うれぴっプルン戦記

性的主体性と添い寝とダンス

「役立たないものほど愛される」というあなたの言葉が離れない

ネット上で、自身の性器画像をあげたり、薬物摂取や性生活のスキャンダラス性を仄めかして反社会性や反道徳性な自己像に酔い、「なに言ってるかわかりませんが」とあどけた演技をして自分に歯向かう他者や現実を無効化したがる若者(実年齢問わず)はゴマンといる。彼らの強烈な存在感は我々を良くも悪くも惹きつける。その周辺には、狂信し彼らを心の拠り所にする弱い人もいれば、遠巻きに「サーカスの動物だ」と娯楽コンテンツとして扱う恵まれた消費者もいれば、愚かな子供だと嫌悪感を示し距離を置ける(あるいは一切関わりがない)うつくしい世界の人も数多く存在する。

そんな中、『傍観者気取りで自分が正常だと思い込んでいるお前らのなかにも我々のような愚かさが無いと言い切れるか?私は無関心を装うお前たちの腕を掴むだろう、共にこの舞台で踊ろうじゃないか、この「愚かさ」でつながれるとき、私たちは真に「幸福*1」を享受できるのだ』と悲痛にも悦びにも聴こえる雄叫びを上げながら、健常者≒社会を真っ裸で追いかけまわし続ける、そんな挑発的な映画に出会ってしまった。

f:id:kmnymgknunh:20160414033443j:plain

f:id:kmnymgknunh:20170102195604j:plain

f:id:kmnymgknunh:20170103134820j:plain

『イデオッツ』(1998)。知的障害者を演じることで社会を挑発するグループを描いた問題作、と紹介されている。監督・脚本・撮影は「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のラース・フォン・トリアー

主人公カレンは立ち寄ったレストランで奇妙な一団と出会う。口からよだれを垂らし、訳のわからない事を叫ぶ人々。レストランから追い出されそうになる彼らをかばうカレンだが、これはすべて白痴を真似たデモンストレーションだった…。彼らは、人をだまくらかし借り上げた大きな館で、共同生活をはじめるなかで、イディオッツをよそおいレストランではわざと嫌われる行為をして無銭飲食をしまくり、金持ちそうな家に入り込んで「おたくの敷石が出っ張っているおかげで、うちの車椅子の者がけがをした。転んだので売り物のクリスマスの飾りがぱあだ、どうしてくれる」と難癖をつける。彼らに惹かれたカレンは、行動を共にするが… 

 

知的障害者への偽善的態度を問う作品、反道徳的で胸糞悪い作品、乱交パーティーに興じる若者たちの奇抜な青春作品、等のレビューもあった。私の場合は、ずっと昔から抱えてきたしこりが驚くほど解された感覚がして、とても面白かった。

※日常の中で「精神障害(中でも知的障害)」を持つ人びとと親密な関係であったり逆に彼らに触れたこともないというような無関心な人々にとっては内容に強烈な違和感や嫌悪感が残るかもしれないので注意したほうがいいかもです。

 

熱が冷めないうちに、脳内を思うままに排泄を。

まず、グループリーダー格のストファー。ストファーは「仲間」たちとシェアハウス的生活を送っている。しかし、彼の望むものは下品から一転してあまりに崇高で、現実社会のはるか遠く先にあるものだった。ストファーは仲間さえも挑発していく。「お前たちは本物か?」と。それについてけなくなった仲間は次々と脱退していく。理想世界と社会との狭間で抗うよりも、現実に戻ったほうが結局は苦しまずに済むからである。しかし、それは戻ることのできる現実(社会)が残っている人だけに与えられた凡庸で幸運な選択肢なんだよね…。「本物」と認められた者たちの結末は…想像だけれど…もうこの世にはいないのかなと思う。「黄金の心三部作」*2の一つであるこの作品。あまりに無垢な女性が周囲を傷つけて自分をも滅ぼしてしまう展開がえげつないです…。

 

次に、知的障害者を演じる、ということから見えるものについて。私は彼らを「演じる」というか、知的障害者の言語でコミュニケーションを取ろうと試みたことが何年もある。一緒に涎を垂らし、手で机を叩き、踊るのだ。そうすると、すごくウキウキしてくる。一緒に餅をついたこともある。ノリノリだった。そこで私は障害者の「支援者」ではなかった。「同じ世界を歓ぶ者」でありたかったのだ。それも束の間、山奥にある知的障害者入所施設を出ると、社会に帰っていかなければいけない自分も確かに現れてしまい、宙ぶらりんになっていた。

