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うれぴっプルン戦記

性的主体性と添い寝とダンス

「私は、自分の性器を愛しているし淫らな欲望も肯定する」

去年から「メンヘラビッチバー」という、精神疾患*1を持っている女性や性に開放的である女性、又はセックスワーカーが気楽に自分を語れるというコンセプトの呑み屋に足を運んでいる。以前から異性愛者のメンヘラビッチについて個人的に考えていたことは、男性との性的行為に没頭する以上に、その経験を語り、女同士で連携できることで孤独感が和らぐし、生命力がみなぎるのではないか?という仮定だった。

たとえば、コミュニケーションを楽しんだり性欲を満たす目的ではなく、セックスを通して存在承認を求める場合。その状況が危ういものだと判断できず、簡単に性行為に応じる相手もなんというか無知あるいは無責任である(事後のトラブルも深刻さを増す)ことが多いので、結局精神的な安定は得づらい。「一時的な承認」と「性欲処理」という価値交換関係に自覚的ならいいけど、どうも割り切れず相手に期待や執着が募ってしまうとき(あるいは逆に相手から執着されたとき)は、空しさは募るし、かえって精神が悪化することもある。ならば、女同士でビッチ体験や心情を肯定・共有しあって自分の性的歴史を語りあえる環境で、ナラティブセラピー的なことが出来るほうが、よっぽど笑いあえて楽しいんじゃないかな。と考える。実際、めっちゃ楽しいんだな笑。

 

  

 

  本日は『ニンフォマニアック』後編の感想を書きます。

ネタバレ多いので映画未見の方は注意してください。

ニンフォマニアック前編の感想

kmnym.hatenadiary.jp

 

 

  ネタバレ満載です(再周知~!)

これまで観たトリアー監督映画を振り返って、今作でも絶対悲劇が起こると思っていた。というか絶対に子供が死ぬと思っていた(笑)なのでジェロームが我が子を発見したときは驚いた。転落死とか、トリアー監督なら残酷なことも平気ですると思ってたんだけど、施設に預けたりお金を送ったり割と責任感ある対応だった。最後まで「今作は人も死なないし怖くないし割と良心的な映画だったかも?セリグマンはちょっとインテリすぎてうざいけど紳士的だしこの先素晴らしい友人になれることだろう」と安心していたんだけどラストで見事に裏切られました。

 

 

おこぼれちんぽ野郎を皮肉る映画でもあった

やたら女性の味方をしたり「僕は女性蔑視しません。理解あります」と明言する男性の中には紳士を装った「おこぼれちんぽ野郎*2」(笑)が隠れている。女性差別に対する文面的な知識はある。けど、行動が伴っていない。自身の偏見に気づいていない。

ジョーが性的奔放な身の丈話をする。優しく静かに傾聴するセリグマン。「自分は童貞で、清い存在だ。偏見無く聞ける。」「女性差別は根強い。君のやってきたことが男性なら非難されずらいし、罪の意識もそこまで芽生えないだろう。女性を抑圧してきた社会があるんだよ。」「小児性愛なんて軽蔑する。(←これに対するジョーの反論が良かった)」と、いかにも正しき善人という感じで応答する。しかし、最後の最後で下半身丸出しでベッドに侵入しジョーをレイプしようとする。ジョーが「女性としてのセクシュアリティを排除して生きていきたい(≒セックスのない人生を選んでいきたい)」と語って眠りについた直後である。やっぱりトリアー監督だ。救いようがない。欲情される客体としての女体は捨てられない。欲情する相手がいる限りね。彼女にとってはなんと残酷な事実だろうか。なによりも、その瞬間の「今まで大勢の男とヤッてきたくせに」という台詞が醜悪すぎる。その台詞(に潜む意識)こそ最大の女性蔑視発言だからだ。

フェミニズム学者がフェミニストとは限らない。フェミニズム啓蒙家がフェミニストとは限らない。逆に学者や啓蒙家でなくても、知識がなくても、フェミニスト的な生き方をしている人は性別を問わずいる。また、性別に対する偏見があってもその偏見に自覚的であれば、人間関係の中で他者に大ダメージを食らわすことは避けられる。でも、こうした内なる偏見に無自覚な自称理解者が一番恐ろしい。セリグマンみたいな男性(男性に限らないが)いるよね~女性に優しいようで性的マイノリティ女性を見下している人。関係性/状況や相手の意志を無視して俺とでもヤれるだろ!?と妄信的になる人(相手がビッチだろうと誰だろうと相手の身体はその人のもので勝手に触ってはいけないし合意形成がないなら性暴力なのですが)…。「男の家に上がり込む女がまず悪い」という意見も出るかと思うけど、性暴力とは相手への「信頼」を裏切られるから発生する。映画を観れば、ジョーが最後に得たひとときの安らぎ、セリグマンに対して抱いた友情、が見事に奪われてしまう哀しみが少し理解できるかもしれない。

 

 

 

「私は、自分の性器を愛しているし淫らな性欲も肯定する」

そのままレイプされてバッドエンドな鬱展開になるかと思いきや。ジョーは反撃する。そして、逃げ出す。それは絶望に近いけれど絶望ではないラストだった。『奇跡の海』や『ダンサー・イン・ザ・ダーク』とも若干異なる女性の描き方だったと感じた。救いようがないところは一緒でも、運命に抗い、逃げ出し、自分で選んでいく女性の孤独が恰好良かった。

「性依存症」のピアサポートグループで、ジョーは叫ぶ。私はあんたたちとは違う。自分の性器を愛している。淫らな欲望も肯定している。私は色情症なのだ、と。

きっと彼女に必要だったのは「治療を目的とする仲間」ではなく「ビッチを肯定しあえる女友達」だったんじゃないかと思う。少女時代に絶交しちゃったビッチ友達(ビッ友)との別れは男性と別れるよりも喪失感があったんじゃないかな~。

客体として欲情される女体は捨てられない。でも、恋愛やセックスの在り方は自分で決めることができる。性的扱いについて抗議したり性暴力についてパートナーと話し合うこともできる。そして性的欲望のある自分を肯定することができるし、欲情とは違う目線で自分の身体を愛することもできる。

 

▼自分の体を愛するという感覚にピンと来ない方に読んでほしい

d.hatena.ne.jp

mess-y.com

 

▼性暴力被害者、ビッチやメンヘラ、性労働者を一方的に「可哀想な女」「まともじゃない女」「軽く扱っていい女」扱いするのは本当に変だし、ちゃんと怒っていきたい(適当におすすめ記事載せます) 

synodos.jp 

www.cyzowoman.com

togetter.com

mamiamamiya.hatenablog.com

 

 

 

 

 余談。

最後のセックスが女同士だったのは個人的に一番興奮した。女の子超可愛かった。

リトルダンサー』ビリーエリオットがサド役好演していたのも良かった。

シャルロット・ゲンズブールの表情が色気あってよかったな~。

『ドッグ・ウィル』や『アンチクライスト』も近々観ようっと!

*1:メンヘラという揶揄風味な呼び方に不快感を示す精神疾患当事者もいる。当たり前だが、様々な精神疾患の種類がある。恋愛/セックス依存的な状態になる人もいればそうならない当事者もゴマンといる。ご存知の通り、非疾患者でも恋愛/性関係を通して“病む”人は多い

*2:まんこアートで有名なろくでなし子氏命名