人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

「もうあなたが戻ってこないかと思った」と言われた


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「もうあなたが戻ってこないかと思った」と言われた。旅に出ていて、2週間ぶりに出勤した日のことだ。その人はいつも腹を空かせた私に寿司を食べさせてくれる、親子以上歳の離れた心理士で、尊敬している上司でもある。「この場所を拒絶しているのかと思ったの。(あなたの魂が)すうっと離れていくような、そんな気がした」言われたので「どうしても喪の期間が必要だったのです」と返した。そして「この職場は嫌いじゃないです。同僚も良い人ばかりで安心できて楽しいです」と伝えると、「それはちょっと本当じゃないね」と返ってきて、「その通りですね。大袈裟に表現しすぎました。でも本当に居心地は悪くないんです」と苦笑する。「そう。良かった」と彼女はやさしく微笑んだ。

 

久々に帰宅したら、想像通りの荒れ地のような部屋が完成されており、いそいそと物を片付け掃除機をかけ衣類を洗うしかない日々である。とはいえ私は嫌いではない。この家と家族が。この2週間は叱られるくらい好き勝手に生きていて、資格勉強を投げ出していた。そろそろ気持ちを切り替えたい。今日は昼過ぎまでずっと横たわっていた。異性愛規範や性愛規範を浴びると後から脳が疲労するのがわかる。痛みには時差がある。入管法改正案の採決が先送りになって安堵した。

 

ダムタイプのS/Nを観て、感染症としてのAIDSは恋愛・性愛を問うたけど、今回の新型コロナウイルスという感染症は家族や共同体を問う』という呟きが流れてきた。そのとおりだ。この時代だからこそ自分にとっての親密圏(リスクがあっても会いたい人や関係性を維持したい人)が明確になってしまった。しかしそれは両者が同じくらいの思いの強さがなければ成り立たないのだから奇跡だね。それくらい人と会うことにエネルギーが必要だし、軽い気持ちで会えないというか、罪のような視線を感じる。同居イコール家族とされてその関係性だけは社会から許される。家族ではない他者のところへ、それでも会いに行ける/来てもらう関係性や突き動かされる感情があることを歓びたい。

 

変異株の脅威。もし自分が新型コロナウイルスに感染して重篤化したとして、この世から去る場面を想像する。「20代女性」と性別を勝手に分類されて報道されるのは嫌だな、と強烈に浮かんだ。その時はその時だ。だが、親しい人には生きて延びてほしいな。イタリア人の友だちがよく「Sogno d'oro(良い夢を)」と連絡をくれるのだけど、直訳するとそれは「黄金の夢」となる。どんな夢だろう。添い寝フレンドと眠りと祈りの旅をして目覚める朝のようだったらどんなに。

サバイバー紀行(12日目/最終日)

5月9日(日)


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■9時30分 

京都滞在最終日。午後14時から東京中野で面接を予定しているためそろそろ下宿先を出ないといけない。掃除機をかけ、お借りしたシーツ等を洗濯する。家主と恋人さんが京都駅まで見送ってくれる。また年内に会いましょうと話す。急いで新幹線に乗り込んだため、お土産も写真もない。あっさりと街と別れる。車内で販売していた抹茶アイスにマカダミアナッツをふんだんに乗せて遊ぶ。

 

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Twitterを眺めていると、東山で美術ヴァギナ展という催しがあったことを知る。しかも今日まで。先日美術手帖のサイトでは検索できていなかった。旅の間はSNSを見ないようにしていたためか。面接をすっぽかしても良かったかもしれない。く、悔しい。

 

■13時15分

中野駅に到着する。
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面接会場に入る。なんと、緊急事態宣言のため面接が中止になっていた。おいおいなんの連絡もなかったのだが…。ヴァギナ展を見てから東京に戻る選択肢もあったのか…。アクエリアスを飲んでぼーっとする。

 

