人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

サバイバー紀行(8日目)

5月5日(水・こどもの日)

 

■13時

今日も布団から起き上がれずにいたが、14時からランチの約束があるのでようやく動き出す。ついでに寝室と自室の掃除機がけをする。ぐるぐるした模様で目が回りそうだね、催眠術師のようだねと言われたことのある螺旋柄のワンピースを頭から被る。目蓋が腫れてうまく化粧が乗らない。無理やりアイライナーを引くと、なんとかなったような気がする。霧雨。傘を差し急いで出発する。

 

■14時20分

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今日のランチは、同業の先輩のお連れ合いの実家の料亭へ(説明長し)。奔女会で出会った友人と、初対面の方と4人で過ごす豊かな時間。全身タイツの話題で盛り上がる。

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友人とバスに乗り、四条河原町で下車。ひとりで抹茶ティラミスを食べに行く。

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古着屋で見つけた布(3000円)3分くらい悩んで買うのをやめた
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特に予定もないので、街をふらふらする。家のみんなで食べようと思い、patisserieを検索。生き延びたよおめでとうケーキを選ぶ。

何故だか京都はお店と路の記憶が強く、その時に誰と一緒だったか脳内で結びつくようになっている。義両親に挨拶に行くまでの道路とか、妹のマンション前の交差点とか、夫のかつてのバイト先とか、自由奔放な大学生と飲み交わした居酒屋とか、レズビアンカップルと過ごした鴨川沿いとか、寝起きのLIPTONのカフェとか、同じマンションの隣同士に部屋を構え同棲するカップルお勧めの生活雑貨屋とか、麗しきポケモンセンターとか、京都芸術センターでのAlvin Ailey American Dance Theaterをリスペクトしたダンス公演とか、ボクサーに連れられた焼肉屋に行くときの空き地とか、心のこもったお料理で誕生日を祝ってもらったWacoalの宿とか。10年近くの間、頻繁に京都を訪ねているので一つ一つの思い出が交差している。いつ頃だったか正確にはわからなくて断片的な記憶が私の中に眠っているような。観光地ではなく、過去の体験に癒される安息の地という感じ。東京に帰りたくないわと、東京の知人と名古屋の友人にメールしてしまった。僕もですよー私もだよーとすぐに返ってきた。やろうと思った資格勉強もまったくしていない。仕事用とプライベート用どちらのメールアドレスも一切開いていない。のらりくらりと街を歩いて、他者と出会って、ブログ(公開日記)を書くだけの毎日だ。

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このパン屋も、いつかはわからないけど、昔訪ねたことがある。新宿三丁目にもお店はあるのを知っているのだが、つい立ち寄ってしまった。初めて訪れた時の強い記憶に身体が引っ張られる。それもまた良いね。

 

■18時30分

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帰宅する。家に誰もいなかったが、1階の共有スペースで過ごす。先ほどケーキと合わせて買ったマンゴーとココナッツのアイスクリームを食べる。

 

■19時30分

家主とその恋人が帰宅する。一晩寝かせたスパイシーなカレーを御馳走になる。多幸。f:id:kmnymgknunh:20210506230834j:image

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おふたりにケーキを贈る。珈琲を入れてもらう。多幸の再来。学生時代の労働についての話題になり、UNIQLOでバイトしていた時のことをたくさん話す。今でも洋服を畳むのだけは好きだとか、なんとか。職場恋愛のやり方とか。よくわからないけどよく笑った。

 

■22時30分

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京都に来てから初の銭湯へ。下宿先から一番近いそうだが歩いて15分くらいかかる。たぶん。雨なので車を出してもらう。露天風呂を含めたくさんの種類の湯があり、1時間があっという間に過ぎた。完熟マンゴーのお風呂はなぜだろう、見つからなかった。アイメイクを落とさずに入浴したので、常連さんたちに小言を言われていた気がする。でも聞こえていないかのように振る舞った。その場では真っ裸で堂々としていた。誠に申し訳ありません。明日以降は気を付けます。さっぱり清々しい顔で帰宅。自室で髪を乾かして、1時には就寝。

 

 

 

 

サバイバー紀行(7日目)


5月4日(火・みどりの日

 

