人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

『流れる月の光の中で飛んでいるようだ』

タイトルは阿部共実『月曜日の友達』作中の台詞である。

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(参照:阿部共実『月曜日の友達』1巻)

 

才能に恐怖した。そして読了後、これは漫画ではなくて、詩(うた)だと思った。

冒頭から涙と嗚咽が止まらなくなり、なんだこの体験は?と混乱した。

20歳の時に山戸結希『あの娘が海辺で踊ってる』に出会った衝撃と少し似ていた。

絵のある詩集だ。音の流れていく詩集だ。言葉がどんどん立体的になって一度沈んで宙ぶらりんになったと思ったら激しくきらめいて空に飛び散っていくんだ。光を浴びる。私たちはずっと孤独なのに、交差する瞬間に夢を見た。今(だけは)いのちが燃えていることを信じたくなるーその二人はあの日あの時の私たちだった、と彷彿させてくれる物語だ。

変わる声も骨格も水に透けていく胸のふくらみも意識するかしないかの12歳という一回性を、不安定で完成された思春期の美しさを、こうも表現できる作家がいるなんて。

ボーイミーツガールと紹介されているものの、主役である当人たちは自分の性別が何かだなんて気付いていない、あるいは気付こうとしていない。性分化もままならない身体で、社会的性の狭間にいる彼らを、恋愛感情や性欲よりも友情という名前を崇高していた少年少女を、かつての自分と重ね合わせ、胸を抉られた読者は一人や二人ではないだろう。

 

『俺はすぐ

 少ない思い出にひたるんだ。

 何度も同じ思い出に

 繰り返し繰り返しひたるんだ。

 するとやがてその思い出が色褪せてきて

 何も感じなくなっていくんだ。』

 

『お前はまるで

 写真に放った火のにおいを吸い込むように

 思い出を噛む(しがむ)んだ。

 思い出が真っ黒になるまで燃やすんだ。

 今日私といたこともこの夏の夕空も、

 お前の思い出となるのだろうか。』

 

『なるほど確かに、

 思い出と呼ぶには昨日のことが

 あるいは夢だったかのように

 輪郭があいまいに溶けてしまった。』

 

 

最近詩を読まなくなって、頬から流れる涙で文字が滲むということもなくなって、

大衆を安心させる言葉ばかりを選んで生きているような気がする今しがた27歳の自分にとっては、あまりに眩しすぎて、面食らってしまう作品だった。

夢なら醒めないでという台詞が嵌まりすぎるから、私にとっては切実なほど哀しい話で。あなたと空を飛ぶことと添い寝することは案外近いものなのかもしれない。

そう、虚構の中を生き延びる力を与えてくれる魔法のような物語です。

是非手に取ってみてください。

ホームパーティー参加ついでに我が家で読むのも大歓迎。

 

以上、感動の押し売り…お裾分けでした。

 

konomanga.jp

>上記インタビューのこの部分が特に好きです

阿部 :音に関して考えるきっかけになったのは、タルコフスキーの映画です。タルコフスキー監督というと映像表現(水を徹底的にモチーフにしたり、長回しをしたり)がすさまじいのですが、音の扱い方も秀逸だと思っています。BGMのないシーンで、日常のなかでの水が垂れる音、葉と葉がこすれる風の音、本を紙を指でめくる音など、音の快感を追及していて。描き文字で「ポタポタ」や「ペラペラ」と描いてたところで「これは到底たちうちできないな」と思わされました。映画は音を出力できますが、マンガは出力ができない。音はマンガの弱点です。

(中略)音や絵や映像を使えないことを武器にしている分野もあって、それが小説とか活字だと思うんです。言葉とその配列で、むしろ感覚以上のイメージを想起させることができている。マンガにも色や動きや音など、出力できない制約が多いので、絵だけではなくセリフなどで、よりよい表現ができたらと思います。この“出せない制約”を、むしろ読者のイメージを膨らます方向にもっていければ強さにもなると思います。