血縁家族とは縁を切っている」「血縁者以外の人間に代行してほしい」と強く望む場合も考えたい。

たとえば、親友、同居人、同性パートナーをキーパーソンに指定して、意向を託したい場合など。

(ちなみに事実婚の配偶者は法的家族と同様の扱いとなる)

 

■同性パートナーと医療同意について。2016年2月の記事。 

“日本の病院を覆う、法的根拠にとぼしい「家族優先主義」によって、パートナーが病室に入れない、医者から説明を聞けない、という事態が予想されます。(略)ともあれ、私たちもいつまでも「病室で最期に立ち会えませんでした」という、いつもの不幸物語にひたるばかりでなく、医療の場で同性パートナーシップを守るためにできることから始めませんか。”

記事参照。こんな提案がされている。

・家族にカミングアウトしていないとか疎遠、あるいは親族より先にパートナーが会う必要があるとかの場合(たとえば親族にはHIV陽性を伝えていないなど)は、そういうときに備えて、パートナーを医療のキーパーソンに指定するような書面による意思表示(任意後見やその他の法的効力のある書類)をあらかじめつくること。
・それに先立って、外で倒れたりしたとき、おたがい異変情報を得られるように、緊急連絡先カードを持ち合うこと。
・意識がある場合は、手術の説明、手術中や急変時などの身元引受人、入院の同意を求められるときに、自分の口で「この人を」とハッキリ指定すること。「どんな関係性か」と聞かれたときに答えを用意しておくこと。「肉親のかたでなければ……」と言われても、「家族はいません」「疎遠です」「関係を切っています」「連絡しないでください」、ともかく自分で主張すること。⇒本人の自己決定を尊重

 

■2016年8月の成年後見の記事。とてもわかりやすい。

成年後見と医療行為の同意

この記事の真ん中で、「成年後見センター・リーガルサポートの提言」が引用されている。平成17年10月と、平成26年5月公表分。また、日弁連平成23年12月に公表された提言「医療同意能力がない者の医療同意代行に関する法律大綱」も掲載。

特に26年版の提言(第2部の第5)を引用しておく。

第2部 成年者の医療行為の代行決定に関する法整備に向けての提言

(略)

第5 第三者による医療行為の代行決定
5-1 本人の同意能力が喪失している場合は、次の者が本人の過去及び現在の意向、心情、信念や価値観に配慮して医療行為について代行決定する。
1 本人があらかじめ指定した者
2 本人の配偶者(事実婚の配偶者を含む)、直系血族及び兄弟姉妹、三親等内の親族 (以下、これら全てを総称して「家族」という)
3 成年後見人及び保佐人・補助人・任意後見人(以下、「後見人等」という)
4 本人の居住地の市町村長

平成26年の提言では、新たに医療同意に関する法律を制定する方向で論じています。ここでは以前の両論併記から、第三者による代行決定を認める方向でまとまっています。
 そして、判断力の低下がみられる患者であっても、極力自己決定を行う方向で構成されていることが特徴的です。
 同意権を行使する者の順位として、第一順位に本人が指定する者を置いている点は日弁連の大綱案と同じです。
 家族の順位を後見人よりも上位に置いている点が、日弁連の大綱案と異なるところです。
 また、重大な医療行為の同意権を行使する場合には、家庭裁判所の許可を要することとしています。

 これが今後主流になれば、「家族」よりも「あらかじめ自分で指定した人」を優先した代行決定ができるかも…

 

 

■そして、去年28年5月に成年後見制度利用促進法施行。

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※医療同意に関しては、今後3年以内に法整備される予定。

民法の部分(郵便物や死後事務)については既に「成年後見の事務の円滑化を図るための民法及び家事事件手続法の一部を改正する法律」により平成28年10月13日に開始されている。*2

 

 成年後見制度がスタートしたときに指摘された、「(医的侵襲を伴う治療)一般の場合における決定・同意権者、決定・同意の根拠・限界等について社会一般のコンセンサスが得られているとは到底言い難い状況」というのは、当時と大きく変わっていないと思われます。
また、医療同意について問題提起をしているのが主に専門家職業後見人の団体側からのアプローチであり、医療・福祉関係の業界を巻き込んだ議論にまで広がっていないということも指摘できると思います。
成年後見制度利用促進法の施行にあわせて、医療同意に関する議論はどのように進展をみせるのか、注目されます。*3

 

■最後に、2014年の記事。以前から、「医療同意権まで与えられると、その責任の重さから後見人のなり手がいなくなるか、あるいは低レベルの後見人が増えるリスクがある」という不安があったようだ。