■12時

布団からちっとも出られないが、子どもたちの駆け回る足音で目覚める。私の部屋で私を待っているようで、なんと可愛いのだろう、飛び起きる。滞在2日目に出会ったアーティストのお子さんである。今日は小学5年生のお子さんも一緒のようだ。時々きょうだい喧嘩が起こるが、穏やかな態度で、どちらの感情も軽視しないような声掛けに努める。1階の共有スペースでまたドリルの音が鳴る。2階で私は子どもたちとお喋りを始める。


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小学生のお子さんはりぼんっ子とのこと。新連載がお勧めだから読んで!と言われてページを開く。私も20年前はりぼんっ子だった(しかし今と同じで気が多かったので、最終的には、ちゃおもなかよしもすべて購入していた)。当時から活躍していた漫画家の名前を見かけ嬉しくなった。唐突に「チョコミミって知ってる?」と聞かれ、もちろん知っていると答える。作者は亡くなったんだよ、と教えてもらう。調べると2019年8月に乳がん闘病の末に逝去とのことだった。私の周囲も、がんサバイバーは多い。他人事ではないからこそ定期検査を継続したい。また、子宮頸がんを予防するためのワクチン(今年2月に9価HPVワクチン「シルガード9」が発売。昨年末には4価ワクチン「ガーダシル」の接種対象に男性を追加承認。)も今年摂取する予定だ。身近な男性がワクチンを打ったと知り刺激を受けたことと、未来を生きる人たちの存在を考えると普及啓蒙のためにも行動しなくてはと感じたからだ。親密な間柄の人たちにも積極的に勧めても良いかもしれない。


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子どもたちに誘われて近所の公園へ。ブランコに乗る。滑り台で戯れる。私と子ども2人で同じ重量(50kg)なので1対2で乗ったシーソーは揺れを調整しやすくて盛り上がった。勢いよく板が跳ね上がるのでスカートが破れるかと思った。楽しかった。

大阪の愛する人たちにも移住して子育てを手伝ってほしいなあと言ってもらえたけど、関西で暮らす沢山の愛すべき女性たちの育児を手伝うことで生計を立てられる未来があるかもしれない。一応養育に関する資格もある。独りよがりの妄想だが、希望に富んだ妄想ではある。


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子どもたちが原っぱを駆け回り、白詰草をたくさん集める。花冠を作るよう司令が下るも、下手くそすぎて全然だめだった。ごめんなさい。でも草を編んでいるときはただただ無心になれて、癒やされた黄昏時だった。こういう時間がないとだめみたい。草原に寝転がりたくて仕方なかった。

 

金髪の草原

金髪の草原

 

子どもに触れるということについても書いておく。私は、"子どもは可愛いから"という理由で大人が無邪気に子どもの顔や身体を触ることがいつも怖い。そういう場面に居合わせるとビクビクしてしまう。たとえば子どもが私の胸に飛び込んでくれたり、背中にもたれ「おんぶして」と身体に乗り掛かるときは、もちろん全力で抱きしめ返すし歓待する。ただし自分からむやみやたらに触ることは極力控えるようにしている。そして私自身も触られたくない部位があれば触られたくないと伝えるようにしている。大人か子どもか、そこに年齢は関係なく、心身の境界線があり同意が必要と考えるからだ。「今あなたに触れたい(今は触れられたくない)」「あなたに触っていいですか」という相互確認。言語と非言語のやり取り、身体表現のバリエーション(正面から手を広げて相手を待つのと後ろからいきなり抱きつくのは全然怖さが違う)、シチュエーション、関係性、親密性、いろいろな要素が絡み合う。私は性暴力のサバイバーであるからこそ、紆余曲折はしたけれど、他者に触れる(そして触れられる)ことが本当に好きだ。剥き出しになる先端には、哀しみと慈しみと歓びが含まれているから。

 

 

■18時

アーティストが作業を終えて、子どもたちを迎えに来る。ご厚意で途中まで車に乗せてもらう。チャイルドシートから寝息が聞こえる。小学生のお子さんが最近流行りの『炎炎の消防隊』という作品について熱く語ってくれる。烏丸御池で下車する。


