人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

身体性について


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世界バレエフェスティバルの時期がやってきた。2018年開催時はU29チケットでかなりお得に鑑賞できたので、連日劇場に足を運んだ覚えがある。今年もU29チケットの恩恵に与りたかったがU25チケットしか販売されておらず、新型コロナウイルスの影響を思う。せっかくなのでS席チケット(2万7千円)を購入した。2階席の最前列を確保できて幸運だった。普段はここまで奮発しないけど、3年に1度の貴重な機会だし、こんなご時世だし、数万円の差を気にする必要もないので即決した。

気がつけばよくバレエの舞台を観に行っている。鑑賞後、天井から垂れる糸に肉体がぶら下がったような感覚が訪れるから好きだ。うつくしくてピンと張られた意識に身体が調律されるというか。トレーニングを受けていないので、数日経つと、すぐだらしない身体の使い方に戻ってしまうのだけど。

今日、偶然目にした記事<このバレエには想定外の衝撃がある。Netflix配信ドラマ『ナビレラ』は「おじいさんが踊る」だけの話ではない。>にこんなことが書いてあった。

バレエは、スポーツではない。隅々まで研ぎ澄ませた肉体と精神によって、しばしば「人ならざる存在」をも体現する芸術だ。

そのとおりだと思う。人形や動物、死者(幽霊)や精霊。神話や御伽噺のキャラクター。バレエは肉声や文字を必要としない芸術である。力強く繊細な身体だけがある。生きなさい、と命じてくるような説得力だけがある。

定期的にこの記事<シルヴィ・ギエム『ボレロ』 バレエによる天岩戸開き>を読むのだが、シルヴィ・ギエムの踊るボレロを一度で良いから観てみたかったなと悔やまれる。ギラギラしてそれでいて静寂で、命の循環を感じる踊り。膨大なエネルギーを注入される踊り。これまで友人を連れて上野水香ボレロを観に行ったことなら2度ある。また私はボレロを観に行く時だれかを誘うだろう。この世に存在するのに疲れて果ててしまった時にこそ、他者と共に観たい作品である。

ベジャールの『ボレロ』は、まさに神としての太陽をバレエによって天降(あふ)らせる代用宗教だった。

太陽の無限の恵みを求める、人間の言語を絶した呼びかけ。

私はギエムのダンスに、一つの神話の再現を見た。

そして、神話の再現こそは、「祝祭」の本質なのである。

祝祭としての身体性と考えるとしっくり来る。「あの、一回生の出来事」によって生かされる日々がある。非日常的な、もう同じ感触は味わえない、人生で一度だけあったこと。そういう身体の記憶に生かされている。

 

バレエつながりで、もうひとつ別の記事<「ブラック・スワン」は媚薬いらずの官能映画、女の子を誘って見てみよう。>を紹介したい。

山岸凉子がすぐれたホラー漫画を描き、バレエ漫画も描いているのは偶然ではない。その理由がようやく実感として理解できた。
バレエとホラーは、肉体を過敏に意識するという根っこで深くつながっている。そしてエロっつーか官能も身体性に関わっている。いじめるように自分の肉体を駆使して美に近づくバレエダンサーに感情移入させられ、その敏感になった肉体を刺激する演出の連続が、観客を恐怖/興奮させないわけがない。

端正な身体と狂気が描かれるバレエ作品を鑑賞した後は女性を口説くための絶好の機会が到来すると筆者は指南する。たしかに尖端まで過敏になって恍惚としている状態なので成功率は高まるのかもしれない(日常に戻って冷静になっても偽りなく触れあえる関係性ならなお良いと思うけど)。ここでいうセックスとは指先が触れ合うだけで完成されて満足するような身体の体験を指すのだろう。

ダーレン・アロノフスキーブラック・スワン』と山岸凉子の関連性については納得である。山岸凉子の作品には「霊感」についての表現が多く登場するのだが、それが大いに発揮されるのがバレエ漫画だと感じる。畏れを纏った官能的な肉体が漫画のコマを突き破るというか、立体を成して脳裏に焼き付くというか、そういう瞬間がある。たとえば、『アラベスク』のラ・シルフィード。たとえば、『プレプシコーラ』のノクターン。漫画を手に取らずとも、その場面をすぐに思い出せるから不思議だ。震えるような表現に出会えたことに感謝したい。

