人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

東京幻想

新型コロナウイルスが猛威を振るうようになってから、たくさんの変化があった。一番は自分の心の変化である。私は群馬の生まれなのだが、最近の東京が群馬に思えて仕方がないのである。

私にとっての東京とは、混沌としていて自由で、昼と夜の時間の境目も曖昧な、鍵を持たない番人のようなものだった。誰かの叫びが聞こえたって、誰かが野垂れ死にそうだって、無関係かのような顔をして、それでも町は廻っていた。「人に触れてはいけない」という誓いが破られるしかない満員電車の息苦しさが好きだった。寄り道や家出をしたくなって飛び出した先の見知らぬ小道では、ちゃんと誰かの細々としていて時には大胆な息づかいが聞こえた。どこか見渡せば必ず明かりは点いていて、その扉を開けば、独りぼっちにならずに済んだ。そりゃもう勝手にそう思っていた。なのに最近は違うのだ。帰路、空いている店はない。雑踏にまぎれることができない。無茶ができないし、しようと思っても場所がない。帰る先が一つしかない。すべてが有限で、時間が区切られて、自己効力感が薄れていく。何が正しいかもわからないまま増える制限の中で、他人との距離に気を遣いながら、職場と自宅を往復する日々。私にとっての田舎が垣間見えるのだ。そして在宅中は、穏かに時間を持て余す*1。趣味が合わなくて、価値観も合わなくて、共通の話題もなくてバラバラだったからこそ趣のあった夫との関係も、新型コロナウイルスという共通の話題が出来てしまったから、ひどく安定した。帰宅したら「おかえり」と言ってくれる誰かがいるのは、実家のようで、大変癒されるのだけど、家族という何かに気持ち良く溶かされてしまいそうになる現象に一抹の不安も覚える。

ゴールデンウイークが明けて、職場の自転車を借りて通勤することにしてから*2はいっそう、東京の中に群馬を感じるようになってしまった。これまで意識せずに出会ってきた通勤電車や路上で出会う無関係の他者の顔が見えなくなったからかもしれない。「おそらくこの先、自分の人生に接点はないのだろう、たまたますれ違った人」の存在が私にとっての東京を東京たらしめていたのかもしれない。よく知る同居家族と、よく知る同僚と、よく知るクライアントとの交流のみで一日が完結するサイクルというのは、私にとっての田舎そのものなのだ。「たまたますれ違った人」は、社会の中にたくさんいて、私のことなんて見向きもしないこと。無駄のように思える、不急不要と切り捨てられたものの中にたくさんの宝物が埋まっていること。それこそが都会で生きる心地よさだったのだろう。

 

突然現れたこのウイルスを前に、東京に抱いていた勝手な幻想が打ち砕かれてしまって、なんともいえない気持ちになっている。

田舎で黄昏れていた頃の私は、いつもインターネットの世界から都会を覗き込んでいた。会ったことのない人と出会えて、コミュニケーションが取れたような気がして、小さな携帯の画面が非日常のすべてだった。それでもやっぱり、オンラインだけではしんどくて、行かないでと引き止める家族や友人を横目に上京した。知らない人、知らない店、知らない世界、溢れてはち切れそうになる情報を全身で浴びることが気持ち良かった。それが非日常でなく日常で体感できることが都会で暮らすことの素晴らしさだと思っていた。でももうそのような経験はできなくなるのかもしれない。同居家族との関係性だけが良くも悪くも濃密になっていって、その他はオンラインでつながっていくことが推奨されていくのかもしれない。今後どこで生きようと、どこかに我が故郷である群馬を感じながら、日常を噛みしめるしかないのかもしれない。ということを考えながら日々ウイルスの終息を願うと同時に、このウイルスと共存しようとしている。

 

*1:ここ連日グラタンを焼いているし、このブログも、Chrono Trigger・Under tale、ゼルダの伝説トワイライトプリンセス等のゲーム音楽を流しながらなんとなく書き始めている

*2:往復30㎞なので良い運動になる