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京都で知り合った学生さんお勧めのpatisserieに立ち寄る。奔女会用のケーキを選ぶ。

 

■19時20分

またもや主催者遅刻。初関西開催を祝う。リピーターの方によるとちょうど2年前のゴールデンウィークが初回だったようで、当時の写真が残っていた。めでたいな。2周年を祝う。嬉しくてワインを飲みすぎてしまう。翌日重い頭痛に悩まされることが確定する。


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幸せな気持ちで帰宅しようとしたら緊急事態宣言により終電が早まっている模様。最寄り駅まで迎えに来てもらえて大変助かった。そのままシャワーを借りて、就寝。

 

 

 

サバイバー紀行(6日目)

5月3日(月・憲法記念日

※5月5日18時に作成しているため、かなり記憶が曖昧になっています。

 

■13時30分

眠くて起きられず。奔人会(ぽんちゅかい)という集いを開催するため、自転車で出発。よく調べもせずに適当な気持ちで走り出したが、あとから調べたら片道10km(概算)。そして寝不足の身体に追い打ちをかけるような日差し。しかも山道を選んでしまう。京都市外を一望する東山三十六峰という名らしく山頂にはテニスクラブがある。片道車線。かつて訪問したことのある八丈島や長野の山々が思い出された。


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知らない道を突き進む。迷って迷い続ける。途中で2件のパン屋さんに立ち寄る。エネルギーチャージ。道中、グーグル検索で人気のケーキ屋さんを見つける。本日のテーマは、"人生に復活しましょうケーキ"である。相応しそうなものを5つ選び、自分用に小さな生チョコレートも購入。

 

■15時15分

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毎度のことだが主催者遅刻のため、今回住まいを貸してくれる方に新規参加者の対応を依頼する。無事に私以外の参加者は到着している。良かった。慌てて挨拶をする。ケーキが崩れていなくてホッとする。グラウンドルールを確認する紙芝居を読み上げ、自己紹介しあう。後半に差し掛かり、アセクシュアルビッチ・アロマンティックビッチを自称する方が人生プレゼンを行う。アセク&アロマビッチが初めて関西進出した瞬間である。大拍手。

 

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救われるような気持ちになる。『性器が触れ合うだけがセックスではない。』という箇所に。『性的とされる関係・触れ合い・行動・空想はなくてもエロティックなシチュエーションや関係性はあり得る。アセクシュアルでエロティックなものたちは人間関係に大きな、そして良いものを含んでいる可能性がある。』という希望に。かつて、あなたたちはどんなセックスをしているの?と聞かれたとき、相手が納得しうるわかりやすい言葉(例えば体位等の単純な形式)で返してしまった過去が何度かあった。今でもことばを尽くさなかった自分への怒りと後悔と違和感が残っている。性器や性欲に関連しなくても愉快な関係性の結びつきや身体接触の探り方があることを私は知っていて、それを望み、愛しているからだ。魅惑的で爽やかで単純で混沌としているもの。それは確かにエロティックといえるかもしれない。性器接触に傾倒してしまうこと、それが目的になってしまった時の刺激はどこかピース足らずと感じる自分がいる(あくまで私にとっての感覚であるのでそれ以上でもそれ以下でもないが)。そういう話を気軽にできる相手がなかなか見つからなくて淋しかったし飢えていた。主催者として場を守る使命があるのでこんな自分語りはしなかったけれど、だからそのプレゼンに内心癒やされていた。会を開くときはいつもこんな感じだ。私自身が奔放な人たちの語りと沈黙に助けられている。ありがとう。あっという間の3時間だった。

 

■18時30分

京都在住の参加者の方に、山道ではなく街中の道を教えてもらい、自転車を走らせる。帰り道は街灯があってよかった。
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帰路、過分なほどお腹を満たす。

 

■21時

帰宅後、家主と共有スペースで語らった記憶(うろ覚え)。急遽ZOOMをつなぎ性暴力の告発をしている友人と引き合わせることになる。答えは保留となったが、自分にとっての報復とは何か?という問いが頭から離れなかった。私は生き延びた人たち(かつての被害者)が「自分は選ばれなかった被害者」と思わなくて済むような、今苦しんでいる被害者を同族嫌悪しなくて済むような、そのための活動をしたいと強く感じたのだった。お酒の効力もあってか、よくわからないうちに、あっという間に深夜の1時。うまく眠れず4時近くまで考え事をしてしまった。

