人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

もうだめなぼくらの生きる旅

なぜだか15年前に好きだった曲を思い出している。

当時「腐敗/衰退」というタイトルのその曲の虜になっていた。シンガーソングライターの彼女が弾き語るアコースティックギターの爽やかな音色。軽快なリズム、澄みきったメロディーライン、舞踏家の体幹のようにしなやかで鍛え上げられた歌声。しかしその裏にはこんなにもの激情が秘められていたのかと、今になって気付かされている。

 

There’s no way I can talk to who you were ten days ago
Cause you are who you are now

When I was facing reality, I lived in fantasy
Till I put it aside in the space between you and me
If only I could reach the voice in the water
Take me there, it’s gonna be much better

 

だれかを失うとき、残された私たちは「物語」がないと、やっていけなくなる。

その人との思い出とか、その人が愛していたものとか、その人が何に対して感情を剥き出しにするかとか。

たくさんの記憶を継ぎ接いで、その人がその選択に至った理由をなんとか結び付けて(それが真実でなくてもちぐはぐであっても)勝手に納得して、どうにか別れを告げようとする。しかしそれだけでは、自身の心臓の鼓動の速さを受け止めきれないので、自身の内側から何か恐ろしいものが破裂してしまいそうなので、その人を知っている共通の残された者同士で時間をかけて弔いあうことを渇望する。年月を経れば吸引力は弱まるけれど、忘却のないように、ふとした拍子に「その人は、確かにあの時ここにいたのだ」という証を語り合う。それがあまりに必要で、なぜそれが必要かというと、それがないとこちら側がその魅惑的な重力に負けてしまいそうになるからである。

 

ただ「物語」を作れるほどの個別の関係性もない、遠い存在にあった人を失う時、さらに私たちは引き裂かれてしまうのかも知れない。

 

ちょうどそれも15年前だったと記憶しているが、当時ZARD坂井泉水が亡くなって、その死因についていろいろな憶測が飛び交っていた。普段は寡黙な父(泉水さんのファンだった)が大変取り乱していて、久しぶりに父の「感情」に触れてしまって驚いたことを子どもながらに覚えている。

 

その5年後にZARDを語るコミュニティで出会ったインターネットの知人がいる。Yさんとしよう。Yさんの口癖は「ぼく、もうだめなの」*1で、とてもとても生きていくことに疲れていて、でも「ぼく、もうだめなの」とつぶやくたびに晒す傷口は化膿していなくて濁ってもいなくて、こんな風にあっけらかんと時に色っぽく、自身のぱっくりひらいた傷口を他者に見せてもいいものなのか、と深く感心してしまったものだった。燃え続ける街のような、あるいは子どもの頃浜辺で見つけて宝物になったガラス片のように眩しいその命を繰り返し差し出されることで(残念ながら私はそれをいつもただしくは受け取れなかったのだが)いつの間にか私はうちのめされるような感情を抱いていたのだった。

「ぼく、もうだめなの」が口癖のあの人は、今も生き続けているようである。一切関わりは絶たれている(こわくて自分からは連絡ができない)のだけど、わたしはその事実がひどく嬉しい。仮にあなたがもしいなくなってしまったら、振り返れる思い出の少なさが、物語るという行為を阻害してきっとわたしを苦しめるだろうから。

記憶の彼方にいる、もう忘れてしまった誰かが自分の生存を願っていることがある。あまりに身勝手で我が儘で迷惑な話ではありますが、二度と会えなくなったあなたにも、どうか旅路を続けていてほしい。

 

このようなことばかり巡ってきて、頭の中がくすんできて、なんだかどうしてもあの日に戻りたくなって、15年ぶりに冒頭の彼女の音楽と再会するのだった。

本日はじめて彼女の年齢を知る。そしてその間に2度の流産という大きな嵐を経験していて、人生の貴重な旅路を表現するために、自身の歌に合わせてアニメーションを手掛けたということを知る。「哀しいけれど必要なこと」を引き受け「その先」を生きる女たちの選択と強さ、そして出会うはずだった命を想い(そのアニメーションの中に)染色体を描いたという。

わたしたちは、失ったものを失わずに生きていくことが出来るのだ。彼女の歌はそれを教えてくれる。いずれ肉体は朽ちるし、精神は奪われることもある。それでも、取り返すための勇気を持てるのならば、置き去りになったものは、いつかかならずこの胸に戻ってくるだろう*2

 

深呼吸をして、おまじないを唱えるときのような高揚と静寂に耳を澄ませる。そこには彼女の祈りがある。

「運命の船を漕ぎ 波は次から次へと私たちを襲うけど それも素敵な旅ね どれも素敵な旅ね」


【Life is Like a Boat by Rie fu】animation MV

 

(この曲は当時アニメBLEACHの主題歌にもなったので懐かしいと思う人がいると嬉しいです)

 

*1:「もう、ぼくだめなの」だったかもしれない 自分の記憶ほど信頼できないものはない

*2:このブログを書いた数日後にこの記事を読んで、私が言葉にしたかったことが書いてあり泣けてきてしまった

死者には未来に会いに行く−『急に具合が悪くなる』を読んでくださった皆さまへ(19) | 磯野真穂ブログ:「死者はそれぞれが大切にしてきた何かを持っており、それは生きる身体が亡くなった後も生き続ける。だからその大切なものに未来で会おうとしたその時に、生きる私たちは死者と歩み、出会い直すことだってできる。」