人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

おばさん心、自分がもうひとりほしくなる心

都内の水族館を巡っていた時期があった。十代に別れを告げて間もないあの頃、不慣れな東京の街を散歩するようになったあの頃の話だ。
ちょうどその頃、齢四十位の友人ができた。感性が瑞々しく、流行に乗ったファッション、少年にも見えるあどけない顔立ち、長年積み上げてきた社会人としての振る舞いがバランスよく組み合わさった男性という印象だった。
三十歳前後の女性が自身を「おばさん」と表現したり、五歳しか違わない年齢の相手を遠ざけるかのように「おじさん」と呼ぶような風潮、加齢を「うつくしくないもの」「避けたいもの」「自虐が必要なもの」とするような風潮に疑問だらけの私は、二十歳差という事実に特別な意味を持たず、彼を「おじさん」と呼んだことも感じたこともなかった。

 

そんなある日、池袋のサンシャイン水族館に同行する約束をした。普段は複数人で高円寺の喫茶店や水道橋で鍋を囲む事が多かったし、単独での外出は初めてだったので、緊張しつつも前日の夜は楽しみで仕方がなかった。
当日、彼はいつも通りお洒落な格好で(華奢な襟付きシャツ、そして半ズボンに柄タイツだった)私を待っていてくれた。

水族館に向かう途中、ガードレール下を歩きながら、彼が呟いた。「ああ!なつかしいな。十年前、彼女とここを歩いたんだよ」
「そうですか」と相槌を打つ。すると、次々と「彼女はこういう子でさ、名前はこういう漢字で、あの日はこんな事があって…」と開口したきり止まらない。
現在にはさほど関心がないのか、彼は昔話をひたすら続ける。過去の思い出を恍惚とした表情で語る姿に驚いた。膨大なノスタルジーが感じられた。そこまでの熱い想いがわからなかった。一切共感も出来なかった。

そのとき初めて、『ああ、この人は、「おじさん」なんだ』と気付いて、なんていうか、拍子抜けした。

水族館に到着しても、彼の思い出話は続く。時系列も不明だし、話にオチもないし抑揚もないし、自分の立ち位置に悩まされる。意中の相手の思い出話ならば輝かしく傾聴できる。しかし単なる友人であったので、出来ればお互いの現在について、具体的に言えば目前の水槽内の魚について、話題を広げたかった。「うんうん」と笑顔を振り向け続けるだけの、無料キャバ嬢役は疲れてしまったし、「興味がないんです」ともはっきり言えない自分にもまったく呆れた。

 

「自分の輝かしい過去」「自分の甘酸っぱい切ない過去」を語ることはそんなにも楽しいものなのか、と不思議な気持ちでいっぱいになった。

高齢者と関わる時にも、似たような光景がある。普段どんなに腑抜けているような表情でも、自身の歴史、思い出を語る時は人が変わったように生き生きするのだから面白い。

自分の生まれていない時代について傾聴することは楽しい。その人に興味があれば尚更だ。しかし同様に、同じ内容の自分語りが延々と続けば、疲れてくるのも事実だった。

 

 

 
そんな私も二十五歳になった。
わりと楽しい人生だったな、これからどういう生活を送ろうか、どういう最期を迎えたいか、そんなことを考えることが増えた。結婚していく人もいれば、亡くなる人もいる。私を忘れてしまった人もいれば、私が忘れてしまった人もいる。
過去を随分思い出すようになった。瑞々しい思い出を辿って、あの時あの人と一緒に唄った曲を聴いてみたり、あの時あの人と語り明かした一晩の思い出がよみがえってくる。歳を重ね、出会った頃のあの人の年齢に近づいていく、そう気づくと妙にそわそわしてしまう。
それすごくなつかしくて、すごく恋しくて、もう味わえないと思うとすごく切ない。
あの時の私のあの記憶を、誰か共有してくれないかなあ、なんてふと思うのだ。

だれか私の話を延々と聴いてくれないか、なんてふと思うのだ。
ああ、サンシャイン水族館へ向かう途中のあの彼も、過ぎ去った人を悼み、自分のいのちを自覚するあの爺ちゃん婆ちゃんにも、こういう過程があったのかと腑に落ちてくるものがあった。

 

「(突然無償で)一方的に傾聴する側」の負担を考えれば、自分語りに他人を巻き込む行為は本来は危ないことだ。そこまで他人は他人に興味がないのだから。自伝を出したって、多くの人に愛される作品になったって、隅々まで自分を共有してくれる人なんて現れない。自分が辿ってきた道は自分だけの道だ。たとえ古びた町の廃れた線路上を一緒に歩いたとしても、交差することはないかもしれない。どうしても感じ方や受け止め方には差が出てしまう。そう在りたかった(そう在ったはずの)自分は、他人から生まれることはない。
自分の人生を一番知っているのは自分だけなのだ、そう思い直し、「あんなこともあったね」「そうだねえ」と眠りにつくまでのあいだ、自分自身と対話ができたらどんなに心安らぐだろう。
自分がもう一人ほしい。それが叶えばこの心の内がどんなに解(ほぐ)れるだろうと。

こんなような、自分がもうひとりほしくなる心を、おばさん心と呼んでみよう。
この、おばさん心をどう解せるか、時にはどうやって昇華できるのか、それに悩み続けることが思春期を過ぎた大人たちの醍醐味であればいい。だれとも共有できないそれを、自分の心身から手放せる方法を発見してから息絶えられれば、いいのだが……。

平坦な寂しさをこれからもずっと、抱えて生きていくのだ。寂しさを忘れられる日なんてきっとないのだねと、先に寝入った人の呼吸数を数えながら思う。久しぶりに思いっきり泳いで、鱗を撫でるふりをして、でも水面に上がるしかなくて、イヤになっちゃうことばかりでもしょうがないねと頷いて最寄り駅の灯りに照らされる梅の花を見つける夜でした。

 

(29年8月若干加筆修正)