サバイバー紀行(5日目)

5月2日(日)

※5月5日2時に作成しているため、かなり記憶が曖昧になっています。

 

■9時半

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起床する。リビングに降りる。庭が賑やかである。滞在者たちがラジオ体操をしている。アイヌ語バージョンが流れ、そのあとは大阪弁バージョンにうつる。両方参加する。


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朝ごはんの茶粥。美味しい。

 

■11時

昼食まで西成区を散歩する。f:id:kmnymgknunh:20210505021235j:image

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天王寺駅の映画館は緊急事態宣言下で休館となっていた。

 

■12時

みんなで昼食を囲む。昨日出会った小学生と大富豪で遊ぶ。タイに20年住んでいた方から沢山の愉快なエピソードを聞く。事情があって日本に居られなくなった子どもを親がタイに逃がすという「島送り」体験者の話に驚いた。

 

■14時

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突然、釜ヶ崎芸術大学に入学することになる。大学といっても建物があるわけではなく釜ヶ崎という地域そのものが大学になるというプロジェクトであるらしい。失踪を繰り返し、60回転職してきた人の話が冒頭にある。移動や移住を繰り返してきた労働者たち、今は高齢化して釜ヶ崎で生きるおっちゃんたち*1から様々な話や生きる技術を学べる時間でもある。自由に参加し早退していい部活動のようなゆるさ。何もわからないまま参加してしまったが、歓待の場であることは確かだった。本日の企画は第1回・ダンボールでつくる山車(だし)作り。2時間ほど、なんでも思いつくままに語り合う時間。そのあと実際にダンボールに触るという構成だった。土地を移動していくという話の中で、魂は落っこちてしまうものだからという話があがる。沖縄の古くからの言伝えでは、人間には七つのマブイ(魂)があり、強いショックを受けたときにマブイが体から抜けて落ちてしまい元気がなくなるといわれてきたという。そんなときは出来るだけ早く落としたマブイを拾い、元あった体の中に戻すことが肝心だと信じられているそうだ。

また、ダンボール山車を棺桶に見立てる話もあった。生まれ死に行く場所はどこになるのかという問いでもあった。火事の多い江戸で葛飾北斎が住まいを捨てる際に必ず筆だけを持って逃げたという話があがる。手放せないものは何か。旅に出る時に持っていきたいものが答えではないかという話がある。私は何も要らないかなと思う。この身体と添い寝の記憶さえあればどこでも生きていけるし、死ぬこともできるような気がする。(翌日追記:大島弓子の漫画は持参したいかもしれない。)


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それぞれのダンボール山車が完成する。7月には松山まで山車を走らせるらしい。よくわからない時間だったが、創造しないという選択肢はなくて、勝手にみんなの手足が動くのだった。何故、ダンボール山車なのか。灯火のような語り。限界集落の伝統とそこで生きる人々に触れたという記憶。それが地域を超えて伝播されていく。今釜ヶ崎で始まる"何か"の背景と価値が自然と共有出来ている稀有な空間だった。

 

■18時30分

家主を待つ間たくさんの方とお喋りする。奈良はかき氷の聖地であるとか、燃えるかき氷があるとか、奈良はいいぞという話を沢山聞かせてもらう。奈良といえば法隆寺。ちょうど今、萩尾望都竹宮惠子の大泉サロンを巡る著書が話題だが、そこで山岸凉子がイタコのように登場していたそうだ。『日出処の天子』の厩戸皇子聖徳太子)の人生を思い出す。愛を乞う厩戸は「貴方は私を愛していると云いながら本当は自分自身を愛しているのです。そこから抜け出さない限り孤独から逃れることは出来ない」と突き放される。そして自分を見捨てない子を道連れにして黄泉の道を歩む。トゥーランドットも似たような話だ。欲望せず権力を持ってしまった者たちは彷徨うしかない。その先が黄泉の道か、自害の道かしかないのは救いがない。他の道を探れないものだろうか。そんなことを考えながらいつか奈良という地を散歩できたらよいなあ。