以下、引用。                               

 まず、自己決定権の観点から、元気なときに自分の意思(延命措置をとるとらない等)をなんらかの形で明確にしておくことが望ましい。その方法のひとつとして例えば任意後見制度や公証制度などの運用が考えられてよい。

 成年後見人の職務事項は広範にわたり、医療同意権まで与えるとなると更に責任が重くなる。現状のままでではやがてなり手がいなくなるか、極めて低レベルの成年後見人が増えるおそれがある。成年後見人に、同意権限を与えて責任を負わせれば解決するという問題ではない。

 立法解決により特定の代行権者(例えば成年後見人)に医療同意権限を与える場合は、セーフティガードとしての第三者監督機関(家庭裁判所や医療関係者による機関)の法的整備が不可欠と考える。まずは、諸外国の裁判所並みに家庭裁判所に責任と任務を負わせるための司法制度の改革(専門家要請をはじめとする人員体制の量的質的な拡充・医療機関との連携体制整備等)が必要となろう。 

 

ブラジリアンワックスで陰毛をベリッと剥がし取った話

私は昔から「毛」にこだわりがあった。母親の黒髪というジャングルをかき分け、奥深くに隠された数本の白髪を発見して抜き取る、という快感からはじまって、小学生の頃は自身の頭皮が気になりすぎて、毛を抜きまくり、毛がなくなった。ある日「あんた、ハゲてるんじゃない?!」と両親にまでバレてしまい、必死で毛を寄せて不自然な髪型で登校を余儀なくする、そんな小学生だった。

―時は20年弱経ち―、私は再び「毛」の問題に頭を抱えることとなる。

陰毛の処理問題である。

そこそこ毛が太く、量も少ないとはいえないが、適度にカミソリで梳きながら量を調整できるので、特に不満はなかった。性交の際にもとやかくコメントされたこともなかった。生理中に陰毛が汚れることは不潔に感じて洗浄に気を遣っていたけれど、ピルや子宮内避妊具によって経血量がかなり減った頃には、陰毛による不快感は殆どなくなった。はずだった。

 

私は凡人なので、同世代の友人にわりと影響されやすい。友人の結婚ラッシュも、出産経験も、離婚や不倫問題も、夢を追いかける思いも、「ほぉ〜〜〜〜〜〜〜」と興味深く聞いてしまう。それでも最終的には「人それぞれ」「私は私」と距離を置けていたはずだったけど、「毛」だけは違った。

社会人になって、友人が次々と美容永久脱毛を始めたのだ。特に人気なのは医療レーザーでのVIO脱毛。ちなみに、VIOとはこういう意味(画像参照)。股間の前方から割れ目に渡り、尻毛までを指す。ちなみに、完全脱毛した人をハイジリーナと呼ぶこともある。

(画像)f:id:kmnymgknunh:20170130134929j:plain

この記事の「脱毛したお股⇒一休さん」という表現も超可愛い。以下、引用。

セックスレスと疑惑の総合商社/アルテイシア | TOFUFU - Part 2

そんなわけで、このたびVIO脱毛にトライした。脱毛済みの友人たちから「スッキリ清潔で快適」「夏でも股間が痒くならない」「股が一休さんみたいでカワイイ」と聞かされ、そりゃイイネ!と思ったからだ。
私は医療レーザー脱毛を選んだのだが、事前にHPを見ると「輪ゴムで弾く程度の痛みです」と書かれていた。それなら大丈夫かも、といざ施術を受けてみると…「これ電撃ネットワークのゴムパッチンやないか!!」あまりの痛みに「小陰唇、燃えてませんか?」とスタッフに聞くと「燃えてませんよ」とにっこり返されたが、Oラインに至っては「会陰地方が火事よ~!!」と叫びたいほどだった。 

 

自分の金で自分の意志で自分の身体をカスタマイズしないと後悔するかもしれない。という杞憂。

ある日、「まわりの子たちがどんどんVIO永久脱毛してて…憧れがある。」と当時のパートナーにぽろっと話したら「毛がないほうが俺好きかも。そうなったら嬉しいし、脱毛代出そうか。何十万くらいするの?」と申し出をいただいたことがあった。しかし―、タダより高いものはない―善意や厚意に甘えすぎると我が身を滅ぼす―そんな思い*1を抱える私。それに、「相手が望んでくれたことだから」「相手のためにもなるから」と受け身な気持ちがあると、後悔した時に相手に責任を被せようとしてしまうかもしれない。そうなるまいと、主体的かつ利己的であらねば、とも思った。