 

バレエフェスティバルまであと3ヶ月。それを楽しみになんとか生き延びようと思う。そして健やかな身体を作るために惜しまず医療にお金をかけたい。

・来月は東京都のHIV/AIDS普及啓発月間なので検査予約を取った。

・歯科定期検診の通知がきたのでクリーニングしに行く。

・婦人科で紹介状をもらう。近隣のクリニックでミレーナを外した後に諸々の検査をしたい。

・子宮頸がんを予防するためのHPV9価ワクチンを打つ。10万円弱。

・私の自治体では新型コロナウイルスのワクチンも7月には打てるようだ。予約は大変らしいが頑張る。

・久々に体重計に乗ったら1.5kg太っていたのでランニングを継続。余裕ができたらボクシングも数年ぶりにやりたい。

 

皆さんもどうかお身体ご自愛くださいな。

 


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↑バレエではないけど、Alvin Ailey American Theater(昨年で設立60周年だったらしい)のダンサーを待ち受け画面にしている。美しすぎて溜め息、である。

参考:それでもわれわれは踊る ― アルヴィン・エイリーの『リヴェレーションズ』がこれまで以上に元気なわけ

Alvin Ailey American Dance Theater: Chroma, Grace, Takademe, Revelations (2015) - YouTube

50年前の話

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大学生に「ピザを注文するから一緒に食べよう」と自宅に呼ばれた日の道端の紫陽花。きれいだった。眩しかった。正直いうと、最近は心も体も猫背になってしまっていたから。4月初旬からパワーレス状態で、GWあたりから資格勉強が全く手につかなくなり、どうしようもなかったんだけど、試験申し込み期限が迫ってきて、やっと1万4000円くらいの受験料を支払った。先週から再び図書館に行けるようになって、国民年金法のテキストを開いています。


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珍しく仕事がトントン拍子にうまくいきストレスのない一日だった。余裕があったので、帰宅して東京事変を流しながら半裸で冷やし中華を作った。黒胡椒を振った鶏ささみ肉は前いたところの上司の趣味である。美味しいので私も真似するようになった。ココナッツミルクも夏の始まりという感じがして好きだ。一気に飲み干した。

 

何度も思い出し笑いをしてしまう。今日は70歳手前の同僚(二度の心筋梗塞から生還したサバイバー)と二人きりになる場面があり、世間話を始めたつもりが何故か奔放トークが始まってしまった。「若かりし頃、部下に好きな男を寝取られたこと、急に思い出しちゃった。」と彼女が語り出す。私が冷静に「それって計算してみると…50年前の…NTRですね!」と返すと「そうなるわねェ!アッハッハッハ!!!」と腹を抱えて笑い転げるのだ。つられて本当におかしくなってしまって、声を上げて笑った。ああ愉快。「50年経っても寝取られ体験は忘れられない(場合がある)」という貴重な知見を得れたし、過去をこんな風に大笑いして語ってくれる彼女があまりに魅力的で、多大なパワーを貰えた気がしている。今日はゆっくり風呂に浸かり続きのテキストを開いてピアノを弾いて、電池が切れたように眠れたら良いな。毎晩お花畑みたいな夢ばかり映し出す自分の脳にうんざりしているから。

家庭内ストリップ

ヨレヨレのパジャマ姿で寝転がっていると「お尻が丸くなったのでは?」とちょっと意地悪な口調で指摘されたので、「あらそう?見てみてよ。」と畳の上で仁王立ちした私は、Tシャツを捲り、ズボンを下ろし、下着を剥ぎ取って裸になった。少し間が空いた後、「いい身体です。失礼しました。」と襖の外から声がした。

 

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この間、このZINEを愛する友人に紹介したら「全裸になろうかな?」という返信が来た。彼女の前なら私も堂々と裸になれそうな気がして「え?一緒に全裸なる!」と即答してしまった。

「trailer zine vol.1」を開帳すると、韓国人でありゲイである作家/写真家の「僕の乳首は普通にデカい。」という自己紹介が始まる。そこから不穏な希望が輝き始める。

新型コロナウイルスで国境が閉鎖された2020年東京で、クィア・カルチャーに関わっていた国籍も様々な人の姿とインタビューがそこには刻まれていた。Vol.1(Vol.2もある)では、彼の12人の素晴らしい友人のことが紹介されていた。