 

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ココルームを出てから少し散歩して、寿司を食べて帰宅する。通天閣を初めて見る。

 

■21時

ドライブの途中、スーパー銭湯に行く。たくさんの裸体が目の前を通過する。鏡に映る自分の肉体を眺める。好きな身体だなあとしみじみ眺める。

 

■22時30分

今晩も3時近くまで共有スペースでお喋りする。脳が回転する。ダムタイプの話を何度も思い出す。何らかのラベルに当てはめてから自分を語ることは、一理はあっても十害あるかもしれない。自分がどういう人間かことば(非言語を含め)を尽くすということ。それでも伝わらないこともあるけれど悔いは残らないということ。「新しい人間関係の海へ、勇気をもってダイブする」という古橋悌二の実践。想像通りか想像以下になってしまう関係性に創造性はないのではないか?という指摘を受ける。あらゆる変化を喜び、想像しなかった側面の誕生を望みたい。言語には限界があるので行動しなければ示せないものがある。奔放さとは勇気を持ってダイブすることであり、進撃していくこと。だから私は奔放な人が好きなのだ。倒れるように就寝。

 

 

サバイバー紀行(4日目)

5月1日(土)

 

■8時45分

眠すぎて瞼が上がらないが、昨晩の約束を思い出し起床する。一階の共有スペースに降り、「ダムタイプ 古橋悌二さんの友人らによるトークライブ」配信をつなぐ。干芋・クラッカー・kiriチーズ・コーヒー・炭酸水を片手に鑑賞。干芋を温めてもらうが、電子レンジから異臭。すぐに換気する。

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MemorandumとS/Nガールズアクティビズムを持参していたので、読み返す。古橋悌二さんが亡くなった年、私は4歳だった。一度で良いからお会いしてみたかった。トークライブ冒頭の「今もAIDSは終わっていない」という言葉。治療法は増え、医療は発展し、死と結びつく病ではなくなった。共に生きていける時代になった。それでも。HIVウイルスは根絶されていないし、私たちに潜む偏見もいまだ根絶されていない。

 

■11時20分

自室に戻り、デートDVに関するZOOM会議に出席する。事前に伝えていたが80分遅刻。出来る範囲での参加が許されているのでありがたい。

■13時

家主の提案で、釜ヶ崎にあるココルームへ向かう。1時間半ほどの優雅なドライブ。車内で仮眠を取るはずが、ずっとお喋りしてしまう。関西に来てからというものの気がつけばずっとお喋りしている。そろそろ喉の枯れを自覚している。最初は日焼け止め必須の快晴と暴風だったのに、吹田市を過ぎたあたりで大粒の雨。傘を忘れてしまう。

 

■16時

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憧れのスーパー玉出に初めて入る。昨年梅小路公園でピクニックをした時に、大阪の友人からショップバックを貰ったのでずっと気になっていた。パチンコ屋と遊園地が合体したみたいな店内に心躍る。


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商店街を直進し、ココルームに到着。まずトイレを借りる。そして宿泊場所を決めるため、いくつかの部屋を案内してもらう。詩人の部屋、俳人の部屋、8人部屋など沢山の種類があり、どの空間も歓待の意思が炸裂している。全ての人を受け入れようとする心意気がうれしくて、世間体を気にした普段着からピカチュウのTシャツに着替える。


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「ここに一人で寝たいです。」と私が懇願したのは『森村さんの部屋』である。現代美術家・森村泰昌と坂下範の部屋。空いてて良かった。万歳。


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18時の夕飯まで近所を散歩する。先日炎上したワンダーランドのポスターがいたるところに貼ってある。男たるもの…というポエムが真っ青なシャッターに描かれている。所持金が300円ほどなのでローソンでお金を下ろす。苺サンドを購入して店内でぼーっとする。レジでdポイントカードやTカードが使えないと激怒する人もいる。警察官が呼ばれる。唐突にどしゃ降り。賑やかな夕暮れ。

 