 

そこで、当時の彼との話し合いの内容を残しておきます。(※ここでのパイパン表記=永久脱毛を指す)


【議題①】「パイパン代払ってもらうなら公平に私もあなたのパイパン代を払うのが筋では」

私は、立場の差がある時(上司部下関係など)や一方が経済的に困窮していない限りは男女関係なくワリカンを好むし、気分や状況次第で「奢り、奢られる」関係性が一番心安らかだなと思う。相手に負い目を感じなくて済むし、同じ土俵で物申しながら付き合えて楽だからだ。なので、『パイパン代もプレゼントしあえば良いのでは?!』と思った。しかし彼は「なんでだよ笑。自分が脱毛するとしたら自分で出すよ」というので「じゃあ私も自分で出せばいいんじゃないのか」となった。

ちなみに今、男性脱毛もアツいようである。:男性脱毛の効果や価格は?13の疑問にズバッと答えます!

 

【議題②】「今後誰かと性交してお股を見せる度に『◯◯君の支援があってパイパンになれたんですよ』と説明責任が乗じるのでは」

彼は「なんでだよ」と大笑いしたのち、「元カレにパイパン代払ってもらったと真面目に申告された相手は絶対萎えるやろ」とツッコミを入れた。確かにそうだ。しかし、他人から「パイパン支援」を受けたのに、その厚意に甘んじて感謝を忘れ、タダ乗りするような立ち振舞いをしてはいけないとも思う。義理深く……生きていきたいのだ。そう、上毛かるたで言うならば、"雷と空っ風 義理人情"。

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【議題③】「パイパンにするデメリットはあるか」

2人で「陰毛好きな人が出現した時にお断りされるリスクがあるかも」という意見が出た。しかし「陰毛の有無で簡単に引いちゃうような人とは出来なくてもいいだろう」という結論に至った。自分の責任で自分で判断して永久脱毛を決めたなら諦めがつくけど、他人の勧めで他人の金で脱毛したとしたら「あの時もっと考えればよかった」と尾を引くかもしれないからそこは問題だ。

脱毛の話だけでも、いろんなサイトで、女性の身体をめぐる【男性の本音】【男性を喜ばせる】【男性から愛される女に】みたいな煽りというか呪いはあるけど、そこじゃなくて、【自分自身にとって快適か】【自分の身体を可愛がれるか】という基準を忘れちゃいけないとも思う。他人のためというよりも、自分のために選ばないと後々トラブルも生じてしまうだろうから。

 

そこで、永久脱毛は保留にしてお試しでブラジリアンワックスを購入してみた

ワックスの種類も色々:http://www.cosme.net/tag/tag_id/21839/products

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こんな手順でやってみた。しかし初心者がワックスでVIO脱毛自己処理をやるのは難しすぎて、Vラインだけワックス、IOはカミソリで処理という感じで済ませた。それでもおおよそ綺麗につるっとなったので満足。Vラインがすっきりするだけで印象が全然違うのね。

ベリッ!!!!!!!!と勢い良く剥すんだけど、わりと痛い。けれどちょっとハマるかもしれない。

 

こんな体験記もある(ネット内は商品を買わせようと肯定的すぎる情報も多いのでデメリットも要確認してください)。VIO脱毛体験記♪海外セレブをまねてブラジリアンワックスした結果

“痛みに弱い人には絶対におすすめできない脱毛方法です。ワキ毛や眉毛を毛抜きで抜けない人は、絶対に無理だと思っていいでしょう。”

 

お試しVIO脱毛にはいいけど、皮膚に優しい訳では決してないので、今あるワックスを使い切ったら、段階的に医療レーザー脱毛に移行しようかな?永久に拘らなくてもいいかな?と迷っているところです。サロンや病院には年単位で継続して通わなきゃで大変そうだとも思う(途中でやめると生えてきちゃうんだよね)。それにしても、カミソリ処理は毛がすぐに生えてくるしその過程も苦手なので遠慮してたけど、今回にワックス処理なら最低でも1周間は毛が生えてこない。股間が別の生き物のようで感動した。今年一番の感動をありがとう、myおまん。


この記事が誰かの参考に少しでもなれば幸いです。終わり。

*1:もちろん陰毛ではなく生命にかかわる話なら別。生死にかかわる場面での経済援助ならどんどん他人に甘えてしまってよいとも思う。公的援助も可能な限り活用を。誰からの厚意でも、好かん奴からの厚意でも構わない。恩を返すべきだと強制される義理はない。ただ生き抜ければ良い