人生、添い寝にあり!

添い寝の伝承

「二人きり」「密室に来てくれた」「無言(明確なイエスはないけど雰囲気でいけそう)」「酔っている」「ボディタッチされた」=性交OKのサインではない

10代の頃、昼夜関係なく、他人(知人で同性代)(相手の性別問わず)の家に遊びに行っていた。当時の私は性的なことが好きではなくて*1、できるなら小学生みたいにじゃれあえることを期待していたし、相手が男性の場合でも、多くの女友達と同様に、性別や性欲を忘れるくらいの熱意で、共通トピックに対して一晩中語り明かすような夜がほしかった(それが達成できたかどうかは後述します)。

 

24歳になった今も、男性に対して「〇〇君は、そっち側の人間か」とちょっと失礼な物言いをしてしまうことがある。私がそう区切る「そっち側の人間」とは、接触が性欲に直リンクしてしまう人間、つまり【他人に向く性欲があって、性的対象となるか相手を判断して、その対象の肌に触れれば、性交の可能性を期待する人】を指す。

そういう人はマジョリティと括られることが多いが、それと比べ自分は感覚がずれている*2のでおかしいのかなと悩んだこともあるけれど、相手に激しく欲情していない限りは、裸で抱き合っても、軽くキスしても、直接的な性欲に繋がらないのだ。そのまま添い寝で満たされる。こういう性的感覚があるのと、自分が能動的に望み、「この人とやってみたい」と思わない限りは性欲が発動しないので、割と仲良い男性と二人きりでも、性的ニュアンスを含まないお家デートが出来るのだった。

それに対し、「男からしたら生殺し状態だよ。男が可哀想」といったマジョリティ側からの意見がある。10代の頃は、それをなんとなく感じ取っていて、トラブルになるのも嫌だし、性的マイノリティといわれるような男性とばかり遊んでいた(べたべたしても添い寝で完結するような)。しかし若かったし性格も悪かったので、生殺しのお付き合いもあった(恋愛関係で強者の立場で在れた為、恋人の性欲を全面拒絶していた)。今思えば、セックスを断るのではなく、相手の性欲や肉体そのもの自体を否定するような関わり方は相手を傷つける残念な方法だった。最近は少しは大人になってきて、「あっち側の人間(主に自分を性的対象とみる可能性のある異性愛者)とは、特にHする気がないなら、安易な気持ちで密室でいちゃいちゃしてはいけない。」とは思えるようになってきた。いわゆる「生殺し状態」は初めから起こさないほうが友好関係維持の上で得策だ(性関係が絡むと破綻する人間関係もある)とようやく気付いたからである(遅い)。

 

 

一人暮らしの男性の家に遊びに行っても別に性交OKのサインではない(都度意思確認)(交渉次第)

それでも、判断力が危うい状態(精神的不安定/酔っ払い)の女性や、欲情される事に無自覚な女性、特に考えなしの女性(特に若い女の子にありがちかも)があなたの暮らす密室空間に現れることはあるかもしれない。

そんなシチュエーションが起これば、彼女に性欲を抱いているあなたは期待するかもしない。しかし、前提として『密室で二人きりになった』=『性交ONのサイン(合意のサイン)』ではない。早合点するのは超危険だし、あとから「レイプだった(非合意だった)」と訴えられる可能性もあり、しんどいことになる。

だから、女性が自分の家に遊びに来たいと言って実際二人きりになれても、そこから願望達成(性交)に至るまでには、対話と交渉が必要なのである。(判断力のない状態にある人を巧く言いくるめるのは論外。まず、対話できない関係性の相手との性交は難しいことを理解されたい

 

 

誘う側は相手に性的選択の余裕を与えるべし 

「交渉不可能に思えて、性交を望まない男の家には遊びに行くべきでない」と女性に対する自衛論は多く見かける。正論かもしれないが、それが常識となった世の中では、被害女性に対する偏見が増すし(事実とは異なる被害状況を想像され)被害者ばかりに責任が押し付けられる恐れがある。それも含めて、私は自衛論に片寄りたくないなと思う。本来は、性交を望む側(この記事上では男性)が、ぎりぎりの理性を持って、自分をコントロールして、相手が明確な意思を持ってYESかNOを選べるような状態・精神的余裕を相手に与えないといけないと思う。

なぜなら、セックスにおいて「欲望の充足(暴力に成り得る危険性がある)」よりも「拒絶する権利(非暴力状態を維持する/侵害されない権利)」が優先されるべきだからである。