 

知的障害のある人とセックスできるか悩みすぎていた時期があった。特に軽度であれば、障害は顕在化しづらい。故に、多少の違和感を抱きつつ彼らとセックス経験のある人間は割といるんじゃないかと推測する。福祉施設で障害者と性的関係を持ってしまう職員・アルバイト学生の話も耳にすることがある。たとえば、軽度知的障害持つ若い子(中学生程度の知性を持った美女やイケメンを想像して頂きたい)が性的接触を持ちかけてくる*3という状況が起きたらあなたはどう反応をするか。

そこには性に対する価値観や優先順位が影響すると思われる。セックスの目的を、愛(恋愛に限らないが)ありきのコミュニケーションと捉えるか、自分本位の欲求行為(性嗜好の充足:/自傷・代償行為/優越行為)と捉えるか、スポーツ的ともいえる、肉体快楽の追求と捉えるか、あるいは生殖行為と捉えるか…。お互いに優先順位が同等であり、ニーズが一致するセックスなら後腐れないけど、なかなかそうは上手くいかない事案も多いから哀しい事件は絶えない。

さほど相手と意思伝達できなくとも、なりゆきで曖昧に性行為ができてしまう状況は案外あって、その中で性暴力は簡単に起こる。しかし前提として避妊しなけりゃ妊娠のリスクがあるし非暴力に努めたコミュニケーションありきのセックスを重視したい私にとって、知的障害を持つ人の言語能力・情報処理能力を土台にした合意形成(性知識に基づく判断力はあるか?避妊方法はどう話し合うか?NOを伝える関係性があるか?)はあまりに大変そうなので、自分には難しいという結論に至ったのである(同じ理由で、未成年や判断力に欠ける状況にある人とは関係をもてないだろうと)。

セックスは難しいけれども、一緒にダンスすることならできる。高円寺周辺で活動するコンテンポラリーダンスサークルでは、知的障害を持つ若者も多く参加しており、何度か一緒に踊ることができた。踊っている最中は無駄な事は考えない。踊るという一点のみに集中し、その共通事項で満たされる時間は楽しかったなあと思い出す。もし、この世から言語が消え、合意形成という概念が消え、生殖が消え、性病が消えたとしたら、相手が知的障害者かどうかなんて関係なく、性欲のままに踊りのような性行為や接触そのものを味わえる性行為が成り立つのかなとも考える。

 

 

さて、映画の話に戻したい。

当然、にんげんだもの知的障害者にも性欲がある(もちろん、性欲を持たない人間も人間です)。障害者が加害者となった性暴力もあるし、障害者同士の結婚・出産もある。しかし当事者同士の性行為を覗いたことは人生で一度もない(そもそも他人の性行為を実況観測できる機会はなかなか得られない)んだけど、打算や演技という部分が薄れた接触になるのではないかと想像する。『イデオッツ』で、障害者を装う二人の若者がセックスするシーンがあるんだけど、奇妙で美しい光景だった。同監督の『二フォンマニアック』は未見なんだけど、このような美しいセックス描写はあるのかな。知的障害者として触れ合い、だんだんとその演技を外していく(外れてしまう)ふたり。その翌日の展開があまりにただしくて悲しいのだった…。

 

f:id:kmnymgknunh:20160414033509j:plain

全裸の男女が陽気に野原を走り回っているDVDのパッケージが印象的だ。そこで、わたしはチヒロさんという女性を思い出す。彼女は主人公カレンという女性と近い存在のように思える。白いワンピースが似合う、繊細だけれども意志の強い女性だった。彼女は夏の日のリビングで私に言った。「不思議な夢を見たの。私とあなたが裸で、緑の森の中を走って、寝転がって、すごく気持ち良かったんだよ。今度現実で一緒にやりたいね」と…。あなたには元気で生きていてほしい。

 

 

*1:ここでの「幸福」とは、確実な共通事項の中で生きれること、つまり、ディスコミュニケーションからの解放、孤独からの解放を指すのかもしれない

*2:奇跡の海』(1996年)『イディオッツ』(1998年)『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(2000年)

*3:判断力に乏しい相手が「誘ってきた」としても、自分の立場を考えて判断力ある側は拒まなければいけないとされる。性教育が機能していれば、障害者であろうと正しい性知識のもと、行為をすべきか否かの判断力を高めることはできる