■15時30分
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まあ、時は戻せないのでカレーを食べて帰宅することにする。同居人には帰宅日時についてなんの連絡もしていない。どこに行くかも伝えていない。旅の間も、一度だけ「レインコートどこにある?」というメールがあったのみ。自由に旅に出て、ときどき帰宅できる関係性と住まいがあることに助けられている。そばに居れば関心を持って文句を言ったり踊ったりするけど、いざ離れれば無関心で目の前のことに取り組める。関係性が始まった時みたいにシェアハウスで暮らすのが性に合っているのだろう。

 

帰宅したら、まず「ただいま」と言う。そして関西で出会った人たちに一緒に過ごせた日々についての感謝を伝える。名古屋からずっと連絡をくれたサバイバー仲間にも連絡を返す。19時からはダムタイプトークイベントを見る。明日からまた東京での労働と生活が始まる。資格勉強を休んで後先考えず散財して食べたいものを食べたいだけ食べて筋トレも他者との身体接触も控えていたので、全身が弛んでいるはず。顔も丸くなった。リフレッシュできて気力は戻ったけれど、姿勢は悪いままだ。生きるためのチューニングがいつも上手くいかない。明日がまた来るのかと思うと暗澹たる気持ちになる。根が暗いのだから仕方ない。でも旅をすることで自分のやらなくてはいけないこと(やらなくてもいいこと)を見つめ直せる。胸を張って、尻を引き締めて生きていきましょう。人生お疲れさまでしたケーキ。

サバイバー紀行(11日目)

5月8日(土)

 

■10時

スマホを開き、緊急事態宣言が月末まで延長されたことを知る。国民投票法改正案も採決された。オリンピック開催を強行する動きにも疲弊させられる(翌日追記:東京オリンピック開催中止の署名に加わった。栗田隆子さんのコメントに賛同する)。今回の緊急事態宣言発令の直前、私はオペラ鑑賞をしていた。なんなんだこの国はと言葉にならない感情に支配され、生まれて初めて首相官邸宛に意見を送った。もともとちぐはぐだった世の中がさらに狂っている。

今ここに存在することの尊厳が軽視され続けていること、私たちは気づかぬうちに力を奪われていること。入管に収容されている人達と入管法も、性暴力の告発者と揺れ動く周囲も、家庭内暴力を断ち切ろうという決死の覚悟も、給付金の対象から外される職業差別も、セックスワークを不健全と「道徳」で切り捨てる社会も。医療が崩壊しいつ事切れるかわからなくなった社会で、今こそ語るときだと言わんばかりに、これまで見えなくさせられていたものがどんどん表沙汰になる。戦時中のようだと指摘する声もあがっていた。少しでも感性を鈍らせたら楽なほうに流れていける。魂は削がれて意思を手放せてしまう。鋭くなりすぎると見たくなかったものが見えてしまうから、惨めな自分が浮き彫りになる。かなしいが、自分を軽視するものをどうしても許せなくもなる。だからこそ旅に出るしかなかったのかもしれない。

 

■11時35分

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戦場のメリークリスマス』リベンジのため京都シネマへ。館内は満員のように見えた。20歳くらいの時に自宅鑑賞したのだが、うたた寝してしまい内容がほとんど頭に入らずで、明け方に見たビートたけしのぼやけた笑顔しか記憶にない。そのため初見のような心持ちでスクリーン越しに出会い直せた。

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正直とても驚いた。奇妙な手触りと哀愁のある戦争の記録に。暴力と過去を美化する幻想に支配された島の美しさに。男が男を愛する、そして欲望するということを丁寧に描いた作品であったことに。近年レズビアン(というよりも女と女が欲望しあう過程や生き様)を描いた作品がピックアップされ、『燃ゆる女の肖像』はその代表格であるが、論者たちが「やっと女による女のための作品が世に出たのだ」と喜んでいた意味をようやく理解した。昭和の映画業界の男社会を想像すると、『戦場のメリークリスマス』のような、男が男を眼差す作品が世の光となり商業映画としても成功している狭間で、光を充てられなかった沢山の女たち、光を浴びれなかった女の物語があっただろうから。児玉美月氏の映画評によれば、大島渚は『愛のコリーダ』で女同士の性愛を男ありきの受動的なものでも、男に捧げる自己犠牲的なものでもないと言い切ったとある。女同士の性愛はセクシュアリティと権力の問題を無効化させる作用があるのに対し、男同士の性愛はセクシュアリティと権力がシステムに組み込まれてしまっている故に問題を常に現前化させるものだとも指摘する。

