人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

十年の月日とカミングアウト

 2007年。当時15歳の私の毎晩の日課は、インターネットの大海を泳ぎ、似たような悩みを抱えたお兄さんお姉さんのブログを読むことだった。セクシュアルマイノリティ(≒LGBTs)に関することは特にそうだった。私は自分の言葉を持っていなかった。

 ある日、生理痛が重いという理由で中学校を休んだ。産婦人科受診した帰り道、大事件が起こった。何の脈絡もなく、外の景色を眺めていた母が、「私もさ〜、、、同性の先輩のこと特別に感じて大好きな時代もあったな〜。」と、私をさらっと言葉で抱きしめたのだ。「…へぇ。そうなんだ。」としか返せず、目を合わせることもできず、助手席で滲み出る涙をこらえた。沈黙しか選べなくて、自宅へ戻ろうとする軽自動車のエンジン音だけが耳に響いた。10年前のことなのに、それを今でも思い出す。15歳。私には、特別な存在と思える女の子がいた。それをかしこまって伝えたことはない。だからこそ、距離感を測りかねていた、それでもその日恐れながら一歩踏み出してくれた、母の不器用な勇気を、今でも思い出す。反抗期ということもあって対話なんて出来る状態ではなかったけれども、彼女は信頼できる人間かもしれない、と感じた瞬間だった。

 2017年。久々に帰省したら、50歳を過ぎた母が「トランスジェンダー」と書かれたメモを壁に貼っていた。驚いて、「これ、どうしたの」と聞いたら「TVで当事者の声を初めて聞いた。存在を忘れたくない」という。私は沈黙せずに、「忘れないで。」と、語ることができた。当事者か非当事者か、強調することはないけれど、当たり前のようにお茶の間で話題にできるようになったことが嬉しかった。10年前と比べて、LGBTsという言葉が一部の層以外にもようやく認知され始めたのだなと実感する。

 

 

異性愛者が「結婚」「出産育児」「種の保存」などでしか性愛や自己を語れないのだとすれば、私たちはもっと「悩む」べきだったのかもしれない”

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今年、出版10周年となる『カミングアウト・レターズ』(RYOJI・砂川秀樹編著)。

(リンク先にある感想文を一部引用させていただきます。)

 私は異性愛者ですが結婚せず子供もいない女です。
これから自分が結婚して子供を連れているビジョンも浮かばない人間です。
(中略)
好きでもないのに将来の安定や親の為に結婚できるほど打算的にもなれない私は子供を産める肉体的なタイムリミットが近づいてきた最近、特に焦りを感じていました。
そんな時にこの本のなかの村上剛志さんへ送られたお母様の手紙のくだりにあった
「あなたの遺伝子は、どこかの誰かが引き継いでいてくれるから、自分の血を引く子にこだわらなくてよい」という引用文を読んで、とても気が楽になりました。

 

いつか言わなきゃ、いつか言わなきゃ、と、思いながらも、言えないまま、ここまで生きてきました。
この本には、そんな「いつか」を経験した子どもと親が、或は、生徒と教師が、自分がゲイであること・自分がレズビアンであることを語った「いつか」のことを、思い返しながらやりとりした手紙が収められています。

 こんな自分だけど、あなたと一緒にこれからも生きて行きたい。
 どんなあなたでも、あなたと一緒にこれからも生きて行きたい。
 そんな風に互いを想いやり、確かめ合い、新しい関係を、これまでの関係を、これからも生きていくこと。
 カミングアウトをするということは、大切な誰かと一緒に生きていくことを考えるための、行為であり、プロセスである。そんなことが、この本には書かれています。

 この本手紙を書いた人たちは、あなたにとっては他人かも知れないし、あなたの家族に、或は友だちには、こういう“問題”を抱えている人は、なかなか“いない”かも知れない。けれども、これらの手紙は、確かに、いつかの僕へ、そして、いつかのあなたに向けて書かれた手紙でもあります。

 LGBT当事者の方は勿論ですが、特に、お子さんをお持ちの方・いつか子どもを育てたいと考えている方には、読んで頂きたい本です。

 

 私を変えた本、『カミングアウト・レターズ』(2007年出版)。

 この本は、上京してはじめて出会った、「セクシュアルマイノリティの人権」について問題提起しているアライ*1のお兄さんに紹介してもらったもの。すぐに図書館で借りて、クリスマス近くに、自宅で一人でこっそりと読んだ。たいした暖房器具もなく、真冬で凍えるほど寒い部屋だったのに、いい意味で興奮してしまって、体内が活発に動き出したのを感じた。読了後、すぐに携帯を取り出して、お兄さんに連絡をした。自分について、カミングアウトしたわけではない。内容は覚えていない。ただただ、「ありがとうございました」と泣きながらメールをしたんだと思う。19歳。それから視界が開けた。憑物が落ちたかのように。

 

 「カミングアウト」は、「すべき」ものだと強制される/するものではないし、したからと言って偉いとかすごいという訳ではない。告白自体を、おそれる人もいるし、容量オーバーする人もいるから、慎重にならざるを得ない側面もある。内容によってにはカウンセラーなど専門家ではないと対応しきれない告白もある。秘めていたほうがお互いにとって良いことだってあるかもしれない。だとしても、自分が一緒に生きていきたいと思える相手に、あるいはこれからの未来を生きていく若者に、自分が抱えてきたものを懸命に伝えようとする人の勇気に、敬意を払いたい。そして、それを静かに受け取って、その秘密を自分の胸の内から零さずに守れる人でありたいと思う。

 

Q.今日この記事を書こうと思ったきっかけ

A.先週、「いいな」と思えるサイトを見つけたこと。

NPO法人バブリングさんのブログ内にある『カミングアウトストーリー』。

 セクシュアリティのことはもちろん、それだけではなく、障害やご病気、マイノリティ要素を持つ自分の人生、それに伴う葛藤や選択が、人生の数だけ、語られている。特に、カミングアウトする本人と身近な他者との対話形式で綴られた記事は、読み終えるのに時間がかかった。何年もかけて関係性や自分自身が変化したり徐々にやわらいでいく描写が、こそばゆかった。「告白(カミングアウト)」するかどうかはタイミング次第であるけれど、代わり映えのない日常を諦めなければ、小さな関係でもそれを疎かにしなければ、目の前の相手との力関係に気付いて改めていければ、得られるものがありますようにと、私は祈る。何事も、始めるのに「遅い」ということはないと信じて、この先も、他者と関わり続けたいなとも思えた。自分の歩幅で、今出来ることをゆっくりやっていけたらいいねえ。

 

*1:LGBTレズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー)の当事者ではない人が、LGBTに代表される性的マイノリティを理解し支援するという考え方、あるいはそうした立場を明確にしている人々を指す言葉。「同盟、支援」を意味するallyが語源。