人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

すべての本は贈り物だったのかもしれない

「今までの人生で一度だけあったこと」というブログ*1の中で、「僕は人生で一度だけ、目の中に他人の涙が落ちてきてことがあるんだった。」という言葉が引用されていた。詩人は理解は熱愛の中にはないという。私は他人の涙は理解の中にしかないのかもしれないと思う。

 

ここ最近のこと、新型コロナウイルスの影響で人とのつながりが遮断されていく時代に、それは奇妙で良質な出会いを経験した。恋人や家族という大義名分は最初から必要ないまま、毎週のように会うことになっている関係性で、その人を通して過去に行き、かつて濃厚な時間を過ごしたものたちと再び接点を持てるようになった。振り向くことは時におそろしいこと*2ではあるが、目を開き勇気を握りしめさえすれば、過去のほうからやってきてくれるのだ。

 

きれいな日々ではなかった。山戸結希『おとぎ話みたい』で、愛を告白されるなんて地獄みたいなことだよと皮肉めいて笑う先生に宛先のない手紙を書くよと踊り続ける女の子みたいに、永遠に交差することのない関係性の中に一筋の光を見出して、幻想をひたすらに追いかけて、トライアンドエラーを繰り返して、壊れかけた機械みたいにみっともない姿で歯を食いしばって生きていた。それでもこの身体という一回性を引き受けたく、自分の人生に必要なものは何かを見つけたく、なんとかここまで走ってきたのだろう。その過去を恥ずかしいことだとは思わない。

 

その人のからだに触れたり、世間話をするたびに、機微が私に流れてくる。応えたいという気持ちがあふれるが、私の言葉は不足し欠如しているために、代わりに本を選ぶことにした。引っ越してから押し入れに放っておいたままのダンボールの山を切り拓くと、なんと500冊ほどの本が現れた。いつ買ったのか、誰からもらったのか、どんなきっかけで手にしたのか、読み終えたのか一度も読んでいないのか、ほとんど忘れてしまっている。でもどこか懐かしい気持ちになり、木目調のピアノのある角部屋の本棚に並べる。ようやくお目当ての本がダンボールの底から見つかり、ページを開くと、かつて私が引いた下線に出会う。内容を忘れてしまった本の一つ一つに私の痕跡がある。ああ、こうした本たちに今日まで生かされてきたのだ、と気付く。そしてここにある差出人不明の全ての本たちが、私への贈り物だった可能性に想いを馳せる。あの日、直接的であれ間接的であれ本を紹介してくれた人々がそこにはいた。これまで本を選んでもらうばかりの人生だったと思うし、贈りたいという強い意志を持って誰かのために本を選んだことはなかった*3。受け取ってきたものをまた別の誰かに贈るための瞬間がやってくるのだとしたら、まだ出会えぬあなたとは一体いつ出会えるのだろう*4

 

ラース・フォン・トリアーの『イデオッツ』みたいな世界を愛し守ろうとして亡くなっていった友人、青春18きっぷで辿り着いた最終地点の博多駅で一緒にラーメンを啜った詩人、恩師でもある『重力と恩寵』、寄り添う猫たちが撫であうようにながいこと水中でじゃれあっていた子どもたちが陸地に這い上がるように再出発のための意志を与えてくれた添い寝フレンド、同じくらいの痛みを抱えていただろうに何食わぬ顔で『心的外傷と回復』を手渡してくれた駅伝選手。エトセトラ。永遠に会えないのに、今も手元に残る本たちが私を淋しいという気持ちにはさせてくれない。贈られた本と共に、その人は私のそばに居続けている。誰かのために本を選ぶ(贈る)ということは、これまで出会ったすべての本を懐かしむことに等しい。だからこそこれほどまでに根気がいるのだな。これは熱愛の一つなのかもしれないし、或いは理解の一つなのかもしれない。

 

これまで宛先のない贈り物を受け取って生き永らえてきた。私宛でない贈り物が巡り巡っていつも私に勇気を与えてくれた。きっと震えながら記した宛名には、贈り物は届かない。片思いが約束された恋文のように。だがそれでも忘れてしまった頃に時を隔てて配達される贈り物がある。生き続けていると交差する瞬間がかならずある。証人は未来の自分である。その時を逃さないようにしたいのだ。今年はもうこの世から消えてしまっても良いくらい満たされた夏。かつて受け取れずにいた、過剰なほどの贈り物に感謝を込めて(本日無事に受け取りました)。

 

*1:坂のある非風景 今までの人生で一度だけあったこと

*2:ジョジョの奇妙な冒険第4章のようだ

*3:手紙はいつも書いていたが

*4:老いるその時まで読書感想文を書き続けるべきなのかもしれない