ドラッグ・パフォーマーの一人が「魔法少女になりたい。魔法少女になったら、ホモフォビアやトランスフォビアと戦いたい。世界のあらゆる偏見、セックスと性労働、ボディーイメージに対してね。」と語る。さらに別の一人が、SNS上で乳首を載せようとするとき性別が問われる理不尽さに怒る。他人ではなく自分の身体を鏡に映す。愉しい踊り方を導く。自由と権利を一緒に守ろうとしてくれない人とは生きられないと叫ぶ。誰にでも開かれているドラァグアートのこと。クィアでなくウィアードな空間。ノンモノガミーな実践。BLACK LIVES MATTER。「人そのもの或いはマイノリティが生きてきた葛藤の歴史について学ばずに文化だけ愛するの?」という批判。

生身の身体と言葉が熱を帯びている。同世代*1が主体となって、一人ひとり自分の声を持って表現していること自体に大変励まされた。そしてこのようなパワフルで親しみあるロールモデルに出会えたことで、友人と全裸になるという野望が具体性を帯びてくる。同時にド派手な女装にも挑戦したいと心躍った*2

先日、性的マイノリティやクィアの尊厳を否定するような自民党議員の発言が世に流れた。種の保存という言葉の想像力のなさ、そしてトランスして生きる人たち*3への憎悪に呆れてしまう。何故そこに生きている当事者を見ない?肥大された恐怖やスティグマを根拠に排除しようとするの?

しかしそれは今回だけではなかったし、日常でいつも起こっていたことだ。私は女とも男とも言い切れないジェンダー/セクシュアリティをずっと生きてきた。それを尊重してもらえるとき、やっと裸になれた。共にいる空間がストリップ劇場に変わる。生き延びた身体には歴史がある。だから目の前のあなたと私を美しいと思う。規範に添えない、規格外の身体がある。プライドという言葉が電流のように全身を巡る。生き延びること、それだけ。息を潜める他の仲間を想うこと、社会に合わせて擬態してきた時間を想うこと、それをひたすら労うこと。服を脱ぎ捨てて、在りたい身体を探ること。

 

昔々、裁判沙汰になって身近な人たちをたくさん傷つけ失って、性的事柄のすべてが嫌悪対象になってしまったとき、裸になることは哀しみでしかなかった。でも今は違うと断言できる。裸になることは哀しみを超えていく。消し去るのでも踏み潰すのでもなくて、抱きしめながら*4

*1:20代後半から30代半ば

*2:2022年9月、ついにドラァグメイクを体験した

*3:「トランスジェンダーとともに」あるために、男性がなすべきこと:REDDY:エッセイ (u-tokyo.ac.jp)

*4:(深夜、誰もいない河原を走る。ひとりリサイタルを始める。椎名林檎と一緒に腹の底から「尊厳」と叫ぶ。おすすめです!)

爆音に埋もれ河原を走るときの

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爆音を鳴らして走る車に出会う。これは騒音なのだ、と認識する前に「運転席は気持ち良いだろうな」という共感が過ぎる。田舎だけかと思ったら都心でもたまにああいう踊り狂った車たちに出会う。私もランニングをするときはあんな感じだ。クラシックやrie fu を耳から注入して脳内を音でいっぱいにして河原を走る。疲れたという感覚よりも気持ち良いという快楽が先走るので、長い走路もへっちゃらなのである。音楽は良い。時間も痛みも流してくれるから。

 

ということで今日は久々に河原を走った。半年ぶりくらいだと思う。さいきん気持ちが落ち込んで背中が丸まってからだが弛んでいた気がして、水を浴びた野菜みたいにシャキッとしたくて、浅いヒールからスニーカーに履きかえて深夜に飛び出したのだ。

 

友人らの性暴力告発の側にいると、当然だが自分の過去も蘇る。「ひとりで夜道は危ないよ、気を付けて」と言う人の善意。なんの力も与えない善意。なんどひとりで街を歩くたびに暴力に遭う場面を想像したか、どうやって社会的に抗うか脳内シュミレーションしたことがあるかを彼らは知らない。当然知らなくて良いことなので、わたしはなんとも言えない顔をして聞き流す。「赤裸々に性被害を語って、男に守られたいのか、ちやほやされたいのか」と言う人の悪意。私が言われた言葉ではないが決して気分が良いものではなかった(数年経った今でも思い出すので深く傷ついたのだろう)。それでもその悪意の裏には「私のほうが辛かったのに」というかなしみが滲み出ていたから「そうではないんでないの」と応答した後は、ただ聞き流した。