そこで私が考えるのは男女どちらかに当てはまらないクィアやノンバイナリーたちが日々直面している性愛について、いつになったら順番が回ってくるのかということだ。このエッセイに出会って強く励まされもした。ノンバイナリーは存在そのものが現在の社会秩序を脅かすものであり、その事実を引き受けて生きているとある。ノンバイナリーの政治はこれまでのクィア理論や運動の積み重ねを生かすことができるはずだ、という確信と希望。加えて私は男男の性愛と女女の性愛の差異さえも内包するコミュニケーションの可能性をノンバイナリーの生き方に感じてもいる。反政治的で非政治的で無政治的でもあり、誰かであり誰でもない存在としての共鳴があるのではないかと。

死生観の違いや西洋コンプレックス、秩序と反乱。日本軍と捕虜軍の中で生み出され交換されるものについては、こちらの批評が良かった。セリアズ少佐(デヴィッド・ボウイ)の生き方は奔放そのもの。進撃の奔人(ぽんちゅ)じゃん。もう今さら生き方は変えられない。運命には抗えない。過去と今には勝てない。しかし私たちは未来に向かって種を蒔くことはできるという、強烈なメッセージ。生殖だけが人の人生ではない、長生きするだけが人の人生ではない。功績や生きた証を残すことだけが人の人生ではない。固有のバトンを繋ぐ必要もない。しかしこの一回性を懸命に生き延びて、種を蒔くことなら出来る。誰に読まれるかもわからない個人的な文章を書くこと(日記)もそれに近いのかもしれない。重なる痛ましい暴力描写には目を背けたくもなったが京都の映画館で鑑賞できて良かった。大島渚が自宅を抵当に入れ無一文になる覚悟で挑んだ作品。今の時代を生きるアーティストはそこまで出来ないし、させてももらえないという批評もあった。その時代でないと生み出せないものがあるということ。未来について予測がつかない今この時代に出会たことに感謝する。


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オリジナルTシャツ(花を食べているプリントのほう)は初日で売り切れてしまったらしい。渋々パンフレットのみ購入する。帰宅したら戦場のメリークリスマスを弾こう。

 

■15時30分

映画の余韻が残り、こんな時間になってしまった。どこでお腹を満たそうか。せっかくなら懐かしい場所に行こうかと考え、mumokutekicafeに向かう。

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■17時30分

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洋酒の染み込んだケーキを食べる。

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■20時

帰宅し荷造りを始める。性暴力に関する交流会(ZOOM)に参加する。参加された方々お疲れさまでした。どうかご自愛くださち。

性暴力が起こる/軽視される構造を変えたいという原動力で私たちは連帯できるかもしれない。ただ、それはきっと長期戦になることがほとんどで、自分の傷を見つめ続けるという孤独との闘いでもある。だから挫けて闘えない日もあって良い、それを何度でも思い出すことが大切だ。自分なりに呼吸ができる場所を見つけられること、過去と今そして未来を生きるサバイバーの力を奪わないシステムの構築を探りたい。自己紹介ではうまく話せなかったけど。

昨日、佐々木さんが「私は“わきまえてきた”サバイバーだったのかもしれない」 という文章を世に出された。大変うれしいことに奔女会のケーキが添えられていた。生き延びたことの労いと祝福について触れてもらえて良かった。歓待の場を開き続けることは、私にとっての"添い寝"のお裾分けなのだと思う。あの時たしかに私の身体は祝福されたのだから。

 