極論を言えば、相手から明確なYESがない限り、恋人だろうと、配偶者だろうと、同じ布団に寝ていようと、相手が裸でいようと、性的接触を始めてはいけない。その人の身体はその人のものであって、他人の所有物ではないからだ。

 

それをふまえた上で、気軽に交渉しあえる男女関係が発展する世の中になっていってほしいと思う。そういったシチュエーションにおいて、相手の性欲自体を拒絶するのではなく、性交の期待を提示された後に断る余裕もちゃんとある状況で、自分の意志で答えられるといいなと思う。性的交渉を「断られる」ことは決して人格否定ではないし、人間関係の終焉でもない(相手を軽視してコミュニケーションを怠れば関係は壊れるけど)。「自由に断れる」という対等に近い関係性の素晴らしさはもっと周知されてほしい。

 

 

自衛論だけでは無理がある 

女は密室で男と二人きりになるリスクを自覚しろ、という言説はあるけど、望まない性接触(性暴力)が生まれる可能性を「リスク」と呼んでいるのだろうか(なんのリスクなんだろう…)。そもそも先ほど述べたように対等に近い人間関係上では、性欲は生じても、それをコントロールするのは誘う側の問題であり、誘われる側には選択の自由がないといけない。なので誘われる側ばかりが注意されるのは無理がある(男性性欲を全受容する女性への自衛論よりも、男女ともに性的選択の自由がある関係性を構築する方向、少しでも違和感があればNOを言える/受け止められる自分になる、積極的なYESを言える/待てるという方向にもっていくのが性教育の役目かもしれない)。

性暴力の温床となるのは、上司と部下とか、先生と生徒とか、子どもと大人とか(あるいは酔っていたり精神的に病んでいたり判断力がつかない状況にあったり)実は内部*3で全く立場が対等ではない場合に多い。非対称な関係性の場合、立場の弱いほうは誘いを断りづらい。信頼したい相手からの好意を否定してはいけないという思考になりやすく、自分から誘ってしまうことだってある。自分の立場の強さに気づかない側は、ある意味で簡単にそういった状況を作れるので、気づかないうちに加害してしまう。

牟田和恵『部長、その恋愛はセクハラです!』

とても読み易くわかりやすくおススメ

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かつて居酒屋で働いていたときに、閉店時、上司から性暴力被害を受けたことがある。被害後、「そんな状況を作った(=そこで働いた、職場とはいえ男性と二人きりになった)あなたも悪い」「逃げなかったの?」「男性と恋愛関係にあったのでは」と知人から二次加害をされたことがあるが、自分を責める必要はなかった、あれは立場の違いを巧く濫用された暴力であったと私自身が気づいたのも、数年後だった。なかなか目には見えづらいが、<男女で密室になる>といっても、あきらかな立場の違いがあるかどうかで、性暴力というリスクの大きさが全く異なることは知識として共有されていってほしい。

 

セックス(だと思いたかったもの)が性暴力に変性する様は、グラデーションの濃淡で捉えるとわかりやすい。完全に白、黒だとわかる暴力のほうが少数だ。密室という条件があっても、触っていいか、相手が何をしたいか、そこを確認して初めてOKとなる。もちろん事前に合意がとれて、いざ性行為ができても、途中でNOと言われてやめなかったり、NOを言えない状況を作ってしまったら性暴力として黒に近づいてしまう、から注意していきたいよね…。

 

 

というわけで、難しい部分はいっぱいあるんだけど、それでも性は面白いものだと思っているから、今後も自分で可能性を切り開いていきたいし、身体格差はあったとしても、お互いの不平等な部分を自覚しつつ、その上でなるべく公平な関係性を模索して、男性(男体ユーザー)と仲良くやっていける道を発見していきたいなと思います。

<再掲>

「二人きり」「密室に来てくれた」「無言(明確なイエスはないけど雰囲気でいけそう)」「酔っている」「ボディタッチされた」=性交OKのサインではない(関係性と文脈次第だし、その都度意志確認をするのがベターというか前提にならないと)

*1:(むしろ人間扱いより先に女体扱いされるのが怖かったし嫌悪が強くて)

*2:そもそも、性的対象は性別問わないし、性的対象自体が狭い。10代の頃と変わって自分の性欲と肉体を肯定できるようになってからは、性的欲情されることも平気になったし、自己決定が尊重される性交を好んでいる。性交相手は恋愛対象でないほうが快適な展開になる。恋愛関係は要らなくて、気の許せる相手となら何の不快感も違和感もなく性交できる。

*3:第三者には気付かれない、むしろ合意と勘違いされてしまう状況