 

「嫌だったなら、その時に言ってくれれば良かったのに」と恨みつらみを向けられることがある。時差があることは責められない。そしてそのとき直ぐには伝えられなかった事情や背景があったことを想像したい。たくさんの選択肢がある中で沈黙を選ぶとき、そこには葛藤と静かに燃える感情があるはずだ。ベラベラ支離滅裂に言葉を並べてしまう夜と、何も言えずにただ夜道を走るしかない夜と、もう掴むことのできない奇跡のような時間を懐かしむ夜。いろいろな夜があって良くて、それをすべて洗い流すような大音量の音楽があって、カラオケには行きづらいからと誰もいない夜道でバカみたいに歌える初夏がある。

 

もともと運動神経は良い方で小学生高学年のころ陸上選手に選ばれたことがある。しかし出場した大会ではビリ欠で、苦笑いされたことが懐かしい。中学時代は不真面目で、悪友たちとマラソン大会を競歩大会にしてしまったな。上京して出会った尊敬する人は身体の引き締まったランナーで、彼の愛する八丈島を訪ねて駅伝大会を応援したこともある。添い寝フレンドだった人ともよく待ち合わせて西東京の河原を走り、脂肪が落ちない二の腕を揉まれたりした。夫は一緒に走ろうと私を誘うけれど他人の歩幅に合わせられるはずもなく目の前をスイスイ走り抜ける。今はそういう記憶を思い出しながらひとりで夜道を走っている。肌を剥き出して駆ける。すると足元を照らすように東京タワーが紅く光り始める。

誰になら会いに行けるのか?

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LINEアカウントが予期せず消滅してしまった。昔の携帯番号で新しいアカウントを作成する。プロフィール画像を愛する腐れ縁のお子とのツーショットにしたら彼女に「あなたの子と思われるよ?」と笑われる。何枚か差し替えて悩んだ挙げ句、父とのツーショットにした。感染症流行直前の秋、辻井伸行のコンサートに行ったときのもので、私は茶髪短髪、久しぶりに会った父は若干髪が薄くなっていた。個を重んじるという価値観の形成には父の存在が大きく影響している。どうしても自分の人生しか生きられない彼のことが私はほんとうに好きなのだ。

生まれ育った環境と元々の素質もあるかもしれないが、共同体に親和性を持ちつつ(抵抗なくケア関係にコミットできて)幸福を独占するのではなく関係者間の最大公約数を探り(ポリアモラス傾向)自由を愛する個人主義者の私は、広く浅く(時に深く)他者とつながれて、どこへでも生きていける。派閥とか自分には関係がないし誰の味方か敵かという線引きもない。その時必要と感じたことを選んで(選べないものもたくさんあるが)今を積み重ねて生きている。うっすら離れていった縁はあるにせよ、他者に明確に拒絶されることもない(例外として性暴力被害直後と色恋での人間関係の失敗は何度かあるが恋愛をやめてからはその機会自体が消滅した)。

 

一人を満喫する夜。友人知人たちから連絡が入る。人間関係には恵まれているし私も他者が好きである。ただ呼ばれない限りは自分から積極的に会いに行こうとはならない。それはなぜか。一体誰になら会いに行けるのかということを改めて考えたい。

 

①私の人生によく登場する腐れ縁の彼女とは、お互い気が向いた時に適当に連絡を取り合い、適当に返信をし、適当に年2・3回会う。お子の成長を見たいので今後会う頻度は上がるかもしれない。彼女とお子は私の人生に絶対に必要な人間だが、毎日顔を合わせる関係性ではない。会う頻度と関係性の厚さは全く比例しない。

②私の人生によく登場する奔放な女たちとは毎月会えたら嬉しいなと思う。ただ自分から会いに行くのではなくて、決まった日時に場所を開くので自由にお越しくださいというスタンスだから良くて、それがちょうどよい距離感のように思える。

③私の人生によく登場する同居人は、その実態の通り会いに行かずとも毎日会っている。実家暮らしのときの血縁者と同じ枠組みで、関係性に「名前」があるからこそ一緒にいるための意思が生まれる。関係が厚くなくても、関係性が成り立つ。裏ワザのようだ。絶対人生に必要かはわからないが、複雑な回路を辿って腐れ縁のような存在にもなり得る。