■22時45分

京都滞在の最後の夜。家主と恋人さんが夕飯をお裾分けしてくれた。卵とじうどん、美味しかったな。

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1階の共有スペースで、ムレスナ紅茶とタルトをご馳走になる。短期滞在にかかわらず本当にリフレッシュできたことの感謝を伝える。眩しいくらいに素敵なお二人と一緒に過ごせて良かった。明日は10時25分発の新幹線に乗る予定。駅まで車を出してもらえることになった。就寝3時30分。

 

 

 

サバイバー紀行(10日目)

5月7日(金)

 

■10時45分

今日は京都シネマに向かう日。目当ては『戦場のメリークリスマス4K修正版』。大島渚監督が京都の人なので、この土地での初日上映に行きたいと前々からチェックしていたのだ。緊急事態宣言発令中も上映していることを確認。午前11時35分の1回のみ。f:id:kmnymgknunh:20210508161121j:image

■11時50分

下宿先から5㎞の距離なので余裕だろうと高を括っていたら、自転車を停める場所が見つからず道も間違え鴨川に出てしまう。15分遅刻。受付で途中入場は出来ないのです…ごめんなさい…と断られる。ああ無念。なんとか効力感を得たくて、初日特典のステッカーが欲しいと伝えるが即終了してしまったとのこと。関西にたくさんいるのであろう大島渚ファンがこの機会を見逃すはずないですね…。仕方ない、明日のチケット予約をして去る。映画館の入っているビルは、間隔を開けて椅子が配置されているので、横並びにぼーっと座っている人たちが多数いる。私もその中に混じってぼーっと座っている事にした。

 

■13時

市内の美術展を検索するが、ほとんど緊急事態宣言で延期になっている。気になる展示(アプデ輪廻)はインターネット上で作品と出会うオフライン個展だった。身体を持って行ける目的地がほしいが見つからない。とりあえず再びそのままぼーっとする。

 

■14時

腹が減ってきた。近くに美味しいカレー屋さんがあるようだ。雨が降ってきたので小走りで向かう。中辛カレーのみの取り扱い。辛いが中毒性のある味。ピクルスとのバランスも整っている。コーヒー牛乳もお供にと注文。中央の梅干しは食べずに飾りにしてしまったすみません。


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食後は大垣書店で本を物色。
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偶然見つけた、26人のがんサバイバーによる短歌集を手に取る。これまで出会ったたくさんのサバイバーの知人友人たちの顔が思い出される。

「通り魔の ような「子どもはまだなの?」に どうして 笑わなきゃいけないの」

「深い青 三浦 海岸 エヴァの海 宿らない赤 私の子宮」

「幾度でも 愛でてあげよう 手術痕 わたしを生かす 薄桃のすじ」

「冬瓜が とろり澄みゆく瞬間を 見逃さないこと 生きてゆくこと」

「叶うこと 叶わないこと 数えても 数が合わない 答えが出ない」

「ひと粒の 薬にからだを乗っ取られ わたしがわたしで なくなるわたしは」

「髪の毛と 眉毛と睫毛 それとそれと 目には見えない 鼻毛ください」

「消毒液の 匂いの中と 雨の中で 眺める花火は 美しかった」

「思い出は 最期の記憶に沈められ 彼をそこから 引っ張り出したい」

叶うこと 叶わないこと 数えても 数が合わない 答えが出ない  本当にそうだよなあ。あとがきで、『食器と食パンとペン』の短歌「散髪の帰りの道で会う風が風のなかではいちばん好きだ」にも触れられていて良かった。数年前『食器と〜』が発売された時、京都での発刊記念個展に行ったことがある。うれしい再会だ。岡野大嗣は「忘れたくないものを忘れるために短歌を作るのだ」とも述べていた。きっとそうなのだ。忘れたくないものを忘れるために筆を持つしかない日があるのだろう。


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■18時

パン屋とケーキ屋を新規開拓する。
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想像以上にプリンは艶やかだったし、京野菜・水菜サンドは瑞々しくて至福の味だった。

 