■18時
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ココルームに戻りみんなで食卓を囲む。茄子の煮浸しも、かぼちゃの煮付けも、大葉入りの鶏肉も、五目豆も、大根と人参の酢の物も、スパゲティナポリタンもすべてが信じられないくらいやさしかった。東京の友人が会いたがっていた方に偶然出会えたのも良かった。夕食会の常連さんらしい。彼女は残念ながら共に旅に出られずだったため、両者をビデオ通話で引き合わせた。

 

プシコ ナウティカ―イタリア精神医療の人類学

プシコ ナウティカ―イタリア精神医療の人類学

  • 作者:松嶋 健
  • 発売日: 2014/07/04
  • メディア: 単行本
 

ごはんを奢るよという声もいただくが、半ば強引に断る。『プシコナウティカ』ではその理由をこう書いている。

"「私が客だからといって、私からお金を払うことの味わいを奪わないでくれ!」というふうだった。「いつもご馳走になっているから、ここは私が払う」という互酬性の論理ではなく、こういうちょっとしたことにでも、自分の行為の効力感を大切にしようとする... まるで、あなた方は私を客の位置にとどめ続けることで、自分の人生の主人公になることを邪魔するのか、と言っているようであった。"と。自分の意志で、自分が味わったものや与えられたものに礼を尽くしたいということ。それ自体に効力感を得たいということ。対価を支払う権利と言うといくばく言い過ぎかもしれないが、招かれた側であっても、饗されるだけの客としてではなく存在したいということなのかも知れない。

 

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夕飯を食べ終わる頃に、小学生が激しくジャンプしながら登場。繰り返しになるが、私は飛び跳ねている人が大好きだ。みんなで後片付けをして、自家製コーヒーを味わいながら大富豪タイム。ローカルルールを発動され、勝機を逃した大人が動揺しまくる。ああ、楽しかった。

 

■20時15分

自室に戻る。大富豪に夢中だったため、少し遅刻して戯曲講座(ZOOM)に参加する。今日は自分の戯曲を初めて発表する。とても恥ずかしくて緊張した。タイトルはコネコネットワーク。週末郊外で猫の着ぐるみを身にまとい路上で生きる「社長」とレズビアンで実家出戻りの「みやこ」、大学生の「誠」が登場する物語。私の台本を4人の参加者が生き生きと演じてくれる。舞台が後わった後もキャラクターの人生は続いていくことを考えて内容を練り直すよう講師(詩人で精神科医の劇作家)から助言をもらう。

 

■23時
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ベッドに寝転がり、ダムタイプのS/Nを鑑賞する。6年ほど前、国際基督教大学で企画された記録映像が初めてだったと記憶しているが、多大な影響を受けていたことに今更気づく。「私をあなたの眼にかなう抽象的な存在にしないで」という尊厳によってー悌二さんの「(HIVポジティブであることを伝えてからセックスするくだりでの)疑念を抱えたまま抱き合っても、それはちっともロマンチックじゃない。」という愛の在り方によってーブブさんの「私が初めて体を売ったと感じたのは、夫のセックスのあと涙が止まらなかった時。NOを伝えられなかった自分に、それに気付いていなかった夫にショックを受けた。(だから彼と別れた。そしてセックスワーカーになることを決めた。セックスは、社会の中で重要とされていることーハグすること、食を共にすること、お喋りすることとと同列のもの。私は、人を歓ばせることが好きだ。)」という語りによって。

ブブ・ド・ラ・マドレーヌ インタビュー「私はいまも悌二との関係をつくるために自分の何かと格闘しながら生きているような気がする」 - クローバーブックスの日記も、生き方を教わるように繰り返し読んだ。劇中に登場する、フーコー『同性愛と生存の美学』の引用である「彼らは、いまだに形を持たぬ関係を、AからZまで発明しなければなりません。そしてその関係とは友情なのです。言いかえるならば相手を喜ばせることができる一切の事柄の総計なのです」も私の中に深く刻まれているようだ。いつだって個々の関係を発明しようと、バカみたいに抵抗している背景には、S/Nがあったのかもしれない。終幕で現れる「愛という言葉を使わせて!」という叫びは私の叫びでもあった。LOVE、それを自由に言い合えない、開かれていない関係性の中を生きるとは、牢獄で息を潜めることと変わりないのだから。