④私の人生によく登場する添い寝フレンドは、そういう意味では不思議と会いに行ける存在だったと思う。なぜ懲りずに気軽に訪ねることができたかというと、いつも家の扉を開放してくれているからだと思っていた。けれど少し違うようだ。最近、家の扉を開放してあなたを待つよと言ってくれる人が現れたものの特に行く理由が見つからなかった。つまり、開放された家のみに惹かれていた訳ではなくてそれ以外の明確な理由があった。それは添い寝フレンドだったあの人が「見えない(invisible)クィア」だったからに他ならず、自分と似たような生き物だと信じられたからだ。見えやすく自分の型を持っているシス/トランスジェンダー異性愛/同性愛者の皆とはまた異なる身体の預け方があり、帰属意識というのかな、ただ側にいるだけで心が軽くなって穏やかな気持ちになれた。添い寝それのみで完結する関係なので、性的興奮は初めから想定されていないけど、あの人の睫毛に触れて輪郭をなぞり化粧を施すときはエロティックな気持ちが芽生えることもあった。Aセクシュアル的コミュニケーションとでもいうのか、セクシュアルな文脈を取っ払って、とにかく毎日が夏休みのようだった。日替わりのカレンダーをめくる。想定外の発見に胸を躍らせる。忘れられはしないだろう小さな光の粒を手繰り寄せて。

 

それをいま言葉に出来たのは、先日夜のそらさんという方が書かれたこの文章に出会ったからだ。

だから、トランスはトランスであるだけで、すでに未来を生きています。シスジェンダーをやらされているあいだには決してイメージできなかった未来、手詰まりで真っ暗になってしまっていた自分の将来を、トランスすることでぎりぎりで時間を脱臼させて、自分の前に開くのです。だから、現在を生きるトランスジェンダーたちは、トランス以前には決して手に入れられなかった未来を、いま、おのおの生きています。

ジェンダー規範に反するような服装をしたトランスジェンダー。男性とも女性とも言えない奇妙ないで立ちのノンバイナリー。幸せそうにキスするレズビアンカップル。パブリックスペースをプライベートな「ハッテン」場へと変換していくゲイたち。パレードの先頭を走り抜けるダイク。ブースの上で踊るドラアグクイーン。非シス・非ヘテロな「クィア」という言葉で表現されるのは、いつもこうした目に見える存在で、たいていはいつも、恋愛や性愛、性行為の文脈とセットになっています。しかし、わたしはいつも思います。世の中には無数の「見えない(invisible)クィア」がいるのに、と。

でも、わたしは言いたい。そんな風に可視的でないとしても、今日もどこかでクィアたちは生きている。そうして生きて、あり得なかったはずの未来の時間をそれぞれの方法でひねり出しながら、窒息させられそうな社会の中でなんとか呼吸をして、来なかったはずの「明日」の時間を生き延びている。この、脱臼した時間のなかに捻出されたぎりぎりの「未来」の時間を見ようとしないで、「子ども」という分かりやすい次世代の存在に注目するなんて、わたしには到底無理です。

どんな新しい性愛をクィアは見せてくれるだろうか?どんな新しい生殖の可能性をクィアは開くことができるか?そんなことが「未来(Future)」の掛け金になっているのだとしたら、わたしはその「未来」を拒絶します。これが、不可視化されて続けているクィアとしての、わたしの「反-未来主義」です。

これを読んだとき涙が止まらなくて、感謝の気持ちでいっぱいになった。私は厳密にはAセクシュアルと括れはしない(どちらかといえばノンセクシュアルあるいはデミセクシュアルまたはグレイセクシュアルと括られやすいかもしれない)が、Aセクシュアルの感覚が強烈に根付いている私もいる。たまたま、パズルが噛み合うと性的興奮が生じる場面もあるが恒常的な性的欲望はない(関連してワンナイトの価値が全くわからないし、色々な人と親密にはなりたいがその時に性的接触はセットでなくて良いしそこに強烈な価値はない)。だから性的であってもなくてもどちらでも良いという世界の中で、全力で触れあえる人を探していきたい。それと筋トレも再開する。夏だし堂々と裸になりたいから。