■20時

京都の知人が暮らしている(と思ったらその人は暮らしていなかった)シェアハウス「エスコーラ」にお邪魔する。広い庭と茂る木々。文化のジャングル。天空の寝具。不安定な梯子。子どもの頃こんな場所に住みたかったなと恋い焦がれるような、謎多き開かれた土地。京都出身ではないが京都で場作りをしているという初対面の方々とワインを飲んで、ラムネで疲労回復したりして、愉快な時を過ごす。私の口癖は「LOVE」なんだけど、目の前の素敵なギャルが何回も「PIECE」をするので、LOVE&PIECEの概念が宙を舞ったりした。アナキズムと踊り念仏の話も良かった。飛び跳ねる人は愛しい。凛とした眼を持つ人がいて、その境界線をなぞりアイライナーを引きたくなるという場面もあった。自身の中から他者に化粧をしたいという感情がわき上がったことに驚いた。そんな感情というか欲望はどこか遠くに置き忘れていたからだ。化粧する/されるという関係性は非性的でエロティックな行為にも思える。仮初めの姿で踊ること。変身の共犯者であるということ。ダムタイプS/Nの影響もあったのかな、ドラッグクイーンのメイクを学びたくなっている。あっという間に23時。宿泊の準備をして来ればよかったと後悔しながら帰宅する。

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書き損じてしまったけれど、5月3日にも新しい出会いがあった。大阪南森町のマンションで古本屋をしているという人と、パートナーでありOLであり圧倒的存在感漂う人が下宿先に来ていて、30分間ワインを飲み交わしたのだった。振り返れば、今回の旅行(逃避行)で20名ほどの新しい出会いがあったと思われる。ご縁とタイミングに乾杯である。

そもそも、東京の大切な友人たちと訪れるはずだった場所もたくさんあった。彼女や彼が来れなくなってしまったので、私が代わりに佇むことになった。また京都に行けるタイミングがあれば、エスコーラ再来はもちろんのこと、予定していたおごと温泉天橋立由良川などにも行きたいなあ。京都でしか会えない人との交流も素晴らしいことだが、どこでも会える人と旅先で出会い直すということこそが必要だったりするものだから。

サバイバー紀行(9日目)

5月6日(木)

 

■9時45分

快晴。起床して洗濯機を回す。今日は在宅勤務の日とする。会議に参加。約10日ぶりに職場用のメールアドレスを開く。関係者に電話を入れる。恐れていたようなことはなかったが、所属と立場を名乗っていると、東京の日々を思い出して疲労困憊した。

昨晩購入したパンを少しずつ食べて生命を維持する。窓からの日差しが強くて室内にいるのに日焼けしたかもしれない。あっという間に夕方になる。労働をやめる。

 

■18時半

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近所を自転車で徘徊する。f:id:kmnymgknunh:20210507162503j:image

パン屋に立ち寄る(1日3食パン生活)。

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ケーキ屋は緊急事態宣言で閉まっていた。

 

■19時30分

後輩からSOSが入り出先で急遽労働。上司から叱られる。残業。だめだこりゃ。精神が削られる。この仕事、もしかしたら向いてないのかも。チームプレイが難しい。落ち込みながらセブンイレブンで板チョコを買う。

 

■20時20分

大幅に遅刻してDV普及啓発に関する会議に参加する。母と同じくらいの年齢の女たちのガハハという笑い声に慰められる。ちょうど親ときょうだいから連絡が入る。先日引き継ぎが出来ず突然私のLINEアカウントが消えたということがあったので、大丈夫なの、どうしたのと安否を心配される。全然問題ないよ、実はいま京都にいるんだよ〜と返す。

 

■23時

疲労が強くて布団に入るが、仕事の落ち込みを引きずって考え込んでしまう。人から贈られたことばを読み返して涙も堰を切ったようにあふれる。3時間後、自慰によって強制的睡眠を手配。最近は道具や材料いらずでできるようになったのでコスト削減というか生き物として逞しいというか、自分の身体はわりと頼もしいなあと感心した。